リジョイス聖書日課

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リジョイス聖書日課

リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

  1. 1000

    すべてを整えてくださる主(列王記上 5章)

    「主が父ダビデに、『わたしがあなたに代えて王座につかせるあなたの子が、わたしの名のために家を建てる』と言われたからです。」 (列王記上5章19節) ティルスの王ヒラムは、ダビデの次の王が決まったことを聞き、家臣を遣わしました。ヒラムはダビデと友好関係にあったからでした。ソロモンも使節を遣わして、こう言わせます。主は、父ダビデではなく、ソロモンに神殿を建てさせると言われました。その主のことばが実現させられるために、わたしソロモンは、神殿を建てようと思います、と。するとヒラムはソロモンのことばを聞いて、主はたたえられますようにと言って大いに喜びました。 ティルス(ヒラムの家)の食糧、小麦約四千六百トン、オリーブ油約四千六百キログラムをソロモンがヒラムに提供し、レバノン杉と糸杉の木材をヒラムがソロモンに提供することで、二人の間に友好的な条約が結ばれました。ティルスとイスラエルが共同して、木材と石材を切ったり運んだりして、神殿建築の木材と石材が整ったのでした。 これらは主が、ダビデに約束されていたことでした。それが今、時満ちてソロモンを通して、実現しようとしています。しかし、これらは彼らの働きではなく、すべて主が整えてくださったことです。主の働きによってすべては整えられました。 今も、生きて働いておられ、私たちを整えておられる主をほめたたえましょう。 【祈り】 主よ、どうか私たちを整えてお守りください。

  2. 999

    必ず実現する主の約束(列王記上 4章)

    ソロモン王は全イスラエルの王となった。…ユダとイスラエルの人々は海辺の砂のように数が多かった。 (列王記上4章1節、20節) ソロモンはいよいよ全イスラエルの王となりました。それはソロモンの支配が国中に及び、組織が整ったことを意味します。まず、現在の内閣にあたる行政組織をつくります。それが祭司・書記官・軍の司令官・知事の監督・労役の監督となり、これはダビデの組織を継承しています。そして、ソロモンは地方組織、十二人の地方の知事を任命しています。これは全国から王室のために年貢を徴収するための組織の責任者でありました。このしっかりした組織の統治のゆえに、イスラエルは繁栄することになります。経済はもちろんのこと、イスラエルの人口も海辺の砂のように数が多く増えました。海辺の砂のようにという言い方は、神がアブラハムたちになさった祝福の約束の言い方です(創22章17節、32章13節参照)。まさにこの約束がソロモンの時に実現したことを意味するのではないでしょうか。 ソロモンは王となって組織を整え、それにおいて人口が海辺の砂のように多くなりました。これは、単にソロモンが組織を整えたからではなく、永遠の昔から主なる神が、約束されたことを実現されたからです。このように長い年月をかけて、主は言われたことを必ず実現されます。必ず実現される主をほめたたえ、いっそう主の御業に寄りすがりましょう。 【祈り】 主よ、あなたの約束がきょうも実現されますように。

  3. 998

    神の知恵において生かされる(列王記上 3章)

    王の下した裁きを聞いて、イスラエルの人々は皆、王を畏れ敬うようになった。神の知恵が王のうちにあって、正しい裁きを行うのを見たからである。 (列王記上3章28節) ソロモンが為政者としての知恵を求めると主は喜ばれ、主の知恵が与えられます。すると、ソロモンのところに二人の女性が現れます。ある女の人は寝ている赤ちゃんに寄りかかったために、その赤ちゃんが死んでしまいました。するとこの女の人が生きている赤ちゃんを死んでしまった赤ちゃんと取り替えてしまいました。そしてこの二人はどちらが本物の母親かということでソロモンに訴えるのでした。 ソロモンは、剣をもって来させ、半分に分け与えよ、と言います。たまらず、本物の母親は、生かしたままあの女にあげてください、と言います。別の女は、ソロモンの言うとおりにすべきだと言うのでした。するとソロモンは、その子を殺してはいけないと言った女に赤ちゃんを返しました。このさばきを聞いて、イスラエルの人たちは皆、王を畏れ敬うようになったのでした。 彼らが王を畏れ敬うようになったのは、彼が人間の知恵において正しくさばいたからではなく、神の知恵が彼をとおして明らかになったからでした。彼らは王を畏れ敬うと同時に主をほめたたえたと思います。主の知恵を見たからです。私たちも主の知恵をいただいていると信じ、これからも主の知恵を与えてくださいと祈り、主をほめたたえましょう。 【祈り】 主よ、どうか私たちに、きょうも主の知恵をお与えください。

  4. 997

    あなたは勇ましく雄々しくあれ(列王記上 2章)

    「あなたは勇ましく雄々しくあれ。あなたの神、主の務めを守ってその道を歩み、モーセの律法に記されているとおり、主の掟と戒めと法と定めを守れ。」 (列王記上2章2節~3節) 死期が近づいたダビデ王は、王子ソロモンに最後のことばを伝えます。主の務めを守ってその道を歩むこと、そしてモーセの律法に記されているとおり、主の掟と戒めと法を守るようにと伝えました。さらに主の掟と務めを守ることで、何を行っても、どこに向かっても良い成果をあげることができ、イスラエルの王座につく者が断たれることはないとダビデはソロモンに伝えたのでした。そのような意味において、ダビデはソロモンに向かって「あなたは勇ましく雄々しくあれ」と言います。 雄々しくあれとは、本来恐れずに困難に向かっていくさまでありますが、戦争や戦いに勇ましくあれというのではありません。また、単に自ら立ち向かうことでもありません。主の務めを守って、その道を進むこと、主の掟と戒めを守り続けること、つまり、神のみことば(主の掟と戒め)を信じて、従い続けて生きることこそ、「雄々しくあれ」であります。 私たちはこの地上の生活で神のことばに従うなかで、さまざまな困難や壁に当たります。そのようなことを神さまはご存じで、さらに私たちにその賜物を与えてくださったうえで、ソロモンに、そして私たちに、「勇ましく雄々しく生きよ」とおっしゃるのです。 【祈り】 主よ、どうかこれからも私たちがあなたのみことばに聞き従えるように、この私たちをお導きください。

  5. 996

    主は生きて私たちに働かれている(列王記上 1章)

    「わたしの命をあらゆる苦しみから救ってくださった主は生きておられる。あなたの子ソロモンがわたしの跡を継いで王となり、…」 (列王記上1章29節~30節) ダビデ王が老人になり、まもなく天に召されようとするときに、ハギトの子アドニヤが思い上がって、自分が王になると言って行動を起こしました。それを知った預言者ナタンは、ソロモンの母バト・シェバに、ソロモンが次の王になることをダビデ王に確認するよう言いました。 バド・シェバがダビデ王にそれを尋ねると、ナタンがその会話に入り、「王は、だれが御自分の跡を継いで王座につくのか、僕たちにお知らせになっていません」と言います(27節)。するとダビデ王は、「主は生きておられる。(ソロモンを次の王とすると)主にかけてあなたに立てた誓いをわたしは今日実行する」と宣言しました。この宣言において、ソロモンは油注がれ、正式な次の王となりました。 ダビデは、数々の苦しみを経験しました。それを乗り越えられたのは、自分の力ではなく、主が共におられ、生きて働いて救ってくださったからでした。この思いを込めて、ダビデは、ソロモンを次の王にしたのでした。これは主がソロモンを王にしたという宣言です。主は生きておられる。生きておられるとは、じっとして何もしない神ではなく、具体的に働かれることです。主が生きておられるから、私たちは今、守られているのです。 【祈り】 生きて働いておられる私たちの主よ、どうかこれからも私たちのために生きて働かれますように。

  6. 995

    弁護者慰め主聖霊(ヨハネによる福音書 14章15-31節)

    「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」 (ヨハネによる福音書14章16節) ヨハネによる福音書14章の前半で御父との関係について教えられた主イエスは、きょうの個所でご自身と聖霊との関係を語られます。場所を用意しに行かれるキリストから離れる弟子たちの心配と不安は、御父と御子を信じる信仰によって慰められます。それから、主イエスは弁護者なる聖霊の降臨を約束されます。弁護者というギリシア語のパラクレートスは「慰め主」という意味です。ここには慰め主を送ることによって、弟子たちを決して見捨てないという主イエスの約束が語られています。 そして、主イエスは聖霊を「真理の霊」として紹介しながら、聖霊のお働きによって弟子たちがキリストの掟を守るようになるとおっしゃいます。つまり、聖霊に教えられないと誰もキリストの掟を守ることができないということです。私たちには真理へ導いてくださる御霊が必要です。あらゆる人びとは聖霊を通してまことの真理を知り、キリストの掟を守ることへと導かれる必要があります。 それから、主イエスはご自身の平和を約束されます(27節)。キリスト者にとって、キリストの平和は最高の祝福であり、喜びです。それゆえ、主イエスは、聖霊において、「心を騒がせるな。おびえるな」と私たちを慰められます。 【祈り】 私たちが真理に基づいて愛の業に励み、教会の一致に力を入れることができるよう導いてください。

  7. 994

    わたしは神の前で大切だから(箴言 23章)

    わが子よ、あなたの心をわたしにゆだねよ。 喜んでわたしの道に目を向けよ。 (箴言23章26節) 23章冒頭では、一見脈略なく見える言葉が、中心的な教えを取り囲んでいます。支配者の家で目の前に並んだ豪華なごちそう、不正に目をつぶればすぐにでも手に入りそうな土地、正しくない思いをもって魅惑的にささやきかける異性、美しく輝くおいしそうな酒を満たした杯。  もちろん、その教えは神の御前で恵まれた人生を送るため、という基準で語られています。15節には「わが子よ、あなたの心が知恵を得れば」とあり、さらに17節では「日ごと、主を畏れることに心を燃やすがよい」とあります。ここでも最高の知恵は、主を畏れることです。それゆえ、「わが子よ、聞き従って知恵を得よ」とも戒めていますし、さらに「道をまっすぐに進むようにせよ」と続きます。 後半では、道を誤らせるものとしての飲酒への警告が語られます。その描写はリアルです。「不幸なものは誰か、嘆かわしいものは誰か、いさかいの絶えぬ者は誰か、愚痴を言う者は誰か、理由なく傷だらけになっているのは誰か…」。自分ばかり見つめ、不幸を紛らわせようと酒を飲めば、さらに不幸になります。 しかし、神は誰であれ、「わが子よ、あなたの心をわたしにゆだねよ。喜んでわたしの道に目を向けよ」と招いてくださいます。 【祈り】 神よ、あなたは私たちを愛し、御心に留め、壊れやすい心を取り扱ってくださいますから感謝します。

  8. 993

    再臨の主を待ち望んで希望に生きる(ペトロの手紙二 3章)

    しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。 (ペトロの手紙二3章13節) 偽教師たちは、主イエス・キリストの再臨を否定していたようです。彼らは、「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか」と言います(4節)。「主が来るという約束」とは、復活して天に挙げられた主イエス・キリストが生きている者と死んだ者とを裁くために再び来られる約束です。彼らは、何も変わらないではないかと言って、約束そのものを拒んでしまいます。 ペトロは、「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、…忍耐しておられるのです」と語ります(9節)。主は、一人でも多くの人が悔い改めるように、忍耐強く待っておられます。ですから、約束が遅れているのでも約束がむなしいのでもありません。私たちも忍耐強く待ち望みます。 「しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい」(13、14節)。「平和に過ごす」とは、キリストの贖いによって与えられた神との平和に固く立つことです。平和の主であるイエス・キリストの再臨こそ、私たちの希望なのです。 【祈り】 主の再臨を待ち望み、あなたの御心に生きることができますように。

  9. 992

    偽教師に惑わされることなく(ペトロの手紙二 2章)

    かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません。 (ペトロの手紙二2章1節) 「かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました」(1節)。主イエスは、偽預言者が現れて、選ばれた人たちを惑わそうとするとおっしゃいました(マコ13章22節参照)。それがここで言われる偽教師で、小アジアの教会は偽教師たちによって惑わされていたのです。 彼らは「滅びをもたらす異端」、すなわち間違った教えを教会に持ち込みました。主イエス・キリストの再臨を否定する教えだったようです。主イエス・キリストが生きている者と死んだ者とを裁くために天から再び来られることを否定し、人びとを自堕落で不道徳な生活へと誘惑しました。また、彼ら自身、強欲におぼれていて、それは、自分の身に速やかな滅びを招いているのです。ペトロは、ソドムとゴモラの例などを挙げて神の裁きを教え、彼らに惑わされることがないよう、人びとを諭します。 生けるまことの神は、私たちを愛して、独り子イエス・キリストさえ惜しまず与えてくださいました。その恵みに感謝して、再び来られるキリストを待ち望む信仰に固く立ち、身を慎んで歩んで参りましょう。 【祈り】 御言葉の真理に固く立ち、キリストに結ばれて生きることができるよう、誤った教えからお守りください。

  10. 991

    八十周年すべてを神の国のため(ルカによる福音書 12章22-34節)

    「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」 (ルカによる福音書12章32節) きょうは、日本キリスト改革派教会創立八十周年記念信徒大会の二日目です。八十周年宣言の朗読がなされます。この宣言は「ただ、神の国を求めなさい」(ルカ12章31節)との主イエスの御命令にひたむきに応じたいとの願いのもとに作られました。そして宣言全体を貫くのは、「きょうの聖句」に示された主の約束であり、その希望です。 私たちの教会は、ただ神の恵みと憐れみの御手によって命を拾っていただいた「小さな群れ」に過ぎない者たちです。しかしその無力な群れに、主の憐れみが注がれ続けてきました。そしてその無力な群れを通して、神の栄光があらわされてきました。大事なのは、私たちが自らの小ささや無力さにがっかりしてしまわないで、むしろ私たちに委ねられている絶大な役割に、どんなときでも自覚的であることです。この暗い世に光を掲げ、平和をつくり出し、宣教と愛の業をもって「神の国」を証しするのです。 世界の希望は、復活の主イエスにある。愛はここにある。人間の本当に生きる道、生かされる道はここにあると、全力で伝えるのです。私たちの目の前には、茫漠たる魂の荒れ野が広がっています。しかし神は、その荒れ野に光をもたらすためにこそ、私たちを選んでくださったのです。 【祈り】 命と平和に満ちた「神の国」が打ち建てられるために、どうか主よ、私たちがささげる一切を用いてください。

  11. 990

    八十周年初めの愛に立ち戻れ(ヨハネの黙示録 2章1-7節)

    「あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。」 (ヨハネの黙示録2章4節~5節) 本日より二日間、香川県の四国学院大学を会場に、日本キリスト改革派教会創立八十周年記念信徒大会が開催されます。集うことのできる方もできない方も、この記念の日を機会として祈りを合わせ、神に感謝と賛美をささげましょう。そして新たな熱心と一致をもって、ここから先へと進ませていただきましょう。 この八十年の歩みを振り返れば、順風満帆だった時など、一時もなかったはずです。荒廃焦土に誕生した小さな小さな教会であった私たちは、はじめから吹きすさぶ逆風の中を進んできました。自らの罪によって招き寄せた困難もたくさんありました。神の御前に申し訳が立たないような負の歴史も刻みました。しかしそのような私たちの教会が、ただ神の深い憐れみと赦しによって歴史を刻ませていただいてきたのです。 祈りの中で示されたのはこの御言葉です。「あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ」。 もう一度、ただ主を愛し、信頼し、従いゆく、そこから始めましょう。 【祈り】 八十年の間、どんな時も共にいてくださったあなたが、これからも共にいてくださる。だから恐れません。

  12. 989

    力を尽くして信仰に生きる(ペトロの手紙二 1章)

    …力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。 (ペトロの手紙二1章5節~7節) ペトロの手紙二は、小アジアの異邦人のキリスト者にあてて書かれたものと思われます。ユダヤ人であるペトロたちも、異邦人である小アジアのキリスト者たちも、同じ尊い信仰を受けた、一つの民なのです。 ペトロは、神の恵みにあずかることができたキリスト者たちに対して、「だから、あなたがたは力を尽くして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には節制を、節制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい」と述べています(聖書協会共同訳)。この聖句は「信仰」から始まり、「愛」で終わっています。ここでの愛は、神の無償の愛、アガペーです。私たちの節制や忍耐、敬虔は、神の愛に支えられています。イエス・キリストを信じる私たちは、永遠の御国に入るという希望に支えられて、神の愛を目指して成長していきます。 ペトロは、「これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、…わたしたちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう」と述べています(8節)。小アジアの教会には、偽教師たちに惑わされて、世の欲にまみれた腐敗にどっぷり浸かっている者たちがいました。ペトロは、そのようなことがないように、ただイエス・キリストに聞き従って成長するように勧めているのです。 【祈り】 天の父なる神様、あなたへの信仰と愛に生きることができますように。

  13. 988

    道・真理・命なる主イエス(ヨハネによる福音書 14章1-14節)

    イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」 (ヨハネによる福音書14章6節) 主イエスの十字架の道は、弟子たちにとって心配と不安を引き起こします。ペトロ(ヨハ13章36節)、トマス(14章5節)、そしてフィリポ(8節)も皆、「主よ」と呼んでいます。しかし、私たちは彼らが内に抱えている心配と不安の深さに気づかされます。それゆえ、主イエスは「心を騒がせるな」と弟子たちを慰められます。それからすぐ、「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と語られます(1節)。つまり、主イエスを信じることは神を信じることであり、主イエスを信じなくては神を信じられません。この世で慰められるのはキリストへの信仰のみです。 キリストへの信仰こそ、神に行く唯一の道です(6節)。主イエスこそ、真理と命の源なる神に至る唯一の道なのです。アダムの罪によって神に行く道が遮られましたが、主イエスの十字架の道を通して人類に新しい命・永遠の命が約束されたのです。 ここに、弟子たちが心配と不安を乗り越えられる秘訣が隠されています。キリストにつながる弟子たちの命は決して滅びません。これが今日、私たちキリスト者にも与えられる希望です。それゆえ、私たちは主イエスのお約束どおり、「もっと大きな業」と「祈り」に慰められるのです(12~14節)。 【祈り】 主よ!慰め主よ!キリストへの信仰によってさまざまな不安と恐れを乗り越えさせてください。

  14. 987

    愛し愛されるのは金銀に勝る(箴言 22章)

    名誉は多くの富よりも望ましく 品位は金銀にまさる。 (箴言22章1節) 22章では、富める者と貧しい者のあり方が丁寧に語られています。2節では「金持ちと貧乏な人が出会う」とあり、さらに7節では、「金持ちが貧乏なものを支配する」とあります。知恵あるものが貧しいことも、愚かなものが金持ちであることもありうる、社会の現実がそのままに示されています。 問題はそのような現実に対して私たちがどのようにふるまうのかです。1節で「品位」と訳された言葉は、11節にも使われ、翻訳としては「好意、恩恵、温和」も可能です。1節は他者から愛されること、11節は他者への思いやりの意味ですが、このような生き方が神からの知恵と共に歩む人の特徴です。 それゆえ、9節では「寛大な人は祝福を受ける」とある一方で、16節では「弱者を搾取して自分を富ま」す者は「欠乏に陥る」と断定します。同様に22節では「弱い人を搾取するな」と命じられています。 6節ではこれを「若者」に教育せよ、とあります。すべての人生の初めに出会う二つの道、すなわち、知恵に従うか、愚かさに従うかを、はっきりと教えるようにと言います。私たちのすべての歩みは、主の前に明らかです。そして主は、私たちが知恵から来る温和さに生きるように導かれるのです。 【祈り】 神よ、キリストのヘリくだりによってあなたの守りと教えの中に生かされていることを感謝します。

  15. 986

    神の眼差しの前に誠実に生きる(ヨブ記 31章)

    神はわたしの道を見張り わたしの歩みをすべて数えておられるではないか (ヨブ記31章4節) この章は、ヨブが友人たちとの対話の後に、自身の苦難の理由を訴える最終的な弁論の締めくくりです。 ヨブは、自身の無実と潔白を神に誓って独白し、これまでの苦難が不正によるものではないと主張しています。彼は、自分が行ったかもしれない不正や、不正な思いを具体的に挙げ、もしそうした行為があれば罰を受けても構わないと誓っています。そのようにしてヨブは、信仰を貫いてきたことを証ししています。 1節でヨブは「わたしは自分の目と契約を結んでいる」と言い、心の中にさえ不義や欲望を宿さないよう努めてきたことを述べています。ここに、外面的な行為だけでなく、内面の純潔を重んじる信仰者の姿があります。ヨブの姿は、「神はわたしの道を見張り、わたしの歩みをすべて数えておられるではないか」という、神の前に生きる信仰に根ざしたものでした。そのようにして聖書は、自らの潔白を力強く主張しながら、苦しみの中でも自らの正しさを失わず、神の前に真実であろうとする信仰者としてヨブを描いています。 私たちもまたヨブのように、どのような苦難や試練の中でも、神が「わたしの歩みをすべて数えておられる」という、神の前に誠実に生きる者でありたいと思います。 【祈り】 主よ、どのような苦難の日にも、あなたの御前に、ヨブのように誠実に歩む者であらせてください。

  16. 985

    だが今はところが今は試練の時にも(ヨブ記 30章)

    神よ わたしはあなたに向かって叫んでいるのに あなたはお答えにならない。 (ヨブ記30章20節) 29章では、ヨブのかつての栄光の日々をしのび、続くこの章では、それと対比して現在の悲惨を嘆いています。かつてヨブは人びとから尊敬され、慕われていました。「だが今は」(1節)、「ところが今は」(9節)とヨブは繰り返します。今は、若い者らにも嘲笑われるようになってしまったのです。さらに、神に祈っても答えてくださらないと、孤独と絶望を感じています。その苦しみは身体的な痛みや精神的な悩みだけでなく、社会的なつらさや信仰的な苦しみをも含むものでした。 人びとからも、そして神からも見捨てられてしまったと感じているヨブの苦しみの経験は、「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」(1章1節)信仰者であったとしても、試練や苦難を味わうことがあるということを教えています。 その苦難の中で、ヨブは自分の悲しみや苦悩を隠さず、ありのままに神にぶつけています。それは、ヨブの信仰が弱いからではなく、神に心を開く信仰者の姿を表しています。 私たちにも、苦難や試練を味わうことがあります。しかしその中でも、私たちには悲しみや嘆きをそのまま打ち明けることができる神がおられるのです。 【祈り】 主よ、試練のときにも、あなたを呼び求めます。主が沈黙しておられると感じるときにも、あなたの憐れみを信じさせてください。

  17. 984

    三十周年宣言神のみが体と良心の主(ローマの信徒への手紙 14章1-12節)

    わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。 (ローマの信徒への手紙14章8節) 「三十周年記念宣言」(1976年四月28日採択)は、「七十年代の祖国は…いちじるしく旧日本への回帰の傾向を示しております」という危機感のなかで、主に対する悔い改めと新しい服従の道を歩むことの決意を告白しています。 私たちの教会の創立者たちは戦時中、信仰の戦いをよく果たした人たちです。そうであるからこそ、「聖戦の名のもとに遂行された戦争の不当性とりわけ隣人諸国とその兄弟教会への不当な侵害に警告する見張りの務めを果たし得ず、かえって戦争に協力する罪を犯しました」という悔い改めを深く抱きました。その信仰の目覚めが私たちの教会の出発点です。そうして、主の憐れみに支えられた教会はかつての罪と過ちとを恥じ、「再びくり返すことのないように」と、「宣言」を公に表明することへと導かれました。 主キリストは「教会のかしらであると同時に、国家のかしらでもあられ」ます。私たちは主が「人間生活の全領域にわたって」主であられることを信じます。「神のみが、からだと良心との主であられる」ことを信じます。「教会と国家の改革のために、絶えず目をさましてキリストの恵みを祈り求め、またそのために努力」します。キリストが「諸国民のいやしと教会の完成のために再び来られる」ことを仰ぎ望みながらです。 【祈り】 アーメン。主イエスよ、来たりませ。

  18. 983

    過去の栄光と現在の痛みを対比しながら(ヨブ記 29章)

    あのころ、全能者はわたしと共におられ わたしの子らはわたしの周りにいた。 (ヨブ記29章5節) ヨブは過去の祝福された日々を思い出しています。彼は神との親しい交わりの中で生き、周囲から尊敬され、正義を実践し、弱者を助ける人生を歩んでいました。ヨブは正しい者として、神の恵みの中にいたと確信していました。しかし今、彼はすべてを失い、苦しみと孤独の中にあります。過去の栄光と現在の痛みを対比しながら、深く嘆いています。 このヨブの姿は、主イエスの教えを思い出させます。主イエスは山上の説教で「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」と語られました(マタ5章3節)。人の価値は地位や成功ではなく、神との関係に根ざしています。ヨブはすべてを失った中でこそ、神への本当の信仰を問われているのです。 私たちもまた、失意や苦しみの中で、かつての祝福を懐かしむことがあるかもしれません。しかし、主イエスは「悲しむ人々は、幸いである」と語られました(同4節)。神は沈黙しているように見えても、私たちの痛みをご存じであり、必ず最善へと導かれます。ヨブの嘆きはやがて神との対話に変わり、信仰の深まりへとつながります。私たちも、失うことでしか見えない神の真実に目を向け、主イエスが教えられたように歩む者でありたいと願います。 【祈り】 かつての祝福を思い、今の苦しみに心が沈むときも、あなたが共におられることを信じさせてください。

  19. 982

    知恵を得る道それは主を畏れ敬うこと(ヨブ記 28章)

    そして、人間に言われた。 「主を畏れ敬うこと、それが知恵 悪を遠ざけること、それが分別。」 (ヨブ記28章28節) ここには、人の驚くべき探求心と技術力が描かれています。人は地の奥深くから金や銀を掘り出し、死の闇の奥底をも極めて鉱石を捜し求めます。このことは、人の能力を称えているように見えますが決定的な問いが提示されます。「では、知恵はどこに見いだされるのか」(12節)。 人は地の宝を手に入れる術を知っていても、知恵そのものを得る道は知らないのです。知恵は金や銀よりも遥かに価値が高く、それと引き換えるものはこの世には存在しません。知恵はどこから来るのか。それは人の努力や科学、経験によって得られるものではなく、ただ神のみがその道を知っておられます(23節)。 神は言われました。「主を畏れ敬うこと、それが知恵、悪を遠ざけること、それが分別」。苦しみの中、答えが示されます。知恵は単なる知識や論理ではなく、神を畏れ敬うことです。 情報や技術があふれる世界で、私たちは真の知恵をどこに見出すのでしょうか。それは、イエス・キリストによって最もはっきりと表されました。主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハ14章6節)と語り、神の知恵としてご自身を示されました。私たちは、主イエスを信じて従うことで神の知恵にあずかるのです。 【祈り】 主よ、私たちがこの世の知恵ではなく、主イエスを信じることで真に知恵ある人生を歩めますように。

  20. 981

    主が私たちを知り、私たちが主を知る幸い(ヨハネによる福音書 10章1-21節)

    「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」 (ヨハネによる福音書10章14節) 自分のことを「良い」という人と会ったことがあるでしょうか。あからさまにこのように言う人はめったにいないでしょう。主イエスはかつて偽預言者を羊の皮をまとう貪欲な狼にたとえました(マタ7章15節)。それほどに悪は善を装うのでわかりにくいものです。それで主イエスは、その人が良い実を結んでいるか、よく見極める必要があると教えました。 きょうの箇所で、主イエスは大胆に「わたしは良い羊飼いである」と言われます。驚くべきことに、羊飼いである主イエスが羊である私たちを知っておられるだけでなく、羊である私たちも主イエスを知っている、と言われます。私たちが主イエスを知るとは、私たち自身の業ではなく、主イエスが私たちのことを知っておられる、その神の御業に基づいているということです。それゆえ、「父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」と言われるほど確かなものなのです。 私たちはやがて、指の間からこぼれ落ちる砂のように、知っていることを忘れるかもしれません。信じますという言葉も声がかすれて言えなくなるかもしれません。しかし、主が私たちを知っていてくださるという一点において、私たちは深いところで主を知る者とされているのです。 【祈り】 主よ。あなたを知るにはこの人生でも足りません。しかし、あなたが知っていてくださいます。感謝します。

  21. 980

    もしも主が私たちの味方でなかったなら(詩編 124編)

    主をたたえよ。 主はわたしたちを敵の餌食になさらなかった。 仕掛けられた網から逃れる鳥のように わたしたちの魂は逃れ出た。 (詩編124編6節~7節) きょうの御言葉は、「『もしも主が私たちの味方でなかったなら。』さあ、イスラエルは言え」(1節・新改訳2017)と、問いかけます。私たちは、きょう、どのように、この問いかけに答えるでしょうか。 そもそもイスラエルとは何でしょうか。それは、国名というよりも、ヤコブが神と人と闘って勝ったときに、神から与えられた名(創32章29節)であり、それは契約の民を指すものです。今や私たちも契約の民とされています。それは、神と人間の間の恵みの契約の仲保者である主イエス・キリストの贖いのゆえに、私たちの罪が赦され、神の救いの約束にあずかる者とされたからです。とすれば、まったく私たちの側に誇るものは何もなく、罪の縄目から解き放たれたのも、ただキリストの恵みによるものです。 「もしも主が私たちの味方でなかったなら」。もしもキリストが十字架の上に死んでくださらなかったなら、今日、神の前に生きる命は存在しないのです。実に、「主はわたしたちを敵の餌食になさらなかった。仕掛けられた網から逃れる鳥のように、わたしたちの魂は逃れ出た」のです。なんという、喜び、光栄でしょうか。この救いの喜びこそ、主の教会の感謝であり、信仰の告白です。 【祈り】 主よ、私たちを罪の網から救い出してくださり、感謝です。私たちの助けは、主の御名にあります。アーメン

  22. 979

    神を喜びとする恵み(ヨブ記 27章)

    全能者によって喜びを得 常に神を呼び求めることができるだろうか。 (ヨブ記27章10節) この章には25章のビルダドに対するヨブの答えが記されています。三人の友人との対話はこの章で終わっています。 「きょうの聖句」は一連の因果応報説によってヨブに悔い改めを迫ってきた友人たちへのヨブの問いかけです。この問いかけは、三人の友人の主張の根底にある彼らの神観とヨブの神観の決定的な違いを示唆しています。またこの問いかけは、ヨブの信仰がどのようなものであったかを示しています。ヨブの信仰は、全能者である神を喜びとし、常に神を呼び求めることのできる生きた信仰でした。 私たちはすでにキリストの贖いによって神の子とされ、「アッバ父よ」と神を呼び求める信仰が与えられています(ロマ8章15、16節)。そればかりか、神との生きた交わりを日々喜ぶことのできる、何にも代えがたい恵みを与えられています。 全能者によって喜ぶ喜びは、一時的でたちまち消えさってしまう地上の喜びとは異なります。また試練によって奪い去られてしまう喜びでもありません。私たちは恵みによって救われ、すでに神の子とされています。ですから、どんな状況の中でも神を喜び、常に神を呼び求めることができるのです。日々その恵みに感謝して歩みたいと願います。 【祈り】 すでに神の子とされていることに感謝します。日々、この信仰に堅く立って歩むことができますように。

  23. 978

    創造主を知り崇める幸い(ヨブ記 26章)

    だが、これらは神の道のほんの一端。 神についてわたしたちの聞きえることは なんと僅かなことか。 その雷鳴の力強さを誰が悟りえよう。 (ヨブ記26章14節) ビルダドに対するヨブの言葉が2~4節まで語られています。「あなた自身はどんな助けを力のない者に与え、どんな救いを無力な腕にもたらしたというのか。…誰の言葉を取り次いで語っているのか」と問いかけています。他人に忠告したり、他人を助けたりすることなどできない人間の無力さについて語ります。 それに比して、5~13節で、ヨブは神の偉大な創造と保持の御業について語ります。自然科学がヨブの時代よりはるかに発達し、多くの発見がなされてきました。そのなかで、ここで語られていることの正しさが証明されてきましたが「きょうの聖句」が語っているように、それらは神の御業のほんの一端に過ぎません。創造の御業とそれを保持しておられる神は、私たちの認知力と理解力をはるかに超えたお方です。 直前の25章で、ビルダドは、神の御心をすべて理解しているかのように、ヨブを非難しています。しかし、その理解はあまりにも浅い神理解に基づくものでした。 創造主の偉大な御業に触れるとき、被造物である私たちは謙虚にならざるを得ません。私たちが知っていることは、創造の御業のほんの一部です。しかし、それらをとおしてご自身を啓示しておられる神を崇めることができるのは実に大きな恵みです。 【祈り】 創造の御業によって、私たちへの愛を表してくださり、感謝します。

  24. 977

    泣く人と共に泣きなさい(ヨブ記 25章)

    どうして、人が神の前に正しくありえよう。 どうして、女から生まれた者が清くありえよう。 (ヨブ記25章4節) 25章にはビルダドのヨブに対する第三回目の短い弁論が記されています。きょうの聖句は、すでにエリファズが4章17節と15章14節で語ったことの繰り返しです。この言葉自体は真理を示しています。しかし、彼が繰り返し、こう主張している背景には、ヨブの苦難は、彼の罪に対する神の刑罰であるという一貫した考え方が根底にあります。 友人たちはヨブを慰めるために遠くから来ました。しかし、かえって彼を追い詰め、彼らの主張を受け入れようとしないヨブを苦しめています。ヨブの苦しみをまったく理解しようしないばかりか、悔い改めを迫り続ける彼の言葉は、ヨブへの冷たい裁きの言葉になってしまっています。 私たちも試練の中で苦しんでいるとき、このような心ない言葉をかけられることがあるかもしれません。しかし、神の御子キリストの贖いの御業を通して救われた私たちは、決してそのように考える必要がないのです。私たち自身、ただ恵みによって救われた者だからこそ、試練のただなかにいる人びとを真の意味で励ますことができるのです。 使徒パウロは次のように勧めています。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ロマ12章15節)。 【祈り】 ただキリストの恵みによって救われたことを覚え、他の人びとの苦しみに寄り添うことができますように。

  25. 976

    主に託された働きに励む(ヨブ記 24章)

    なぜ、全能者のもとには さまざまな時が蓄えられていないのか。 なぜ、神を愛する者が 神の日を見ることができないのか。 (ヨブ記24章1節) ヨブは心にある葛藤を述べています。「なぜ、神を愛する者が、神の日を見ることができないのか。人は地境を移し、家畜の群れを奪って自分のものとし、みなしごのろばを連れ去り、やもめの牛を質草に取る」(1~3節)。ヨブは現実の世界で起きている悪人の暴虐的行為を記します。なぜ、そのような者に神は裁きをくだされないのか、と疑問を抱きます。一般的な因果応報説では理解できない現実を目の当たりにし、心のうちの葛藤を語っています。 現代でもこのような現実を目の当たりにするとき、私たちも苦しくなります。なぜ神は悪行を重ねている者に罰をくだされないのか、とヨブに似た思いを抱くことがあります。 しかし、私たちは御言葉をとおして、すべての者が神の裁きの前に出るときが来ることを知っています。 悪行、暴虐が横行している現実の世界のただなかに目を留めるときでさえ、希望を見出せます。なぜなら、世界の各地にキリストの教会が建てられ、悔い改めの福音が宣べ伝えられているからです。そして事実、その働きをとおして、キリストを信じ、人生を大きく変えられている人びとが起こされ続けているからです。そのことに、確かに神は生きて働いておられることを知り、私たちはその事実に確かな希望を見出せるのです。 【祈り】 主の再臨を待ち望みつつ、託された働きに励むことができますように。

  26. 975

    苦難のなかで信頼できる幸い(ヨブ記 23章)

    わたしは暗黒を前にし 目の前には闇が立ちこめているのに なぜ、滅ぼし尽くされずにいるのか。 (ヨブ記23章17節) ヨブと友人たちの議論は平行線をたどったままです。この章にはヨブの言葉が記されていますが、神に対する彼の切々たる訴えです。「どうしたら、その方を見いだせるのか。おられるところに行けるのか。その方にわたしの訴えを差し出し、思う存分わたしの言い分を述べたいのに」(3、4節)。 ヨブ記は正しい人ヨブの受けた苦難に関して、その苦難を許された神を、いかに正当化できるかという問いには全く答えていません。 私たちキリスト者も人生の途上でさまざまな苦難を経験します。実際、なぜ自分はそのような苦難を経験しなければならないのか、理解できない場合が多いのではないでしょうか。その答えがあとになってわかる場合もありますが、そうでないこともあります。むしろわからない場合の方が多いのではないでしょうか。 しかし、私たちキリスト者は、神がご自分の愛する独り子を、私たちを永遠の滅びから救うために与えてくださった方であることを知っています。私たちは苦難のただなかで、その事実に安んじることができるのです。そして、目には見えませんが、私たちが苦しんでいるそのただなかに、慰め主なる聖霊が共にいてくださるという確信に立つことができるのです。 【祈り】 苦難に遭うときも、神の子とされていることを覚え、信頼して歩むことができますように。

  27. 974

    主が共に歩まれるとき祈りが生まれる(ルカによる福音書 24章13-35節)

    無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。 (ルカによる福音書24章29節) 自分も含めて人が人を理解するのはとても難しいことです。まして神を理解することは人の力の及ばないことです。神学において「神はただ神によってのみ開示される」という言葉がありますが、きょうの箇所では、そのことがあてはまります。 エマオの途上にあった二人の弟子は、主イエスを慕い、聖書にも詳しかったと思います。しかし、他の弟子たちと同様に、メシアが苦しまれることは想像していませんでした。イスラエルを解放される方が苦しむはずはないと彼らは考えていたのです。 旧約聖書にはメシアが苦しまれると理解できる箇所がありますが、その読み方を教えてくれる人がいなければ、理解するのは容易ではありません。そして理解はできても、主がこのわたしのために苦しみ、復活されたと信じるのには、主ご自身の働きかけがどうしても必要です。なぜなら私たちの心は閉じやすく、自らの理解できる範囲にとどまってしまいがちだからです。 しかし、この二人の弟子たちのように、私たちには主に祈り求めることが許されています。この弟子たちは先に行こうとする主を引き止めました。それに応えて主イエスは食卓を整えてくださいました。ここに天の祝宴の一端を私たちは見るのです。 【祈り】 主よ。あなたは私たちが気づく前から共に歩んでくださいます。こうして祈れる幸いに感謝いたします。

  28. 973

    恥が満ちる世の中で主の憐れみを求める(詩編 123編)

    わたしたちを憐れんでください。主よ、 わたしたちを憐れんでください。 わたしたちはあまりにも恥に飽かされています。 (詩編123編3節) きょうの御言葉は、主に憐れみを乞い求めるものです。その憐れみを求める理由は、聖なる神を冒涜する汚れや罪による恥が私たちの周囲を取り囲むように満ちているからです。 私たちはそのような境遇におかれている自覚がどれほどあるでしょうか。商品の宣伝やメディアの喧騒等の中で、私たちの目もいろいろなものに奪われがちです。しかし、詩編123編は、「目を上げて、わたしはあなたを仰ぎます」「御覧ください、僕が主人の手に目を注ぎ、はしためが女主人の手に目を注ぐように、わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ、憐れみを待ちます」と、その目を絶えず、主に注ぐのです。 なぜ主の憐れみが必要なのでしょうか。弱く、罪と悪に誘われやすい堕落した罪人は、救いに至る恵みの賜物を必要としているからです。それは、自分が見ているものに頼るのではなく、「天にいます方」に依り頼む道です。命と希望の源であり、いつも私たちと共におられる主である神、十字架において私たちの罪を清め、天の王座に着かれた主キリストを見つめ続ける祈りの道です。 私たちを憐れんでくださる主にたゆまず祈りをささげて、この世の中で命の福音の光を輝かしましょう。 【祈り】 主よ、私たちを憐れんでください。信仰の創始者また完成者である主イエスを見つめて、祈ります。アーメン

  29. 972

    神をより深く知る恵み(ヨブ記 22章)

    だからこそ あなたの周りには至るところに罠があり 突然の恐れにあなたはおびえる。 (ヨブ記22章10節) ヨブと友人たちの議論の第三回目のサイクルがここから始まっています。友人たちはヨブが苦難に遭っているのは、彼が犯した罪に対する神の刑罰である、と主張してきました。ヨブとの対立はさらに深まり、彼を深い苦悩に陥らせていきます。ここでエリファズは「あなたは甚だしく悪を行い、限りもなく不正を行ったのではないか」(5節)、「だからこそ、あなたの周りには至るところに罠があり、突然の恐れにあなたはおびえる」(10節)と言っています。 しかし、ヨブの苦難は神の許しのもとで、サタンによって与えられたものでした(1、2章参照)。 私たちも人生の中でさまざまな苦難に遭います。そのようなとき、エリファズの言葉のようなネガティブな思いが心に浮かび、不安と恐れで一杯になることがあります。しかし、神の御子キリストの贖いによってすでに罪を赦され神の子とされた私たちは、決してそのように考える必要がないのです。 ヨブは最終的に試練を通して神をより深く知るという恵みを与えられました(42章5節)。私たちも人生の途上で思いがけない苦難に遭遇することがあります。しかしそれらを通して、私たちもまた、より深く神を知るという恵みを与えられるのです。 【祈り】 苦難に遭うときも、神の子とされていることを覚え、信頼して歩むことができますように。

  30. 971

    慄然とし身震いしたとしても(ヨブ記 21章)

    わたし自身、これを思うと慄然とし 身震いが止まらない。 (ヨブ記21章6節) 今までの議論で友人たちに共通したことは、要するに悪人は富み栄えても、必ず神の裁きに遭って滅亡するということです。まさにこの人生観に対してヨブは異議を唱えます。現実はむしろ悪人の方が繁栄し富み栄えながら(7~12節)、「幸せに人生を送り、安らかに陰府に赴く」(13節)のです。 こうしてヨブは、友人たちの因果応報的な原理が現実には破綻していることを述べて、彼らの言葉が「空しい言葉」にすぎないと痛烈に批判しています(34節)。ヨブが神に激しく問い続けてきたのは、まさにこの矛盾でした。だからこそ、ヨブ自身「慄然とし、身震いが止まらない」と語るほどです。 ヨブも今まで、友人たちのように、神に従うならば祝福されることを信じていたと思います。しかし、そのヨブが苦難に見舞われました。それによってヨブは、これまで築いてきた理解が、その根底から崩れ去っているのを覚えて、慄然としながら、苦悩しているのです。苦悩に直面した時、今まで自分が構築してきた神理解が崩れてしまうことがあるかもしれません。それでも、この書物の最後に神はヨブに語りかけます。たとえ神に苦しめられていると感じたとしても、神は見捨ててはおられない。それがヨブ記のメッセージです。 【祈り】 わたしの常識が崩れ去ったとしても、あなたは私と共にいてください。

  31. 970

    機械的なツォファルの信仰観(ヨブ記 20章)

    神に逆らう者が神から受ける分 神の命令による嗣業はこれだ。 (ヨブ記20章29節) 20章は友人ツォファルの二回目の発言です。しかし、このヨブへの反論も、先の二人と同じ内容で、神に逆らう悪人の悲惨な末路を繰り返すことでヨブの改心を求めるだけのものでした。29節で「神に逆らう者が神から受ける分」と述べています。ツォファルも、ヨブをはじめから悪人と断定し、断罪するのみです。ツォファルも他の友人たちと同様、「因果応報」の理解に固執しています。神に逆らったからこそヨブは苦しんでいるという理解から抜け出せません。 ヨブは神に従いながらも苦しめられていることに悩み、そのことを神に訴えているのに、ツォファルはそのヨブの悩みと訴えの根源が見えていません。因果応報の原理をただ機械的にヨブに適用して、目に見える結果からヨブを断罪するだけでした。苦しみに遭っている現実から判断して、それはヨブに対する神の裁きであり、ヨブには隠された罪があると断罪するばかりです。ヨブの真実の苦悩を見ようとしない彼らの信仰観は、実に機械的・原理的なもので、非人格的であると思います。 いくら原理的に自分の論理を相手の状況に当てはめても、本当に苦しんでいる者には何も響きません。苦しむ者に対する姿勢ということもヨブ記は反面教師的に私たちに教えていると思います。 【祈り】 主よ。隣人の真実の苦悩を心から理解することができますように。

  32. 969

    わたしを贖う方は生きている(ヨブ記 19章)

    わたしは知っている わたしを贖う方は生きておられ ついには塵の上に立たれるであろう。 (ヨブ記19章25節) 「どこまであなたたちはわたしの魂を苦しめ、言葉をもってわたしを打ち砕くのか」(2節)。呻くようにヨブは語り始めています。友人たちの言葉はヨブをひどく苦しめました。友人たちは、苦しみの原因をヨブ自身に負わせようとします。 しかし、今の苦しみはヨブ自身に原因があるのではなく、神が義を曲げられたという理解にヨブは立っています(6節)。信仰者として挑戦的な発言ですが、ヨブにはそうとしか思えません。彼は誠実に神の前で歩んできたからです。神に裁かれることは何もしていない。では、なぜ神は自分を苦しめるのか。ヨブはこの答えを切実に求めています。7節以下から、ヨブに対する神の不当な扱いが列挙されています。皮膚病を抱え、知人、友人、家族、そして神にすらも捨てられたヨブはかろうじて「わたしは生き延びている」と語ります(20節)。どこからも見捨てられ、誰からも嫌われた中で、彼が仰いだのは、「贖い主」なのでした。「わたしを贖う方は生きておられ」ると(25節)。 ヨブは、自分と神の間を執り成す贖い主の存在を求めています。彼の望みはここにしかありません。私たちも、私たちの望みは「贖い主」しかおられないことを強く信じたいと願います。 【祈り】 神さま。たとえ打ちのめされたとしても、「贖い主」であるイエスさまがいてくださることに感謝します。

  33. 968

    苦しみは神の呪いの結果なのか(ヨブ記 18章)

    神に逆らう者の灯はやがて消え その火の炎はもはや輝かず その天幕の灯は暗黒となり 彼を照らす光は消える。 (ヨブ記18章5節~6節) 18章は、友人ビルダドの二回目の発言です。ビルダドは「話し合おう」(2節)と提案しますが、初めからヨブを理解しようとはせず、ヨブが彼らの言葉を受け入れることを求めています。その後に続く言葉は、もはや勧告や励ましではなく、ヨブに対する一方的な断罪と非難です。ビルダドは、ヨブを「怒りによって自らを引き裂く者」として、ヨブの苦しみが自業自得のものであると決めつけます。さらに、世界が自分のために存在するように考えているとし(4節)、「神に逆らう者」(5節)として、ヨブに対する呪いを語ります。 5~21節に描かれる「神に逆らう者」の運命は、旧約聖書が語る一つの視点です。しかし、ヨブが問うていることは、人間の歴史とそこで起こり来ることは、そのように単純なものではないということです。友人たちの原理に立つならば、この地上で苦難に遭うことは、災い以外のなにものでもありませんでした。 しかし、苦しみは神の呪いであるという図式で簡単に測ることはできません。現実は、むしろ、悪しき者が富み栄え、正しい者は苦しめられるのです。ヨブが問うのは、まさにこのことです。理不尽と思えるような出来事の中で、私たちはどのように神と向かい合うことができるのか。そのことをヨブ記は教えています。 【祈り】 理不尽と思えるような状況の中でも、あなたを仰がせてください。

  34. 967

    鍵をかける私たちと平和を与える主(ヨハネによる福音書 20章19-31節)

    戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 (ヨハネによる福音書20章26節) 主イエスは十字架で処刑されました。今度は自分たちが捕らえられると弟子たちは思っていたかもしれません。ユダヤ人を恐れて自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。 この弟子たちの姿は、私たちの姿と重なります。私たちも恐れや不安を抱えていると、少しでも安心できると思う場所に身を隠します。それは安全を確保するためにも必要なことです。しかし、扉が閉じられてしばらくの時間が過ぎると、恐れや不安が増して、だんだんと大きくなることがあります。そしてそれに押しつぶされるように息ができなくなるような思いを抱えてしまいます。 身動きが取れない、あるいはトマスのように見るものしか信じられないというのは、誰もが抱え得る、人の惨めさなのかもしれません。 この箇所で、「鍵をかける」、「イエスが来て真ん中に立つ」、そして「あなたがたに平和があるように」という言葉が二回繰り返されています。この繰り返しは、私たちの日常と礼拝のリズムのようです。主の平和を礼拝でいただき、赦しへと生き、傷つき疲れ、また復活の主の平和をいただきに礼拝に帰る。そのリズムの中で、時に躓き、立ち止まりながらも、何度も平和の主はその御手で私たちを支え続けてくださるのです。 【祈り】 平和の主よ。すぐに鍵をかけてしまいやすい私たちです。どうぞ聖霊を注いで、心を開かせてください。

  35. 966

    主の平和を互いに求めつつ祝福を祈る(詩編 122編)

    わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。 「あなたのうちに平和があるように。」 (詩編122編8節) きょうの御言葉は、主イエスが、十字架の上で成し遂げられた贖いの御業を信じる者たちにとっては、神との交わりを与えられた恵みと平安を覚えて、お互いに、平和と祝福を祈り合う祈りの言葉です。 主イエス御自身、墓から三日目に復活された、一週の初めの日の夕方、ユダヤ人を畏れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちの真ん中に来て立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。そして、十字架の上で受けた手とわき腹とをお見せになり、弟子たちは主を見て喜んだのです。そのとき主イエスは、重ねて言われました。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」。そう言って、弟子たちに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい」(ヨハ20章19~22節)。 「主の家に行こう」(1節)との呼びかけは、復活の主イエスを証しする教会への招きの言葉です。この教会において、今も、天上で父である神の王座に着いておられるキリストの主権が告白され、主の臨在が、礼拝において純正な礼拝と説教、洗礼式と聖餐式、また、教会訓練において証しされます。主の伝道に共に励みつつ。 【祈り】 私たちの主よ、あなたが、命の言葉の上に建てられる教会に、あなたの平和を求めます。アーメン

  36. 965

    神御自身があなたがたを強め力づける(ペトロの手紙一 5章)

    しかし、あらゆる恵みの源である神…が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。 (ペトロの手紙一5章10節) ペトロの手紙一は、締めくくりで、「身を慎んで目を覚ましていなさい」と勧めています(8節)。4章7節の「思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」を思い起こすことができます。目を覚ましているとは、祈ることと一つです。祈ることによって、私たちは目を覚まして主を待ち望む者とされます。「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」とも教えられます(9節)。誘惑をしりぞけてこそ信仰に固く踏みとどまることができるからです。 しかし、誘惑に弱い私たちが、いったいどうして悪魔に抵抗し、信仰に固くとどまることができるのでしょうか。そう思うところで、こう言われます。「しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます」。 私たちの信仰の戦いは、私たち自身の戦いであると同時に、神が戦ってくださるものです。信仰に固く立とうとする私たちを支える神の御業があるのです。それゆえ、「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるから」と約束されます(7節)。神の約束が私たちの力です。 【祈り】 主よ、あなたの約束への信頼に固く立たせてください。

  37. 964

    思慮深く身を慎み祈りなさい(ペトロの手紙一 4章)

    万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。… (ペトロの手紙一4章7節~8節) 信仰者として生きるとは、終わりを知る者として生きるということです。神が初めであり、終わりであられます。それゆえ、たとえ今、迫害の中で苦しめられているとしても、その苦しみには終わりがあるのです。 「万物の終わりが迫っています」。「終わり」という言葉には「目的、目標」という意味があります。すなわち、私たちのこの世界には、また、私たち自身の地上の人生にも、目指している目標、到達地があるのです。主イエス・キリストです。十字架のキリストがやがて来られて、私たちをまったく新しくし、この世界を完成に至らせてくださいます。ですから、思慮深く、身を慎んで歩みます。「思慮深くふるまい」も「身を慎んで」も、お酒に酔っていない、落ち着いた状態を指す言葉です。私たち信仰者は、たとえ苦しみの中でも、やがて来られる救い主を待ち望んで、落ち着いて歩むことができるということです。 ペトロは、「よく祈りなさい」、「心を込めて愛し合いなさい」と勧めます。それは、兄弟姉妹の祈りによって励まされるからです。主なる神は、私たちが忍耐強く地上を歩み抜くことができるために、地上に教会を建ててくださいました。私たちは、兄弟姉妹の交わりに支えられて、主イエス・キリストによる終わりを祈りつつ待ち望むことができるのです。 【祈り】 主よ、互いに励まし合って、主を待ち望むことに固く立たせてください。

  38. 963

    祝福を受け継ぐために召された(ペトロの手紙一 3章)

    悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。 (ペトロの手紙一3章9節) ペトロの手紙一は、とても実践的な手紙です。異教の地に散らされて迫害の中を歩む信仰者に対して、具体的な生活の知恵を教えています。それは、神のしもべとして生きること、仕える者として生きることです。 具体的には、「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい」、「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい」と言います(2章13、17節)。召し使いたち、奴隷として生きる人たちには、「心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい」と教えます(2章18節)。妻たちには「自分の夫に従いなさい」と勧めます(3章1節)。これらは、ただ人間的な服従を求めるものではありません。私たちは神のものとされて、自由にされています。その自由を、神のしもべとして仕えるために用います。人のしもべとしてではなく、神のしもべとして仕えて生きるのです。 そのとき大切なことが、悪に支配されないこと、憎しみに縛られないことです。使徒パウロも「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」と勧めました(ロマ12章21節)。私たちは、祝福を受け継ぐために信仰者とされました。悪で報いることなく祝福を祈ること、そこに信仰者としての務めがあります。 【祈り】 主よ、苦しみの中でも祝福を求めて祈る者であらせてください。

  39. 962

    選ばれた尊い生きた石(ペトロの手紙一 2章)

    この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。 (ペトロの手紙一2章4節) 迫害の中で散らされていた信仰者たちは、自分たちは神にも人にも見捨てられたと思うようなことがあったかもしれません。決して見捨てられてはいない。そう言うかのように、ペトロは、私たちの救い主こそが人びとからは見捨てられたお方であったことを思い起こさせます。 「主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです」。主イエスの十字架は、人の目から見ると、人びとから見捨てられた結果だったでしょう。しかし、その十字架において、私たち罪人の罪を神の御子が身代わりとして背負う、贖いの御業が成し遂げられました。この捨てられた石こそ、神の選ばれた尊い石だったのです。神の御業は、私たち人間の思いをはるかに超えた、驚くべきものです。 その神の御業を知って、私たちは、主が恵み深い方であることを味わいました。「この主のもとに来なさい」と招かれています。この主のもとに集められて、私たち自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられる、すなわち神を礼拝する民、教会として建て上げられます。 十字架の主のゆえに、神は決して私たちのことを忘れることなく、見捨てることもありません。主をほめたたえる民として生きるよう、私たちを招き続けてくださっています。 【祈り】 十字架の主のもとに集い、共に主を賛美する民としてください。

  40. 961

    神の力により信仰によって守られている(ペトロの手紙一 1章)

    あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。 (ペトロの手紙一1章5節) ペトロの手紙一は、今日のトルコにあたる小アジアの各地に散らされた信仰者に宛てられた手紙です。使徒ペトロは、この手紙をとおして、ローマ帝国の迫害の中でも神の恵みに固く立って耐え忍ぶよう、散らされている信仰者を励ましています。 私たち信仰者が迫害の中で耐え忍ぶことができる根拠は、主なる神にあります。神が豊かな憐れみにより、私たちを新たに生まれさせてくださいました。神がイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を私たちに与え、天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました(3、4節)。すべて神が主語で語られています。救いも完成も神の御業であり、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けることができるよう、私たちは、神の力によって信仰をとおして守られているのです。 この神の御業に基づいて、ペトロは、「いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」と勧めます。召し出してくださった聖なる方に倣って、「聖なる者となりなさい」とも教えます(13、15節)。すでにキリストにあって聖とされている私たちは、やがて来られる主イエス・キリストを待ち望みつつ、神と人に仕えて歩みます。 【祈り】 主よ、あなたの御力によって守られている幸いを感謝します。

  41. 960

    喜びの再会を約束される復活の主(マタイによる福音書 28章1-10節)

    「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」 (マタイによる福音書28章10節) 同じ名前の二人のマリアは、主イエスの墓を前にして恐れていました。大きな地震が起こったかと思うと天使が墓の石を転がし、その上に座ったからです。何が起こったのか、墓の番をしていた兵士たちもわかりません。恐ろしさのあまり、兵士たちは墓に埋められた死人のようになってしまいました。一方、天使は何事もなかったかのように、むしろ起こるべくして起こったこととして語りだします。恐れることはない、主イエスご自身が言われていたように、彼は復活して先にガリラヤに行っている、と。 天使は、この約束の言葉を弟子たちに告げるよう、二人のマリアに託しました。まだ彼女たちは恐れています。しかし、それを上回るほどの大きな喜びが、二人を走らせました。途中もしかしたらこの二人は走り疲れたかもしれません。その道すがら主イエスと出会います。「おはよう」という挨拶は、「喜びあれ」という意味のある言葉です。まるでマラソンコースの給水所のように、主イエスによって喜びを補給してもらっています。そして、天使と同じ言葉を繰り返します。恐れることはない、ガリラヤへ行くように、と。 この再会の約束の言葉は弟子たちに告げられ、そして今、私たちに託されているのです。 【祈り】 あなたは時に適って天使を、また人を遣わして、約束の言葉を運んでくださいました。感謝いたします。

  42. 959

    主の見守りの中で霊の目を覚まして祈る(詩編 121編)

    主がすべての災いを遠ざけて あなたを見守り あなたの魂を見守ってくださるように。 (詩編121編7節) きょうの詩編の御言葉は、「主がすべての災いを遠ざけて、あなたを見守り、あなたの魂を見守ってくださるように」祈るよう導きます。私たちは、受難日を経たきょう、主イエスご自身が、ゲツセマネの園で「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」(マタ26章38節)と弟子たちに命じられたことを思い起こします。それは、十字架の苦しみを受けられた主イエスが、その痛みと苦しみを担いながら、弟子たちに、主の見守りの中で祈るように命じるものです。 主イエスは、「御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われ」ました(ヘブ13章12節)。しかし主イエスは、神殿の境内に入り、そこで犠牲の動物等の売買をしていた人びとを追い出されたとき、「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」(マコ11章17節)と言われたお方です。つまり、主イエスは、ご自身の家から外に追いやられて、死刑の災いを身に負われたのです。 どのような時代の中でも、イエス・キリストの受難と復活を証しする見える教会の祈りは、絶えず、主イエスの見守りの中で、すべての災いが遠ざけられ、霊の息、魂を注ぎだして祈る、尊い、祝福に満ちたものです。 【祈り】 受難の主よ、明日の礼拝に備えて、あなたの見守りの中で目を覚まして祈る一日としてください。アーメン

  43. 958

    夜ごと涙が溢れてわたしは祈る(詩編 6編)

    主はわたしの嘆きを聞き 主はわたしの祈りを受け入れてくださる。 (詩編6編10節) きょうは受難日。私たちの罪のため、十字架に架かってくださった主イエスの御苦しみと愛を特別に覚えます。この日に、「主よ、怒ってわたしを責めないでください」(1節)と、口に出して読んでみましょう。「わたしの魂は恐れおののいています。主よ、いつまでなのでしょう」(4節)と声に出して、主に叫んでみましょう。 主は受け入れてくださいます。あの夜に主イエスが担ってくださいました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタ26章39節)と主はゲツセマネで祈られました。主が身に負うべき神の怒りは何一つなかったのに、その魂がおののくべき罪の咎は何一つなかったのに。主は、私たちの罪を、私たちの嘆きを、私たちの恐れを、すべて担ってくださいました。 なお、「わたしは嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです」(7節)という夜が、私たちを襲うこともあるでしょう。しかし、その夜にも涙を拭ってくださる主が共におられます。私たちが「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタ27章46節)と発せざるを得ない闇に生きる時にも主が共にいてくださいます。「苦悩にわたしの目は衰えて」(8節)ゆく、その目でこそ見つけられる主のお姿が私たちの傍らにはあります。 【祈り】 主よ、いつでも、どんなときでも、わたしは十字架の主を仰ぎ望みます。

  44. 957

    どこに希望があるのか(ヨブ記 17章)

    どこになお、わたしの希望があるのか。 誰がわたしに希望を見せてくれるのか。 (ヨブ記17章15節) ヨブの嘆きは17章でも続きます。後半の12節以下で、ヨブはこのように語っています。「夜は昼となり、暗黒の後に光が近づくと人は言うが、…墓穴に向かって『あなたはわたしの父』と言い、蛆虫に向かって『わたしの母、姉妹』と言う」。 暗闇の後に光が近づく。これは誰もが望むことです。しかし、今のヨブの状況は、死後の世界に等しいと言えます。死や腐敗、蛆虫すらも自分の家族のように感じるという絶望的な状況です。ここに望みはあるのか。誰が希望を見つけられるのか。ヨブの苦しみは極限状態でした。 「暗黒の後に光が近づく」という言葉を安易に語ってしまうことがあるかもしれません。しかし、絶望し尽くしている人には、この言葉も空しい響きを打つだけです。この苦しみと絶望の中でヨブが語ったことは、「あなた自ら保証人となってください。ほかの誰がわたしの味方をしてくれましょう」ということでした(3節)。打ちのめされながらも、ヨブは神に望みをかけました。私たちの歩みも、良いことばかりではありません。絶望し尽くしてしまうことがあります。しかし、このような時だとしても、ヨブは神を待ち望みました。そして、長い沈黙と苦しみを経て、ついに彼は光を見たのです。私たちも同じ恵みにあずかります。 【祈り】 主よ、絶望し尽くしてしまっても、あなただけがわたしの望みです。

  45. 956

    わたしを執り成し弁護される方(ヨブ記 16章)

    このような時にも、見よ 天にはわたしのために証人があり 高い天には わたしを弁護してくださる方がある。 (ヨブ記16章19節) 15章で、エリファズは悪人が滅びへと至る描写をヨブに当てはめて語りました。ヨブを襲っている苦しみは、悪人が受けるべき報いであると、彼は言いたいのです。その言葉にいっそう苦しめられたヨブは、「そんなことを聞くのはもうたくさんだ」と口にしています(2節)。この章のヨブの応答は、友人に向けた言葉だけでなく、神に向けて訴えかけている部分も多くあります。 以前もヨブは、「力に訴えても、見よ、神は強い。正義に訴えても、証人となってくれるものはいない」と言って苦しんでいました(9章19節)。今のヨブにとって、嘆いても答えてくださらない神は、自分を責め立てる「敵」のような存在となっています。しかし、自分を責め立てる神と、自分との間を執り成し、弁護してくださる友が天においていてくださるという希望を告白しています(16章19節以下)。 この章におけるヨブの希望は、私たちの信仰にとっても非常に重要です。新約聖書と共にこの章を読むことが許されるならば、神と人間の間を執り成すお方を私たちは知っています。私たちは神に怒りを向けられる罪人でした。しかし、私たちと神との間を執り成すイエス・キリストが私たちの唯一の救い主です。 【祈り】 私たちとあなたの間を執り成す主イエス・キリストをお与えくださり、感謝します。

  46. 955

    この苦しみは悪の報いかそれとも……(ヨブ記 15章)

    さて、悪人の一生は不安に満ち 暴虐な者の生きる年数も限られている。 (ヨブ記15章20節) 15章からヨブと友人たちの議論の二回目のサイクルが始まります。この章における友人エリファズの発言は、一回目(4~5章)よりも激しくなっています。 後半の17節以下から、エリファズは、悪人の運命について叙述的に語っています。ここで言われていることは、悪人が、やがては滅びに至るということです。明らかにヨブに当てはめて語っています。「もし、あなたが苦しんでいるのなら、それは悪人として当然の報いではないか」と言いたいのではないでしょうか。エリファズの見解は、一貫して、因果応報的な考え方です。 もちろん、聖書の中には、「神に従う者に祝福があり、神に背く者に呪いがある」と記されている箇所があります。しかし、今、ヨブが直面している問題は、その方程式で測ることができないことでした。神に従いながらも、ヨブの身に数々の苦難が起こりました。だからこそ、ヨブは神に対して呻き、叫んでいるのです。 私たちの人生も、分からないことが多くあります。苦しみの意味が見出せないことがあります。それを友人たちのように理屈で説明することはできません。しかし、苦しみの時の神への問いかけが、生ける神との対話の時となることをヨブ記は教えているのではないでしょうか。 【祈り】 主よ、理屈では分からないことが多いです。御心を悟らせてください。

  47. 954

    神に愛されるという信仰的な現実(ヨブ記 14章)

    どうか、わたしを陰府に隠してください。… しかし、時を定めてください。 わたしを思い起こす時を。 (ヨブ記14章13編) ヨブは、神がヨブを懲らしめることの不合理さを申し立てるにあたり、人間という存在の弱さを強調します(1、2節)。神がとりたてて懲らしめたりしなくても、放っておけばいずれはしおれる。切られたところから若枝が芽吹き命を繰り返すという、樹木のような性質はない(7~10節)。それが人間だ、と言うのです。 そこでヨブは、神がヨブへの懲らしめをやめ、むしろ死後も共にいてくださればよいのにと空想します(13~17節)。ヨブの苦悩は、妻にも(2章9節)、友人たちによっても慰めを得られない孤独という、陰府に下るにも等しいほどの苦痛でした。ヨブはこれ以上ない苦痛の中で、神に「御目を…そらせてください」(6節)と願いつつ、同時に神に愛され大切にされたいとも夢見る矛盾を抱えて、呻きました。しかし結局ヨブは、神に愛される望みなど既に絶たれているのだと合点します(18~22節)。空想によっては、救いを得ることができなかったのです。 「神に愛される」という救いは、儚い空想に過ぎないのでしょうか。いいえ。それは聖書が示す、目に映らない信仰的な現実です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハ3章16節)。この現実を信じて、神と共に生きましょう。 【祈り】 神がわたしを愛しておられるという信仰的な現実を信じることができるよう、きょうも導いてください。

  48. 953

    旧約の成就新しい時代の幕開け(マタイによる福音書 27章11-56節)

    百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、…「本当に、この人は神の子だった」と言った。 (マタイによる福音書27章54節) 主イエスは、父なる神の御怒りを全存在でお受けになりました。遂に、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と絶叫して息を引き取られました。主イエスは、このようにして旧約時代の人びとから今を生きる私どもまで、全人類の罪を完全に贖ってくださったのです。 その証拠として、父なる神は神殿の垂れ幕を上から下へと引き裂かれました。主イエスを門とする至聖所の扉が開き、今や誰もが、主イエスを通って、父との交わりを許されます。 マタイは、大地の揺れと岩が裂けたことを記して、かつてシナイ山でモーセに現れた主なる神が、今この場所に現れたこと、旧約聖書が主イエスによって完成されたことを力強く告げているのです。 当時、復活は世の終わりに起こるとされていました。しかし、マタイは十字架こそ世の終わりの始まりだと告げます。聖なる神の御前に招き入れられ、復活の証人となった人びとは、その先取りです。何よりも、救いに最も遠く、敵であるはずの異邦人、しかも手を下した当事者たちが、皇帝ではなく主イエスを神の子と告白します。証人としての価値を否定されていた女性たちの活躍も予告します。 【祈り】 主よ世界はまるで何も変わらず、古い時代のままのようです。どうぞ、十字架の福音によって私たちの眼を開いてください。新しい時代の幕開けの証人として用いてください。

  49. 952

    祈りを聞いてくださる主へと向かう(詩編 120編)

    苦難の中から主を呼ぶと 主はわたしに答えてくださった。 (詩編120編1節) もっとも長い119編に続いて「都に上る歌」という表題が付けられた15の詩編がまとめられています。これらは「巡礼の歌、巡礼歌集」と呼ばれます。120編は、その「巡礼歌集」の最初に置かれていますが、この詩編には、直接的に巡礼を示唆する言葉はありません。 詩人は、「苦難の中から主を呼ぶ」と告白し、主が応えてくださったと証言します。彼は、自分を傷つける「偽って語る唇」「欺いて語る舌」からの救いを求め、さらに周囲の人びとが争いを好み、私が平和を語りかければ彼らは戦いを求めると主に向かって嘆き、助けを求めます。神を知らず、神に背いて生きる人びとの中で詩人は神に依り頼みます。 今置かれた苦しみ、平和の失われた状況の中でも、神から遠く離れていると思わされるような環境の中でも、祈りを聞いてくださる主に答えていただくために、心を主へと向ける。この詩編が「巡礼の歌」とされているのは、まさにそのような信仰が表れているからでしょう。 私たちも日毎に主に向かう旅を続けます。それは、主の日から主の日に向かって、救い主イエス・キリストの十字架を見上げつつの旅です。神に、主キリストに信頼して、信仰の旅路を続けていきましょう。 【祈り】 主よ、あなたに信頼して、信仰の旅路を歩ませてください。苦難の時、わたしの魂を平和へと導いてください。

  50. 951

    いつだって神に食い下がる(ヨブ記 13章)

    そして、呼んでください、お答えします。 わたしに語らせてください、返事をしてください。 罪と悪がどれほどわたしにあるのでしょうか。 (ヨブ記13章22節~23節) 神を害悪の源でもある全能者として畏れるヨブは、死の覚悟をもって、神への申し立てを望みます。彼は、神が気まぐれにヨブを懲らしめるのを中止すること(21節)、あるいはそれが正当な懲らしめであるならば、その落ち度を指摘してくださること(23節)を求めます。そのいずれもなさらず、ヨブに対して御顔を隠しておられる(24節)神の御心を計りかねて、ヨブは苦悩しているのです。 ヨブには死の覚悟と同時に、自らの主張の正しさへの自信もありました。かつての罪(26節)を神に赦していただいたヨブは、その後も神に対しての罪を重ねぬよう、ことあるごとにいけにえをささげ、神の祝福を受ける喜びに与りました(1章5節)。その後ヨブへの祝福は絶たれましたが、それはヨブがいけにえを疎かにしたからではありません。となると、その原因は神の側にあるということになります。ヨブは、苦悩から脱するために、自らの正当性を神に認めていただきたいと考えました。 そもそも神を「慈しみとまこと」の神(詩117編2節など)でなく、害悪の源と見なして向き合っているという落ち度はありますが、救いを求めて偶像に走らず、神に食い下がったヨブの姿勢には、私たちも見倣うべき点があります。 【祈り】 救いを求めて、ひたすら主に依り頼む信仰を、きょうも私たちにお与えください。

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