PODCAST · religion
リジョイス聖書日課
by RCJメディアミニストリー
リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。
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1000
沈黙と謙遜の中で主を待ち望め(詩編 131編)
わたしの魂を、幼子のように 母の胸にいる幼子のようにします。 イスラエルよ、主を待ち望め。 今も、そしてとこしえに。 (詩編131編2節~3節) きょうの詩編の冒頭で、詩人は、主に対して驕ることも高慢になることもしませんでしたと述べます。驕りや高慢が、堕落や破滅を身に招くことを聖書は何度も語っています。詩人はそのことに気をつけつつ、主の御前に小さな存在としての自分を自覚して生きてきました。また、能力を超えた大事業に関わることもしなかったと自分の人生を振り返ります。周囲の人びとの目を引いたり、後世に名を残したりするようなことはなく、ごくごく平凡な日常を過ごしてきたのでしょう。主の御前に静かに額ずく信仰者の姿がここにあります。 その彼の願いは、魂を「幼子のように」することでした。この言葉が二度繰り返されます。乳離れした子どもが、親の差し出す食べ物を自分で噛み締めて栄養とし、成長する姿が想起されています。つまり自らを、主が差し出す霊的な食物である御言葉の養いなくして生きていけない存在として自覚し、いっそう御言葉を慕い求め、それを糧として生きていこうと決意しているのです。ここに御言葉を待ち望むすべての神の民の姿があります。 明日の主の日の礼拝を前にして、忙しく過ごす手と魂を休め、一人静かに祈りつつ、また御言葉を慕い求めつつ、主を待ち望みましょう。 【祈り】 小さなわたしに目を留めてくださる主よ、御言葉をとおして語ってくださるあなたを待ち望みます。
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999
目で見ず心で悟らず立ち帰らない(ヨハネによる福音書 12章)
「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」 (ヨハネによる福音書12章36節) 主イエスがラザロを生き返らせたことは、主イエスがメシアであることの決定的な「しるし」でした。目撃した人びとはその奇跡を広め、大勢の群衆はエルサレムに入城する主イエスをなつめやしの枝を振って歓迎しました。それは、敵対していたファリサイ派の人びとも「何をしても無駄だ」とあきらめるほどでした。 しかし、群衆の期待は、イスラエル民族の解放であり、この世的な救いだったのです。主イエスが「一粒の麦は、地に落ちて…死ねば、多くの実を結ぶ」と語り(24節)、また「人の子は上げられなければならない」と告げて(34節)、御自身の十字架の死を予告したとき、たちまち彼らの心は離れていきました。福音書は、イザヤ書を引用して「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた」と言い(40節)、旧約の預言が成就したのだと示します。彼らは目で見ず心で悟らなかったのです。 神の言葉は、私たちを救いに導く福音であり、喜びへの招きです。しかし一方で、これを信じないなら決して救われることはないと告げる裁きの言葉でもあります。主イエスは、御自身が十字架の上に上げられ、さらに天に上げられるとき、すべての人を引き寄せると言われました(32節)。主イエスのこの真実な招きに、きょうお応えしましょう。 【祈り】 主イエスをしっかりと見て、心で信じることができますように。
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998
わたしは復活であり命である(ヨハネによる福音書 11章)
イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。 (ヨハネによる福音書11章35節~36節) 主イエスはエルサレム神殿で、「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。…わたしと父とは一つである」と人びとに宣言されました。この言葉に激しく怒ったユダヤ人たちは主イエスを殺そうとします。そこを去ってヨルダン川対岸に身を隠した主イエスのもとに、ラザロが重い病に倒れたという知らせが届きました。 ラザロとマリア、マルタが暮らす家はエルサレムに近いベタニア村にあります。主イエスは、二日の後、意を決してベタニア村へ向かいます。 村の入り口で待っていたマルタはラザロの死を告げました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。同時に、マルタは主イエスへの信仰を改めて言い表しています。また、マルタがマリアに主イエスの到着を告げると、マリアもすぐに家を出て主イエスに会い、マルタと同じ言葉を言って、すぐに泣きだしてしまいました。このとき、主イエスもまた涙を流されたと書かれています。 その後、主イエスは墓に向かって叫ばれました。「ラザロ、出て来なさい」。ラザロは復活しました。主イエスは復活であり、命です。それは単なる教理の言葉ではなく、死すべき私たちへの心からの愛と憐れみによる神の救いの力なのです。 【祈り】 主よ、あなたは罪の赦しと永遠の命を私たちに与えてくださいました。感謝します。
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997
神の驚くべき助けを得て神に仕える(列王記下 15章)
主が王を打たれたので、王は死ぬ日まで重い皮膚病に悩まされ、隔離された家に住んだ。 (列王記下15章5節) アザルヤがユダ王国の王位を継承しました。彼の在位は五十二年という長きに亘りました。歴代誌は、アザルヤをウジヤと呼び、彼の政治的な手腕が大変優れていたことを、「ウジヤは、神の驚くべき助けを得て勢力ある者となり、その名声は遠くにまで及んだ」(代下26章15節)と記します。しかし、主はウジヤを打ち、死ぬ日まで重い皮膚病で悩まし、隔離しました。 列王記にはウジヤが打たれた理由は記されていませんが、歴代誌は克明にその理由を記しています。「彼(ウジヤ)は勢力を増すとともに思い上がって堕落し、自分の神、主に背いた。彼は主の神殿に入り、香の祭壇の上で香をたこうとした」。祭司アザルヤはウジヤの前に立ちはだかって言いました。「ウジヤよ、あなたは主に香をたくことができない。…あなたは主に背いたのだ」。律法で、香をたくことは祭司だけに許されていました(出30章7節)。「香をたこうとして香炉を手にしていたウジヤは怒り始めたが、…重い皮膚病がその額に現れた」(代下26章16~19節)。 私たちもまた神から与えられた豊かな賜物が大きく用いられると、それを自分の力と錯覚し、無意識のうちに賜物を自分の力として誇ろうとします。しかし歴代誌は語るのです。「神の驚くべき助けを得て」と。 【祈り】 主イエスよ、死に至るまで常に、あなたに従順であらせてください。
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996
神はわたしの悔い改めを待っておられる(列王記下 14章)
主はイスラエルの名を天の下から消し去ろうとは言われず、ヨアシュの子ヤロブアムによって彼らを救われたのである。 (列王記下14章27節) ヤロブアム(二世)は、王の在位期間が短くなっていたイスラエル王国にあって、四十一年という長きに亘って王位にありました。彼の政治的な成果は目覚ましく、「彼はレボ・ハマトからアラバの海までイスラエルの領域を回復した」のです(25節)。 しかし列王記は、「彼は主の目に悪とされることを行い、…罪を全く離れなかった」と記します(24節)。神に背を向け続けるイスラエルに対して神が示された、四十一年間の国家繁栄の恵みをどのように理解することができるでしょうか。 列王記は続けます。「主は、イスラエルの苦しみが非常に激しいことを御覧になったからである。…イスラエルを助ける者もいなかった」と(26節)。神は、神に背を向け続けている選びの民イスラエルの霊的な苦しみが非常に大きいことを見ておられました。神はそのイスラエルを深く憐れみ、国が滅亡することからイスラエルを守り、契約の民として悔い改めることを待っておられたのです。 同時代の預言者ホセアが語る神の言葉です。「わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸が焼かれる」と(ホセ11章8節)。神は選びの民であるキリスト者を決して見捨てることなく、いつも悔い改めることを待ち続けておられるのです。 【祈り】 主よ、あなたに背を向けているわたしに悔い改めの恵みを与えたまえ。
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995
神の力に依り頼む信仰(列王記下 13章)
イスラエルの王ヨアシュが下って来て訪れ、彼の面前で、「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」と泣いた。 (列王記下13章14節) イスラエル王国でのイエフの宗教改革が終わりました。そして、その子ヨアハズが王となります。しかし列王記は、イスラエル王国の諸王の評価について、「彼は主の目に悪とされることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバトの子ヤロブアムの罪に従って歩み、それを離れなかった」と記します(2節)。 しかし神は、そのようなイスラエル王国を憐れみ、預言者エリヤやエリシャを立て、王を励まし、時には悔い改めを与えて(王上21章)、王国を守り続けられました。その一つの例がイエフの孫に当たるヨアシュ王と預言者エリシャの物語です。列王記の、王に対する評価は低いものでしたが、ヨアシュ王は、父ヨアハズがアラムによって失った国力を回復するために、預言者エリシャを訪ね、神の力に依り頼みます。エリシャはヨアシュ王の手に自分の手をのせて、「矢を射なさい」と命じます。ヨアシュ王が矢を射ると、エリシャは「主の勝利の矢。アラムに対する勝利の矢。あなたはアフェクでアラムを撃ち、滅ぼし尽くす」と預言しました(15~17節)。ヨアシュ王は、エリシャの預言のとおりにアラムに勝利し、国力を回復したのでした。 「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう」(ヘブ13章6節)。 【祈り】 主よ、わたしに心から神の力に依り頼む信仰をお与えください。
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994
御言葉を聞いて悟る人(マタイによる福音書 13章1-9節、18-23節)
「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」 (マタイによる福音書13章23節) 使徒パウロは、ローマの教会に書き送った手紙の中で「信仰は…キリストの言葉を聞くことによって始まる」と言っています(ロマ10章17節)。私たちの信仰は、このように御言葉を聞いて芽生え、また、御言葉によって育まれます。 その御言葉をしっかりと受け止めて自分のものにし、それを自分の信仰生活の糧とするためには、私たち自身がふさわしい良い土地にならなければなりません。御言葉を聞いても悟れない道端や、最初は喜んでも心に根差してないので艱難や迫害につまずいてしまう石だらけの土地、そして世の思い煩いや富の誘惑によって実らない茨の多い土地のようになっては、決して良い実を結ぶことができません。 「良い土地」というのは、「御言葉を聞いて悟る人」です。それは語られた御言葉を真摯に受け止め、へりくだって従う姿勢です。与えられた聖書の言葉が自分の信仰を養うことを信じる人こそ、御言葉の実を見ることのできる人です。 きょうは主の日です。礼拝の中で語られる御言葉に心から信頼して、それを自分の信仰の糧とすることができますように。そのとき、驚くばかりの実を結ぶものとされるのです。 【祈り】 私たちに語られる御言葉をいつもへりくだって受け止め、従うことができますように。
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993
慈しみと贖いの主を待ち望め(詩編 130編)
イスラエルよ、主を待ち望め。 慈しみは主のもとに 豊かな贖いも主のもとに。 (詩編130編7節) きょうの詩編の冒頭は、「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます」と始まります。「深い淵」とは水の底を意味し、死に至る危機を表しています。詩人と彼の属するイスラエルは今、死の脅威にさらされていて、そこから主に呼びかけているのです。 しかし、彼は知っています、この危機をもたらした責任は自分とイスラエルにあることを。主を前にして、偽りの呼びかけは通用せず、民と自分の罪を自覚し、心から主に赦しを求めるのでなければ聞かれないことも知っています。 そのような彼の希望となるのは、主は人の罪に正しく報いられる方であるということ、そして主の憐れみは、他に比べようもないほどに深いということです。だからこそ詩人は、「深い淵」にあってなお希望を失いません。さらに希望するとは、自分で想像するとか、あいまいな夢を見ることではありません。「見張りが朝を待つにもまして」忍耐しながら、一筋の光のような主の御言葉を待ち望むことなのです。詩人の希望は御言葉にこそあります。 そして今、御言葉の成就として、主の慈しみと贖いを携えて御子イエス・キリストが私たちのもとに来てくださいました。この方こそ、わたしたちの希望です。 【祈り】 深い淵の底まで来て贖ってくださった御子イエス・キリストに感謝し、どんなときも希望とします。
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992
試練のとき神の言葉が力となる(列王記下 12章)
ただ聖なる高台は取り除かれず、民は依然として聖なる高台でいけにえを屠り、香をたいた。 (列王記下12章4節) アタルヤは、王位継承の資格のある者を次々に殺害しましたが、神は祭司ヨヤダを用いて、ヨアシュをユダ王国の王として立てられました。彼は、祭司ヨヤダの教えを受けて、その生涯を通じて、主の目にかなう正しいことを行いました(3節)。 しかし、ユダ王国は大きな試練に直面します。アラムの王ハザエルがエルサレムに攻め上って来たのです(18節)。ヨアシュ王は、先祖であるユダの王ヨシャファトらが聖別したすべての聖なる物、自分自身が聖別した物、主の神殿の宝物庫と王宮のすべての金を取り出し、ハザエルに送ったのでした(18、19節)。 こうしてヨアシュ王はハザエルの攻撃からエルサレムを守ることができました。しかし、それは神を信じない異邦人であるハザエルに聖別した物を献げる、という方法でした。すなわち、神への信仰から離れ、神殿の宝物という物質の力に頼ることによって、国を守るという方法でした。偶像礼拝のための聖なる高台で、神を礼拝し続けたヨアシュ王の信仰の曖昧さが、大きな試練に直面したとき、非常に大きな信仰のゆらぎとなって現れてきたのです。 試練が大きいときにこそ、「あなただけが主であることを知るに至らせてください」(イザ37章20節)との神の言葉に立ちたいと思います。 【祈り】 主よ、神の言葉によって、試練に打ち勝つ力を与えてください。
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991
主イエスこそ恵みの契約の成就者(列王記下 11章)
アハズヤの母アタルヤは息子が死んだのを見て、直ちに王族をすべて滅ぼそうとした。 (列王記下11章1節) アタルヤは、イスラエル王国の王アハブとイゼベルの娘でした。彼女は、ユダ王国の王ヨラムと結婚しアハズヤの母となりました。悪質きわまる両親の娘であるアタルヤが、ユダ王国の王と結婚したことによって、アハブ家の罪が、ユダ王国を侵食し、王国の王位継承を脅かします。 しかし、イスラエル王国の王として油注がれたイエフは、宗教改革を断行し、アハブの跡を継いだヨラム王と、彼の見舞いに来ていたアタルヤの息子であるアハズヤ王をイズレエルで殺害しました(9章)。こうして、ユダ王国には王が不在となりました。 アハズヤ王の母アタルヤは、王位を継承する資格のある者を次々に殺害し、自分がユダ王国を治める地位を獲得します。しかし、祭司ヨヤダはアハズヤ王の子であるヨアシュを神殿の部屋に隠して、時を待っていたのです。ヨヤダは、七年目にヨアシュ王の存在を公に宣言することによって、アタルヤを排除することに成功したのでした。 人間の罪によって、ダビデの王位継承が脅かされ、契約が破られたかに見えたとき、神は、イエフやヨヤダを用いて、契約の光を灯し続けられました。その契約は今、ダビデの子主イエスの贖いの御業によって、私たちキリスト者に成就しています。 【祈り】 悪がはびこる世にあって、主イエスの光を見つめさせてください。
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990
主の言葉は一つも地に落ちない(列王記下 10章)
「ただ、このことだけは知っておくがいい。主がアハブの家に対してお告げになった主の言葉は一つも地に落ちることがない。」 (列王記下10章10節) 10章には、続けて北イスラエルの王イエフによるアハブ家の全滅について記されています。 イエフはイゼベルを討った後、サマリアでアハブの家の者をことごとく打ち殺し、一族を全滅させました。また、彼は、アハブ家によってイスラエルに広まっていたバアル崇拝を絶やすため、策略を用います。「大いにバアルに仕えるつもりだ」と言って、バアルに仕える者を皆、バアルの神殿に集めました。そして、彼らを一人残らず討ち、神殿を破壊しました。こうして、彼はイスラエルからバアルを滅ぼし去りました。 これらのことは、イエフの残虐さではなく、アハブ家に対する主の怒りの大きさを示しています。また、主がかつて預言者エリヤを通して語られた、アハブ家に対する主の言葉が一つも地に落ちることなく、ことごとく実現したことを示しています。 主の言葉は語られるならば、一つも地に落ちることなく、必ず実現します。「わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」と書かれているとおりです(イザ55章11節)。 主の御言葉を畏れをもって聞き、その約束の実現を信じて歩んで参りましょう。 【祈り】 神よ、あなたの御言葉に耳を傾け、その約束を信じて歩ませてください。
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989
主の報復の約束が実現する(列王記下 9章)
「こうしてわたしはイゼベルの手にかかったわたしの僕たち、預言者たちの血、すべての主の僕たちの血の復讐をする。アハブの家は全滅する。」 (列王記下9章7節~8節) 9、10章には、北イスラエルの王イエフの即位と、それに伴うアハブ家の全滅について記されています。アハブは妻イゼベルが信じるバアル崇拝を進んで行い、主の目に悪とされることを重ねました。またイゼベルは、主の預言者たちの多くを殺す罪を犯しました。さらに二人は、私欲のためにイズレエルの人ナボトの土地を強奪し、彼を殺しました。そのため、主はかつて預言者エリヤを通して、アハブ家に報復と裁きが下されることを預言していました。 この実現のために、王として立てられたのがイエフでした。イエフは立ち上がり、イスラエルの王アハブの子ヨラムに対して、謀反を起こします。イエフは、アラムとの戦いで負傷してイズレエルにいたヨラムを討ちました。また、イエフはちょうどその場所にいたアハブの孫ユダの王アハズヤも打ちました。最後に彼はイゼベルのもとにたどり着きます。イゼベルはそれを聞いても、目に化粧をし、髪を結い、窓から見下ろしていました(30節)。そして、イエフの言葉に従った宦官によって、窓から突き落とされて命を失いました。こうして、主の報復の約束の言葉がことごとく実現したのです。 主は御自身に仕える者の痛み、苦しみ、嘆きを忘れておられません。必ず正しい裁きを与えてくださいます。 【祈り】 神よ、自分で復讐せず、あなたの怒りに任せることができますように。
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988
恵みの上にさらに恵みを与える神(列王記下 8章)
「この婦人の物をすべて返しなさい。またこの地を後にした日から今に至るまでの畑のすべての収穫も返しなさい。」 (列王記下8章6節) シュネムの女性の続きの物語が記されています。彼女はかつて神の人エリシャによって、死んでいた息子を生き返らせてもらうという恵みをいただいた人でした(4章参照)。 その頃、「主が飢饉を呼び起こ」されるので、エリシャは女性にこの地を離れて七年間暮らすように伝えました。すると、女性はすぐに神の人の言葉どおりに行動し、家族と共にその地を去り、ペリシテ人の地に七年間住みました。 七年経って、女性は戻り、王のもとに自分の家と畑の返還を求めに行きました。そのとき、王はエリシャの従者ゲハジに「エリシャの行った大いなる業をすべて語り聞かせてくれ」と言って、神の人の業について聞いていました。ゲハジが、かつてエリシャが死人を生き返らせたことを話していると、ちょうどそこに女性とその息子が来たので、彼は「これがその婦人です。またこれがその子で、エリシャはこの子を生き返らせたのです」と語り、女性もそのことを証ししました。すると、王はこれを聞いて、女性のすべてのものと、離れていた期間の畑の収穫物すべてを返すように命じてくれました。 神の言葉に生かされ、恵みを与えられた人には、さらに恵みが与えられます。神は愛する子どもたちにいつも助けを備えてくださいます。 【祈り】 神よ、あなたの恵みを信じて、御言葉どおりに行動できますように。
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987
わたしのもとに来なさい(マタイによる福音書 11章16-19節、25-30節)
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」 (マタイによる福音書11章28節) きょうは神に礼拝をささげる主の日です。多くの方が教会に行かれるでしょう。しかし、さまざまな事情で教会に足を運ぶことができない方、自宅でインターネットを通じて礼拝にあずかる方もおられると思います。皆さんは、きょうの主の日をどのようにお迎えになっておられるでしょうか。 私たちはこの世の多くのことで心と体が疲れ、さまざまな悩みと心配事を抱えて生きています。そのような状態にある私たちの切なる願いはこの疲れた心と体に休みが与えられることかもしれません。 主イエスは、そのような私たちに「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とおっしゃるのです。主イエスは十字架による罪の赦しと平安をお与えくださいます。キリストによって与えられる霊的な安息こそが人間が最も必要としているものなのです。きょうも神の礼拝にあずかり、恵みと慰めの言葉を聞いて、神におゆだねしましょう。悩み事や肉体の疲れもまた癒され、新たな力をいただいて生きることができます。 いずれ私たちには神の御国におけるまことの安息が約束されています。しかし、その前に、主の日ごとにあずかる礼拝をとおして、まことの安息を味わうことができます。 【祈り】 きょうも神の礼拝にあずかり、まことの霊的安息が与えられますように。
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986
主の正しさに信頼して祝福を受けよ(詩編 129編)
主は正しい。 主に逆らう者の束縛を断ち切ってくださる。 (詩編129編4節) きょうの詩編の冒頭で、「わたしが若いときから彼らはわたしを苦しめ続けたが」という言葉が二度繰り返されています。呼びかけられたイスラエルの民は、長年、エジプト人、カナン人、ペリシテ人、アラム人、アッシリア人、バビロニア人、ペルシア人などによって激しく圧迫されてきました。彼らは「主に逆らう者」「シオンを憎む者」と呼ばれ、その悪行が主への反逆と主の民への嫌悪からなされたと表現されています。そして、「わたしの背を耕し、畝を長く作った」と表現されているように、押さえつけられ、苦しみもがいた年月は長く、その傷を今も背負いながら、民は都に上って礼拝に集っています。 しかし今、礼拝をする民に呼びかけられるのは、主の正しさへの信頼であり、解放者である主の御名を呼び求めることです。「彼らはわたしを圧倒できなかった」、なぜなら主がわたしたちに絡みつく束縛を断ち切ってくださったからと、告白を携えて民は主の御前に集まっています。 私たちもかつて罪の奴隷であり、さまざまな傷を携えて主の前へと導かれました。そのような私たちを御子イエス・キリストの贖いによって解放し、神の祝福を受ける者としてくださったことを覚えつつ、明日の主の日の礼拝に心を向けましょう。 【祈り】 苦しみの中で、主はわたしを救ってくださいました。あなたの正しさを賛美しつつ礼拝いたします。
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985
主の救いの言葉が実現する(列王記下 7章)
「主の言葉を聞きなさい。…『明日の今ごろ、サマリアの城門で上等の小麦粉一セアが一シェケル、大麦二セアが一シェケルで売られる。』」 (列王記下7章1節) 前章から続くアラムの二度目の攻撃によって、北イスラエル王国は首都サマリアを包囲され、兵糧攻めにあいました。その結果、イスラエルは大飢饉に見舞われ、本来食用ではないろばの頭一つが銀八十シェケルという高い値段で取引されるようになりました(6章25節)。また、母親がその子どもを食べるという悲惨な状況になりました(同29節)。 イスラエルの王は、この悲惨な現状はエリシャによって引き起こされていると考え、彼を殺すために使者を送ります。使者は彼のところに来ると、「この不幸は主によって引き起こされた」と、神に不平を述べました。 これに対し、エリシャは主の言葉として、「明日の今ごろ、サマリアの城門で上等の小麦粉1セア(約七・七リットル)が1シェケル、大麦2セアが1シェケルで売られる」と、日常の食物が安価で手に入るようになることを宣言します。その後、主がアラムの陣営に大軍の音を響き渡らせたので、アラム軍は陣営をそのままにして逃げて行きました。そのことでイスラエルは食物を手に入れることができました。主の言葉どおり、飢饉からの救いが与えられたのです。 絶望的な状況の中でも、主の言葉はそれを超えて実現します。主の救いの言葉に信頼して、きょう一日も歩んで参りましょう。 【祈り】 神よ、あなたの救いの言葉を信じる信仰を与えてください。
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984
わたしたちと共にいる者のほうが多い(列王記下 6章)
するとエリシャは、「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」と言って… (列王記下6章16節) アラムの王がイスラエルと戦っていたときのこと、アラムの作戦がことごとくイスラエル側に知られていたので、王は内通者がいると思いました。しかし、それは預言者エリシャの働きによるものでした。そこで、アラムの王は、エリシャを捕らえるため、彼のいるドタンの町に大軍を送ります。彼らは夜中に到着し、その町を包囲しました。 エリシャの召し使いが朝早く起きると、大軍が町を包囲していることに気づきました。「ああ、御主人よ、どうすればいいのですか」と、彼は絶望して言いました。すると、エリシャは「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」と彼を励ましました。そして、「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と祈り願うと、召し使いの目は開かれ、彼は火の馬と戦車がエリシャを囲み、山に満ちているのが見えました。彼は、数え切れないほど多い、万軍の主の御使いの軍勢が、自分たちと共にいて、戦ってくださることを知ったのです。 私たちの現実においても、大軍に町を包囲されるような、行き詰まった問題にひとりで向き合うことがあるかもしれません。しかし、そのとき、万軍の主の軍勢が私たちと共におられ、共に戦ってくださるのです。
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983
神の人の言葉が遣わされるなら(列王記下 5章)
ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。 (列王記下5章14節) アラムの王の軍司令官にナアマンという人がいました。彼は勇士でしたが、重い皮膚病を患っていました。重い皮膚病とは「ツァラート」と呼ばれる聖書特有の病です。それを患う者は、汚れているとされました。つまり、彼は、異邦人であり、重い皮膚病を患っているという二重の意味で、神の救いから遠い人でした。 あるときナアマンはイスラエルから捕虜として連れて来られた少女の勧めによって預言者エリシャのもとに行き、病を癒してもらおうと出かけました。彼はエリシャの家の前まで来ましたが、エリシャは使いをやって「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は…清くなります」と言葉を語るだけでした(10節)。この対応に一度は怒って帰ろうとしたナアマンですが、家来たちの進言により、何とか思いとどまり、ヨルダン川に向かいます。そこで神の人の言葉どおりに七度身を浸すと、彼の病は癒されました。 ナアマンは、神の救いから最も遠いとされる人でしたが、救いは訪れました。それは、彼が信仰熱心だったというよりも、ただ神の人の言葉が遣わされたからでした。そのように、神の言葉が遣わされるならば、最も救いから遠いと思われるところにも、神の救いは訪れるのです。 【祈り】 神よ、ただ恵みにより、神の言葉を遣わし、私たちに、また私たちの隣人に、救いを与えてください。
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982
シュネムの女性に対する神の恵み(列王記下 4章)
すると彼女は言った。「わたしがあなたに子供を求めたことがありましょうか。わたしを欺かないでくださいと申し上げたではありませんか。」 (列王記下4章28節) 預言者エリシャは、さまざまな人たちと交流を持っていました。貧しい人も裕福な人も、男も女もですが、預言者としての働きもその人びとの中でなされます。4章には比較的長く述べられる奇跡が二つと、短くまとめられたものが三つあります。 第一の油の奇跡が有名ですが、今回は第二の奇跡を見てみましょう。シュネムにいた裕福な女性がエリシャのために休憩場所を提供しました。何か求めるものがあるかなと思ったエリシャが尋ねると、「何不足なく暮らしている」という返事です。けれども、子どもがいないことが分かり、彼女に「来年の今ごろ、あなたは男の子を抱いている」と告げました。そのとおりになりましたが、その子どもが急死してしまいます。彼女は夫にも知らせず、五十キロも離れた所にいるエリシャのもとに急いで行き、言いました。「わたしがあなたに子供を求めたことがありましょうか」。 感情が高ぶっていますから、言葉も激しいのですが、彼女の態度は常に一つです。エリシャだけが解決できるという、預言者の権威を正しく認めていてこその態度です。また、「主は生きておられ」ますと言って、主に依り頼みます。彼女の名前もわかりませんが、見倣うところのある信仰の持ち主だったと言えます。 【祈り】 生ける神よ。私たちが絶望に近い思いになるときも、どうかあなたの解決に委ねられますように。
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981
四十周年宣言神の言葉を託された教会(ローマの信徒への手紙 10章5-21節)
実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。 (ローマの信徒への手紙10章17節) 新信条の作成は、「我等ノ言葉ヲ以テ」と「創立宣言」に明記されて以来の私たちの教会の悲願です。「四十周年記念宣言(以下、「宣言」)」はそのための具体的な一歩を踏み出しました。『ウェストミンスター信仰告白』第1章「聖書について」に応答し、「聖書について」、「聖霊について」、「福音の宣教について」からなる「信仰の宣言」が作成されました。そのような「信仰の宣言」を積み重ねていく先に新信条作成の幻を見たのでした。 「宣言」は、「旧新約聖書はそこにおいて神が、み子イエス・キリストを通し、みたまによって、私たちに今語っておられる、神の生けるみ言葉であり、信仰と生活の唯一の誤りなき基準である」と告白します。聖書を「神の生けるみ言葉」として聞くとき、その言葉を託された教会のあり方が問われもします。「真の教会は、…キリストの権威あるみ声にのみ、常に全き信頼をもって聞き従い、それに対してみずから主となることをせず、またほかの人々の声に耳を貸すことをしない」。教会は聖書から「熱心に真理」を探り、「信仰と愛をもって受け入れ」、そこから応答の歩みをなします。祈りをもって学び、語り、神が民を招き、「主の再び来られるのを待ち望」みます。そのように、「宣言」は「聖書」を告白し、「聖書」を委ねられた教会を告白しています。 【祈り】 「アーメン。造り主なるみたまよ、来たりませ。」
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980
剣をもたらすために来られたキリスト(マタイによる福音書 10章34-42節)
「わたしよりも父や母を愛する者…息子や娘を愛する者…また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」 (マタイによる福音書10章37節~38節) 主イエス・キリストは、平和ではなく、まず剣をもたらすために来られました。ミカ書7章を引用して、私たちの家族、父や母、息子、娘が、キリストへの信仰のゆえに、敵対することを告げられます。また、自分自身の自己愛にも剣を投げ込まれます。 主イエスは、御自身よりも家族を愛し、自分を愛する者は、わたしにはふさわしくない、と言われます。それは、家族関係が罪と腐敗という古さにあるならば、そこに死ぬこと。また、自分の十字架を担って、キリストのあとに従うこと。そのあとに、剣の破れが修復され、キリストにある、真の命と平和にあずかることができます。 キリストに従って、神の国の福音を宣べ伝える預言者、正しい者、弟子をキリストの名のゆえに受け入れる者は、主イエスを受け入れたことになります。主イエスを受け入れる人は、遣わされた天の父なる神を受け入れる、光栄と特権が与えられます。 小さき者である伝道者を助けて、水一杯でも飲ませ、世話をし、支援する者となるならば、必ず報いがあると、主は励ましてくださいます。伝道者と伝道された者とが、キリストにある新しい家族となって形づくられ、育てられます。こうして神の国にふさわしい者が、神の家族となって、その報いと慰めにあずかります。 【祈り】 古い家族に死に、自分に死んで、キリストに従い、伝道を通して、新しい神の家族にあずからせてください。
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979
シオンから主が祝福してくださるように(詩編 128編)
シオンから 主があなたを祝福してくださるように。 (詩編128編5節) 「いかに幸いなことか、主を畏れ、主の道に歩む人よ」とあり、主の道に歩む人の幸いが歌われています(1節)。そこで幸いとして挙げられるのは、自分の手で労して得たものがすべて自分の食べ物となること、妻や食卓を囲む子ら、子孫がいることです(2、3、6節)。特別なことではなく、当たり前のことにも思えます。 しかし、エジプトで奴隷だったイスラエルの人びとにとって、自分の手で労して得たものがすべて自分のものとなるとは、決して当たり前ではありませんでした。家族が一緒に食卓を囲むことも決して当たり前ではなく、たとえばイサクの二人の息子、エサウとヤコブは仲違いし、ヤコブは家を飛び出してしまいました。信仰者の家族であっても理想的な家族でいられるわけではありません。 私たちの現実は、詩編の描く光景から遠く、痛みと破れを抱えたものだと言えるでしょう。いったいどうしたら、ここに描かれる幸いを得ることができるのでしょうか。 「シオンから、主があなたを祝福してくださるように」。祝福はシオンから来ます。シオン、すなわちエルサレムで十字架にかけられた主イエスから来るのです。十字架によって平和の礎を築かれた主が、本当は当たり前の幸いを真に実現してくださいます。主の平和の実現を祈ります。 【祈り】 主よ、私たちの家庭に、家族に、あなたの平和を成し遂げてください。
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978
風もなく雨もないのに水が溢れる(列王記下 3章)
「主がこう言われるからである。『風もなく、雨もないのに、この涸れ谷に水が溢れ、あなたたちは家畜や荷役の動物と共にそれを飲む。』」 (列王記下3章17節) 北イスラエルのアハブ王の死は、モアブにとってイスラエルの支配から逃れる絶好の機会でした。それでモアブが反旗を翻しました。アハブを継いだアハズヤ王が死に、北イスラエルの王となったヨラムは南ユダのヨシャファト王に、連合してモアブを討伐することを持ちかけます。 しかし、「エドムの荒れ野の道」で難渋し、特に飲料水の不足が問題となります。信仰深いヨシャファトは神の導きをいただくために主の預言者を求め、彼らはエリシャを訪ねます。エリシャのヨラム王に対する冷たい態度に驚きますが、それはヨラムの不信仰な姿を反映しているでしょう。エリシャはヨシャファト王への敬意から神の言葉を伝えます。涸れ谷に次々と堀を造りなさい。すると周りが水でいっぱいになると。 そのとおり、翌朝、周りは水でいっぱいになります。その溜まった水を太陽が照らし、遠くから見ると血のようで、同士討ちが起こったと勘違いしたのでしょう。モアブがイスラエルの陣営に突入しますが、イスラエルが迎え撃ち、勝利しました。 エリシャが言うとおりでしたが、しかしヨラム王の思惑どおりではありません。主なる神は、不信仰な王をも自然をも支配し用いて、ご自分の民を導いておられます。この絶妙なはからいをなさる神を信じましょう。 【祈り】 生ける神よ。あなたの不思議な導きとご支配を信頼できますように。
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977
神の霊を受け継いだエリシャ(列王記下 2章)
エリシャは、「あなたの霊の二つの分をわたしに受け継がせてください」と言った。 (列王記下2章9節) エリヤの付き人として預言者教育を受けていたエリシャは、「あなたの霊の二つの分をわたしに受け継がせてください」とエリヤに願いました。長男は他の兄弟の倍を受け継ぐと律法で定められていて、わたしを後継者にしてくださいという意味です。 これはエリヤの一存で決まることではありません。エリシャが非常に熱心で、エリヤのそばを離れなかったことが何度も書き留められます。しかし、「預言者の仲間五十人」とあり(7節)、誰が後継者になっても不思議はなかったのでしょう。単に熱心があるだけではいけません。主が遣わされる、はっきりしたしるしが必要です。それでエリヤは、「わたしがあなたのもとから取り去られるのをあなたが見れば、願いはかなえられる。もし見なければ、願いはかなえられない」と答えます(10節)。 エリシャの目の前で火の戦車が現れ、エリヤが天に上って行きます。その後、エリシャは、水を打つと水が左右に分かれて渡ることができるなど、不思議な奇跡を行うようになり、預言者の仲間たちからエリヤの後継者として認められました。 異教が広がり、霊的に底を打つほどに低下していた時代です。その中でも、主が不思議な出来事をとおして、後継者を立ててくださいました。主が神の民を導いておられます。 【祈り】 生ける神よ。ご自分の民を守り導く、愛と慈しみに感謝いたします。
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976
御言葉を求めるのはどなたにか(列王記下 1章)
「『あなたはエクロンの神バアル・ゼブブに尋ねようとして人を遣わすが、イスラエルには神がいないとでも言うのか。』」 (列王記下1章6節) アハズヤ王はアハブ王の子で、北イスラエル王国を治めていました。「屋上の部屋の欄干」は当時の流行であった細かい編み目のある木の柵です。涼しい風は入りますが強風は通しません。そこからなぜ落ちたのかは分かりませんが、再起の見通しが立たない重傷であったようです。 未来を知りたくなった王は、こともあろうにペリシテのエクロンという町のバアル・ゼブブに伺いを立てます。直訳すると「蝿の神」です。「主なる君」を意味するバアル・ゼブルが本来の名と思われますが、侮蔑して言い換えているのでしょう。アハズヤは父アハブの不信仰を受け継いでいて、求める相手を間違えたのです。 主の御使いに命じられ、預言者エリヤがアハズヤの使者を帰らせます。それでアハズヤはエリヤを捕らえようとします。第一陣、第二陣は失敗します。隊長が高飛車で、神よりも王の命令を上にしていて、それが裁きを招きます。求め方を間違ったのです。へりくだった第三陣には、そのような裁きはくだりませんでした。 アハズヤの姿は、神を見失った霊的な暗さを示しています。御言葉が与えられ、取り継ぐ預言者がいながら、神を見失い、道を見失うのは最悪です。謙そんに主の御声に耳を傾けて歩みましょう。 【祈り】 生ける神よ。どうかわたしの心を照らし、求めるお方と方法を誤らないようにしてください。
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975
羊のために命を捨てる羊飼い(ヨハネによる福音書 10章)
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」 (ヨハネによる福音書10章11節) 10章には、ヨハネによる福音書に特徴的な主イエスの七つの「エゴー・エイミ(わたしは~である)」聖句のうちの二つがあります。7節・9節「わたしは羊の門である」と11節・14節の「わたしは良い羊飼いである」の二つです。 草や水を求めて山野を歩き回る羊は、夜には羊飼いに導かれて囲いの中に入ります。囲いの中に入れば安全であり、羊は安息を得ます。羊は、囲いに入るときも、翌朝、囲いから出る時も必ず門を通ります。門を通って牧草地に行き、門を通って安息を得るのです。そのように、私たちは主イエスを通って生活し、罪の赦しと永遠の命を得るのです。 主イエスは「わたしは良い羊飼いである、良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われます。「命を捨てる」とは、命を惜しむことなく羊を守り養うことです。主イエスは、私たちの罪を赦し、命を与えるために十字架にお架かりになり、三日目によみがえられました。 羊飼い出身のイスラエルの王ダビデは、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」(詩編23編1節)と歌いました。死んでよみがえり、今、生きておられる主イエスと結ばれ、主イエスに依り頼んで生きるとき、私たちの救いは確かです。 【祈り】 主よ、あなたが羊のために命を捨てる良き羊飼いでいてくださることに感謝します。
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974
神の業がこの人に現れるため(ヨハネによる福音書 9章)
イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」 (ヨハネによる福音書9章3節) 主イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられました。弟子たちが尋ねました。「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」。主イエスは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」とお答えになりました。そして唾でこねた土をその人の目に塗り、シロアムの池で洗うようにと言われました。言われたとおりに彼が池の水で目を洗ったとき、彼の目は見えるようになりました。主イエスの行為と御言葉が、鮮やかな神の御業としてこの人に現れたのです。 イザヤ書35章5節に「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く」とあり、また29章18節には「盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる」とも記されています。メシアの到来とその御業を語る救いの預言です。 見えるようになった人は、ファリサイ派の人から「お前はあの人をどう思うのか」と尋ねられ、神のもとから来られた預言者です、と答えました。この人は主イエスの御業と御言葉によって霊的開眼を与えられたのです。私たちが主イエスによって見えない神を信じることができるのは、神の御業以外にありません。 【祈り】 神よ、見えない私たちの霊の目を開いてください。
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973
人を恐れず主イエスを言い表しなさい(マタイによる福音書 10章26-33節)
「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。」 (マタイによる福音書10章32節) 主イエスは、人びとを恐れるな、と繰り返し三度も命じて励ましておられます。主ご自身がベルゼブル、悪霊の頭だと罵られましたから、同じように、弟子であるなら、罵られ、苦しむのは必至です。キリストの足跡に続きなさいということです。また、主イエスが弟子たちにひそかに教え、暗闇で耳打ちされた奥義を、明るみに出して、屋根の上で堂々と言い広めなさい、説教しなさいと命じられます。神の国の福音とは、隠そうとしても隠し切れるものではない、本質的に公に表されるものだからです。 そして、迫害が起きて、死に脅かされるようなことがあっても、魂を殺すことのできない者を恐れてはならない。それ以上に、終わりの裁きの日に、体も魂も滅ぼすことのできるお方である、神を畏れなさい、とも主は言われました。天のお父様が、すずめ一羽さえも、髪の毛一本さえも、配慮して養ってくださいます。ならば、なおのこと私たちには、かけがえのない、愛するわが子として、鍛錬を与え、清めようとされます。 地上において、主イエスを知らないと言うことなく、どのような迫害を受けようとも、父の霊、聖霊の御力によって、主イエスを言い表し、キリストを告白するならば、天の父なる神が喜んで迎え入れてくださいます。 【祈り】 人を恐れず、迫害があっても、天にいます父の愛のうちに、主イエスを言い表すことができますように。
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972
労働も眠りも主の祝福(詩編 127編)
朝早く起き、夜おそく休み 焦慮してパンを食べる人よ それは、むなしいことではないか 主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。 (詩編127章2節) 額に汗して熱心に働いても、手から砂がこぼれ落ちるように何も残らず、自分の労苦がむなしく思われることがあります。聖書は、「朝早く起き、夜おそく休み、焦慮してパンを食べ」たとしても、それだけならばむなしく終わると言います。 箴言にこうあります。「人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない」(10章22節)。「主御自身が建ててくださるのでなければ」「主御自身が守ってくださるのでなければ」と言われるように(詩127編1節)、私たちの労苦が私たちの人生を支えているのではありません。主なる神が私たちを生かし、私たちの人生を支えてくださいます。私たちの手の業も、主の祝福があってこそ、実り豊かなものとされるのです。 「主は愛する者に眠りをお与えになるのだから」とあるとおり、主なる神は私たちに休息をも与えてくださいます。私たちは眠っていると何もできません。その何もできないときをも、主が必要としておられ、主が働いておられます。眠りのとき、自分が何もできないときも、主にあって決してむなしくは終わらないのです。 労働も眠りも、すべてが主なる神からの恵みと慈しみです。主に信頼して、人生のすべての営みに主の祝福を求めて歩みましょう。 【祈り】 主よ、私たちの日々の営みにあなたの祝福が豊かでありますように。
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971
罪を赦し励まされる主イエス(ヨハネによる福音書 8章)
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」 (ヨハネによる福音書8章11節) エルサレム神殿の境内で主イエスが民衆に教えていたとき、ファリサイ派の人びとが姦通の現場で捕らえられた女性を連れてやってきて、律法には、石で打ち殺すべきであると規定されていますが、あなたはどうお考えですか、と問いました。彼らは主イエスを試して訴える口実にしようとしたのです。彼らが根拠にしたのはレビ記20章10節です。そこには姦通の罪を犯した男女は死刑に処せられると記されています。 女性が真ん中に立たされ、そこに主イエスとファリサイ派がいます。そして彼らを民衆が取り囲んでいます。あたかも臨時の法廷で女性が裁かれようとしているかのようです。しかし、実はファリサイ派の人びとは主イエスを裁こうとしているのです。 主イエスは沈黙され、長い間かがみ込んでおられました。しかしファリサイ派の人びとはしつこく問い続け、ついに主イエスは身を起こして言われました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(7節)。 罪を犯さない人は誰もいません。主イエスは、十字架によってその罪を赦してくださいます。主イエスは女性に言われます。「これからは、もう罪を犯してはならない」。 罪の赦しをいただいた私たち皆が、心に留めるべき言葉です。 【祈り】 主よ、私たちの罪を赦してくださりありがとうございます。
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970
主イエスから霊を受ける幸い(ヨハネによる福音書 7章)
「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」 (ヨハネによる福音書7章38節) 7章と8章は、仮庵祭での主イエスについて語ります。仮庵祭は、昔イスラエルが四十年にわたってテント生活をした荒れ野の苦難を思い起こす祭りです。そして、秋の収穫を祝い、冬の雨を願う雨乞いの祭りでもありました(ゼカ14章16節~18節参照)。ユダヤ教の伝承では、祭司たちは、神殿の外のギボンの泉から水を汲み、行列を組んで神殿に運び入れ、祭壇の脇の注ぎ口に流し込んだそうです。また、祭りの期間中、民が荒れ野で火の柱をもって導かれたことを記念して、大きな四つの金の燭台に火が灯されたとも言われます。 光と水の祭りのただ中で、主イエスは「わたしは世の光である」(8章12節)、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は…生きた水が川となって流れ出るようになる」と叫ばれました(7章37、38節)。 主イエスのくださる「生きた水」は、私たちの霊的な飢え渇きを満たす神の霊、聖霊です。その水は、私たち自身から川のように流れ出すと予告されます。主イエスの救いに与かり、癒され潤された私たちは、周りの小さな世界を潤し、ついには世界全体に恵みを広げてゆくのです。 私たちと教会は生きた水である聖霊を受け、主イエスの愛と平和の福音を喜んで宣べ伝えます。 【祈り】 主よ、私たちに生きた水が与えられたことを感謝します。
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969
主が分け与えてくださる(ヨハネによる福音書 6章)
さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。 (ヨハネによる福音書6章11節) 主イエスは大勢の群衆がご自分の方へ来るのを見て、その人たちの食べ物についてフィリポにお尋ねになりました。フィリポは、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょうと答えます。またアンデレは、大麦のパン五つと魚二匹を持った少年がいることを主に伝えました。フィリポはどのくらいのパンが必要か計算し、アンデレは手許にあるものを見ました。そして何の役にも立たないと思ったのです。しかし、主イエスはそのわずかなパンを取り、感謝の祈りを唱えて人びとに分け与え、魚も分け与えられました。人びとは満腹し、たくさんのパンくずが残りました。 ヨハネによる福音書では、弟子たちではなく主の方から食べ物についてお尋ねになり、主ご自身が分け与えられたと記されています。また「過越祭が近づいていた」、「感謝の祈りを唱えてから」とあり、聖餐式との関連が示されています。聖餐式では、命のパンとしてご自身をお与えくださった主イエスの恵みに与ります。 私たちも困難を前にして計算し、自分が持っているものだけを見て、何の役にも立たないと考えてしまうことはないでしょうか。私たちは自分の力ではなく、主ご自身が分け与えてくださる恵みによって歩むことができるのです。 【祈り】 主よ、自分の無力だけを見てしまいがちな私たちに、恵みを分け与えてくださることを感謝します。
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968
主の顧みによって歩む(ヨハネによる福音書 5章)
イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。 (ヨハネによる福音書5章6節) 主イエスはベトザタの池の回廊で、三十八年も病気で苦しんでいる人に「良くなりたいか」とお尋ねになりました。これは一見愚問のように思えます。しかし、病気の人は「当たり前です。直りたいのです」とは言わず、「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです」と訴えます。当時、天使が降りてきて水が動いたとき、最初に池に入れば、どんな病気も治ると考えられていました。そこには競争と分断があります。この人は、誰にも顧みられることのない不満を口にしつつも長年の間にそれが当たり前になり、もはやそこから抜け出す意欲も失われていたのです。もし仮に主イエスがこの人を池に入れてくださったとしても、この人は競争と分断の世界から抜け出すことはできません。 主イエスはこの人を癒されました。さらにその後、癒してくださったのが誰であるかを知らずにいたこの人に、主はもう一度出会って語りかけてくださいました。私たちが人生を歩むことができるのは、主イエスが顧みてくださっていることを知り、主との交わりに支えられることによります。主は私たちを、真っ先に池に入ろうとする競争と分断の世界から、主と共に生きる人生へと救い出してくださったのです。 【祈り】 復活の主イエスがわたしを顧みてくださることによって、きょうも一日歩むことができます。感謝します。
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967
正しく導く羊飼いがいなければ(列王記上 22章)
「主は、『彼らには主人がいない。彼らをそれぞれ自分の家に無事に帰らせよ』と言われました。」 (列王記上22章17節) アハブ王の時代のイスラエルには、預言者とされる人が約四百人いました。この預言者たちは王に幸運ばかり語っていました。アハブ王が災いを預言する者を憎んでいたからです(8節)。預言者ミカヤは主の御心を正しく知ることができたのに(19節以下)、災いを預言するからと王に疎まれました。ミカヤは、主の御心を受け入れようとしないイスラエルの人びとが「羊飼いのいない羊のように山々に散っている」と見ました(17節)。王や預言者が主に背いたため人びとを導きまとめることができず、いないも同然とされたのです。 主に背いて行動したアハブは、変装して攻撃を避けようとしたのに、何気なくアラム兵が放った矢が鎧の隙間から刺さって致命傷を負い(30節以下)、自分の身を守ることもできませんでした。 主に従う王や預言者がおらず、人びとがさまよい苦しむ状況を王国末期のエゼキエルも嘆きました。すると主は、一人の牧者を送ると予告されました(エゼ34章)。やがて主イエスが「わたしはよい羊飼い」(ヨハ10章11節)とおっしゃって、私たちの前に現れてくださいました。そして命を捨てるまでして、さまよっていた私たちを愛し、天の父なる神のもとに連れ帰してくださったのです。 【祈り】 よい羊飼いである主イエスの導きに、きょうも従って歩むことができますように。
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966
行って宣べ伝えいやしなさい(マタイによる福音書 9章35節-10章15節)
「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし…なさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」 (マタイによる福音書10章7節~8節) 主イエスは、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを深く憐れまれ、心底、同情されました。羊飼いである、指導者、祭司、律法学者が、自分の利益をむさぼり、羊の世話をしないからです。 「収穫は多いが、働き手が少ない」。収穫とは、刈り入れ、世の終わりの裁きの日のことです。福音を受け入れず、信じない者は焼かれ、信じた者は倉に入れられる。滅びと救いが同時に起こる。全世界の全人類の収穫ですから実に収穫は多い。しかし、働き手が少ないのです。緊迫感をもって、滅びゆく魂を救い出し、新しいイスラエルへと再生させなさいと、主イエスは、十二人の弟子を選び、あらゆる病を癒す権能を授けられます。主の宣教には、同時に、病人を癒すという愛の業が伴っています。 弟子たちの名が二人一組で記されています。漁師もいれば政治的立場の違う者も、互いに欠けのある者同士が補い、助け合うように、です。 伝道旅行の支度は何も持たずにということです。また、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」とあります。自分が伝道を受けて救われたとき、多くの人の大きな犠牲をただで受けました。だから、自分が伝道するときには自分が大きな犠牲を払って、お献げしなさいということです。 【祈り】 あなたの憐れみによる宣教と病の癒される愛の業に、献身してお仕えできますように。
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965
口に笑いが舌に喜びの歌が満ちる(詩編 126編)
そのときには、わたしたちの口に笑いが 舌に喜びの歌が満ちるであろう。… (詩編126編2節) バビロンに捕らえられているイスラエルの人びとにとって、捕囚から解き放たれてエルサレムに帰るとは、夢のようなことだったに違いありません。「そのときには、わたしたちの口に笑いが、舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう、『主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた』と」。 その夢が実現しました。イスラエルの民は捕囚から解き放たれてエルサレムに帰り、神殿を再建して、主を喜び、賛美しています。この詩編は、捕囚の苦しみと、捕囚からの解放を夢見ていた頃を思い起こして、神殿で主をほめたたえています。主が大きな御業を成し遂げられたと言って、笑顔で主を賛美しているのです。 神から離れたイスラエルの民には、捕囚の苦しみを耐え忍ぶことが求められました。しかし、それは悔い改めて神に立ち帰るためであり、神と共に喜びに生きることの実現のためでした。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる」(5節)。これが主なる神の約束です。 苦しみから解き放たれるとは夢のようなことかもしれません。けれども、私たちのために尊い独り子さえ惜しまれることがなかった神が、私たちの口に笑いを、舌に喜びの歌を与えてくださいます。主に信頼して主の大きな御業を待ち望みましょう。 【祈り】 主よ、あなたに信頼し、あなたの大きな御業を待ち望ませてください。
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964
隣人から奪い尽くす罪の重さ(列王記上 21章)
「彼に告げよ。『主はこう言われる。あなたは人を殺したうえに、その人の所有物を自分のものにしようとするのか。』」 (列王記上21章19節) 宮殿のそばのナボトの畑が欲しいと「むさぼり」の心を起こしたアハブは、ナボトに断られると、イゼベルの後押しもあって更に罪を加えました。ナボトを死に追いやるため、ならず者に「偽証」させます。それに基づきナボトを「殺し」土地を「盗み」取ってしまったのです。アハブは十戒の第五戒以下、隣人愛に関する六つの戒めのうち四つまでも背いてしまいました。長年にわたり偶像礼拝を重ねたアハブは、隣人に罪を重ね奪い尽くす者に堕落してしまいました。 それだけに主はアハブに厳しい裁きを宣告されました。彼の子孫を除き去る、彼の家の者は町で死ねば犬の、野で死ねば空の鳥のえじきなど、想像するのも恐ろしい罰です。アハブ自身これを聞いて打ちひしがれ、衣を裂き粗布をまとうなど悔い改めの姿勢を見せますが、主はアハブの悔い改めに一定の猶予を与えつつも、罰そのものは撤回されません。アハブの罪は一人では償い切れない大きなものだったからです。 私たちの罪も一人で償いきれるものではありません。キリストの十字架の贖いだけが償いを可能とします。そして聖霊の働きにより、隣人から奪う者から、隣人を愛する神の子へと私たちを造り変えてくださる、これがキリストによる救いです。 【祈り】 主よ、隣人より奪う罪人から、隣人を愛し分かち与える神の子へと、わたしを造り変えてください。
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963
主は山だけの神ではない(列王記上 20章)
「主はこう言われる。『アラム人は主が山の神であって平野の神ではないと言っているので、わたしはこの大軍をことごとくあなたの手に渡す。』」 (列王記上20章28節) アラム軍が軍馬と戦車を揃えて北イスラエルの首都サマリアを攻撃しましたが、敗れ去ります。アラム側は敗れた原因を、山地にあったサマリアでの戦いに山の神であるイスラエルの神が加勢したためと分析しました。そこで次の戦いの舞台をアフェクというキネレト湖(現在のガリラヤ湖)東岸の町に決めます。湖の岸辺は平野が多く、イスラエルは山の神の加勢を得られないと考えたのです。 「山の神」「平野の神」という具合に、ある領域だけの神という考えは世界各地にみられます。しかし、限られた領域の外だと助けることができない「神」など、仮に存在したとしても無意味ではないでしょうか。 この世界全体を創造した主は、異教が考える神々のようにちっぽけな存在ではなく、あらゆる領域を治められます。きょうの個所では平地のアフェクでもイスラエルを勝利させることでそれを示されました。 アブラハム・カイパーは、「人間が存在している領域で、キリストが『私のものだ!』と宣言しない領域は1インチ四方たりともない」と言いました。そのように、私たちも世界のあらゆる領域においてキリストを主なる神として従う生活を送り、そのことを証ししてまいりたいと願います。 【祈り】 キリストこそ世界の主であることを、わたしの生きる姿勢によって、きょうも現すことができますように。
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962
信仰者は孤独でも無力でもない(列王記上 19章)
「しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」 (列王記上19章18節) エリヤがバアルの預言者を打ち負かしたことが王妃イゼベルの怒りを買い、エリヤは荒れ野に逃げ、自らの死を願います(4節)。主はエリヤをどうやって立ち直らせたのでしょうか。エリヤの心は、主の預言者は自分だけ、そして殺されようとしている、という孤独感と無力感に満ちていました(10、14節)。そこで御使いが食べ物を与え、四十日の旅の末にホレブ山へと導きます(8節)。エリヤの内に生きのびる力がまだあると気づかせます。次に主は強い風、地震、火の中におられず、静かにささやく声でエリヤに語り掛けられました(11、12節)。人間的に力強いと感じる現象がなくても主は近くにおられることに思い至らせたのです。 その上で主はエリヤに使命をお与えになりました。ハザエルをアラムの王に、イエフをイスラエルの王に、そしてエリシャをエリヤに代わる預言者に任命することです。その最後に主は、イスラエルにバアルにひざまずかない七千人を残す、と宣言されました。エリヤは自分が決して孤独で無力ではないと知り、立ち直ることができました。 主はきょうも「恐れるな。語り続けよ。…この町には、わたしの民が大勢いるからだ」(使18章9、10節)と言って、力づけてくださいます。 【祈り】 主がそばにいて力づけてくださると信じ、きょうも恐れず主の栄光を現すことができますように。
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961
生きて祈りを聴く主なる神(列王記上 18章)
これを見たすべての民はひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言った。 (列王記上18章39節) 主の預言者エリヤは、バアルの預言者とどちらの神が真の神か対決することになりました。雄牛と薪を載せた祭壇に火をつけた神が真の神と判定されます。バアルの預言者たちは朝から昼まで声を上げ祈りますが、何も起こりません。バアルは旅にでも出ているか、眠っているのか、とエリヤに挑発されて、バアルの預言者たちは祭壇の周りを跳び回り、果ては体を傷つけまでしましたが、祭壇に火はつきませんでした。 一方、エリヤは、祭壇の周りに溝を掘り、雄牛と薪の上から水を大量にかけさせました。わざわざ火がつきにくいようにしたのです。そして派手なパフォーマンスをすることもせず、主に祈り願いました。すると主が火を降し、いけにえと薪、さらには大量にかけた水までも一掃したのです。これを見た人びとは「主こそ神です。主こそ神です」と主の前にひれ伏しました。その後、主は激しい雨を降らせ、干ばつをも終わらせました。 主なる神以外の偶像の神々は、実際には生きていません。ですから祈り方を派手にしても応答は得られないのです。他方、主は生きて私たちと共におられますから、祈る前から私たちの本当の必要を知り、言葉数が多くなくても最もよい形で祈りに応えてくださいます。 【祈り】 聖書で示された生ける主をこそ、私たちの唯一祈るべき神として依り頼ませてください。
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960
命を与え命を支える主なる神(列王記上 17章)
主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになった。子供は生き返った。 (列王記上17章22節) 預言者エリヤがイスラエルに数年にわたる干ばつを預言し、そのとおり干ばつが始まります。エリヤも飲食に事欠く危機に見舞われますが、主がカラスに食料を運ばせ、イスラエルの外のシドンのやもめの家に導いて、エリヤの命を支えられました。カラスが人に食ベ物を運ぶことも、イスラエルに属さない異邦人を主が用いることも、当時は常識的にありえないことでしたが、主は人の命を支えるためにはあらゆる手段を用いることがおできになるのです。 エリヤを迎えたやもめの家ではやもめの息子の分も含め食べ物に事欠きませんでしたが、やがて息子が重い病気にかかり死んでしまいます。死んだ命は返ってこない、とやもめは嘆き悲しみます。エリヤは主に向かい「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください」と祈りました(21節)。主は祈りに応え、子どもの命を元に返してくださいました。 主なる神は人を創造して命を与え、命を支えてくださるお方です。そして人が永遠の命に生きることを望み、死ぬことを喜ばれません。だからこそ、人の命を奪う罪を打ち砕くため、愛する御子イエスを十字架につけるまでして、人の命が一度死んでも新しい命に生かされる復活を実現してくださったのです。 【祈り】 主よ、あなただけを、永遠の命を与え、支えてくださるお方として生きることができますように。
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959
正しい人ではなく罪人を招くため(マタイによる福音書 9章9-13節)
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。…わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」 (マタイによる福音書9章12節~13節) 主イエスは、収税所に座っているマタイを弟子とされました。マタイは自分の家に主イエスを招き、その食事の席に徴税人や罪人も大勢同席しました。徴税人とは、当時のローマ帝国に協力して、税を徴収する役人でした。時には法外な額を要求して私腹を肥やす者もいました。 ファリサイ派の人びとから「なぜ、…徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と弟子たちは問われました。 主イエスは、その問いを引き受けられ、主が喜ぶのは、主を知り、愛することであり、神への見せかけの供え物、いけにえではないと言われます。ファリサイ派の人びとはいけにえや異邦人との交際禁止という形ばかりを追いかけ、神への愛を忘れ、徴税人や罪人たちが神との愛の関係を取り戻すことを喜べません。 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」。丈夫な人、正しい人とは、自分は立派に神の律法を守っていると自己評価する人。病人、罪人とは、自分の力ではどうにもできない、自分の罪を赦してもらいたい、心底、自分の生活を変えてほしいと願う人。その人たちが主イエスの食卓に共に招かれ、憐れみ深い言葉をかけられ、罪赦され、愛の交わりに入れられ、主への愛を表す、神の国の喜びの祝宴にあずかります。 【祈り】 自分を正しいとするのでなく、憐れみに罪赦されて、食卓に招かれ、主への愛を表す弟子としてください。
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958
主に依り頼む人はシオンの山(詩編 125編)
主に依り頼む人は、シオンの山。 揺らぐことなく、とこしえに座る。 山々はエルサレムを囲み 主は御自分の民を囲んでいてくださる (詩編125章1節~2節) 「シオンの山」と呼ばれるエルサレムは、丘と谷が複雑に入り組む地形で、天然の要害と呼ばれました。カナンに定住したイスラエルの民は久しくエルサレムを攻略できず、ようやくダビデが攻め落としたので、エルサレムはダビデの町と呼ばれます。その難攻不落のシオンの山を神の守りになぞらえて、「主に依り頼む人は、シオンの山。揺らぐことなく、とこしえに座る」と言います。天然の要害としてシオンが守られたように、主ご自身が壁となり砦となってご自分の民を守っておられると言い、主なる神への信頼と賛美を言い表します。 私たちが強いからではありません。主が共にいて守っていてくださる。それゆえ、揺らぐことがありません。罪と悪から守られ、道をそれることなく歩むことができます。ですから、詩人は主なる神に祈り求めます。「主に逆らう者の笏が置かれることのないように。主に従う人が悪に手を伸ばすことのないように」(3節)。 主イエスは、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」とおっしゃいました(ヨハ2章19節)。もはや地上のエルサレムではありません。キリストの体なる教会において、主の守りは確かです。キリストの御声に聞くことによって、大牧者に養われる羊の群れは、主なる神の確かな守りの中に置かれて歩みます。 【祈り】 主よ、あなたに信頼し、あなたに守られる幸いの中を歩ませてください。
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957
渇きを癒す永遠の命に至る水(ヨハネによる福音書 4章)
「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 (ヨハネによる福音書4章14節) 主イエスは、サマリアの女との対話の中で、この人が抱えている問題を言い当て、「わたしを信じなさい」と言われました。この女性は、これまで行ってきたことによっては満たされることのなかった飢え渇き、またそこにある罪を知っておられるお方に出会いました。さらに主から、霊と真理をもって父を礼拝する時が来ていることを告げられました。 私たちは、聖霊に導かれ、キリストを証しする聖書に聞き、父なる神を礼拝します。主イエスは、私たちが抱えている問題と飢え渇き、罪を知っておられます。そしてそのすべてを背負い、十字架の死と復活によって、私たちに罪の赦しと永遠の命をもたらしてくださいました。この恵みを信じることが、主イエスが与えてくださる水を飲むことです。その水は、私たちの渇きを癒す永遠の命に至る水です。 サマリアの女は自分の生活を知る周囲の人びとの目を避けて、暑い昼に水を汲みに来ていたのでしょう。しかし、主イエスと出会った彼女は、「わたしが行ったことをすべて、言い当てた」と言って、人びとに主を証しするようになりました。聖霊に導かれて主の御言葉に聞き、父を礼拝する生活は、渇くことのない永遠の命に至る水で満たされた生活です。 【祈り】 永遠の命に至る水を与えてくださる主イエスの恵み、父を礼拝する恵みを感謝します。
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956
独り子をお与えになった神の愛(ヨハネによる福音書 3章)
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」 (ヨハネによる福音書3章16節) 創世記に、アブラハムが神に命じられてイサクをささげようとしたことが記されています。そのとき神はアブラハムに、「あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」と言われました。神のご命令によって、アブラハムは筆舌に尽くしがたいほどの試練を経験しました。どれほど悩み苦しんだことしょうか。 しかし、神が独り子をお与えになったことは、アブラハムがイサクをささげることと同じではありません。なぜなら、神の独り子の死は、私たちの罪に対する神の刑罰を身代わりに引き受け、神に見捨てられる死だからです。この死の苦しみは私たちの想像をはるかに超えています。このような死に、神は独り子をお渡しになったのです。神に敵対する「世」に属していた私たちは、そのままでは神に見捨てられ、滅びるほかない者でした。しかし神は、独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るために、愛する独り子をお与えくださったのです。 神は私たちの救いのために、そこまでのことをしてくださいました。それは、私たちの想像をはるかに超えた愛のゆえでした。それほどまでに、神はあなたを愛しておられます。驚くべき神の愛がここにあります。 【祈り】 父なる御神、独り子をお与えになるほどの愛を心から感謝して、きょう一日を過ごします。
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955
主の恵みを見る―人の力尽きるとき(ヨハネによる福音書 2章)
このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。 (ヨハネによる福音書2章9節~10節) 主イエスはガリラヤのカナの婚礼で、水をぶどう酒に変える奇跡を行って、その栄光を現されました。婚礼のぶどう酒は、祝宴の喜びが途中で途切れてしまわないように準備されたものです。しかし、何の手違いか、思いがけずそれが途切れてしまいました。婚礼に限らず、人は人生が喜ばしいものになるために労苦します。しかし、思いがけず自分が築いたものが崩れ、どうしてよいか分からずに行き詰まることがあります。喜ばしい思いが尽き、つらい思いばかりがわいてくるときもあります。「ぶどう酒がなくなりました」と言うほかないときがあるのです(3節)。 しかし主イエスは、水を良いぶどう酒に変えられたように、私たちの人生を、尽きることのない喜びの人生へと変えてくださいます。復活の主イエスに結ばれた人生は、罪を赦され、死から復活の命へと救われた人生です。復活の主が共にいてくださり、道を備えて歩かせてくださいます。人が造った喜びが尽きるときにも、主イエスが用意してくださった救いの喜びが尽きることはありません。 水をくんだ召使いたちは、ぶどう酒がどこから来たのか知っていました。私たちも知っています。救いは主イエス・キリストから来ることを。 【祈り】 疲れを覚えるときこそ、尽きることのないあなたの恵みに生かされていることを思い起こさせてください。
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954
来て、見なさいと招かれる主イエス(ヨハネによる福音書 1章)
するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。 (ヨハネによる福音書1章46節) ナタナエルはフィリポから主イエスのことを「ナザレの人で、ヨセフの子イエス」と聞いたとき、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と答えました。これは当時のユダヤ人社会の、一般的な見方でした。ですから、会いもしないうちに、主イエスについて判断してしまうのです。 私たちの社会でも、世間一般の見方があります。そのために聖書をよく読む前に主イエスのことを、「救い主ならこうあるはずだ」と判断してしまうことがあります。しかし、それでは主に出会うことはできません。 主イエスはナタナエルが御自分のところに来て「見る」前に、すでに彼のことを「見て」知っておられました。主はナタナエルの人生と、そこにある飢え渇きをご存じなのです。主の言葉を聞いて驚くナタナエルに、主はもっと偉大なことを見ることになると告げられました。それは、天への道が開かれるということです。 主イエスは、私たちが主を知る前から私たちを知っておられ、そのまなざしの中で私たちを御許に招いてくださったのです。私たちは、「来て、見なさい」という招きに応えて主を礼拝し、御言葉に聞き続けるとき、「もっと偉大なこと」、すなわち天が開かれるという、永遠の救いを見せていただけるのです。 【祈り】 主よ、あなたはわたしを弟子として招き、救いの完成を見させてくださいます。感謝します。
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953
主イエス・キリストと共に生きる(列王記上 16章)
彼はネバトの子ヤロブアムの罪を繰り返すだけでは満足せず、…エトバアルの娘イゼベルを妻に迎え、進んでバアルに仕え、これにひれ伏した。 (列王記上16章31節) 16章は、北王国の五人の王についての証言です。いずれの王も、主の目に悪とされること、つまり、「ヤロブアムの道」を踏襲して偶像崇拝を行いました。その中でもオムリ王朝初代のオムリは、彼以前の誰よりも偶像崇拝にふけり、主の怒りを買い(25、26節)、息子のアハブは彼以上でした(30節)。 アハブは、フェニキアのシドンの王の娘イゼベルを妻に迎えて、何と、バアルを進んで礼拝したのです。バアル宗教のしきたりは、イゼベルをとおして王国に持ち込まれたのでした。イゼベルの父親の名前はエトバアルで、「バアル神と共に生きる」という意味です。 主なる神は「妬む神」です(出20章5節、聖書協会共同訳)。御自分のものとして愛し選んだ民が偶像に走ることを最も忌み嫌われ、怒りを注がれます。アハブが進んで礼拝したバアルは「主」という意味で、カナンでは豊作をもたらす神として崇められていました。また、アハブは、アシェラという女神をも拝みました(33節)。 キリスト者にとって「主」はただおひとり、イエス・キリストのみです。そして、この御方と共に生きることこそが、神が最も喜ばれることで、インマヌエル(神は我々と共におられる)の祝福です。 【祈り】 主よ、いつもあなたと共に生きることができますように。
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952
主イエスの権能・命令・約束(マタイによる福音書 28章16-20節)
「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、…」 (マタイによる福音書28章19節) マタイによる福音書の最後の部分であるきょうの箇所は、私たちの視野を広げ、心をワクワクさせます。主イエスは、ユダヤ人から、異邦人を含めた全世界への福音の宣教を命じられているからです。 この主イエスの御言葉は、「大宣教命令」と呼ばれるとても大切な言葉です。主イエスは、先ず「行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じられます。これはユダヤ人という民族と、イスラエルという枠を超え、全民族と全世界を含めます。 主イエスはこのご命令の前にご自身の権能を思い起こさせられます(18節)。十二弟子たちはもちろんのこと、今日の私たちにとって最も必要なのは「キリストの権能」を知ることです。そして、この権能が私たちに託されています。パウロが「すべては、あなたがたのものです」と語る理由もここにあります(1コリ3章21節)。 また、キリストの大宣教命令は「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」というキリストの約束につながっています(20節)。何と素晴らしい祝福でしょうか。キリストの弟子としての最高の祝福は主イエスのご命令に従うことです。そのため、三位一体の御名のもとでの洗礼とキリストの御言葉に聞き従うことが求められます。 【祈り】 三位一体の神の祝福が、この日に、全世界に、満ちあふれますように。
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951
わたしは正しい言葉を求めて祈る(箴言 26章)
分別を失った者が、火矢を、死の矢を射る。友人を欺く者はそれに等しい。しかも、「ふざけただけではないか」と言う。 (箴言26章18節~19節) 26章は、大きく三つに分けられます。最初は愚か者についての考察です。そこでは特に、愚か者が自らを賢者だと誤解することの災いが語られています(1、5、8、12節)。 続いて、怠け者の様子が短く描写されますが、ここでもまた「怠け者は自分を賢者だと思い込む」との言葉があり(16節)、愚か者の個所と同じ心配がなされています。 そして、17節以下では、具体的な愚かな行動として、自分に関係のない争いに口出しする様子が描かれています。それは大変危険なことなのですが、愚か者にはそのような「分別」がないので、言葉の矢を好き放題に放ちます(18節)。 そしてそれをとがめられると、「ふざけただけではないか」と開き直ります。けれども、箴言ははっきりと「陰口を言う者が消えればいさかいは鎮まる」と本質をついています(20節)。 これは、私たちの社会で今起きていることをそのまま描いているような思いがします。SNSによる誹謗中傷が横行しているにもかかわらず、何が正しいのかさえ決めあぐねているからです。しかし、そこで大切なのは、わたしも愚か者ではないかと問うことではないでしょうか。 【祈り】 神よ、あなたは地上のことすべてをご存じです。私たちが語る言葉を正しいものとしてください。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。
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