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リジョイス聖書日課

リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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  1. 1000

    ゼルバベルと主イエス・キリスト(ハガイ書 2章)

    「わが僕、シェアルティエルの子ゼルバベルよ わたしはあなたを迎え入れる… わたしがあなたを選んだからだ」と 万軍の主は言われる。 (ハガイ書2章23節) ハガイ書は神殿再建に関する託宣の後、ユダの総督シェアルティエルの子ゼルバベルへの祝福で閉じられます。彼は大祭司ヨツァダクの子ヨシュアとともにバビロンからユダヤに最初に帰還した共同体の中心人物でした。ヨシュアが宗教上の責任者としての役割を担ったのに対し、彼は統治者としての役割を担ったと考えられます。主なる神は彼をわが僕と呼び掛けられ、神の民のリーダーとして特別に選ばれました。 ゼルバベルの名前は新約聖書にも登場します。アブラハム、ダビデ、そしてイエス・キリストへと続く系図の中にその名が記されています(マタ1章12節)。そして、ハガイ書の神殿再建と彼の選びに関する預言は、新約時代に入り、主イエスにおいて成就したと言えます。 私たちには、もはや旧約時代の神殿礼拝は必要ありません。なぜなら、主イエスがご自身の十字架の死と復活を通して神殿を建て直してくださったからです(ヨハ4章19節以下)。私たちは牛や羊などの犠牲によってではなく、神の小羊イエスの完全な贖いによって、おのおのが暮らす街の教会で霊と真理とをもって礼拝を献げます。そのような礼拝をこそ父なる神は求めておられ、そして喜んで受け入れてくださるのです。 【祈り】 父なる神よ、主イエスによって世界中のどこにいてもあなたに礼拝を献げることができる幸いを感謝します。

  2. 999

    お前たちは自分の歩む道に心を留めよ(ハガイ書 1章)

    「お前たちは、この神殿を 廃虚のままにしておきながら 自分たちは板ではった家に住んでいてよいのか。… お前たちは自分の歩む道に心を留めよ。」 (ハガイ書1章4節~5節) ハガイはイドの子ゼカリヤとともにバビロンによって破壊されたエルサレム神殿の再建に関する主の言葉を語った預言者です(エズ5章1節)。 神殿を建て直そうという試み自体は、すでに二十年近く前から始まっていました。主の摂理の御業によって、キュロス王の時代にイスラエルの人びとは祖国への帰還が許され、神殿の再建がスタートしていました。しかし、再建作業はこの時まで、長らく中断・放置されていたのです。 「まだ、主の神殿を再建する時は来ていない」とイスラエルの人びとが口にする中で、主は神殿を再建せよと力強く命じられます。これは単に神殿建築の進捗についてだけではなく、彼らの生き方そのものを問い質す言葉でした。 再建作業が遅々として進まない原因として、反対者による妨害工作があったことは事実です(エズ4章)。しかし、本当の問題は彼ら自身の心が主から遠く離れ、自分のことでいっぱいになっていることにありました。そして皮肉なことに、自分を第一とする歩みがかえって彼ら自身に悪い結果を引き起こしていたのです。 「お前たちは自分の歩む道に心を留めよ」と主は命じられます。そのよう命じられるとき、主は私たちと共に歩もうとしておられるのです。 【祈り】 主よ、私たちの日々の歩みがあなたの御心にかない、あなたに喜ばれるものでありますように。

  3. 998

    終わりまで自分の道を行く(ダニエル書 12章)

    「終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう。」 (ダニエル書12章13節) きょうの箇所は、ダニエルに示された幻の最後の部分です。これまでダニエル書では、イスラエルの周辺の国々による争いと戦いに関する幻が繰り返されてきました。 しかしダニエル書は、ただの具体的な地上の国々の営みだけを述べたいのではありません。何よりも、終わりの日の神の救いが覚えられています。地上のすべては、この終わりの時に向かって進んでいます。この終わりの日、一人ひとりは死から復活し、ある者は永遠の命に、別の者は永遠の恥と憎悪に生きることになります。この時を見据えて、今を生きることが求められるのです。 この章では、前の章に続いて、終わりの日までにある信仰者の苦難の問題が語られます。その時まで、イスラエルにかつてないほどの苦難が襲うとの迫害が言われます(1節)。聖なる民の力が打ち砕かれるとも言われるのです(7節)。このダニエル書では、苦難と迫害の中で信仰者が殉教することさえ示されてきました。この幻を示されたダニエル自身も、苦難の道を歩むことになるでしょう。 しかし、最後に彼に示されたのは、終わりの憩いと定められた救いを受けるとの約束でした。主を信じる者は、たとえどのような苦難の中にあっても、定められた時に訪れる神の勝利が約束されているのです。 【祈り】 私たちに終わりの日の栄光と安息があることを覚えさせてください。

  4. 997

    主の前に清められ白くされる(ダニエル書 11章)

    「これらの指導者の何人かが倒されるのは、終わりの時に備えて練り清められ、純白にされるためである。」 (ダニエル書11章35節) きょうの箇所でダニエルに示された幻は、7章以降で彼が見せられた幻と重なりますが、何代にもわたる南の王と北の王の戦いについて述べられていることが特徴です。 この二つの王国は一時的に和睦しても、大軍を集めて激しい戦いを行うことを繰り返します。そして、この二つの王国の狭間にある、この章で「麗しの地」と表現されているイスラエルも、これらの戦いに巻き込まれることになるのです。 その中で、卑しむべき者が北の国の王として現れ(21節)、イスラエルの聖所を汚し、日ごとの供え物を廃止することになります(31節)。その中で、ある者たちは棄教し、命を落とすことも示唆されるのです(35節)。主なる神に反する勢力にはいつか終わりの時がありますが(45節)、それまでにイスラエルの民は激しい迫害を経験することになります。 迫害とは、厳しいものです。しかし、そのような試練の中で民の一人ひとりは練り清められ、主の前に純白にされると言われます(35節)。純白にされるとは、人が罪のない、主に対して純粋な人にされるということです。ここには試練の意味があります。たとえ厳しい試練の中にあっても、それを通して私たちも生涯を通して、主の前に純粋な者、心から依り頼む者にされる導きがあるのです。 【祈り】 試練を通しても、わたしを御前に純白な者にしてください。

  5. 996

    恐れず平和の内に神に向き合う(ダニエル書 10章)

    「恐れることはない。愛されている者よ。平和を取り戻し、しっかりしなさい。」こう言われて、わたしは力を取り戻し、こう答えた。 (ダニエル書10章19節) イスラエルからバビロンへ捕囚として連れて来られたダニエルも、ペルシア王の時代を迎えて、人生の晩年を歩んでいます。そのときに彼は、これまでもあったように、再び主からの幻を見せられました。ここからは、ダニエル書が記す最後の幻です。 この幻は、幻を見た彼自身が打ちのめされ、気力を失い、その言葉を聞いて地に倒れるほどのものでした。それは、彼が幻で見た、純金の帯を締め、体が宝石のようで、顔が稲妻のような不思議な人が、主なる神を示す存在であったからです。 ダニエルのような謙遜な人であっても、聖なる神を前に、恐れで満たされています。しかしここで彼は、天使のような存在によって繰り返し触れられて(10、18節)、この幻に向き合う者にされていきます。最初は、なお恐れの中にあったダニエルですが(11節)、最後には奮い立たされて、この後天使が語るメッセージを受け入れる者にされていくのです。 きょうの箇所では、主なる神を前に恐れおののくダニエルを、人の子のような姿のこの天使が繰り返し支えて、力づけました。今の時代に生きる私たちには、天使にまさるキリストという仲保者がおられます。この方において、私たちもきょう、聖なる神に向き合うことが許されています。 【祈り】 私たちを力づけ、私たちに平和を与えるキリストをとおして、神と共にあることができますように。

  6. 995

    主に従う道十字架の先の栄光(マタイによる福音書 16章21-28節)

    それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」 (マタイによる福音書16章24節) 主がメシアであることが告白された直後、主はご自分がエルサレムで苦しみを受け、殺され、三日目によみがえることを予告なさいました。それは、勝利の王を期待していた弟子たちには受け入れ難い十字架の道、受難の道でした。しかし、神の御心は、主イエスがすべての人の罪を背負って十字架にかかることで、まことの救いを成し遂げることにありました。 主は、弟子たちに「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と命じられます。これは、自分の意志を神の御心に明け渡し、主と同じ道を歩む招きです。自分の命を自分のために守ろうとする者はかえってそれを失い、それを主のために献げる者は、永遠の命を得ます。自己中心をやめて神中心に生きること、自己否定、神肯定の生き方です。 信仰の歩みとは、主から恩恵をいただきつつ、主と共に生き、主と同じ方向へ歩むことです。十字架の道は苦しいものですが、その先には復活の勝利と輝かしい栄光が約束されています。 きょう、あなたが握りしめているものを主に明け渡し、主の後に従ってみませんか。主が先に歩んでくださるので、私たちはこの道を、喜びをもって進むことができるのです。 【祈り】 主よ、あなたにお従いするために、自分を捨てる勇気を与えてください。わたしの十字架を背負い、あなたの御跡を歩ませてください。

  7. 994

    なぜなら主の慈しみはとこしえに(詩編 136編)

    恵み深い主に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。 (詩編136編1節) 136編は、各節の結びに「慈しみはとこしえに」と繰り返される、非常に印象的な賛歌です。この繰り返しの冒頭には、ヘブライ語で理由を表す接頭接続詞「キー(なぜなら)」が含まれていて、神を賛美すべき確かな根拠が示されています。「なぜなら、慈しみはとこしえに」なのです。 「慈しみ」と訳された「ヘセド」は、新改訳では「恵み」であり、神と人の間の契約に基づいた揺るぎない愛や忠実さ、誠実さを意味します。神の愛、慈しみ、恵み、憐れみは永遠で、変わることのない神のご性質です。 イスラエルの民の歩みは、まさにこのヘセドの歴史でした。神の創造と摂理の中には、神のヘセドが深く刻まれています。人間の堕落後も、神のヘセドは変わりません。神の民イスラエルが繰り返し神に背き、偶像を礼拝しても、神のヘセドが途絶えることはありませんでした。詩人は神の救いの御業を一つずつ数え上げながら、その慈しみ深さを、確信をもって歌い上げています。 私たちも、神を礼拝するときも日常の歩みの中でも、この変わることのない神の慈しみを覚え、詩人と共に賛美の声を合わせたいものです。主の恵みにあずかる喜びが私たちの弱さを支え、常に私たちと共にあることを感謝しましょう。 【祈り】 罪を悔いてはまた犯す私たちですが、なおも憐れんでくださるあなたの恵みに感謝します。

  8. 993

    罪を嘆き祈る中に示される救い(ダニエル書 9章)

    「わたしたちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに、伏して嘆願の祈りをささげます。」 (ダニエル書9章18節) ダニエルの時代、イスラエルの民の背きのゆえに、エルサレムには主の激しい怒りが注がれ、都は荒廃しました。ダニエルをはじめ、民のおもだった人びとは、捕囚として外国に連れて行かれることになりました。 きょうの箇所で、ダニエルは改めて当時のことを思い起こし、罪を悔いる祈りを神に注ぎ出します。それはとめどなく続くものでした。ただ憐れみと赦しを懇願していたのです。 そのような中で、祈るダニエルに応えるように、天使ガブリエルがやって来て、民の背きの終わりと、とこしえの正義の到来、エルサレムの復興を示しました。その中心には、油注がれた君であるメシアの存在も示されます。この「不当に断たれ」たメシアは、やがて罪のために贖いの死を遂げられたイエス・キリストを指し示すものです。その後も聖所が荒らされることや、終わりの日に至る苦難が示されますが、最後には荒廃をもたらすものの滅びが語られます。 ここで心から祈るダニエルに、主は十分に応えられました。自らの罪を認めて赦しを求める者に、主は終わりの日に至る救いを示されます。その中心には、罪の贖いとなられた救い主があります。主の前にへりくだる一人ひとりに、主は豊かな救いの恵みを示されるのです。 【祈り】 自らの罪を覚えて、終わりの日に至るキリストの救いを新しく示してください。

  9. 992

    高ぶりと主への背きが砕かれる時(ダニエル書 8章)

    「驕り高ぶり、平然として多くの人を滅ぼす。 ついに最も大いなる君に敵対し 人の手によらずに滅ぼされる。」 (ダニエル書8章25節) 7章に続いて、ダニエルは、それに似た内容の幻を繰り返し主から示されます。彼はバビロン王の時代に、自分の思うままに振る舞い高ぶる雄羊と、その雄羊に怒りをもって突進し、ついにはこれを打ち倒す強大な雄山羊の幻を見せられました。天使ガブリエルの解き明かしによって、二本の角のある雄羊はそれぞれメディアとペルシアの王を表し、雄山羊は強大な力を持ったギリシアの王を表すことが明らかにされます。後に起こる激しい国家間の闘争がダニエルに示されるのです。 とりわけ、雄山羊から生え出た一本の小さな角のことが語られます。この角は非常に強大になり、「麗しの地」であるイスラエルにまで勢力を伸ばします。イスラエルの聖所を倒し、その供え物を取り上げ、主の前にどこまでも驕り高ぶり、神に敵対するのです。しかしやがて、この角も主の手によって滅びると言われます。これは、知恵あるダニエルも理解し難いほどの幻でした。 地上の国家と王には、主への激しい高ぶりと、敵対心があります。地上で生きる信仰者には、時に忍耐が必要とされる時もあるのです。しかしその支配にも、人の手によらない、主の御手による終わりの時があります。ただこの御手が、私たちの希望です。 【祈り】 どのような高ぶりも砕く、あなたの力ある御手を私たちに覚えさせてください。

  10. 991

    裁きと救いの完成を待ち望む(ダニエル書 7章)

    見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り 「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み 権威、威光、王権を受けた。 (ダニエル書7章13節~14節) ダニエル書は黙示文学と言われます。世界の終わりについて、幻などを用いて預言されます。これまでダニエルは、バビロン王の夢や幻を神からの知恵によって解き明かしてきました。しかしここからは、ダニエル自身が終わりの日の幻を見、その意味を教えられることになります。 彼がここで見たのは、2章の幻にも似た四匹の獣の幻でした。それは四つの王国を表します。第一の獣はバビロン、その後の獣は、メディア、ペルシア、ギリシアといった国々が考えられます。 とりわけ第四の獣は最も強く、そこから出た十本の角(王)の内の一本は、主なる神に対して高ぶり、尊大なことを語っていたと言われます。神の聖者たちもそれに悩まされることになりますが、終わりの日には、その王も主の裁きに服することになります。このとき、人の子のような方が「日の老いたる者」である神の前に来て、永遠の主権を託され支配することになるのです。 私たちも、この地上で尊大なことを語る国家や権力者に悩まされることがあるでしょう。しかし、それにまさる神の裁きと、人の子イエス・キリストの支配があります。その力ある支配のもとで、私たちは今日も世界で生きることが許されています。 【祈り】 地上の権威にまさる権威が神と御子にあることを覚えさせてください。

  11. 990

    危機の中で救いの神を信じる(ダニエル書 6章)

    ダニエルは引き出されたが、その身に何の害も受けていなかった。神を信頼していたからである。 (ダニエル書6章4節) 6章では、これまでのバビロンの時代が終わり、メディアによる支配を迎えることになります。ダニエルは、既にバビロンの時代にも王国を治める第三の位が与えられていましたが(5章29節)、メディア人の支配の下でも同じ地位にとどまり、王に用いられることになります。捕囚の民であったダニエルには、神の霊の導きがあったのです。 しかし、このダニエルの活躍は王国の他の指導者たちの激しいねたみを買うことになり、彼らの企みによって、ダニエルは獅子のいる洞窟に投げ込まれる刑罰を受けることになりました。そこから、ダニエルは全くの無傷で獅子の穴から救い出されることになりますが、その理由は、彼がただ神に信頼していたからでした(24節)。 ダニエルの心にあったのは、どのような中でも、神は必ず自分を救われるとの信仰です。私たちがこの地上で純粋な信仰に生きるとき、地上の困難や迫害さえ伴うことがあります。救い主イエス・キリストご自身も地上の指導者たちから罪を着せられ、十字架刑につけられる中で、最後まで父なる神を信頼する祈りの声を上げられました。主イエスを信じる一人ひとりにも、どのような中でも、信仰に生きる道が開かれています 【祈り】 生涯のどのようなときも、私たちが救いの神を信じて歩むことができますように。

  12. 989

    平和宣言戦争の時代に平和を模索す(マタイによる福音書 5章3-21節)

    「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」 (マタイによる福音書5章9節) 2023年に採択された「平和の福音に生きる教会の宣言(以下、「平和宣言」)」は、「今や再び『戦争の時代』が到来しつつあることを予感させ」との現実認識に立ちます。「罪と悲惨の絶えない人間世界には暴力が満ちています」という文言も見つけることができます。その現実世界のなかで、教会が主の御言葉に応答するために、今日から後の教会の責任を明らかにし、「この世界におけるキリストの平和の実現に献身する」ために、「平和宣言」は作成されました。 「キリストはわたしたちの平和」です(エフェ2章14節)。その平和を具現する共同体こそが教会です。真の平和は正義と公正と隣人愛によってつくり出されることを、キリストは地上のご生涯において現してくださいました。ならば「キリストに愛されたわたしたちは、この世に満ちる差別・暴力・不正の犠牲者に寄り添い、不安と恐れの中にいる人々の隣人となることを選び取ります」。 「この世における平和はまた、絶えずつくり続けなければ失われます」。神が完全な平和をもたらされる終末のその日まで、教会は「決して諦めることなく平和の道を模索し続けます」。きょうを平和を模索する一日として用いることができますように。 【祈り】 「言葉だけの平和に終わることのないように、平和を実現するために必要な知恵と力を、聖霊によってお与えください」。

  13. 988

    あなたはメシア生ける神の子(詩編 16章13-20節)

    シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。 (詩編16章16節) フィリポ・カイサリアの地方で、主は「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われました。ペトロは、聖霊の導きによって「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。 この告白こそが真理であり、教会の不動の土台です。イエス・キリストは、単なる道徳の教師や預言者の一人ではありません。死に勝利し、今も生きてすべての創られたものを統治しておられる全能の神の御子です。 主イエスは、「この岩の上にわたしの教会を建てる」と約束なさいました。それゆえ陰府の力さえも、この恵みの場所に打ち勝つことはできません。 主はまた教会に「天の国の鍵」を託されました。福音の宣教によって罪の赦しを宣言し、神の国へと人びとを導き入れる特権が与えられました。 教会を建てるという働きは、私たちの熱心や人間の力をもっては決して成し遂げることはできません。世の中の価値観がどれほど激しく移り変わっても、他人がどう言おうとも、「あなたはメシア、生ける神の子です」と心から信じて告白する信仰によって建てられ、主に保たれます。 きょうもこの確信に立ち、主イエスの御名のみを誇りとして、世へと遣わされていきましょう。主は常にあなたと共におられ、あなたの告白を支えてくださいます。 【祈り】 あなたこそ救い主、生ける神の子です。この信仰の土台の上に、わたしの生涯と教会をお支えください。

  14. 987

    あなたはメシア生ける神の子(マタイによる福音書 16章13-20節)

    シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。 (マタイによる福音書16章16節) フィリポ・カイサリアの地方で、主は「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われました。ペトロは、聖霊の導きによって「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。 この告白こそが真理であり、教会の不動の土台です。イエス・キリストは、単なる道徳の教師や預言者の一人ではありません。死に勝利し、今も生きてすべての創られたものを統治しておられる全能の神の御子です。 主イエスは、「この岩の上にわたしの教会を建てる」と約束なさいました。それゆえ陰府の力さえも、この恵みの場所に打ち勝つことはできません。 主はまた教会に「天の国の鍵」を託されました。福音の宣教によって罪の赦しを宣言し、神の国へと人びとを導き入れる特権が与えられました。 教会を建てるという働きは、私たちの熱心や人間の力をもっては決して成し遂げることはできません。世の中の価値観がどれほど激しく移り変わっても、他人がどう言おうとも、「あなたはメシア、生ける神の子です」と心から信じて告白する信仰によって建てられ、主に保たれます。 きょうもこの確信に立ち、主イエスの御名のみを誇りとして、世へと遣わされていきましょう。主は常にあなたと共におられ、あなたの告白を支えてくださいます。 【祈り】 あなたこそ救い主、生ける神の子です。この信仰の土台の上に、わたしの生涯と教会をお支えください。

  15. 986

    わたしたちの神の家の庭に居並ぶ人々よ(詩編 135編)

    シオンから、主をたたえよ エルサレムにいます主を。 ハレルヤ。 (詩編135編21節) 詩編134編と135編は、表現と思想において深く結びついています。134編は、1節に「夜ごと、主の家にとどまる人々」とあり、夜に務めを果たす聖職者の姿を示し、135編は、2節に「わたしたちの神の家の庭に居並ぶ人々よ」とあり、聖所に集う礼拝者全体へと賛美の呼びかけが広がります。「都に上る歌」が締めくくられたあとも、聖所における賛美の光景は続いていくのです。 とくに詩人は、特定の場所に臨在される神、すなわち、「エルサレムにいます主」を固く信じていました。彼にとって、やがてその特定の場所にある神殿が廃止されることは想像できなかったでしょう。かつてのイスラエルの民は幕屋や神殿に臨在される神を仰ぎましたが、神殿が失われた後は、特定の場所を超えた「神の臨在」そのものにいっそう大きな意味を見いだすようになりました。 これは、現代の私たちが礼拝において「招きの言葉」に応え、心を一つにして神を賛美することに通じます。詩人が聖職者や礼拝者に求めたように、私たちもまた、主が今この場に臨在され、共におられることを信じて、賛美をささげるように招かれています。神は時代を超えて変わることなく、私たちのただ中に臨在し、ささげられる賛美に耳を傾けてくださるのです。 【祈り】 神の臨在を深く感じ、心からの賛美をささげることができますように。

  16. 985

    主の力の下でへりくだって生きる(ダニエル書 5章)

    「ベルシャツァル王よ、あなたはその王子で、これらのことをよくご存じでありながら、なお、へりくだろうとはなさらなかった。」 (ダニエル書5章22節) バビロニア帝国のネブカドネツァル王の息子であるベルシャツァル王の時代に、王は盛大な宴会を開きました。宴会には、王の命令によって、バビロンがユダの神殿から奪い取った金や銀の器が運ばれました。そして、彼らはそれで酒を飲み、自分たちの神々を賛美し始めたというのです。 ここには、権力を握ったベルシャツァル王が、主なる神の前にどこまでも高ぶる姿があります。父であるネブカドネツァルには、まだ天の神をほめたたえる心が見られました(21節)。しかし、このベルシャツァル王は、いと高き神の支配を知りながらも、結果的に自らの心を低くすることがなかったのです。 主は、ここで王宮の白い壁に人の指で書かれた不思議な文字を通して、帝国が二つに分けられることを示されました。御前に高ぶるベルシャツァルの支配の終わりです。その文字は王を激しく動揺させるものとなり、主の裁きによって彼は殺され、その治世は終わることになったのです。 人がへりくだることは、難しいことです。王でなくとも、私たちも時に高ぶることがあります。人は、自分自身でへりくだることはできません。ただ力ある神のもとで、自ら低くなられたイエス・キリストに倣うときに、へりくだって、神を神とすることが許されているのです。 【祈り】 私たちがあなたの前にへりくだり、ただあなたを喜ぶ者にしてください。

  17. 984

    この世界で賛美されるべき神(ダニエル書 4章)

    それゆえ、わたしネブカドネツァルは天の王をほめたたえ、あがめ、賛美する。その御業はまこと、その道は正しく、驕る者を倒される。 (ダニエル書4章34節) バビロン帝国で繁栄を極めていたネブカドネツァル王は、一つの幻を見せられました。既に彼は、自らの王国に関する夢を見ましたが(2章)、ここでも自分についての一本の木の幻を見ることになります。 幻に出てくる一本の木は、王自身を指し示します。その木は天に届くほど高く、地のどこからもそれが見え、その葉は美しく、実も豊かで、野の獣と空の鳥がその下で養われるほどのものでした。当時のバビロンには、それほどの力がありました。 しかし、それほどの大きな木が切り倒され、その葉や実も取り去られて、ただ切り株だけが残るとの悲惨な姿が幻によって示されたのです。それは、主から与えられた知恵によってこの幻を王に解き明かしたダニエルも、動揺するほどのものでした。 この箇所が明らかにすることは、どのような地上の王国も、王もその力も、すべてはいと高き神の支配の下にあることです(14節)。この方こそが、地上の王国の支配を誰にでも自由に与えることのできるお方です。 この章の最後でネブカドネツァル王は、すべてのものをご自身の下に置く、いと高き神の永遠の支配をほめたたえました。この世界にあって、この方のみが、私たちがあがめ、賛美すべき唯一のお方です。 【祈り】 私たちの生きる世界が、目に見えないあなたの真実の支配の下にあることを覚えさせてください。

  18. 983

    私たちを救うことのできる神を信じる(ダニエル書 3章)

    「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。」 (ダニエル書3章17節) バビロン帝国で頂点を極めたネブカドネツァル王は、高さ三十メートル近くに及ぶ巨大な金の像を造り、これを全住民が拝むことを強制しました。そうしなければ命はない、との絶対的な命令です。 しかし、このバビロンで主なる神を拝んでいたユダヤ人、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人は、この命令を受け入れず、決して像を拝もうとはしませんでした。 彼らの中にあったのは、自分たちの仕える主なる神は、たとえ燃え盛る炉や王の手からも自分たちを救うことができるとの救いの神への確信でした。さらに、たとえ炉の中から救われることがなくても、自分たちは像を拝まないとの絶対的な姿勢を貫いたのです(18節)。信じたとおりに、彼らは主なる神の遣わされた御使いによって、全く傷を受けずに救い出されました。 この三人を通して明らかにされたのは、私たち一人ひとりが救いの神を、真実に信じる歩みです。この生涯の中で、たとえどのような危険の中にあっても、この方に自分の救いがある。そのような信仰こそ、私たちの歩みを強めるものです。きょうも、救い主イエス・キリストを遣わされた神を真実に喜び、信じる歩みが私たちに備えられています。 【祈り】 私たちがこの生涯でどのような危険にあっても、救いの神であるあなたを信じさせてください。

  19. 982

    この世で真の力を持つ神を見る(ダニエル書 2章)

    「神の御名をたたえよ、世々とこしえに。知恵と力は神のもの。」 (ダニエル書2章20節) ダニエル書の舞台は、イスラエルの主だった民が捕らえ移された先のバビロン帝国です。当時、権力の絶頂にあったバビロンの王ネブカドネツァルは、ある夜、いくつかの夢を見ました。その夢について、王国の賢者たちは何もできませんでしたが、神によって夢や幻を理解することの許されたダニエルは(1章17節)、ここで王の夢を明らかにし、その夢を解き明かすことに用いられます。 ネブカドネツァル王が見た像の夢は、この後の世界の帝国の攻防を示す恐るべき夢でした。この像の金の頭はバビロンを指しますが、その後に興る国々については、ダニエル書にもその名が出てくるメディアやペルシア、ギリシアといった国々が考えられます。王が見た夢は、自らの帝国の滅亡さえ示される、国同士の激しい争いを指すものでした。 しかし、きょうの箇所は、ただの地上の王国の戦いを述べたいのではありません。国同士の戦いの後、終わりの日に明らかにされる永遠の神の国が明らかにされています(44節)。地上の国はあくまでも神の力の下にあり、神こそ王を退け、また立てられるのです(21節)。 今も、世界の力ある国々による戦争が続く中で、私たちは、真実に力を持っておられる神に立ち帰りたいと思います。 【祈り】 この世界で、真実に力あるあなたを信じることができますように。

  20. 981

    目で見ず心で悟らず立ち帰らない(ダニエル書 1章)

    神の御計らいによって、侍従長はダニエルに好意を示し、親切にした。 (ダニエル書1章9節) ダニエル書は、旧約聖書の中でも、最も遅い時代に書かれた書物の一つです。 イスラエルの民が主に背いたことで、主の怒りによってユダ王国は滅亡し、主はユダの王や神殿をバビロンの手に渡されました。ダニエルは、そのバビロンに連れて行かれた捕囚の民の一人です。 このバビロンの支配下で、捕囚の民であるダニエルらはその国の文学と言葉を学び、バビロンの名前がそれぞれに付けられます。そして、彼らには王のご馳走が与えられ、バビロンに仕える者になるための養育が行われることになるのです。もはや、主なる神に仕える歩みが失われてしまったようにも見えます。 しかし、このバビロンという強大な王国の中でも、そこに貫かれているのは主の御計らい(直訳は「恵みと憐れみ」)なのです(9節)。確かな主の恵みの中で、ダニエルには主からの知恵と知識が与えられ、この王国で主なる神に仕えるための道が開かれていきます。 私たちの目の前にも、主なる神を見失わせる厳しい現実があるかもしれません。しかし、そこに貫かれている主の恵みの支配が今日もあることを覚えたいと思います。その幸いが一人ひとりに備えられています。 【祈り】 困難な状況の中にあっても、きょうもあなたの恵みと憐れみに信頼して歩ませてください。

  21. 980

    異邦の地にも注がれる広大な恵み(マタイによる福音書 15章21-38節)

    そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」 (マタイによる福音書15章28節) 主イエスは異邦の地であるティルスとシドンの地方で、娘のいやしを願うカナンの女と出会われます。主の沈黙や厳しい拒絶の言葉に直面しても、彼女は「食卓から落ちるパン屑」でも十分だと食い下がりました。主はその大胆な信仰を「立派だ」と賞賛し、願いを叶えられました。それに続いて、主イエスは大勢の足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人といった多くの病人をいやされました。さらには、四千人の人々をパンと小さい魚で養われました。これらもまた、異邦人が多く住む地での出来事です。 これらの物語は、救いの恵みがイスラエルの枠を超え、全世界の民に開かれていることを示しています。主は特定の民だけでなく、すべての人に憐れみを注がれるお方です。 私たちもイスラエルからすれば異邦人ですが、主の主権的な慈しみによって、命の食卓に招かれました。主は決して人を差別せず、ただご自分を求める者に豊かなパンを与えられます。どれほど自分が不釣り合いだと感じても、主の憐れみはあなたを拒みません。主は四千人を養われたときのように、今もあなたの必要を知り、最高の形で満たしてくださいます。この広大な愛に留まり、主の慈しみを大胆に求めて歩みましょう。 【祈り】 わたしのような者にも恵みの食卓を分かち合ってくださり感謝します。あなたの深い憐れみに依り頼みます。

  22. 979

    平和のための霊的戦いを(エフェソの信徒への手紙 6章10-24節)

    悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく…。 (エフェソの信徒への手紙6章11節~12節) 八十一回目の敗戦の記念の日を迎えました。暴力と戦争の力が、再び日増しにこの世界を覆い始めています。私たちはどうすればよいのでしょう。一体、何ができるのでしょうか。 パウロは、牢獄からエフェソの教会に書き送った手紙の最後で今日の私たちにとって極めて重要なことを語っています。それは戦うことです。しかし、この戦いは、今日の世界で行われている戦いとは全く異なります。 戦う相手は、「血肉」、つまり人間ではありません。目に見えない悪しき霊であり悪魔です。悪魔は、自らの姿を隠して人間同士を敵対させ、争わせようと巧妙に策略を張り巡らせています。その策略がいかに巧妙であるかは、歴史が物語っています。人類の歴史は戦争の歴史です。 この本当の敵、悪魔と目を覚まして戦わねばなりません。しかし、私たち自身にはその力はありません。それゆえ、聖書はこう言います。「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」(10節)と。さらに、神の武具を身に着けるようにと命じられます。それは、真理であり正義であり平和の福音であり信仰、そして神の言葉であり、祈りです。 「祈ることしかできない」のではありません。そうではなく、祈りにおいてこそ、平和のための霊的な戦いを戦うことができるのです。 【祈り】 主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。

  23. 978

    わたしを愛しているか(ヨハネによる福音書 21章)

    「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。 (ヨハネによる福音書21章17節) 復活の主イエスはペトロに、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と三度問いかけられました。これは、かつてペトロが三度主を否んだ出来事を思い起こさせるためでした。ペトロは主に忠誠を誓いながらも、恐れのあまり主を知らないと言ってしまった自分の姿に、深い後悔と罪悪感を抱いていたことでしょう。三度目に問われたとき彼が悲しくなったのも、その過去の失敗が胸によみがえったからかもしれません。 しかし主イエスは、恐れのあまり過ちを犯したペトロを、なお回復へと導こうとされました。だからこそ、あえて三度「わたしを愛しているか」と問いかけられたのです。そしてそのたびに、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」との告白を、彼の口から引き出してくださいました。この愛の告白は、ペトロ自身の確信から出たものではありません。復活の主の語りかけこそが、ペトロの内に眠っていた主への愛を呼び覚ましたのです。主は責めるのではなく、失敗を愛の告白へと変えてくださったのです。 復活の主イエスは、私たち一人ひとりに出会ってくださり、失敗や過ちさえも主への愛の告白へと変えて、再び立ち上がる力を与えてくださいます。そして真実に主を信じる者としてくださるのです。 【祈り】 主よ、わたしがあなたを愛していることはあなたがご存じです。アーメン

  24. 977

    ナザレのイエスユダヤ人の王(ヨハネによる福音書 19章)

    ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。 (ヨハネによる福音書19章19節) ピラトは十字架の上に、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と記された罪状書を掛けました。これに対して、ユダヤ人の祭司長たちが、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と抗議すると、ピラトは「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えました。 ピラトの意図は、あくまでも「お前たちの王はこのような姿だ」という政治的な皮肉と嘲りにありました。しかし、その嘲りのために掲げられた標札は、単なる処刑理由の提示を超え、結果的にローマ総督の口を通じて、主イエスがまことの「王」であることを公に宣言するものとなりました。世の権力がどれほど嘲ろうとも、神のご計画はその者たちの口さえも用いて成し遂げられるのです。 まことの王は、きらびやかな王座ではなく、辱めと苦痛の十字架につかれました。それは権力による支配ではなく、ご自身の民を死から救い出すための究極の愛の選択でした。主イエスは罪人の身代わりとなって死ぬことで神の栄光を現されました。「神は愛である」という真理を十字架の上で完全に証しすることによって、主イエスはこの地上における神の栄光を現す尊い働きを成し遂げられたのです。 【祈り】 十字架の上で神の栄光を完全に現されたまことの王、主イエスの救いの御業に感謝いたします。アーメン

  25. 976

    恐れず向き合う救い主(ヨハネによる福音書 18章)

    イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。 (ヨハネによる福音書18章6節) かつてペトロは、主イエスに「あなたのためなら命を捨てます」と固く誓いました(13章37節)。しかし、「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」と問われると、状況は一変します。ペトロは、わたしではない(I am not)と、弟子であることを否定してしまいました。 一方、ユダは兵士や人びとを引き連れ、灯火やたいまつを持ってやって来ました。ご自分の身に起こるすべてを知っておられた主イエスは、身を隠すどころか自ら進み出て「だれを捜しているのか」と問い、「わたしである(I am)」と名乗り出られました。それは決して諦めや絶望によるものではありません。むしろ主イエスは、「わたしである」と語ることによって、イスラエルを救うためにご自身を啓示された出エジプト記3章の神の自己啓示(I am)を想起させつつ、ご自分を捕らえに来た人たちにまっすぐ向き合われました。それが、ご自身の民を救う道であり、父なる神の栄光を現す道であることを知っておられたからです。 罪人である私たちの救いのために、自ら「わたしである」と明かし、十字架の死へと向かわれた主イエスに感謝します。私たちも主イエスの弟子であると堂々と告白できる一日となりますように。 【祈り】 神よ、十字架の恵みに感謝します。きょうも主の弟子であると、恐れずに告白できますように。アーメン

  26. 975

    十字架にあらわれる神の栄光(ヨハネによる福音書 17章)

    イエスは…天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。」 (ヨハネによる福音書17章1節) 主イエスは「時が来た」と祈られました。それはまさに「子が神の栄光を現す」時です。 本来、「栄光」の辞書的な意味は、隠しきれずに溢れ出す輝かしい光や名誉を指します。世の中では、成功して自分の名を広く知らしめることが栄光と呼ばれます。 一方、ヨハネによる福音書における「栄光」は、主イエスの「十字架の死」と深く結びついています。世の人々は十字架を恥や失敗と見なしますが、主イエスは十字架の死をとおして父なる神があがめられることを願われました。なぜなら、神は人間が考えるような華やかできらびやかな方法ではなく、最も悲惨な十字架上での御子の死をとおして、ご自身の本質である愛と威厳を現されるからです。 主イエスは天地創造の前から本質的な栄光を携えておられましたが、十字架という死をとおして、その神の栄光が人びとに知られることとなりました。このように、神の栄光を現すとは、自分の名が知られることではなく、十字架の死によって神の本質が現れることを意味します。 私たちもまた、日々自分を低くし、与えられた十字架を負って主に従うとき、その歩みをとおして神の栄光を現す者とされるのです。 【祈り】 主よ、私たちが常に自分の十字架を背負うことをとおして、あなたの栄光を現させてください。アーメン

  27. 974

    嵐の中で伸ばされる救いの御手(マタイによる福音書 14章22-33節)

    イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」 (マタイによる福音書14章27節) 夜明け前、逆風と荒波に翻弄される弟子たちの舟に、主イエスは湖の上を歩いて近づかれました。「安心しなさい。わたしだ」という宣言は、かつてモーセに語られた神の御名「わたしはある」を思い出させます。主は自然界を統治なさる創造主であり、救いの神としての権威を現されました。 その主イエスの言葉を聞いたペトロはすぐに元気を取り戻し、「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と願いました。「来なさい」と言ってくださる主を見つめている間、彼は水の上を歩けました。しかし、強い風を見た途端に沈み始めました。 私たちの人生も同じです。困難という強風に目を奪われるとき、私たちは恐れに飲み込まれてしまいます。しかし、主は沈みゆくペトロに手を伸ばして捕まえ、引き上げてくださいました。主の救いの手は、私たちの疑いや弱さよりも速く、強いのです。 主が舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは「本当に、あなたは神の子です」と信仰告白しました。 あなたの人生の荒波がどれほど激しくても、万物の主であるこのお方が共にいてくださるなら、そこにはまことの平安があります。目に見える状況にではなく、あなたを離さない主の御手に全幅の信頼を寄せて歩みましょう。 【祈り】 主よ、嵐の中にあっても、あなたをまっすぐ見つめさせてください。

  28. 973

    主の家にとどまる人よ主をたたえよ(詩編 134編)

    主の僕らよ、こぞって主をたたえよ。 夜ごと、主の家にとどまる人々よ 聖所に向かって手を上げ、主をたたえよ。 (詩編134章1節~2節) 120編から始まった「都に上る歌」は、134編をもって結びを迎えます。詩編全体の一割を占めるこの歌のおもな目的の一つは、神の臨在を見つめ、神を賛美することへと私たちを招くことにあります。 イスラエルの都エルサレムは、海抜750~800メートルのユダ山脈の頂に位置します。けれども、「都に上る」とは、シオンがそのような高い頂にあるという地理的な移動を意味するのではありません。エルサレムの山を意味するシオンは、イスラエルの民にとって極めて重要な場所でした。そこには神殿があります。「都に上る」とは、生ける神の臨在がある場所へと、信仰の確信をもって近づくことを意味しています。 都に上った詩人が見た風景は、彼が想像したことと違っていたようです。そのため、「主の僕らよ」、「主の家にとどまる人々よ」と呼び出し、こぞって主をたたえよ」、「聖所に向かって手を上げ、主をたたえよ」と訴えているものと思われます。これは、目の前におられる神を見つめ、その恵みを共に分かち合い、心の底から賛美をささげたいという詩人の切なる願いの表れと言えるでしょう。 昼も夜もいかなるときも私たちと共にいて祝福してくださる神を、心からほめたたえましょう。 【祈り】 主よ、いかなるときも臨在される神を見つめ、心から神をたたえることができますように。

  29. 972

    廃墟のなかに灯される光と神の憐れみ(列王記下 25章)

    ヨヤキンは獄中の衣を脱ぎ、生きている間、毎日欠かさず王と食事を共にすることとなった。 (列王記下25章29節) およそ一年半にわたる包囲の末、ついに都の一角が破られました。ゼデキヤ王は夜中に逃亡を試みましたが、エリコの荒れ地で捕らえられ、バビロン王の前に引き出されました。目の前で息子たちを殺され、両眼をつぶされ、足枷をはめられてバビロンへ連行されます。その姿はユダの終わりの象徴です。神殿も王宮も民の家もすべて焼き払われ、堅固な城壁は取り壊され、残った民も根こそぎ連れ去られました。主がかつて御名を永遠に置くと言われた都エルサレムは、こうして数百年にわたる長い歴史の中に崩れ落ちたのです。 しかし列王記はここで終わりません。先にバビロンに連れ去られて三十七年牢の中にいた前の王ヨヤキンが、バビロンの新王エビル・メロダクの情けによって解放されます。獄中の衣を脱ぎ、手厚いもてなしを受け、王たちの中で最も高い位を与えられ、生涯にわたって食事を共にすることを許されます。この静かで小さな一場面が、列王記の最後の言葉です。 滅亡の廃墟の中に、一筋の光が置かれています。神はダビデの家系を絶やされなかった。裁きの書の末尾に、約束の継続をそっと記すこの筆致に、イスラエルの神の性質が凝縮されています。歴史を閉じるのは絶望ではなく、神の憐れみです。 【祈り】 主よ、どんな廃墟の中にも消えない希望を、あなたの憐れみの中に見出させてください。

  30. 971

    御言葉のまま歴史を成就する神(列王記下 24章)

    ユダが主の御前から退けられることは、…マナセの罪のため、彼の行ったすべての事のためであり、…罪のない者の血で満たしたためである。 (列王記下24章3節~4節) ヨシヤの改革からすぐのタイミングで、ユダ王国はバビロンの王ネブカドネツァルの侵攻を受けます。ヨヤキムは一度服従しながら再び反逆し、やがてその子ヨヤキンの代に都は完全に包囲されました。王をはじめ、高官・勇士・職人に至るまで一万人を超える人々がバビロンへ連れ去られ、神殿の宝物も王宮の財も根こそぎ奪われました。残されたのは「ただ国の民の中の貧しい者だけ」だったと聖書は淡々と記します(14節)。 この出来事を、聖書は偶然や政治的敗北としては描きません。ユダが主の御前から退けられることは、まさに主の御命令によるのです。マナセが流した罪のない者の血、長年にわたる不従順の積み重ね。その報いが、ヨシヤというすぐれた王の改革を挟みながらも、確実にユダに向かって迫り続けていたのです。人の目には国際情勢の変動に見えても、歴史は神の御言葉の成就として動いていきます。 代わって王となったゼデキヤもまた、主の目に悪とされることを行い、さらにバビロンへの反逆を企てます。歴史の歯車は止まりません。しかしその中でも、神は預言者たちをとおして語り続けておられました。さばきの渦中にあってもなお、言葉を与え続ける神がここにおられます。 【祈り】 主よ、時代の流れの中に、あなたの御言葉の成就を見る目をお与えください。

  31. 970

    心尽くして魂尽くして主に帰る(列王記下 23章)

    彼のように全くモーセの律法に従って、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち帰った王は、彼の前にはなかった。 (列王記下23章25節) 22章で御言葉の前にへりくだったヨシヤは、続く23章でかつてない大規模な宗教改革へと踏み出します。ユダとエルサレムの長老・祭司・預言者・民をすべて集め、契約の書の言葉を読み聞かせた上で、主の御前に契約を結びました。そしてバアルやアシェラの祭具、神殿男娼の家、ベテルの祭壇に至るまで、長年にわたる偶像礼拝の痕跡を北のサマリアにまで及ぶ広大な範囲で徹底的に取り除きます。さらに、士師の時代以来途絶えていた、律法の書にかいてあるような過越祭を盛大に復活させたのです。 その改革の徹底ぶりは目をみはるものがあります。聖書は「彼のように全くモーセの律法に従って、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち帰った王は、彼の前にはなかった。彼の後にも、彼のような王が立つことはなかった」と証言します。 しかし、結末は皮肉なものでした。マナセの罪によって燃え上がった神の怒りは収まらず、ヨシヤ自身もメギドでエジプト王との戦いに敗れて戦死します。どれほど誠実な改革も、先人の罪が招いた歴史の流れを一人の王が押し返すことはできなかったのです。そこに人間の限界と、それでも悔い改めを求め続ける神の御心が同時に示されています。 【祈り】 主よ、誠実に歩みながらも限界を覚える私たちを、あなたの御手の中に置いてください。

  32. 969

    一冊の書裂かれた衣砕かれた心(列王記下 22章)

    「あなたは心を痛め、主の前にへりくだり、衣を裂き、わたしの前で泣いたので、わたしはあなたの願いを聞き入れた、と主は言われる。」 (列王記下22章19節) ヨシヤ王の治世第十八年、神殿修復の工事の中で一冊の書が見つかりました。律法の書です。書記官シャファンがその言葉を王の前で読み上げると、ヨシヤは衣を裂きました。先祖たちがこの書を長きにわたって無視し続けてきたことへの深い後悔、そして自分たちに向かってすでに燃え上がっている神の怒りへの恐れと悔い改めの思いが、その一つの行為ににじみ出ています。 王はただちに女預言者フルダのもとに使者を送り、主の御旨を尋ねました。フルダの言葉はまず厳しいものでした。ユダへのさばきはもはや避けられない。長年にわたる偶像礼拝と不従順の結果が、ついに正式に宣告されたのです。しかし、王個人へのメッセージは全く異なりました。御言葉を聞いて心を痛め、主の前にへりくだって泣いたヨシヤには、その災いを自らの目で見ることなく安らかに世を去るという恵みが約束されたのです。 同じ律法の書を前にしながら、先祖たちは聞き流し、ヨシヤは衣を裂きました。神の言葉に対して心をどこに置くか。その一点が、全く異なる結果をもたらしました。御言葉の前で自分を低くするヨシヤの姿は、今日の私たちにも静かに、しかし力強く問いかけてきます。 【祈り】 主よ、あなたの御言葉の前に、ヨシヤのようにへりくだる心をお与えください。

  33. 968

    惑わす王と悔い改めを待つ神(列王記下 21章)

    しかし彼らはこれに聞き従わず、マナセに惑わされて、主がイスラエルの人々の前で滅ぼされた諸国の民よりも更に悪い事を行った。 (列王記下21章9節) 南ユダで最も長く在位した王マナセは、五十五年という歳月をかけて、父ヒゼキヤが積み上げた信仰の遺産をことごとく覆しました。高き所の再建、バアルの祭壇、アシェラ像、天の万象への礼拝。それだけでなく、自分の子に火の中を通らせ、神殿の中にまで偶像を持ち込みました。エルサレムは罪のない者の血で端から端まで満たされたと聖書は記します。 父ヒゼキヤが積み上げた信仰の遺産が、一代にして崩れ去ったのです。信仰は自動的には受け継がれない。この現実は、今日の私たちへの厳粛な警告でもあります。主はついにさばきを宣言され、「見よ、わたしはエルサレムとユダに災いをもたらす」との言葉が語られました(12節)。 注目すべきは、彼の罪が個人の罪にとどまらなかった点です。「マナセに惑わされて」民全体が道を踏み外しました。指導者の罪がいかに深く共同体を蝕むか。これはこの時のユダだけの問題ではありません。 主はその僕である預言者たちを通してさばきを告げられましたが、マナセの治世中はまだ手を下されませんでした。この静けさの中に、神の怒りと同時に、悔い改めを待つ忍耐をも読み取ることができます。罪を正確に見ておられながら、なお待っていてくださる神がここにおられます。 【祈り】 主よ、周囲に惑わされず、あなたの言葉に聞き従う信仰をお与えください。

  34. 967

    憐れみ深いまことの養い主(マタイによる福音書 14章13-21節)

    イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。 (マタイによる福音書14章14節) 主イエスは休む暇もなく働き続け、疲労と空腹のため、人里離れた所へ退こうとされました。しかし、追いかけて来る大群衆を見て「深く憐れみ」、ご自身の休息の時間を投げ打って、その中の病人をいやされました。 主イエスはまた、五千人に食べ物を与えるという壮大な奇跡を働かれました。五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになりました。弟子たちはそのパンを群衆に与えました。すると、すべての人が食べて満腹した上、残ったパンの屑を集めると十二の籠がいっぱいになりました。この奇跡は、単に空腹を満たす以上のこと、すなわちご自分が天から降って来たまことの「命のパン」であることを示しています。 神の恵みは、私たちの乏しさをはるかに超えてあふれ出します。弟子たちが、ここには「これしか」ありません、と絶望したとき、主はその「これしか」を用いて、すべての人を満足させ、余りが出るほどの豊かさを実現なさいました。 私たちは日々の生活で、自分たちが持つものの足りなさに目を奪われがちです。しかし、主が共におられるなら、そこは神の国の祝宴の場となります。きょうも主の憐れみに全幅の信頼を寄せ、御手からあふれ出る霊の糧を感謝して受け取りましょう。 【祈り】 主よ、あなたこそが憐れみ深いまことの養い主であることを信じます。

  35. 966

    神によって共に座る恵みと喜び(詩編 133編)

    見よ、兄弟が共に座っている。 なんという恵み、なんという喜び。 (詩編133編1節) 「共に座る」ことは、どれほど大きな恵みであり、喜びでしょうか。たとえば、劇場や競技場、あるいは食堂などで誰かと共に座ることは、日常的によくあることです。親しい人と共に座ることも確かに喜びでしょう。 しかし、ここで詩人が語っているのは、単なる同席ではありません。共に座っている人は、たとえ好みが違っても、あるいはそれまで一度も会ったことがなくても、自分と同じ信仰を言い表している人なのです。彼らが特定の場所に共に座っていることも重要です。「シオンで、主は布告された、祝福と、とこしえの命を」とあります(3節)。そこは、主が臨在しておられ、主の祝福ととこしえの命が布告された場所であるシオンです。彼らは一緒に神礼拝をささげて、共に座っています。共に座る隣の人は、神に選ばれた民であり、同じ信仰を告白し、神を賛美し、主の御言葉に耳を傾ける人びとです。ダビデは彼らを主にある兄弟姉妹と呼び、その美しさに感動して、「見よ、兄弟が共に座っている。何という恵み、なんという喜び」と歌っているのです。 神御自身が、私たちを召し出して、兄弟姉妹として結び合わせ、共に礼拝する民として造り上げてくださいます。ダビデが感じたように、今、私たちも、礼拝をとおして恵みと喜びを味わう者とされています。 【祈り】 主よ、あなたに召されて共に礼拝する恵みと喜びで満たしてください。

  36. 965

    神に委ね神を信頼する人の祈り(列王記下 20章)

    「ああ、主よ、わたしがまことを尽くし、ひたむきな心をもって御前を歩み、御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起こしてください。」 (列王記下20章3節) ヒゼキヤは病になります。そのとき、アッシリアの脅威がエルサレムに迫っていました。預言者イザヤから死の宣告を聞いた彼は、顔を壁に向け、涙ながらに「ああ、主よ、わたしがまことを尽くし、ひたむきな心をもって御前を歩み、御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起こしてください」と主なる神に祈ります。 壁に顔を向ける彼の姿は、ただ神だけを見つめること、また彼の祈りは、神に依り頼み、堅く信頼して生きる人としてのふさわしさを示します。国の危機と共に、自らの命が尽きると聞いた彼は、自らの力で打開するのでも神に文句を言うのでもなく、神の御前に出て、謙遜になり、神との交わりを求めました。帰ろうとしていたイザヤから、三日目に神殿に上れること、寿命を十五年延ばすこと、アッシリアからエルサレムを救い出すこと、という神の言葉が伝えられるのです。 命は神の御手の中にあり、人がかかわることができない領域です。それゆえに人は神から与えられている命への感謝を覚えます。また神を礼拝できる喜びによって心が満たされるのです。ヒゼキヤの祈りのとおり、私たちは、愛と恵みに満ちた神の御前に謙遜になり、ただひたすらに神の御心を祈り求めたいと願うのです。 【祈り】 神よ、私たちが、ひたすらにあなたへと心を向け、あなたを信頼し、生きる者としてください。

  37. 964

    祈りに応える主の救い(列王記下 19章)

    「わたしはこの都を守り抜いて救う。わたし自らのために、わが僕ダビデのために。」 (列王記下19章34) エルサレムは、アッシリアの大軍に包囲されていました。このとき、ヒゼキヤの心は恐れと不安に襲われていたはずです。ラブ・シャケが神を冒涜したことを家臣から聞いた彼は衣を裂き、粗布を身にまとい、主の神殿に行きます。また彼は預言者イザヤのもとへ家臣を向かわせ、主の託宣を求めます。イザヤは、「わたしを冒涜する言葉を聞いても、恐れてはならない。…彼の中に霊を送り、彼がうわさを聞いて…引き返すようにする」という神の言葉を伝えます。 ヒゼキヤは主の神殿にのぼり、主なる神へ祈ります。祈りを聞いた神はイザヤを彼のもとに遣わし、「彼がこの都に入城することはない、…わたしはこの都を守り抜いて救う。わたし自らのために、わが僕ダビデのために」と言われます。その言葉のとおり、主の御使いが多くの兵士を撃ち、アッシリア王はエルサレムの包囲を解き、ニネベへと向かうのです。 人は目の前に大きな試練や苦難に襲われると自らの力で耐え抜き、乗り越えようとします。しかし、人の力ではどうにもならないことが多々あります。ヒゼキヤの祈りは、試練や困難にあるとき、頼るべき方は主なる神であることを示します。神は、御前に身を屈める者の全き信頼による祈りに応えてくださるお方なのです。 【祈り】 神よ、日々の歩みにおいて、私たちが全き信頼をもってあなたへと祈ることができますように。

  38. 963

    信仰に生きる王の姿(列王記下 18章)

    彼はイスラエルの神、主に依り頼んだ。その後ユダのすべての王の中で彼のような王はなく、また彼の前にもなかった。 (列王記下18章5節) ここではヒゼキヤ王の物語が記されています。彼の父親であるアハズ王は異教の神を拝み、諸国の民の忌むべき習慣に倣った人でした。しかし、ヒゼキヤは、その父親とはまったく異なり、主なる神を全面的に信頼し、主の戒めを守る人でした。それゆえに彼は、父親が行ってきた宗教面の事柄を刷新していきます。 彼の人生はまさに神を中心とするものでした。神を中心に生きる彼の企ては良い結果に導かれました。それは神が彼と共におられたからです。彼は、強国アッシリアに刃向かい、服従することはありませんでした。加えてペリシテ人に勝利し、長い間失っていた領地を回復するのです。 人生において上手く行っていたヒゼキヤの前に強国アッシリアの大軍が攻め込み、ユダの町をことごとく占領します。アッシリアの高官ラブ・シャケは、主なる神など頼りにならない、と神を冒涜します。これに対して家臣たちは神への冒涜に憤り、衣を裂きます。民も家臣もヒゼキヤの生き方を通して神の真実さと確かさを感じ、彼らもまた神を信頼していました。神は信じる人の生き方を通してご自身のことを伝えられるお方です。私たちもまた、主を依り頼む歩みをとおして、神の栄光をあらわす者でありたいと願うのです。 【祈り】 神よ、私たちが信仰者として、人生のあらゆる場面において、ふさわしい生き方ができますように。

  39. 962

    滅びから救いへの招き(列王記下 17章)

    「大いなる力と伸ばした腕をもってあなたたちをエジプトの地から導き上った主にのみ畏れを抱き、その前にひれ伏し、いけにえをささげよ。」 (列王記下17章36節) この章で北イスラエル王国が滅びます。その理由を、聖書は、北イスラエルが主なる神をふさわしくない仕方で礼拝し、異国の神々を礼拝したから、としています。北イスラエルは、神が、それらを禁じられているにもかかわらず、主なる神の戒めを軽んじ、異教の神々を拝み続けました。 神はご自身に立ち帰らせるために、預言者を通して北イスラエル王国へ警告し続けました。しかし、北イスラエルは、神に立ち帰ることを拒みました。それゆえに神は、怒りの裁きをくだされるのです。ホシェア王の時代、アッシリア王シャルマナサルが北イスラエルへ攻め込みました。彼は三年間、サマリアを包囲したあと、占領します。王や民たちは捕まり、アッシリアへ連れて行かれるのです。 北イスラエル王国は、神に対して犯し続ける罪を悔い改め、立ち帰るように招かれましたが、しかし、それを拒み続け、最後は、神の怒りの裁きがくだり、滅びます。神に立ち帰らなければ、待っているのは神の怒りの裁きによる滅びです。しかし、神は、頑なで罪深い人を見捨てることなく、罪からの救いをもたらすメシアの到来の希望を与えてくださっています。愛と憐れみに富まれる主なる神は、人を滅びではなく、救いへと招いてくださっているのです。 【祈り】 神よ、私たちが異教の世界へ、まことの神から与えられた福音を宣べ伝えることができますように。

  40. 961

    恐れが生んだ偶像礼拝(列王記下 16章)

    「わたしはあなたの僕、あなたの子です。どうか上って来て、わたしに立ち向かうアラムの王とイスラエルの王の手から、わたしを救い出してください。」 (列王記下16章7節) アハズ王はダビデの道ではなく、イスラエルの王たちの道を歩み、偶像礼拝を行いました。また北イスラエルとアラムがエルサレムを攻めようとすると、彼は「わたしはあなたの僕、あなたの子です」と言い、大国アッシリアに助けを求めます。預言者イザヤは、それを諫め、神に従うように言いますが、しかし、アハズは従いませんでした。 アッシリアの助けによって危機を乗り越えることができたアハズは、アッシリア王ティグラト・ピレセルに会いにダマスコへ行きます。そこで彼は、ダマスコにある祭壇を見て、それを主の神殿に作らせます。彼は、神殿での礼拝を自分勝手な思いで変えてしまったのです。 礼拝が神と人との会見、交わりの時であることを忘れてしまい、世のことや人の思いに偏ってしまったとき、それは御心にかなわないものとなります。時に私たちは、世を恐れ、神の御心にかなわないことをしてしまいます。神は、御言葉によって、そのような私たちが罪から離れ、御心にかなう道へと導いてくださいます。日々、私たちが信頼を置くべき方は主イエスです。たとえ逆境の中にあったとしても、神が共におられるという確信に立ち、真の礼拝を献げることへと導かれたいと願うのです。 【祈り】 神よ、私たちが、あなたへの全き信頼をもって、真の礼拝を献げる人となりますように。

  41. 960

    小さなものから始まる天の国(マタイによる福音書 13章31-33節、44-52節)

    「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり…」 (マタイによる福音書13章31節~32節) 高校生の頃、自分が通っていた母教会の牧師先生が聖地旅行から帰って来て、からし種が入ったしおりをプレゼントしてくださいました。からし種は十粒ほど入っていましたが、それは今まで見た植物の種の中でももっとも小さな種でした。自分の息だけでも飛ばされそうだったので、息をこらえながら見つめた覚えがあります。 主イエスは、天の国はこの「からし種に似ている」と語られました。天の国がこのような小さな形で、その存在すら分からないように始まるということです。しかし、それが大きく成長すると、空の鳥が来てその枝に巣を作るほど大きな木となる、つまり、天の国はこのようなものであると、主イエスは語られました。 確かに、私たちの信仰も、私たちの教会も、最初から強く、大きかったのではありません。フッと息を出せば飛ばされてしまいそうな小さく弱い信仰でした。しかし、それはやがて驚くほど強くて大きな信仰の群れとなり、この世において天の国が早く来るように励んでいます。 わたしの小さな信仰を強く、大きく育んでくださる神の御業を信頼して、きょうも与えられた一日を、信仰をもって歩んで行きたいと切に願います。 【祈り】 弱くて小さな信仰ですが、これを強くて大きくしてくださる神に信頼して歩むことができますように。

  42. 959

    主を迎える場所を整えて待つ喜び(詩編 132編)

    主よ、立ち上がり あなたの憩いの地にお進みください あなたご自身も、そして御力を示す神の箱も。 (詩編132編8節) きょうの詩編の冒頭で、詩人はダビデの謙虚さを御心に留めてくださいと主に願います。ここで言うダビデの謙虚さとは、主のいます場所を熱心に準備することです。ここで詩編は、かつてペリシテ軍に主の契約の箱が奪われたときに、ダビデがエフラタに捨て置かれた主の箱を迎えに行った出来事を思い起こします(代上13、15章)。ダビデは主の箱のために場所を整え、天幕を張り、イスラエルの長老たちと千人隊長と共に行き、主の契約の箱を運び入れたのでした。その際、箱を担ぐ祭司やレビ人らは自らを聖別してその任につきました。そして民は喜びの叫びをあげて主の箱が礼拝する場所に備えられるのを迎え入れたのでした。 もちろんこの詩編の詩人は後代の人物ですが、ダビデの謙虚さに応えて彼と結ばれた契約と御自身がシオンを「永遠にわたしの憩いの地」とするという定めとを思い起こして、今献げる礼拝にも、主が共にいてくださるようにと願っているのです。 私たちもまた、御子イエス・キリストにおいて結ばれた恵みの契約と、「霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である」という定めに期待し(ヨハ4章23節)、きょう、礼拝の準備を熱心になして、喜んで主の日を迎えましょう。 【祈り】 主の日の礼拝にあなたが共にいてくださることを待ち望みつつ、きょうをふさわしく過ごさせてください。

  43. 958

    五十周年宣言キリストに選ばれた民(ローマの信徒への手紙 8章39節)

    …他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。 (ローマの信徒への手紙8:39) 「五十周年記念宣言(以下、「宣言」)」は、「予定の信仰についての宣言」と「伝道の宣言」から成ります。 「予定論」ほど誤解を引き起こしつつ、しかし教会と信仰者に真の慰めを与えてきた教理はないでしょう。「宣言」は、「キリスト」を重ねることにおいてその誤解から解放してくれます。「神は、…わたしたちをキリストにあって救いに選ばれました」、「キリストこそが、選びの確かさの根拠であり、またわたしたちがそこで自分の選びを見つめる鏡です」。 神の選びは、キリストを根拠とするからこそ、救いが善きものであり、救われた者の生涯が神の愛に満ちたものであり、その命が滅びに落ちることなく、安心で確かなものであると、教会は慰めを受けることができます。 そして、伝道は、このキリストにある神の選びと救いを伝えることにほかなりません。あなたは神に選ばれた民であると。伝道は、教会が選びの民を見つけ、キリストの救いに気づいていただくことです。「キリストにある選びの信仰は、伝道への意欲を弱めるどころか勇気と確信と力を与えます」。「わたしたちは、キリストにならって、この愛の業にはげみます」。 【祈り】 「あなたの御前で、憐れみを悟り、謙遜へと導かれ、永遠の救いを確信し、慰めと望みと勇気に満たされますように。さらに…自分の体を生きた供え物として献げて、あなたの栄光を現すことができますように。」

  44. 957

    悲しみを喜びに変える十字架(ヨハネによる福音書 16章)

    「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」 (ヨハネによる福音書16章33節) 主イエスは、「その悲しみは喜びに変わる」と、心を引き裂く深い悲しみさえ喜びへと変えられるのだと約束しておられます(20節)。それは、産みの苦しみを上回る新しい生命の誕生の喜びにたとえられます。悲しみの淵に立っていた者が、喜びに生きる者へと変えられるのです。 これは、主が「既に世に勝っている」ゆえに起こることです。主の勝利によって、私たちの悲しみは喜びへと変えられていきます。主の勝利とは十字架の出来事を指します。主が十字架にかかられたとき、世の人びとはその姿をあざけりました。また、弟子たちは恐れに囚われ逃げ去ってしまいました。誰の目にも、十字架は主イエスの敗北のように見えたのです。しかし主は、十字架にかかり死なれたことで、死を内側から打ち破られました。この十字架こそが主の真の勝利なのです。 主が死なれたとき、弟子たちは悲しみと恐れに囚われて、十字架の意味をすぐに理解できませんでした。しかしやがて、主の復活後、聖霊に助けられて主を大胆に証しする者へと変えられました。主の十字架が、彼らを喜びに生きる者へと造り変えたのです。私たちもまた、主の十字架によって、既に世の苦難に勝利しています。喜びに生きる者とされたのです。 【祈り】 主の十字架こそわが勝利。主が命をかけてわたしを喜びで満たしてくださったことを感謝します。

  45. 956

    主はあなたを愛することを選ばれた(ヨハネによる福音書 15章)

    「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」 (ヨハネによる福音書15章16節) 友を愛するとは、なんと難しいことでしょうか。「互いに愛し合いなさい」(12節)という主の命令は、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(13節)という言葉によって、さらに重みを増し、いっそう困難に感じられます。実践しようとするたびに、どれほど挫折を繰り返してきたことでしょう。 そのように、この命令の前に立ち尽くす私たちに向けて、主が続けて語られたのが16節の御言葉です。主イエスは、多くの人びとの中から、私たちを愛することを選んでくださいました。私たちは自分の熱心や努力だけでは、すぐに勢いを失ってしまいます。しかし、主が私たちを選び、変わらず愛し続けてくださったからこそ、その愛に支えられて信仰の道を歩み続けることができたのです。 主の選びと愛は私たちを大いに励まします。友への愛は、自分の中から無理に絞りだすものではなく、主の内からあふれ出てくるものだと教えられるからです。私たちは実行不可能な命令を課されたのではありません。むしろ、主の愛に満たされることによって、友を愛する者へと変えられたのです。私たちが主の愛に生き、また私たちをとおして友が主の愛に生きるため、主は私たちを愛することを選んでくださったのです。 【祈り】 主の選びと愛に感謝します。どうか主の愛がわたしの内に満ち、わたしから友にまであふれますように。

  46. 955

    死の先まで安心できる主イエスの道(ヨハネによる福音書 14章)

    「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」 (ヨハネによる福音書14章6節) 以前、長距離マラソンの大会へ参加したことがあります。夜通し続く大会で、半日以上かけてようやくゴールに到着しました。最初のうちは元気でしたが、中盤以降は「早く終わってほしい」と願うばかりでした。それでもゴールが近づくにつれ、「あと少し、あと少し」と自分を励ましながら前へ進むことができました。 私たちの人生はしばしば道にたとえられます。その道にもゴールがありますが、遥か彼方にあって見ることはできません。この道は死によって終わりますが、それがいつ、どのように訪れるのかは誰にも分かりません。ゴールが見える道ならまだしも、終わりの見えない道を歩むことは楽ではなく、不安や恐れが伴います。 その私たちに向けて、主イエスはこの御言葉を語られました。主は死の本当の恐ろしさを経験されたお方です。私たちが恐れている、まだ知らない道の先をすでにご存じです。そのお方が、私たちの歩む道を守ってくださいます。この道は主イエスがたどられた道であり、また主イエス御自身でもあります。主が命をかけて整えてくださった道であり、死の先まで安心して歩むことのできる道です。決して孤独ではなく、主が共に歩み支えてくださる道です。きょうもこの道を主と共に歩みましょう。 【祈り】 主よ、きょうも死の先に至るまでも、あなたが共にいて守ってくださることを感謝します。

  47. 954

    自分を捨てるまことのへりくだり(ヨハネによる福音書 13章)

    「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」 (ヨハネによる福音書13章14節) 主イエスは弟子たちの模範として彼らの足を洗われました。そして、「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と命じられます(14節)。私たちも、この主の命令を受け、教会や家庭など、さまざまな場で互いに仕え合います。それはとても大切で、尊いことです。 しかし、この主の命令は、単に足を洗い合うことや仕え合うことだけを求めているのではありません。主は、弟子たちをこの上なく愛し抜かれたからこそ(1節)、彼らの足を洗われました。その行為によって、へりくだるとは何かを示されたのです。 当時、足を洗うのは奴隷の務めでした。主であり師である方が、御自分の僕や弟子より低い立場に身を置くことは、本来許されないことでした。しかし主は、御自分がどう見られるかよりも、弟子たちへの愛とへりくだりを優先されたのです。 それは、やがて訪れる十字架の死の意味を悟らせるためでした。主は御自分の願いではなく、父の御心を優先させて十字架にかかられます。真のへりくだりとは、自分を捨てることであると示されたのです。主は私たちを罪から救うだけでなく、救われた者としてどのように生きていくべきかを、その十字架の死によって教えてくださったのです。 【祈り】 主が命をかけて示された、自分を捨てるという真のへりくだりに、わたしも生きることができますように。

  48. 953

    太陽のように輝く(マタイによる福音書 13章24-30節、36-43節)

    「そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」 (マタイによる福音書13章43節) さまざまなニュースをとおして、私たちは一向に減ることのない犯罪の知らせを聞きます。また、毎日のように詐欺と疑われるような電話やメールを直接受け取ることもあります。信仰に生きる私たちにとって、「どうしてこのような犯罪は減らないのか」、「神はどうして彼らをそのままほったらかしておられるのか」と思ってしまうほどです。 しかし、神は何もしておられないわけではありません。悪い者が世の中を支配しないように、良い実を結ぶことができるような良い種をたくさん蒔いてくださいます。また、良い種が良い実を結ぶことができるように最後まで見守ってくださいます。 育ったものの中には良い実のみがあるのではなく、悪い毒麦も混ざっています。でも、心配は無用です。この悪い毒麦はいずれ世の終わりの時が近づくと神の裁きを受けるからです。それは、イエス・キリストに結ばれて、神の御心に従って生きる者を、神の国において太陽のように輝かせるためです。 今はまだ世界に多くの毒麦があり、悲しむことも多いのですが、神がやがて必ずこれらの毒麦を集めて火に投げ込んでくださることを信頼して、神の御心に従って生きる一日となりますようにお祈りいたします。 【祈り】 暗い世の中を嘆くより、必ずや太陽のように輝く日を与えてくださる神を信頼することができますように。

  49. 952

    沈黙と謙遜の中で主を待ち望め(詩編 131編)

    わたしの魂を、幼子のように 母の胸にいる幼子のようにします。 イスラエルよ、主を待ち望め。 今も、そしてとこしえに。 (詩編131編2節~3節) きょうの詩編の冒頭で、詩人は、主に対して驕ることも高慢になることもしませんでしたと述べます。驕りや高慢が、堕落や破滅を身に招くことを聖書は何度も語っています。詩人はそのことに気をつけつつ、主の御前に小さな存在としての自分を自覚して生きてきました。また、能力を超えた大事業に関わることもしなかったと自分の人生を振り返ります。周囲の人びとの目を引いたり、後世に名を残したりするようなことはなく、ごくごく平凡な日常を過ごしてきたのでしょう。主の御前に静かに額ずく信仰者の姿がここにあります。 その彼の願いは、魂を「幼子のように」することでした。この言葉が二度繰り返されます。乳離れした子どもが、親の差し出す食べ物を自分で噛み締めて栄養とし、成長する姿が想起されています。つまり自らを、主が差し出す霊的な食物である御言葉の養いなくして生きていけない存在として自覚し、いっそう御言葉を慕い求め、それを糧として生きていこうと決意しているのです。ここに御言葉を待ち望むすべての神の民の姿があります。 明日の主の日の礼拝を前にして、忙しく過ごす手と魂を休め、一人静かに祈りつつ、また御言葉を慕い求めつつ、主を待ち望みましょう。 【祈り】 小さなわたしに目を留めてくださる主よ、御言葉をとおして語ってくださるあなたを待ち望みます。

  50. 951

    目で見ず心で悟らず立ち帰らない(ヨハネによる福音書 12章)

    「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」 (ヨハネによる福音書12章36節) 主イエスがラザロを生き返らせたことは、主イエスがメシアであることの決定的な「しるし」でした。目撃した人びとはその奇跡を広め、大勢の群衆はエルサレムに入城する主イエスをなつめやしの枝を振って歓迎しました。それは、敵対していたファリサイ派の人びとも「何をしても無駄だ」とあきらめるほどでした。 しかし、群衆の期待は、イスラエル民族の解放であり、この世的な救いだったのです。主イエスが「一粒の麦は、地に落ちて…死ねば、多くの実を結ぶ」と語り(24節)、また「人の子は上げられなければならない」と告げて(34節)、御自身の十字架の死を予告したとき、たちまち彼らの心は離れていきました。福音書は、イザヤ書を引用して「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた」と言い(40節)、旧約の預言が成就したのだと示します。彼らは目で見ず心で悟らなかったのです。 神の言葉は、私たちを救いに導く福音であり、喜びへの招きです。しかし一方で、これを信じないなら決して救われることはないと告げる裁きの言葉でもあります。主イエスは、御自身が十字架の上に上げられ、さらに天に上げられるとき、すべての人を引き寄せると言われました(32節)。主イエスのこの真実な招きに、きょうお応えしましょう。 【祈り】 主イエスをしっかりと見て、心で信じることができますように。

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