食い意地ラジオ

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食い意地ラジオ

9月14日、“くいしんぼうの日”に食の神様に愛されすぎて爆誕した私が、ただただ食への愛とおさまらない食い意地を発散させてます。変でごめんー!だけどみんなと食欲わかちあいたい!ほんとポッドキャスト感謝!これなかったら私の食欲の発散場所なかったよ!!!!!ありがた祭り!音声とか聞きにくめなところ多いですがまだ成長段階なので🤱やさしくみまもってね🦷食べ物に愛を伝え、食への情熱を仕事に、、、という野望をこめてお届けします。職業食いしん坊として生きてくぞ〜。ちなみに本業はわーいでのんきなクリエイター「もしもし五島列島」です。よろしくね(圧)Instagram https://www.instagram.com/illustwaai?igsh=MXU1ZGdiaWFxdnVnbA%3D%3D&utm_source=qr 食い意地ラジオみてね↓https://lit.link/kuiizi

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    1人居酒屋にカッコつけていかない。めんまってなんでお尻拭きの味なの(めっちゃ褒め言葉)

    1人居酒屋にカッコつけていかない。めんまってなんでお尻拭きの味なの(めっちゃ褒め言葉) LISTENで開く

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    PODCAST EXPOですきな食べ物を人に聞きまくった結果、味噌汁とエビが時代を制してたことと好きより嫌いの方がやっぱ明確だよねって話と、愛された食材の味はわかりやすい。

    じいちゃんの手打ちそば、ちぎれやすくてボソボソのが食べれる時間は意外とはかないよ。 こどものとき、きゅうりすきであればあるほどズッキーニきらいなのわかる。 LISTENで開く

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    スタバのレジ前で永遠ドギマギしてるけど、ホテルのスクランブルエッグをタピオカストローで飲むの夢です。

    何回予行練習しても、スタバのレジ前で、予習したはずの呪文が言えなくなります。そんな雑魚な私が、クリスピー・クリーム・ドーナツの「横に平たい圧」に満員電車で場所を取られ、マリオとのコラボ「ギャラクシードーナツ」のド派手なアイシングに戦慄した決死のパリピ修行報告をお届けします。   📌 今回のトピックス• クリスピー・クリーム・ドーナツの「横の圧」ミスドが「縦」なら、クリスピーは「平面」。一人分のスペースを堂々と占拠するあの存在感こそが、パリピ・フードの頂点。手土産に持っていく時の快感と、食べる前の緊張感の狭間で。  • ギャラクシードーナツという名の「断れない試食」羽田空港での夜間歯磨き後の試食に続き、またもや神様からの指示(?)で受け取ってしまった衝撃の試食。150キロの巨漢の親指ほどもあるドーナツの欠片が、私の「ドーナツ・モチベーション」を宇宙へと放り出した。  • 救世主は「北海道から来たデカいコロッケ」おしゃれなドーナツ専門店で、悔しくて泣きそうになっていた私を救ったのは、コンビニ4個分の巨大な揚げたてコロッケ。結局、私の心と温度を支えてくれるのは、いつだって「芋」だった。  • コスパ最強伝説「ケーキドーナツ」とヤングドーナツフィナンシェもマドレーヌも、すべての焼き菓子の良いところ取りをした「ケーキドーナツ」への回帰。ポップな400円のドーナツより、安定の50円ヤングドーナツ(OKマークサイズ)に安らぎを感じる自分。  • 未来のタピオカは「スクランブルエッグ」であるホテルのビュッフェでしか味わえない、あの「ずっとトロトロ」な卵の謎。30年後、人類はあの卵に太いストローを刺し、ベビタッピして飲む時代がやってくると信じている。  • フラペチーノへの敗北と、ホットティーという名の隠居周りが全員フラペチーノを頼む中、一人だけおばあちゃんのように「温かいお茶」を頼む切なさ。小指の爪サイズのミニ・フラペチーノがあれば、私もいつかパリピの仲間入りができるだろうか。   クリスピー・クリーム・ドーナツの華やかな箱を抱えながら、心の中ではミスドの「汁そば」の塩気を求めている自分を、私はもう隠せない。 マリオとコラボした「ギャラクシー」なドーナツを口に入れた瞬間、私のモチベーションは星になった。美しすぎる色、甘すぎるアイシング。それは、パリピの人生という名の「異国の食べ物」だった。 私は、ただ「卵ペースト」を愛し、コメダのモーニングでゆで卵を割る気力を惜しむ、そんな等身大の自分でいいはずなのに。それでも、私は諦めきれないのだ。  ブラッタチーズを割り、フラペチーノを分離させずに飲み干せる、そんな「ポップな大人」への憧れを。  たとえ今の私が、おしゃれなデリで注文を口ごもり、コンクリートのように固いケーキドーナツに安らぎを感じる人間だとしても。いつか、タピオカストローでホテルのスクランブルエッグを飲む日が来るまで。私は、ホットスナックのコロッケと、キューピーのマヨネーズという名の「実家」に守られながら、少しずつポップの山を登っていこうと思う。  LISTENで開く

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    頑張ってないからコーヒー飲めないし、ポップな食べ物は翌朝に響く、胃袋と体が起こす『パリピ拒絶反応』

    「おしゃれなカフェに行った翌日、体が異常に重い」 オムライスにナポリタン、ダメ押しのクリームソーダ。ポップさを詰め込みすぎた翌朝、目は開いているのに体が動かない「団子虫現象」の謎。そして、都会の小学生に冷ややかな目で見られながら給水器を飲むくらいが私に合ってる。 📌 今回のトピックス  • コーヒーが飲めない「頑張らない」体質への変化 かつては気合で飲んでいたコーヒーも、今やカルディの試飲サイズが限界。カフェラテですら「濃すぎる」と感じるほど、体内がストイックに変化中。もしかして、頑張ることを体が忘れてしまった?  • ポップな食事は「朝寝坊」の元凶 前日の夜におしゃれな喫茶店やレトロ風カフェで「映える」ものを食べると、翌朝の体感重量が通常の3倍に。ポップという名の情報量に体が追いつかず、得意の早起き特技が完全封印される不条理。  • 大人になった証拠 ―― 満腹だと目がバキバキに 子供の頃は満腹で寝落ちできたのに、今は「やり残したことがある!」と体が叫び、ネットフリックスを見ながら目がバキバキに。25歳を目前に、胃袋と脳が激しくぶつかり合う夜。  • ラムシャブ(ラブ肉)とクリームソーダの「寝過ごし確定」コンボ しゃぶ葉のラム肉フェアに、知り合いのカフェのクリームソーダ。最高の食予定を入れるたび、翌朝の飛行機を乗り過ごす恐怖が頭をよぎる。担々麺うどんの悲劇を繰り返さないための、孤独なリスクマネジメント。 • ピンクのコートと、都会の吸水器の悲劇 都会の小学生に「汚い」と言われようが、駅の給水器で喉を潤す。そんな泥臭いパリピ道を歩んでいたはずが、お気に入りのピンクのコートに降りかかった、人生からの「調子に乗るな」という残酷なメッセージ。  『団子虫の朝と、ピンクのコートの十字架。』私は、パリピになりたかった。おしゃれなカフェでブラッタチーズを割り、クリームソーダの泡を楽しみ、終電で優雅に帰る。そんな「ポップな人生」を夢見ていた。でも、私の体は正直すぎる。ジェラートの塩キャラメルナッツを食べれば涙が出るほど翌朝が辛く、オムライスの後にどら焼きを詰め込めば、翌朝は布団の中で動けない団子虫と化す。  「お前には、まだポップさは早い」駅の給水器で喉を潤していた私に、お気に入りのピンクのコートを終電のゲロで汚したあの悲劇は、そう告げているようだった。都会の小学生の冷ややかな視線に耐えながら、私は自分の「身の丈」というものを考える。でも、諦めきれない。  しゃぶ葉でラム肉(ラブ肉)を頬張り、インスタで見た美味しそうな情報の波に溺れたい。カフェインが飲めなくなっても、朝が起きられなくなっても、私は「雰囲気」に騙され続けたいのだ。たとえ体が震えるような金額を払っても、果敢にポップな店に挑み続ける。それが、私に課せられた「パリピへの修行」なのだから。ピンクのコートをクリーニングに出しながら、私は明日も、懲りずにクリームソーダを注文するだろう。たとえ翌朝、また団子虫になったとしても。  LISTENで開く

  6. 146

    濃厚な食べ物は「初めて」食べた瞬間が美味しさのピーク〜白子の天ぷらが量食べられない〜

    📌 今回のトピックス• 白子=地雷系彼女説最初はあんなに愛おしくて、天ぷらで出会った時は人生のピークだと思ったのに。2個目、3個目となると「ちょっと重い、くどい……」と体が拒絶し始める。いいものになればなるほど、一口で十分になってしまう濃厚さのジレンマ。 • 大人たちの「白子強がり」を疑う居酒屋で「白子最高!」と言いつつ、全然箸が進んでいないおじさん・おばさんたちへ。それは年を取ったことを認めたくないがゆえの、ポーズではないのか? 中村さんがスシローの皿越しに見た、日本社会の「脂への執着」の真実。  • 絆創膏の血の色こそ、本物の赤身大トロより中トロ、中トロより赤身。それも、ただの赤じゃない。絆創膏にじわっとにじんだ血のような、あの深い赤黒い色こそが「魚を食べている」という実感をくれる。スシローと共に歩んだ24年が導き出した、究極の結論。  • 白子天ぷらを「大根おろし1本分」で流し込む贅沢くどい白子をあえて天ぷらにして「くどさ」をブーストさせ、それを箸が折れるほどの大量の大根おろしと、強めの酢で流し込む。この矛盾こそが、白子に対する最大のおもてなしであり、正解である。  • アボカド天ぷら「変すぎて美味しい」理論地の果てまで肯定し続けたいアボカド。天ぷらにすると本来の味が台無しになり、なんだか「変な味」になる。でも、面白くなさを極めると面白くなる飲み会のように、その「変さ」こそが病みつきになる中毒性。  LISTENで開く

  7. 145

    フルーチェのことを一旦、馬鹿にしないで食べてみてほしい&クルトンは沈んでからが本領発揮

    Podcastweekend 出店します!!食い意地プロフィールも配布します⭐️ フルーチェの社会的地位向上委員会と、クルトンの放置美学 ゼリーでもプリンでもない、あの「つるん界隈」の頂点に君臨するテクスチャー。フルーチェ。 子供の夏休みのおやつって定義しちゃうけど、これは違う。もっと評価されるべき。 港区のテラス席で一口ゼリーをワイン片手に嗜む空想から、愛するビッグボーイのサラダバーで繰り広げられる「ホイップ×コンポタージュ」の禁断の掛け合わせまで、全力でお届けします。  📌 今回のトピックス • フルーチェはフレンチのデザートになり得るパッケージの安心感に騙されてはいけない。もし長いコック帽のシェフが「夏の遊び」と名付けて出してきたら、パンナコッタも杏仁豆腐も道を譲るレベルの完成度。 • 知育菓子の「びしゃか・めっちゃか」問題ねるねるねるねの粉の飛散、ハンバーガー屋さんの手間の多さ。それに比べて、牛乳を混ぜるだけで「体験・時間潰し・おやつ」の三冠を達成するフルーチェの圧倒的タイパ。そして他のものの足の踏み入れ場がない美味しさ。 • サラダバー界の「サラダ」という名の冷製パスタマヨネーズで和えていればすべて「サラダ」と呼んでいいという、ビッグボーイの寛大な世界観。ポテサラ、マカロニ、パスタ。サラダという隠れ蓑を着た炭水化物の宴。 • コーヒーゼリーのホイップは「聖水」である誰にも再現できない、あのサラダバーのホイップ。あっさりしているのに濃厚なあのクリームを、あえて熱々のコンポタージュに浮かべるという、中村流「スープバー・テクニック」。 • 「可愛い子(クルトン)には旅をさせろ」サクサクのクルトンを、あえてスープの底に沈めてほったらかす。パイ生地のように急かしてくる「あざとい存在」は、一旦無視することで真のポテンシャルを発揮する。クルトンで『可愛い子には旅させよ』ということわざを体験して学ぶ。  『フルーチェの「チェ」と、チェリーの「チェ」。可愛い。』 私たちは、あまりに身近な奇跡を見落としているのではないだろうか。ボウルの中で牛乳と出会い、不思議な化学反応で固まっていくあの桃色の輝き。家の中の適当な皿で食べるから「おやつ」止まりなだけで、もしシャンパングラスに盛られていたら、それはもうフレンチの芸術品だ。ビッグボーイのサラダバーで、私はいつもフルーチェと対峙する。リーズナブルなプラスチックのお皿の上で、フルーチェは美しく、誇り高く揺れている。 その横には、サクサクのうちに食べなきゃと急かしてくるクルトンがいるけれど、今の私はもう騙されない。「可愛い子には旅をさせろ」スープの底で、じっくりとコンポタージュの旨味を吸い込んだクルトンこそが、本当の「大人」の味わいなのだから。あざとい存在を一旦ほったらかして、目の前のぷるぷるした概念を慈しむ。 次にフルーチェを作る時は、一番いい服を着て、一番いいスプーンで、フレンチのシェフになったつもりで混ぜてみようと思う。  LISTENで開く

  8. 144

    オムライスは芦田愛菜である ― 概念としての卵とデミグラスの儀式

     Podcastweekend 出店します!!食い意地プロフィールも配布します⭐️• オムライス浴の1ヶ月 ―― 『ランチの女王』という名の修行竹内結子の可愛さと、デミグラスを1から作る職人の背中に酔いしれた1ヶ月。何度も手を伸ばしかけたオムライスを我慢し続け、ついに今日、本番を迎えた中村さんの壮絶な結末。• オムライス=芦田愛菜説私たちは「味」ではなく「概念」を愛しているのではないか? 存在してくれているだけでありがとう、という全肯定の対象。それが中村さんにとってのオムライス。• デミグラスソースとの「正しい対峙法」洋食屋の作法。まずはスプーンでデミグラスだけをすくい、脳に「これがデミだぞ」と教え込む。その後に満を持して、甘い卵とチキンライスの本丸へ攻め込むのが、ランチの女王直伝の食べ方。• ケチャップがナポリタンに盗まれている!最近のオムライスは、なぜこんなにもチキンライスの色が薄いのか。ナポリタンが濃すぎる一方で、オムライスの赤が搾取されているのではないかという老害的(?)社会考察。• セミとお椀と、はずみのキスシーンドラマ史上、最も笑った「セミ捕獲後のお椀のせたままキスシーン」。今のドラマにはない、あの「ありえなさ」と「ランチへの情熱」こそが、オムライスをより輝かせていた。  LISTENで開く

  9. 143

    祖母、無洗米頑張る宣言&コンビニサラダと毎日戦って千切りしてる

    Podcastweekend 出店します!!食い意地プロフィールも配布します⭐️📌 今回のトピックス • 無洗米論争 ―― 令和の技術 vs 地元のプライド「無洗米は美味しくない」という過去のトラウマに、新潟の権威(?)と令和の謎技術で対抗。地元の米しか信用しないおばあちゃんが、ついに「無洗米、食べてみる」と真剣ゼミさながらの宣言を放った日。 • アルミホイルの中の「激しいごま塩」塩=ごま塩世代のおばあバーベキュー用には「塩」でと頼んだはずが、届いたのは真っ黒なごま塩。アルミに包まれたごま塩の、あの独特の「正体不明感」。おばあちゃんの視力ゆえの「振りすぎた塩」が、逆に外飯の最高なスパイスになる。 • コンビニ野菜を「模写」するおばあちゃんの可愛さ自炊一筋だったおばあちゃんが、コンビニのカット野菜やサラダに感動し、その「盛り付け」を真似し始める。新しい世界に触れて、瞳を輝かせる86歳のアップデートを、全力のシャンパンコールで祝いたい。 • 潰れたおにぎりという名の「ラブラブ上等」教科書の重みで平たくなったおにぎり、のりたまの卵まで一緒に潰れたあの背徳的な味。おにぎり専門店のフワフワも、コンビニのパリパリも、ラップに残った海苔カスすらも。結論、おにぎりは人類の最高傑作である。 最近のおにぎり専門店の粒だったフワフワもいいけれど、おばあちゃんがぎゅうぎゅうに握りしめた、あの密度の高いおにぎりは、私の「底(ソウル)」を真っ直ぐに満たしてくれる。  LISTENで開く

  10. 142

    今は『塩おにぎり』時代らしいのに、スイカの白いところは残すんだね

    また、老害回です。すみません。    • オムライスおにぎりは「ハッピー社会」のバロメーター彩り豊かなオムライスおにぎりが消え、茶色いチャーハンおにぎりが増える現状への危機感。ケチャップのオレンジ色こそが、世界を明るくする希望だったのではないか。• 焼き芋への「忖度」と、ふかし芋への「純愛」「好きな食べ物は?」の問いに、解像度の高い『焼き芋』と答えてしまう自分への敗北感。本当は、甘すぎず水分を含んだ、皮と実が密着した『ふかし芋』を冷蔵庫で冷やしてちょこちょこ食べたい。• イラストに漏れ出る「芋のリアリティ」無意識に描く芋は、皮がピタッと密着したふかし芋のフォルム。焼き芋のようなシワシワの凹凸ではなく、ツヤツヤの紫を描いてしまう。イラストレーターとしての筆跡が、私の嘘(焼き芋忖度)を暴いていく。• 聖火ランナーのように焼き芋を掲げた日リスナーさんからの愛の差し入れ「芋・牛乳・米粉クッキー」という三段構え。お洒落なサラダボウルへの憧れを隠しつつ、街中で芋を掲げて食べたあの日、私は間違いなくお調子者人生の絶頂にいた。• 「皮ごと食べる野生」を家の中に閉じ込めろスイカの白い部分、イチゴのヘタ、魚の目玉。全部食べたい本能。でも、他人の「驚きの感情」を無駄遣いさせないために、外では「本来残すべき場所を残す」という大人の練習を始めなければならない。  LISTENで開く

  11. 141

    温玉クラッシャー滅!深夜のサイゼリア民は青豆のサラダ同盟組んでる。

    「温玉を割るタイミングを魂で決めている」こだわり派の方、友達になりましょう。 50円というコンビニ以下の価格で奇跡を届けてくれるサイゼリヤの温玉。それを許可もなく混ぜ、お皿に黄身の痕跡をベッタリ残すクラッシャーたちとの闘争始めよう。そして愛するサイゼの湯ぎりがいつも甘いパスタのことをを「福岡のうどん」として再定義することで全肯定していくライフハックをお届けします。  📌 今回のトピックス • 「悔しい表情」しか描けないイラストレーターの意地悔しい人生歩みすぎて、美人やイケメンは描けなくても、歯を食いしばり、シャーペンを握りつぶす「悔しさ」の描写なら自他共に認める日本一。  • サイゼリヤで一番かっこいいのは「配膳スタッフ」鉄板2枚を抱え、残った指2本でライスを支える。あのホテルバイトでも習得困難な神業。筋がつかないよう祈りながら見守る、プロフェッショナルな背中。  • 温玉クラッシャー問題 ―― 条例制定のすゝめ勝手に下から上へぐちゃぐちゃに混ぜ、温玉の尊厳を奪う人々。それはもはやコミュニティの破壊者だ。レモンは聞くのに、なぜ温玉は聞かないのか。取扱説明書の付属を強く要望したい。  • 深夜の「青豆同盟」とヘッドホンの同志深い時間に現れる、巨大ヘッドホンのソロ客。彼らは例外なく「青豆のサラダ+温玉」を大切に、大切に食べている。お声掛けはできないけれど、心の中ではガッチリ握手を交わす「青豆同盟」  • サイゼリヤのパスタは「うどん」である茹ですぎ? 湯切り不足? いや、これは福岡のうどんのような「新たな麺料理」なのだ。オリーブオイルと塩でチューニングすれば、バッチグーな幸福が訪れる。  『黄身の涙と、深夜のフォカッチャ。』「電車、久々だな」なんて言う若者に、私は心の中で「モノレールに乗った時の高揚感を知らないのか!」とハンカチを噛みしめる。私のイラストが「悔しさ」に特化しているのは、きっと日常のあちこちに転がっている「楽しさ」を、誰よりも一生懸命に拾い集めているからだ。サイゼリヤの温玉。50円で買えるあの輝きを、人はどうして無慈悲にクラッシュできるのだろう。お皿にこびりついた黄身の跡を見るたびに、私は失われた可能性に涙する。温泉卵は、土台を大切に、上に上に、大切に「もてなす」ものなのだ。最近パサつき始めた(気がする)フォカッチャに、ソースという名の救済を与える。茹ですぎたパスタを「うどん」という名の宇宙へ昇華させる。深夜、大きなヘッドホンで自分の世界に閉じこもりながら、青豆を一粒ずつ味わうあの人となら、きっと本当の意味で「食の解像度」について語り合えるはずだ。「温玉、割ってもいい?」その一言が、世界の不条理を半分くらい解決すると、私は信じて疑わない。  LISTENで開く

  12. 140

    生のエビ寿司は18禁だから、サラダエビが本物のエビ寿司だと錯覚させられてたのか〜

    「生エビは18禁のパンティーということと、朝の固形石鹸贅沢」  本当は納豆と魚のあらが大好物なのに、本心を「ハンバーグ」でカモフラージュしています。ぴえん。  📌 今回のトピックス • 「好きな食べ物ランキング」の偽装工作本当は納豆と魚のアラを愛しているのに、世間体と口臭とイメージ通りになりすぎた「自身」を気にして「ハンバーグ」や「焼き芋」を差し出しています。。。 • 魚食べコンテスト・日本代表の自信評価基準が「食べた後の骨の少なさ」なら絶対優勝。コラーゲンたっぷりのブリブリした部位を愛し、骨までしゃぶり尽くすその特技は、もはや食育センターか水産庁とのコラボ案件お願いしたい。 • エビの正体は「18禁のパンティー」であるサラダエビという「緩衝材」の安全地帯を抜け、生のエビの透明なプリプリ感に出会ってしまった衝撃。その美しさと官能性は、子供にはまだ早い。18禁コーナーに置かれるべき、魅惑の「赤エビ」論。 • 中華料理屋の「記憶消去」卵スープとろみで口の中を火傷させ、その後の味の記憶をすべて奪い去る中華屋の戦略。でも安さとアラジンのように広がる卵の不思議な魔力に、私たちは今日も屈してしまう。 • 固形石鹸(フリーズドライ)と春雨の贅沢な出会い朝から最高級のフリーズドライ卵スープに、春雨を投入する「成功者の朝食」。しかし、スープのキャパシティを超えた春雨が水分を吸い尽くし、ただの「増えすぎた物体」と化す、幸せな計算違い。    LISTENで開く

  13. 139

    愛とおもてなしをかたちにしたスーパー、ビッグバリューからのラブレター(勝手な解釈)と、振る舞いの精神

    地方創生を語る前にバリューへ行って、地方で圧倒的に愛されること、必要な存在になることを学んでほしい」スーパーから届いた、名前入りの手書きの手紙。2倍パスポートという名の「尊いお守り」。ビジネスの正解は、効率の良さではなく、この「読みにくいほどの熱量」にあるのかもしれない。​スーパーから届いた「手書きという名のラブレター」​生産者各位への、びっしりと綴られた16行の感謝。タイパ重視の現代で、手書きで、ペンを握るスタッフ一同の「意地」に、打ち合わせ前の全細胞が震えた。​「ご機栄」を音読する朝の儀式肝心の1行目が読めなくても、その太いペンの跡から「おめでとう」の熱気だけは伝わってくる。立春の候、ますますご機栄。この読解不能なまでの想いを、私は毎朝の教典として音読することに決めた。​「18周年」という、絶妙に愛おしい数字20年でも30年でもない、18周年を全力で祝うバリューファーム。地元の食材で温かいものを「振る舞う」という、見返りを求めないパーティーの形。これこそが、私が目指すべき「一生懸命」の到達点だ。確かに、毎日が記念日ってよく恋愛ドラマとかでも言ってるもんね〜​名前入りパスポートは「お守り」であるクーポン大好きな私を悩ませる、名前入りの2倍パスポート。使えば手元から消えてしまう。でも、使わないのも失礼……。この葛藤こそが、バリューと私の「相思相愛」の証。最初の2行は、今の私にはまだ解読できない。でも、それでいいのだと思う。文字が読めることよりも、その文字を書こうとした人の「指の疲れ」や「インクの匂い」を感じることの方が、ずっと豊かだ。​東京に「バリュー愛」を直送したい還元できることが何もないと嘆くより、東京で「バリュー直送お惣菜パーティー」を開きたい。投げ銭でもチップでもなく、ただただ「このスーパー、やばくない?」と色紙を埋め尽くすほどの愛を語る場所を。「生産者あってこその、地域密着」その自覚をゴシック体で堂々と掲げ、18年という月日を「一重に皆様のおかげ」と言い切る。ローカルに根付いて愛されまくるバリューの姿勢は重く、鋭く、そしてどこまでも優しい。私はこの手紙を毎朝音読する。この手紙をいただけた感謝を表現したい。私がバリューに返せるのは、きっと「成功して恩返しする」ことよりも、バリューのようなマインドで、目の前の一人ひとりに「温かい何か」を振る舞い続けること。【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://lit.link/kuiizi LISTENで開く

  14. 138

    ざっくりサトちゃんちゃんといるよ(さっくりはしてないけど)&塩おにぎりをこのむゼット世代なんなのー、オムライスおにぎりだろ🟡🟥

    • オムライスおにぎり、絶滅の危機?ハッピーな社会の指標だった「オムライスおにぎり」が消えつつある恐怖。世はチャーハンおにぎり一色に。パラパラであるべきチャーハンを無理やり固める不条理。私はオムライスの、あのポップなオレンジ色を求めている!• Z世代の「塩おにぎり」ミニマリズム色のついたおにぎりを選ぶ私を横目に、同世代が選ぶのは真っ白な「塩」。それは諦めか、それとも「引き算の美学」に早くも気づいた賢者の選択か。海苔さえも「歯への執着」を恐れて排除する、ストイックな食卓。• おにぎり「おしとやか」・パン「ポップ」期の到来おにぎりがシンプルへ向かう一方で、菓子パン界隈はコーティングに詰め物、シュガーまぶしとデコラティブの極みへ。この「炭水化物のバランス調整」こそが現代の歴史なのかもしれない。• 昭和の魂を持つ、4頭身の私金八先生を愛し、思想が完全に昭和。おにぎりはカラフルな「ポップ」を求め、パンには顎が疲れるほどの「素朴な硬さ」を求める。時代の流れと逆行する私の味覚は、生まれ落ちる時代を間違えた証拠かもしれない。最近もトレンディドラマみてる、さいこー• 「さっくりさとちゃん」伏線回収の散歩道お墓の前で思い出す、あのデニッシュパン。まさかの母との「聖地」共有。さっくりしてないのに「さっくり」、フランソワなのに「さとちゃん」。矛盾だらけのあのパンが、今もスーパーにあるという奇跡。『真っ白なキャンバスに、ケチャップの夢を。』最近のコンビニおにぎりの棚を見ていると、なんだか経済まで暗くなっている気がしてならない。かつて、そこには「オムライス」という名の小さな祝祭が並んでいた。雑穀米やもち麦という「正しさ」もいいけれど、私はもっと、不健康なほどにポップなオレンジ色の塊に救われたいのだ。周りのみんなが「塩おにぎり」という最小限の価値に気づき、ミニマリストとして完成されていく中で、私だけが取り残された昭和の子供のように、色のついたご飯を欲しがっている。海苔が歯に付くことさえ、食べ物が自分に執着してくれているようで愛おしいのに、今の世の中はあまりに「清潔で、静か」すぎる。母と歩いた散歩道で見つけた、さっくりさとちゃんの記憶。名前と食感の不一致、ネーミングの強引さ。それこそが、今のスマートな社会が忘れてしまった「人間味」ではないか。さっくりしていない「さとちゃん」を、しっとり、ねっとりと噛み締めながら、私は思う。時代がどれだけ「塩」へ向かっても、私はこれからもケチャップの色と、顎が疲れるほどの硬いパンを愛しつづけるし、ざっくりさとちゃんがさっくりしてないことも見逃し続けて手に砂糖まぶし続けるよ。 LISTENで開く

  15. 137

    好きな食べ物ってコソコソ言わなきゃいけない話なんだね& 枝豆の殻の数は、理性の数である

    好きな食べ物を聞くだけで、なぜこれほどまでに心が洗われ、そして自分の「汚なさ」に悶絶することになるのか。レジン作家(小4女子)と枝豆の賢者(中1男子)に教わった、真の「愛」の形をお届けします。​ 好きな食べ物は「秘密の告白」お母さんに耳打ちしないと言えない、小4女子の好きな食べ物。それは今の食卓への配慮か、それとも自分を形作る「核」を明かす照れくささか。安易に答えていた自分を恥じるほど、そのコソコソ声は尊かった。​ 枝豆を「3粒」で止める中1の聖人「好きな食べ物は黄緑色」。その答えが目の前の枝豆だと分かった瞬間、大声で正解を奪った私の「つまらない大人」感。しかし、彼は好きだからこそ、独占せず、みんなに分け、たった3粒を慈しんで食べた。脳なしで食い尽くしてきた私への、静かなる説教。​ 白ご飯の概念を問う、アバウトな三択「ご飯、唐揚げ、ラーメン」。三択の一番目に「ご飯」を持ってくる哲学的なセンス。白ご飯のこと?と聞かれて「うーん」と悩む彼女の姿に、私は安易な二択にできなかった自分の想像力の乏しさを反省した。​ 人類の義務教育「唐揚げ→ラーメン」の法則小4で唐揚げからラーメンへ推しが変わる。この遍歴は、もはや人類の勤め。やがて高校でセットになり、大人になって「しっとり感」や「酢豚のフルーツ」という掛け合わせの深淵にたどり着く。私たちはみんな、この道を歩んできた。​ レジンの透明感に、汚れた心を洗浄してクイズに正解して(奪って)もらった、子供たちの手作りレジン。この透明な塊を持ち歩くことで、私はかろうじて「汚い大人」の暴走を制御できている。レジンブームの生みの親に、最大級の感謝を。『三粒の枝豆と、透明な御守り。』私はいつから、好きな食べ物を「即答」するような、つまらない大人になってしまったのだろう。枝豆を目の前にして、殻の山を築くことしか考えていなかった私に、あの中1の男の子は教えてくれた。本当に大切にするということは、無限に扱わないこと。みんなで分け合い、一粒一粒を「形跡」として愛でることなのだと。小4の女の子が、お母さんの耳元で囁いた「唐揚げ」と「ラーメン」その移ろいゆく季節のような好みの変化を、彼女は一生懸命に自分の心に問いかけていた。白ご飯というアバウトな選択肢の中に、彼女が何を見ていたのか、私はもっと丁寧に想像すべきだった。子供たちが作るレジンのキーホルダーは、私の汚れた自意識を浄化してくれる御守りだ。これを持っている間だけは、クイズの答えを先に叫ばない、枝豆を無心で貪らない、そんな「少しだけ綺麗な大人」でいられる気がする。唐揚げからラーメン、そしてその先の多様な味覚の旅へ。私も彼女たちのように、一口の幸せを耳打ちしたくなるような純粋さで、もう一度「食」と向き合いたい。まずは、次に会うときのお土産のカップラーメンを、彼女がキラキラした笑顔で受け取ってくれるように、全力で予習して選ぶことから始めよう。 LISTENで開く

  16. 136

    世の中にもっとおかあさんコミュニケーションが増えますように!残ったものは全部持って帰らせて⭐︎

    【「会食前の牛丼ルーティン」を卒業させてくれた日への感謝】ワークショップの講師として行ったはずが、気づけばお母さんのような温かな愛に包まれ、煮豚の卵に「大人の階段」を見出した中村の幸せ報告です。• 「おばさん」ではなく「お母さん」政策呼び方に迷う関係性への終止符。たとえ、相手から「おばさん」と自ら名乗られても、お母さんと呼びたい。そして、人類みんなお母さんだと思えば、世界は愛で満たされるし、みんなのことをこどもだとおもっていただけたら最高です。世界平和ですという提言。• 食欲という名の野生 ―― 理性と煮汁の境界線大皿料理を前に、くいいじがとまらねえわたしは、1週間ぶりの食事かのような勢いで食べたくなる衝動。理性を保って「適量」で止めたはずなのに、目は「煮汁まで飲みたい」と叫んでいた。言葉よりも雄弁な「私の目」への深い反省。• 心を満たす「本物の塩おにぎり」と高級海苔の余裕会食前のいつもの虚しい牛丼ルーティンを救ったのは、手作りの塩おにぎりだった。常に焼き海苔がある家、子供が馬刺しを嗜む家庭のリッチな愛情。ワックスペーパーを敷き、紙袋にまで入れてくれる丁寧な「持たせ方」に、ホームパーティーの極意を学ぶ。• 煮豚における「味玉」という名の頂点肉にしか目がいかない子供たちを尻目に、味の染みた卵を尊ぶ。わさびを覚えた寿司と同じく、煮卵の「縁取りのある濃厚さ」に感動したとき、私は自分が大人になったことを確信した。• 土日の正解 ―― アリを愛で、キメの細かいカステラを想う仕事をせず、ただゆっくり歩き、花やアリに挨拶する。それこそが土日の作戦。赤ちゃん肌のようなキメの細かいカステラを手土産にする、そんな「キメの細やかな人」に私はなりたい。私の言葉は、いつも軽すぎて本心に追いつかない。「ありがとうございます」と言う私の声が、あのおにぎりの塩加減や、煮豚の卵の完璧な染み具合に対する感動を、1ミリも表現できていない気がして最悪な気分になる。可愛い柄のビニール袋をさらに、スタバの紙袋に入れられた、クラフトボックスのお弁当。その下に敷かれたワックスペーパー一枚の余裕に、私は本当の「リッチさ」を見た。将来、私も人を招くときには、こんな風に相手の心をおにぎりでパンパンに満たせるような、キメの細かい「お母さん」になりたい。会食という名の「食べてはいけない場所」向かう前に、手作りの愛を胃袋に詰めて挑む幸せ。 LISTENで開く

  17. 135

    成城石井への怒り

    • 成城石井への宣戦布告 ―― 150円の正体手にした12品目のサラダ。マイバスケットなら290円、成城石井なら450円。中身は同じ工場、同じ具材。この差額への怒りがどうしても収まらないけどまた同じことしそう。成城石井怖いよ。• 5%・10%割引の「微かな幸せ」レジで気づく「意外と安くなってない」という現実。でも、割引シールは節約のためじゃない。それを理由に「これ、買っちゃおう」と自分を甘やかすための、免罪符という名のエンターテインメントなのだ。• 人生を支えた「ボルシチ」の衝撃ロシア料理店で出会った、ボルドー色のスープ。成城石井は、そのマイナーな「血の色」のスープを、お惣菜として用意してくれている。水(スープ)にお金を払うという壁を越えさせる、ブランドの凄み。• 「もしもし成城石井」への改名案?ラベル一枚で人を狂わせ、高くても「やっぱり成城石井がいい」と思わせる圧倒的な存在感。イラストレーター「もしもし五島列島」を捨て、いっそこの強靭なブランド名に改名したいほどの敗北感と憧憬。• ソクラテスも驚く「無知のハッピー」知らない方が幸せだった。マイバスケットの正体を知らなければ、私は成城石井のサラダを最高のご馳走として立ち食いできていたのに。解像度が低いからこそ、駅の階段を登るだけで「F4の世界」のように楽しめる私の人生。成城石井の惣菜は、味や見た目だけではなく「成城石井で買っている自分」という物語を食べているのだと思う。工場が同じだと知ってしまった今、私の心はマイバスケットの冷たい現実に引き戻された。290円のサラダと、ラベルが貼られた450円のサラダ。160円あれば、美味しい牛乳がもう一本買えたはずなのに。けれど、ボルシチという「庶民には遠い異国の味」を身近に置いてくれる成城石井の優しさは、やっぱり捨てがたい。スープは水だ。けれど、あのボルドー色の水に150円余計に払うことで、私は日常の少し先にある「リッチな時間」を予習しているのかもしれない。知らないことは、最高にハッピーだ。バラのお風呂を知らなければ、銭湯の薬湯で王族の気分になれる。成城石井の「正体」を知ってしまった私は、もう無邪気な立ち食い客には戻れない。けれど、騙されていると分かっていてもなお、あのラベルが放つ「威厳」に抗えない自分も、また愛おしいと思うのだ。これからは、成城石井で買うときは「私は今、150円の夢をトッピングしている」と自覚しながら、背筋を伸ばしてレジに向かおう。 LISTENで開く

  18. 134

    めんどくさいことは、「めんどくさい」とおもったときがいちばんめんどくさくないからそこのタイミングで

    ​ 小籠包の「底」にある意地チュルチュルした蒸し小籠包への不信感を払拭したのは、ガリガリの「底」を持つ 焼き小籠包だった。それはまさに北海道の雪底ブーツ。食べ物を食べ物として守るための、丈夫な意志がそこ(底)にはあった。​ 「スープを先に飲む」という矛盾への提言「先に穴を開けて汁を吸え」という公式ルールへの違和感。スープこそが本体なのに、なぜ先に解体しなければならないのか。だけど酢好きとしては、小籠包をお酢を大量に摂取するための「器」にしてくれてるのはありがたぴ。​ 肉汁ビッシャー! 軸ブレ人間の悲劇他人の食べ方に気を取られた一瞬の隙。閉じるタイミングを失った口から放たれた肉汁の弾丸。お気に入りのジャンパーは犠牲になったけれど、それは「紙エプロン」という予習をサボった自分への報いだった。​ 「めんどくさい」は、今この瞬間が最小値自転車カバーと同じ。後回しにすればするほど、めんどくさいは成長し、巨大化する。「めんどくさい」と思ったその時こそが、人生のやり時。小籠包の汁を浴びる前に、私たちはエプロンを着けなければならない。​ 北九州の激渋居酒屋と「自分への酔い」知らない土地で一人、居酒屋の暖簾を潜るカッコつけ。中身が謎すぎる「10種類入り洋風お好み焼き」に困惑しながらも、テレビと喋る店員さんの余裕に救われる。カッコつける勇気が、新しい景色を見せてくれる。お客さんより店員の数が多くてそれゆえ、お茶を一口飲むと一口注いでくれるお店はいい店だ。めんどくさい、という感情には鮮度がある。その場でエプロンを借りれば一瞬で終わったはずのことが、断ったばかりに、ジャンパーの洗濯という巨大な「めんどくさい」へと膨れ上がる。自転車のカバーも、後片付けも、今やるのがいちばん! LISTENで開く

  19. 133

    ハンバーグの本質は、「肉のハナマサハンバーグ」に学び、準備の大切さは「キューピー3分クッキングに学ぶ」

    エッセイ①:キューピーの三分間と、私の不時着人生私はこれまで、予習という言葉を辞書から消し去って生きてきた。教科書を先に読むくらいなら、現場で盛大に転んで膝をすりむく方が、よっぽど情報の入りが良いと信じていたからだ。しかし、この歳になってようやく「予習」という名のカンニングペーパーの重要性に気づき始めている。その代表格が『キユーピー3分クッキング』だ。大人はあの番組を「本当に3分で終わるか」なんていう、小学生の「うんこ」並みの低レベルな視点で見たりはしない。私たちが圧倒されるのは、あの3分のために費やされた狂気じみた事前準備の凄みだ。オープンキッチンでありながら、調味料一つどんぐらがしゃん(転倒)させず、汚れた姿を一切見せない。調理技術以前に、あの「散らかっていない」という一点にこそ、プロの腕が凝縮されている。Netflixの『白と黒のスプーン』に出てくる一流シェフたちもそうだ。キッチンが綺麗であればあるほど、料理は美味くなる。私は今、明日のハンバーグという不時着予定のフライトを前に、生まれて初めて「散らかさない予習」をしようとしている。しかし、15分かけて歩いて聞きに行った祖母の助言は「玉ねぎが好きなら生、嫌いなら炒める」という、味の真理をどこかへ置き去りにした「好き嫌いの二択」だった。おばあちゃん、私は美味しいか否かを聞いているのに。エッセイ②:肉のハナマサという名の衝撃と、繋がれたい愛私の自炊能力が壊滅的だった高校時代、お弁当という名の戦場を救ってくれたのは、コンビニの121円のチルドハンバーグだった。ひじき煮やきんぴらごぼうがその奥ゆかしい量で同じ値段をとる中、ハンバーグだけは圧倒的なボリュームでメインを張り、ご飯の上に虹(ふりかけ)を降らせてくれた。しかし、レトルトハンバーグへの概念を根底から覆したのは、肉のハナマサだった。2個入り298円という、この世のものとは思えない安さ。パッケージを突き破らんばかりの、大人の手のひらサイズ。一口食べれば、そこにあるのはレトルト特有の練り物感ではなく、脳内メーカーが「肉・肉・肉」で埋め尽くされるほどの圧倒的な肉感だ。島へのお土産にしたいと願うほど、それは私にとっての福音だった。世のグリルレストランはこぞって「牛100%・つなぎなし」を謳い、目の前で半分に切るパフォーマンスを披露する。しかし、私は声を大にして言いたい。ハンバーグは、繋がれていてほしいのだ。肉感だけを追求するならステーキでいい。ハンバーグに求めているのは、つなぎという名の優しさと、手ごねという名のカモフラージュされた愛だ。ふわふわとしていて、どこか霧がかかったような「モヤフード」であってほしい。結局、祖母のみかんジュースを飲んで帰るだけの予習になったけれど、私は知っている。明日のハンバーグが成功するかどうかは、玉ねぎの炒め具合でも肉の配合でもなく、最後にすべてを包み込む「ソース」が美味しいかどうか、ただ一点にかかっているのだということを。 LISTENで開く

  20. 132

    ランチミーティングって何!?!二つもある耳ですら同時に同じことしか聞けないのに、話すと聞くは両立できません。口は一つしかないよ。飴のなめどきも難しくて舌をコインランドリーにさせる。

    ランチミーティングなのに、ランチの食べどきがわからんくてパニックになる。私は要領が悪い。その代表格が「ランチミーティング」という、人類が生み出した最も残酷なシステムだ。ミーティングというからには話すべき大事なことがある。しかし、目の前には美味しそうなランチが並んでいる。私は一体、いつ噛んで、いつ飲み込めばいいというのか。「話す」と「食べる」を両立するのは難しい。口は一つしかないのに。そもそも、二つもある耳ですら、違うことを一度に聞けないのに、口がそんなに器用なことできるはずがない。もし、その日のランチのメインの一番デカい欠片を口に放り込んだ瞬間に、相手から難しい質問を投げかけられたら?せっかくのメインを急いで胃にウォータースライダーしなければいけなくなる。私は獲物を加えたまま巣に戻る親鳥、あるいは頬袋をパンパンにしたリスのような顔を晒しながら、白目を剥いて咀嚼を急ぐしかない。リスの顔でビジネスの核心を突くことなど、果たして可能なのだろうか。口の中を見せるといけないと思って片手を犠牲にすると、ナイフとフォークを使う食べ物だったらその作業をしてる暇もなく、口に入れる前準備もできずに余計にパニック。スープとて油断はできない。相手がよそ見をした隙に、器から直接ダイレクトに流し込めば時短にはなる。しかし、それがポタージュだった場合、器の縁に残る「流域の残像」が、私のガサツさを雄弁に語ってしまう。「噛む」という行為は、時に思考を妨害する。らっきょうをボリボリと噛み砕く音は、相手の大事な話をかき消すロードサイドの「バ〜ニラバニラ高収入〜〜」のような広告トラックのようなものだ。舌だけで粉砕できるほど柔らかい、「歯いらずフード」の高級肉だけが供されるミーティングに呼ばれる身分にならなければと、血眼に決意。あるいは、舌だけでヒレカツを粉砕できるほど舌の筋肉を鍛え上げ、フェイスリフトアップと効率的な咀嚼を同時に手に入れる。後者の方が現実味があるので、舌トレしよう。それこそが、ランチミーティングという荒野を生き抜く唯一のサバイバル術なのかもしれない。失われたチュッパチャップスと、コインランドリーと化すの打ち合わせ前の舌私は、飴という存在の魅力に、おそらく人類最高齢で気づいた女である。私の高校時代、世の中は「片手にチュッパチャップスを持って帰宅する」のが女子高生のステータスであり、全盛期だった。制服を着て、飴を舐めながらタピオカ屋に寄る。そんなキラキラした計画は、ベッドの上で過ごした私の暗黒の青春によって霧散した。私はチュッパチャップスを経験せぬまま大人になり、飴の食べ方を知らないまま社会に放り出された。先日、オンライン会議の5分前に、計画性を持って、さすがに会議前には舐め終わってると思い、飴を口に入れた。3分もあれば溶けるだろう。そう高を括っていた私は、形が丸ではない飴のタイプの執念を甘く見ていた。会議開始1分前、口の中にはまだ八割の飴が鎮座している。私は焦った。舌をコインランドリーの脱水機のように激しく回転させ、摩擦熱で飴を溶かそうと試みたが、飴は微動だにしない。結局、会議開始のチャイムと共に、私は涙ながらに飴を「ペッ」と吐き出した。飴デビューが遅すぎた私は、その造形によって溶ける速度が異なることすら知らなかった。予定の前に飴を舐めるなら、絶対に「まん丸」を選びなさい。これは、失われた青春の空白を埋めるために、必死で舌を回転させた女が辿り着いた、人生の教訓である。【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://lit.link/kuiizi LISTENで開く

  21. 131

    飲めない割り勘の不条理〜私は記憶と体力がある〜&兄弟そろっての天かす探り

    📌 今回のトピックス​ 祝・飲み会卒業宣言!「行けば成長につながるかも」というファンタジーはもういらない。嫌いな人、よく分からない人に自分を削る時間は終了。これからは「好きな人と、騙さない系の本気ご飯やで」が新基準!​ ラブおばあちゃんと展示会の温度差「大学卒業」に号泣し、「渾身の作品展示」には薄いリアクション。そのあとのおばあちゃん待望の丸亀製麺。打ち立てマイスターの看板も虚しく、炸裂する「出汁へのダメ出し」をききながらおばあの分も丸亀啜る。天かすの山から「イカの端切れ」や「でかい塊」を発掘する快感。それは小さな欲張りだけど、人間の価値を左右する(?)瀬戸際の行為。これを兄弟揃ってガツガツやってることが判明し反省。ネギとワカメを山盛りにする自分と、どう向き合うか。​ 法整備求む!「割り勘の不条理」390円のソフトドリンク一択の私が、なぜビール5杯の彼らと同じ金額を払うのか。一滴も飲まないアルコール代を肩代わりすることへの「南無阿弥陀仏」は自分の機嫌を自分で取るための「賢い選択」なのだ。記憶が鮮明な朝に、昨夜の支払いへの後悔ではなく、食べたものの「美味しさ」だけを思い出せる贅沢を、私は噛み締めていきたい。 LISTENで開く

  22. 130

    命削ってでもたべたいネオバタロールとリースサラダといういろんな意味でお花畑。けど幸せ

    ① ネオバターロールの沈黙 ―― アリも寄せ付けない楽園私たちは、時に知らんぷりをする天才になる。トイレットペーパーの芯が尽きそうなとき、ゴミ出しの袋をまとめるのが面倒なとき。そして、マーガリンという名の「トランス脂肪酸」が体に悪いと知ったときだ。アメリカでは禁止されている。アリすら見向きもしない。そんな物騒な噂を耳にしてもなお、私はネオバターロールの袋を開ける。あのヤドカリのような愛嬌のある形。その中心に鎮座する「生バター(実質はマーガリンだとしても、その響きは尊い)」が口の中でとろける瞬間、私の脳は一時的に麻痺する。休日の朝、このバターで頭をおかしくしてから見るプリキュアや仮面ライダーは、最高に面白い。彼らが戦う理由も、バターの背徳感の前では「美味しければそれでいいじゃない」という全能感にすり替わってしまう。母の「ネオバターソフト廃止宣言」という、わが家の健康革命に抗うために、かつての私は占いサイトに救いを求めた。スマホも図書館に行く知恵もなかった私は、ただ祈るように画面を見つめ、ネオソフトの安全を信じようとした。今はもう、命を削ってまで食べたいという切迫感はない。けれど、黒糖パンのあの深い茶色を見るたびに、私の家の愛犬を思い出し、あの禁断の「生バター」が喉を滑り落ちる快感を、密かに、かつ強烈に求めている自分に気づくのだ。② リースサラダのお花摘みと、蛍の墓の芋天ぷらかつて日比谷の地下にあるお洒落な店で、私は「リースサラダ」という名の虚像を注文した。お友達のパスタが確実な満腹を約束する一方で、私の前に現れたのは、中央に広大な余白を持つ「穴の開いたサラダ」だった。私はそれをお花摘みのように、葉っぱ一枚一枚を大切に摘み取って食べた。そうでもしなければ、その華やかなランチはわずか四口で終わってしまうからだ。添えられたパンを食べる際、私はこれ見よがしに提供された瓶入りのジャムとマーガリンを、限界まで塗りたくった。1,650円という高額なサラダへの、せめてもの抵抗である。店員さんが「全部食べきるわけがない」と思って用意した量を、私はケチくさく、かつ執念深く消費していった。その卑屈な食い意地の根源は、おそらく幼少期の「イモ天ぷら」にある。母が衣を食べ、私は中身の芋だけを与えられるという、まるで『火垂るの墓』の一場面のような食事風景。その切なさが、私を「芋だけならいくらでも食べられる体」へと作り替えたのかもしれない。今では母に芋を好きなだけ食べさせてあげられる大人になった。けれど、6枚切りの食パンを買えば一週間持て余し、冷凍庫で霜が降りるのを眺める日々。この「命削りフード」を街の人と分け合えるような、そんな優しいシステムがあればいい。ネオソフトとアヲハタのジャムを厚塗りしたトーストを、誰かと笑って分け合えるような、そんな穏やかな朝を私は今も夢見ている。 LISTENで開く

  23. 129

    錦糸卵と、スカートのひだは、綺麗に、細かければ細かいほどいい。(タイトルキモ回ごめんだけど内容真剣です)

    あんぱんの美味しさは、あの白ごまに100%込められていると、私は本気で思っている。薄皮粒あんぱんは別の話だ。あれはもう完成された球体なので議論の余地はない。私が言っているのは、昔ながらの、ちょっと乾いた表面のあんぱんの話だ。上に、白ごまが、ポン、ポン、ポン、と10粒くらい。多すぎない。少なすぎない。絶妙に「責任を負わされている数」だけ乗っている。あれを、最後まで残しておく。絶対に先に食べない。あんぱんを食べ進めていくと、最後に、ごまの地層(あんぱんの中心部分)に到達する。そこだけ、あんこのおいしさが明らかに違う。同じあんこなのに、同じパンなのに、なぜか、そこだけ、信じられないくらい美味しい。きっと、あそこに全部込めているんだと思う。パン職人の気合とか、人生とか、祈りとか。ざるそばの刻み海苔もそう。中心で、湿気を吸って、世界一居心地が悪そうに固まっている。(パセリも)あの、黒い密集地帯。あそこを、最後に、そばと一緒に流し込む。ラーメンの海苔もそうだ。最後の一口の麺を、海苔で巻いて食べる。あの瞬間のために、ラーメンを食べていると言ってもいい。のり系を最後に食べるせいで、結果、私は、いつも歯に何かついている。人生の大事な部分を最後に回収しようとする人間は、だいたい歯に何かついている。【私を救ってくれた錦糸卵の話】北海道の朝食バイキング。2700円。震えながら会場に行った。前日の夜ご飯の誘いを断って、抜いて、スクワットまでして、胃を空にして、完璧な状態で臨んだ。なのに、刺身は、冷凍だった。少しシャリッとしていた。しょっぱかった。世界が、静かに終わった。そのとき、錦糸卵だけが、味を持っていなかった。味を持っていないことが、救いだった。しょっぱくない。主張しない。ただ、うつくしいぴしっとしたひだで、そこにいる。錦糸卵が、私の絶望を中和してくれた。あれ以来、錦糸卵は、私の中で、主役になった。⸻多分、私は、少ないものを信じている。量が少ないもの。上に、少しだけ乗っているもの。最後まで残ってしまうもの。それらはきっと、「本当の部分」なんじゃないかと思っている。そして今日も私は、歯に海苔をつけたままずっとしゃべってる。 LISTENで開く

  24. 128

    三つ葉なめちゃいかん!あんぱんも、あのごまが主役だから。ランチパックは縁が主役。

    【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。【三ツ葉をなめていた話について】かいわれ大根とかよりなめてた。三つ葉のこと。親子丼の上にちょこんと乗っている、あの緑。茶碗蒸しの上に一応いる存在としか思ってなかった。大葉みたいに「俺が主役だ」みたいな顔も匂いもしないし、ネギみたいに「万能です」みたいな態度も取らない。三ツ葉はいつも、「別にいなくても成立しますけどね」みたいな顔をしている。だから完全に油断していた。だから、三ツ葉だけを食べた日の衝撃わすれられない!!味が立体だった。平面じゃない。立体。もっともっとみんな三つ葉褒めたほうがいいし、親子丼のうえにも茶碗蒸しにもあと50ばいくらいのっけなきゃいけないと思う。⸻こういう存在は他にもいる。あんぱんの上のゴマ。あの小さな点々の一粒一粒に、あんぱんの「完成」が委ねられている。ゴマがなかったら、あれはただの茶色い丸だ。ゴマがあるから、あんぱんは「あんぱん」になる!ゴマこそあんぱん!⸻パセリもそうだ。パセリを散らした瞬間、料理は「家のご飯」から「カフェ」になる。カフェ風ごはんというのは、パセリが乗ってるかどうかってだけ。味はほとんど変わらないのに世界観だけが変わる。パセリは、すばらしい演出家。⸻粉チーズも同じ。揚げ物に粉チーズをかけると、急に「イタリア」になる。さっきまで日本にいたはずなのに、粉チーズをかけた瞬間、地中海の風が吹き始める。粉チーズは、国境を越えさせてくれる。⸻そして、パン粉。私は気づいてしまった。カツ丼を食べている時、私たちは肉でご飯を食べているんじゃない。パン粉で食べている。あのふやけたパン粉こそが、ご飯を進ませている。パン粉は、もはやパンではない。調味料だ。⸻そして、ランチパック。あの縁。あの細い縁は、何のためにあるのか。これすごいよ。技術見せられてる。この細〜〜いティッシュちねったやつみたいな部分がご褒美。正直、中身がピーナッツなら、あそこまで閉じる必要はない。こぼれないのだから。なのに閉じている。あれは機能ではない。美意識だ。ランチパックは、パン界の製本なのだ。本を閉じるように、パンを閉じている。だからあれは、食べ物である前に、アートであり、「必要のなさそうなところまでちゃんとすること」を教えてくれる教科書である。⸻そして私は最近、理解した。本当に重要なものは、いつも少ない。三ツ葉は一枚。ゴマは数粒。銀杏は一個。パセリは少し。少ないからこそ、私たちは油断する。軽視する。なめる。でも、世界は、その「少し」によって完成している。⸻だから私は決めた。これからは、最初に三ツ葉を食べない。最後まで取っておく。世界を完成させる瞬間を、最後に残しておく。ちゃんと噛みしめてかみくだく。それが、具材への礼儀だからだ。 LISTENで開く

  25. 127

    栄養ドリンクは「飲み物」として捉えてもポテンシャル高すぎる。おいしい牛乳戦法でみずから名乗っていきていきたいよね。

    ① 「美味しい牛乳」の自己暗示と、白に染まれない自意識世の中には「美味しい牛乳」という、あまりにも堂々とした商品名がある。あれはもはや食品ではなく、威厳に満ちた「洗脳」だ。自分から「私は美味しい」と名乗ることで、飲む側の味覚を強引に正解へと導いていく。その潔さに倣い、私も「賢い中村です」と名乗り続ければ、いつか美味しい牛乳現象が起きて、脳の語彙力不足も解決されるのではないかと夢想している。けれど、そんな強気な私にも、朝食バイキングという名の「牛乳の結界」がある。五島列島で育った私は、牛のミルク感を全身で受け止める「後藤牛乳」という野生の味を知っている。牛乳への愛は人一倍なのに、なぜか人前で牛乳を手に取るのは恥ずかしい。それは私が「牛乳を飲みそうなキャラ」すぎて、その期待を裏切ることも、全うすることもできない、中途半端な自意識の現れなのかもしれない。他の誰が飲んでいても気にならないのに、私が白い液体を飲むときだけ、世界が私のキャラを見定めているような気がして、結局コーヒーを手に取ってしまうのだ。② コーヒーの「頑張りメーター」と、茶色い不穏な予感最近、あんなに好きだったコーヒーが飲めなくなった。一口で「うぇっ」となってしまうのだ。かつて大学の課題に追われ、パソコンをパチパチと叩いていた「パチパチ族」の頃は、1日4杯は平気だったのに。今の私は、いい意味で人生を諦め、頑張る体力を使い果たしてしまった。すると体の中の「コーヒー受容体」がこう告げてくるのだ。「お前、最近頑張ってないだろ? コーヒーを飲む資格はないぞ」と。コーヒーからカフェオレ、そしてココアまでもが喉を通らなくなりつつある今、私は恐怖に震えている。もしこの「茶色いもの拒否」が食の方へ侵食してきたら、私の愛するハンバーグや唐揚げはどうなってしまうのか。巷では「油っぽくない」「使い回していない油」が高級とされるけれど、私は断固として「使い回しの油」派だ。スーパーのしなびた惣菜に宿る、あらゆるエキスが溶け込んだ複雑な旨味こそ、揚げ物の真髄ではないか。もし茶色いものが食べられなくなったら、私はカキフライの衣を剥いで、その中のブルブルした身の部分だけをスプーンですくって食べる、孤独な富豪になるしかない。③ 栄養ドリンクは「複雑怪奇なカクテル」である最後に、栄養ドリンクという名の「甘すぎる聖域」について提言したい。あれを薬コーナーに置くのは、もはや欺瞞ではないか。あの瓶の、戦時中の防空壕のような頑丈さは何なんだ。喉が乾き、栄養を欲している人間に、あんな硬い蓋を強いるのは拷問に近い。鞄の中でカンカンと音を立てるあの重み。けれど、冷静に味わってみると、栄養ドリンクはこの世で最も「複雑でミステリアスな味わい」を持っている。裏ラベルを見ても呪文のような言葉しか書いていないのに、柑橘、バニラ、スパイスが絡み合ったあの濃厚なスイーティーさは、もはや「スペシャル・ブレンド・ドリンク」だ。いつか、シャンパングラスに注ぎ、氷を浮かべて香りを愛でながら飲んでみたい。流し込むのではなく、舌の上の全細胞でその複雑な幸せを受け止めたいのだ。栄養ドリンクを「元気が出るおまじない」としてではなく、純粋な「嗜好品」として楽しむ。それが、頑張ることをやめた私が辿り着いた、新しい食の境地なのかもしれない。【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。 LISTENで開く

  26. 126

    お子様ランチ品評会②と理想のお子様ランチ計画

    「お子様ランチ」という、大人が足を踏み入れることを許されない聖域。歴史を振り返り、さらに学びを広げていくと、そこには、旅館のホスピタリティから、90年前の開発者の登山への情熱、そして「砂鉄のようなのりたま」という怪現象も見つけました。あとやっぱり、自分の記憶の中のお子様ランチが一番美味しいんだって話。① 砂鉄のふりかけと、映らない飛騨牛 ―― 旅館に眠る「だけ」ではない迷宮〜やっぱり旅館で事件はつきもの〜お子様ランチの正解は、お子様がいる料理人にしか作れないのかもしれない。旅館のお子様ランチは、その情熱が桁違いである。旅館という場所は、みんなの癒しの場所できていて、そのためにはお子様ランチが「いかに子供を黙らせ、楽しませるか」という手段にならなきゃいけないので必死の知略があり見るだけで楽しい。下呂温泉のとある旅館で見つけた「お子様定食プラン」。低学年向けのお子様ランチと、高学年向けのお子様定食の2種類分けられている設定が、恐ろしいドラマを生んでいた。飛騨牛のサイコロステーキにお造りという豪華なラインナップを誇りながら、なぜかホームページの写真ではそれらが一切写っていないのだ。全く写っていないわけではなく、わさびだけ垣間見えてて「刺身匂わせ」はされてあるところが余計に怖いよ。ステーキは微塵も写ってない、代わりに中央に陣取るのは、うさぎの形をしたポテトサラダと、高学年でなければ直視できないほどリアルな顔が描かれた「たこさんウインナー」と言った安物たち。さらに驚くべきは、ご飯の上に鎮座する「のりたま」だ。その海苔は、まるで理科の実験で磁石に吸い寄せられた砂鉄のように毛羽立ち、見る者を威嚇している。豪華食材を映さず、砂鉄のような海苔と顔のあるタコを強調する。一方で、低学年向けプランにはうさぎの顔はあれど、タコの顔がない!!!!そして、低学年プランは全体像をハッピーに写してくれているのに、高学年プランは切り取り画像しかないぞ。なんだこれ。この「喧嘩」とも取れる不条理な構図に、私は旅館という名のテーマパークの深淵を見た気がした。裏で代表と料理人が揉めてるはず。お子様にステーキとお造りは早いとか、日によってばらつき出せるように写さんどこうとか。箸袋が高学年の方が幼くなってるのも事件性を感じる。島原のホテルでは、お子様ランチにラーメンがついていました。しかもチャーシューでかい。骨付き肉もある。時間稼ぎにいいよね。プリンとアイスの上にはあのビュッフェにいるシマウマ柄のロールがちゃんといるあたりも、動物園気分かつ、パティスリーでケーキを買った時の興奮を味合わせてくれる。オレンジジュースはホテル用のグラスに子ども用だから半分しか入れてない。優しいけど、ホテル用グラスなのはちょっと緊張する。やっぱり、お子様ランチはプラスチックのコップで持ち手付きでお願いします。② 富士山の頂と、私の生きる道 ―― お子様ランチの旗専門イラストレーターになりてえお子様ランチの歴史を紐解けば、1930年、世界不況の暗雲を払うべく「子供たちに夢を」という願いから生まれたという。開発者は登山好きで、ケチャップライスの山頂に白いご飯を載せ、富士山の雪に見立てたらしい。登山への情熱を隠しきれないその設計に、私は「ケチャップライスを白飯で隠すなんて、もったいないし、子供に希望与えたい割には自我強めだな」と思ったけど、そんなことよりまず感謝。白いご飯で隠すことはむしろ余白を楽しませてくれる白をご覧あれ〜という感じなのかも!!!!そんな歴史を学び、膨大な画像をパトロールした結果、私は一つの答えに辿り着いた。私のこれからの生きる道、それは「お子様ランチの旗専門イラストレーター」である。お子様ランチにおいて、旗、大事だけど、考えもなく世界の国旗を刺すのは危険。昔バイトしていた寿司屋で、外国人のお子様にどの国旗を刺すかでキッチンではみんながわざわざ手を止めて、会議が開かれていた。世界情勢も絡む。旗一本で外交問題。大幅なタイムロス。世界情勢に配慮して国旗を選ぶことに神経を尖らせるバイト時代のロスをなくし、イラストレーターとして、子供たちが純粋に笑顔になれる、それぞれの店舗に合わせたお子様ランチの旗を描く。それこそが、私の使命だ。最後に、私が理想とする「トリプル3(スリー)ランチ」のを提案したい。3つのご飯(チキンライス・のりたま・カレー)、3つのアンパンマンポテト(食パンまんとカレーパンマンを両脇に)、そしてエビフライという強すぎる個性に忖度しない3種のコロッケ(野菜コロッケ、クリームコロッケカレーコロッケ)そしてカキフライも乗っけていいですか。それらすべてに、私の描いた旗を立てたい。コーンスープの海は旗が立つくらいドロドロでコーンたっぷり!旗のイラストご依頼お待ちしております。 LISTENで開く

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    お子様ランチ品評会①

    私はもう、お子様ランチを頼めない年齢になった。でも思い返してみると、子どもの頃に情熱をもって「お子様ランチが食べたい!」と言った記憶はない。気づいたら、目の前にあった。あれは自分で選ぶものではなく、「与えられるもの」だった。ファミレスでコインがもらえて、外のガチャガチャが回せるから頼む、ということはあった。でもそれは、お子様ランチそのものを欲していたわけではない。だから今、頼めないとなった瞬間に、猛烈に食べたくなる。人は、失ってから気づく生き物らしい。最近の「大人のお子様ランチ」は豪華すぎる。艶々の肉汁ハンバーグ。とろとろたまごのオムライス。しっかり自立するプリン。バジルをやたらとかける。白いソースもやたらとかける。自立するエビフライへの激しい忖度と多すぎるタルタルソース。私たちが求めているのは、洋食のフルコースではない。「大人のお子様ランチ」という言葉を聞くたびに、私は言いようのない違和感に襲われる。洋食屋が自信満々に差し出すそれは、陶器の皿に盛られ、エモいって言葉で全てを解決させる世の中の象徴のような気品を漂わせ、そして何より高すぎる。私たちが求めているのは、そんな「本気」ではないし、豪華で完成されたものじゃない。お子様という身分を生かしていつの間にか与えられていたお子様ランチとは違い、自分で選択しなければいけない『大人のお子様ランチ』がここまで豪華である必要はない。大人に媚びていないこと。格上げされていないこと。「どうせ子どもだからこれでいいでしょ」という雑さの中にある、妙な誠実さを受け入れる練習が必要。私が焦がれているのは、プラスチックの仕切り皿という名のチープな宇宙だ。周りに描かれたキャラクターがデカすぎて皿のイラストを見る方がもはやメイン。そこに「旗」という立体の名の主権と、果汁飛び出してベタベタになるミニゼリーとニコニコポテトとコーン入りの短い麺べっちょりナポリタン、安そうで薄そうなハンバーグをもってしてお子様ランチというのは成立する。1週間、私は貪るようにネットの画像を眺め続けた。白い恋人パークの「お子様ランチなのにパセリをかけてしまう」という、隠しきれない人気高級ブランドの矜持。デニーズの「ナポリタンのコーン」という、正解すぎる彩り。そして、何より私を熱狂させるのは「ニコニコポテト」の存在だ。普通のポテトなら、他のメニューの付け合わせを流用できる。しかし、わざわざ「ニコニコ」を仕入れているということは、その店がお子様ランチに対して「これは特別な一皿だ」という敬意を払っている証拠なのだ。品評会は深淵へ向かう。やよい軒のミッフィー皿に見る「タルタルソースのポテサラ擬態」。ほっともっとが資本なやよい軒。ほっともっとの弁当といえば個人的に『ポテサラ』と思っているので、だからこそ、タルタルソースすらポテサラの形にして出したいプライドがあるんだろうね。どこかの魚センターの「舟盛りプレートの上にハンバーグが鎮座する」という、お子様ランチのプレート以外で、ちゃんと居酒屋でも流用できるいい土台を発見しましたね!!!!舟盛りの上にお子様ランチを乗っけるって!そうじゃんそうじゃん。車の皿の上と同じだよね。そして海鮮の店なのに肉類多くてありがとう。貝の皿に入った3つのミートボールが真珠のように輝く。豊洲市場のお子様ランチは包丁の技術を見せたいのかなんと、ミニトマトが半分に切られていた。ちなみにお子様ランチはミニトマトであって欲しい。くし切りやめて〜とは言ったものの、ここまで求めてないよ。イチゴも半分。市場のプライドが見える。さらに、ミニゼリーをわざわざひっくり返して出している。各ファミレスへ、ケチャップはかけて出せ!!!!パウチのケチャップをドンと置かないで!子どもはちぎれない。親が結局やる。それだとお子様ランチの意味がない。親に手の自由を!ふりかけは卵であれ!お子様だからと言って、安いプライベートブランドの卵じゃなくて!ちゃんと美味しいやつ。鰹節は違う。のりたま。卵系。あの黄色い粉。そして、上だけにかけるな。全面にかけろ。ふりかけが白おにぎりに上だけしかかかってなかったトラウマは永遠刻み込まれているからね。3,245円という「大人のお子様ランチ」の頂点、キッチン大宮。そこには「人参グラッセ」を「キャロットグラッセ」と呼ばせる、新たな世界。いいものは、なんでも英語で呼んでいこうね。一食1,000円以下のランチしか知らない私には到底届かない、黒いデミグラスソースの壁があった。黒さは高級。高級とは黒光り。流石の三越伊勢丹の気品あふれる旗付き御膳はアワビとローストビーフだぞ。『大人のお子様ランチ』って言ってるけどこれだともはやおばあさんランチじゃないか。もっと柄で誤魔化そう。余白たっぷり。盛り付けは雑でいい。立体アートは禁止。陶器、出てくるな。中でも私の胸を打ったのは、鹿児島の「ひよこテーブル」だ。ブロッコリーをただ添えるのではなく、半分に切り、その半分をさらに細かく分類させ、チキンライスの上にタンポポの綿毛のように散らす。そのあまりにも過剰な愛に、私は食べてもいないのに泣きそうになった。型抜きの星や音符に、『お子様ランチへの愛』が伝わるし、卵焼きの焼印、ハンバーグに刺さる側も素晴らしき。ナポリタンの上のタコさんウインナー!子供用のものにバジルをかけるなと怒っていた私だけど、この弁当においてはバジル見えてないよ。エビフライという主張激しい割にか弱くて自立できない存在を二つのしっかり系唐揚げが支えてるの、いい!ブルゾンちえみwithBみたいな感じ。女の特権は使えるうちに使っとけってことはお子様の年から知っておいた方がいいことだもんね〜。けどね、これだけ食べたいと言っておいて本当はお子様ランチなんて絶対に頼まないので安心してください。普通に大人用のパスタか、唐揚げ定食食べます。大人になって子供の時のワクワクを振り返る必要はなくて子供の時の記憶はそのまま、丁寧に真空保存するのが正しいと色々学んできています。ひよこテーブルお子様ランチ|鹿児島で宅配、配達弁当ならひよこテーブル【お子様ランチ】小さいお子様用のお弁当のリクエストが多いのでご用意いたしました。チキンライスを可愛く彩り、ハンバーグやエビhiyokotable.com780円ひよこテーブルで購入するオキナワお子様ランチの記事オキナワお子様ランチワールドお子様ランチ、そこに沖縄要素はあるのだろうか。沖縄県内の食堂のお子様ランチをちょこちょこ(息子が)食べ歩いたのでそのコレクwww.dee-okinawa.com LISTENで開く

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    天丼のタレは黒蜜より甘い。たぬきうどんは化けの皮はいだら、ただの天かすうどんなんで。丸亀製麺のおにぎりのフィルムをボンタン飴のように食べたい。

    天ぷらは汚れているほうがうまいし、たぬきうどんを頼むのは「バカ」と言いたかったけど、必ずわかめうどんを頼む私もバカになったので結局はバカこそ王者という話〜〜〜天ぷらの話をしたい。大海老天の話もしたいし、衣がわしゃわしゃしている緩衝材みたいなのがいっぱいついてるみたいなゴツゴツ天ぷらが好きだ!という話もしたいし、天ぷらの油はたぶん綺麗すぎないほうが美味しいんじゃないかという疑惑もある。透き通ってない方がいい。天ぷらの衣にくせえ匂いを染み込ませてくれ〜〜〜〜〜それから、天ぷら職人が素手で油を触っているのを見るたびに「人間ってここまでいけるんだ」と思う話もあるし、衣を油に入れるときに箸でこそぎ落とすあの動作は、もう法律で禁止にしてほしい。たっぷりつけたままでいいんだよ!何を落としてるんだ。だけど、私は常に欲張りだし、デザイナーとしてお世話になっている会社の人から毎回「中村さんのデザインは盛り込みすぎ。引き算して」と言われるので結局引き算・・・・大切なのか・・・胃もたれデザインは世の中には必要ないっぽいもんね。確かにみんな時間なさそうだし。特に東京の人たち。歩くスピード早すぎるよ。だけど言いたい、お弁当のしなしな天丼は異常に美味しい。他の揚げ物の匂いも入ってて、天ぷら衣がブワアっとふ焼けまくってるもの。天ぷら衣をそぎ落としてないからこその報酬。天丼のタレはビッシャーがけでお願いしたいし、天丼の美味しさの9.9割はあの甘すぎるタレが担っていると思っている。黒蜜より甘い。世界一甘い液体だ。天丼屋に行くと「天丼」と「上天丼」が並んでいて、その差がほぼ「エビが乗るかどうか」だけなのがちょっと許せない。みんなエビにヘコヘコしすぎてない?結局みんな、エビがいちばん偉いと思っている。確かに私も思っている。エビはいい。すごい。生エビ食べてえ。昔、お金持ちの人に蕎麦屋さんに連れて行ってもらったとき、大海老天が一本500円で、「お腹に余裕があるなら2本にしていいよ」と言われたことがある。あのときの感謝は一生忘れない。どうやって恩返しすればいいのか、いまだにわからない。そして本当の本当に「大」海老天だった!すごい!プリップリカレンダーが1日を指すと、私の心の中では密かに「丸亀製麺の釜揚げうどん半額わっしょい祭り」の幕が開く。丸亀製麺が釜揚げうどんを半額で提供するその日、先月も何もしなかったな〜と、やりたいことだけ溜まったカレンダーをめくって一応取っておくけど結局一年分溜まりまくっている絶望感さえ、うどんの湯気の向こう側へと消えていく。不思議なのは、並んでいる人々だ。前日から「明日は丸亀だ、わっしょい」と魂を震わせていたはずなのに、いざ列に並ぶと、皆一様に「たまたま今日、うどんの気分だったんです」という涼しい「おすまし顔」を決め込んでいる。もちろん私もその一人だ。おすまし顔でトレイを滑らせ、半額で浮いたお金を軍資金に、普段はケチる天ぷらコーナーへと突撃する。そこで私を待っているのは、胃もたれという概念を人生で初めて教えてくれた存在の巨大なかき揚げ。そして、丸亀界の最安値、50円で我々を支え続けてくれる「ごぼう天」だ。ごぼうは、もはや天ぷらという名の「ガム」である。噛めば噛むほど土の旨味が広がり、骨身に染みる。ありがとう。そして、おにぎり。あのシャカシャカしたフィルムに包まれたおにぎりは、まるでカメラのキタムラで現像したばかりの大切な思い出を入れる袋のよう。これに包まれているから、完璧な湿度で守られて異様に美味しいおにぎりになってるんだな。通常、「うどん定食」など、白ごはんと白うどんの組み合わせを許していない私が、丸亀の時は、うどんと米を同時に食う。かつて友人の母から貰った二重ラップのおにぎりを、一回しか剥がずに、もう一つは残したままおにぎりを食べてラップごと飲み込み、数日間便秘に苦しんだ私にとって、あの剥がしやすいフィルムは「文明の優しさ」そのものであるけど、むしろ食べたくなってるし、一度食べ切った経験が謎の自信を生み出してくれている。かかってこい。「たぬきうどん頼む人はバカ」なぜなら、「たぬき」という可愛いひらがな3文字でわたしたちを騙しにきてるから。化けの皮はいだら、ただの天かすうどんなんで。私はかつて、家のひらがな表の中でも「ぬ」をじっと眺めていたことがある。便秘がちなので、トイレによくこもるからとにかく見ていたよ。50音表の中で、最も丸みを帯び、最も「造形」としての完成度が高い文字。ひらがなキーホルダーを作るなら、迷わず「ぬ」の一文字だ。二文字の名前を授けてくれた親に、一文字分のカスタム料金を節約させてくれた感謝を捧げつつ、私は「たぬきうどん」という不条理について考えを巡らせる。たぬきうどんを頼む人はバカなぜなら、天かすは多くの店では無料で提供されている「揚げ物の残像」だから。それにお金を払うのは、まるで空気を買うようなものではないか。しかし、京都で言われてるの「たぬき」を知って、私の偏狭な正義感は打ち砕かれた。刻み油揚げをあんかけにし、おろし生姜を添える。化かされているのは、天かすではなく、私の固定観念。さすが京都様。デパ地下の祭事で京都のだし巻き卵に釣られて立ち止まった店で、「鴨肉でごわす」と試食を差し出してきたお姉様の、あの一歩踏み込みまくった接客のような衝撃だ。京都はいつだって「かまし」を重ねてくる。天ぷらの衣を揚げ油に削ぎ落とす職人の仕草を法律で禁止したいと願うほど、私は「衣の余白」にうるさい人間だが、お弁当のしなしなになった天丼の、あの黒蜜より甘いタレには、無条件で降伏してしまう。1本500円の大海老天を「二本いっていいよ」と言ってくれたあの人の恩恵を、私は一生、胃袋に刻んで生きていく。エビこそが「上」であり、幸せの指標。天ぷらでも洋食でも常にエビをトッピングできる人生でありたいよね。私はこの「ぬ」のような丸みのある幸福を、うどんの出汁と共に啜り続けたいと思う。だけど、まだたぬきうどんに怒りたい。一瞬京都のおかげで騙されたけど、ただただ、天かすうどん。それなのに、だいたいきつねうどんとか、とろろうどんと同じ値段をしている。だったらとろろを頼めばいい。絶対に手がかゆくなるし、手間もかかってそうだし、原価も高そうだから。きつねも、お店でちゃんと炊いてるなら全然ありだ。しかも多くの店では、天かすって無料で置いてある。自分で入れればいいじゃないか。たぬきうどんは、最初から厨房で天かすが入れられていて、届いたころにはもうブヨブヨしている。あの感じ、テレビショッピングで羽毛布団をぶん殴ってるときのモワモワに似ていて、ちょっと怖い。ただし、どん兵衛のたぬきだけは別格だ。あれはもう別の宗教。150円であの世界を出されると、蕎麦屋に行くたびに脳内で緑のたぬきが点滅してしまう。ちなみに私は、うどん屋さんではよく「わかめうどん」を頼む。でも丸亀製麺が、ついにわかめまで無料にしてしまった。つまり私は、バカ側に回った。丸亀製麺はすごい。毎月1日、釜揚げうどんを誰にでも半額にしてくれる。なのにその日に、普通のかけうどんを頼む人が一定数いる。しかもそういう人は、だいたい変な時間に来る。半額の日、みんな心の中では「わっしょい祭り」なのに、全員すまして並んでいるのも愛おしい。私ももちろんすまして、「たまたま今日、釜揚げうどんの気分でした」みたいな顔で半額を享受する。その浮いた分で、天ぷらを取る。ごぼう天。50円で、噛めば噛むほど旨い。ガムみたいな天ぷら。ありがとう。丸亀製麺のおにぎりのフィルムも最高だ。あのフィルム、写真屋さんで現像した写真を包んでくれるやつと同じ気がする。ボンタンアメにおけるオブラートのように、あれごと食べられたらいいのにと本気で思っている。丸亀製麺ではいつも、後ろの人に急かされて、いちばん食べたくない天ぷらを取ってしまう。夢の中でもよく出てくるのが丸亀製麺だけど、いつも一番いらない天ぷらとってしまっている。だけど、後ろの人に急かされて落ち込んだ日は無料トッピングの天かすの中にちょっと具材が入ってたりして、欲より規律を守った私にご褒美をくれる。【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://lit.link/kuiizi LISTENで開く

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    人気店に行くなら、節分の次の日が一番狙い目(みんな喉からからなので)

    2/4、この日にみんなレストランとか予約したり、外食の予定入れたらいいよ!!!!!!計画に計画を重ね、半年ぶりに足を踏み入れた聖域「ミッキーハウス」。そこで私を待っていたのは、ランチプレートという名の、もはや狂気を感じるほどのサービス精神だった。王道デミグラスハンバーグ、生姜焼き、自立するタイプのクリームコロッケ、そしてナポリタン、ちゃんと色が濃いインゲン。値上げという名の「適正な進化」を遂げてもなお、1,000円を切るその価格設定に、私は拝まずにはいられない。【皿オンナプキンオンスープ皿!愛してる】スープの皿の下にさらにもう一枚皿を重ね、その間に紙ナプキンを一枚噛ませる。この、洗い物を増やすことを厭わない「無駄な豊かさ」こそが、洋食屋のプライドだ。しかし、そこで私は一つの異変に気づく。コーンポタージュに浮かぶクルトンが、かつてないほど巨大に見えるのだ。普通、大人になれば世界は小さく見えるものだ。それなのに、クルトンが大きく見える。これは老化による背骨の湾曲のせいか、それとも私の食い意地が視神経をバグらせているのか。洋食屋ならではの、粒立ったご飯をポタージュに浸し、粉チーズを振りかけて勝手な「リゾット」を構築しながら、私は思う。この巨大化した(ように見える)クルトンを、どのタイミングで救出するか。カリカリのままか、しっとり染み込ませるか・・・・・この一瞬の迷いこそが、洋食という名の遊園地における最大の難問!結局いつも悩んでる間にどっか行っちゃう。大好きな店ほど、フラれるのが怖い。満席で断られたときの絶望感は、他に愛する人がいるのに結婚式を挙げてしまうドラマの主人公のような虚無感に近い。だからこそ、私は2月4日、節分の翌日という日付を選んだ。“私の完璧な考察”→前日に恵方巻きという「米の暴力」に晒された人々は、翌日は必然的にパスタやラーメンといった「米以外」を欲する。さらに、節分豆をボリボリと食べ尽くした彼らの喉は砂漠のように枯れ果て、こぞって汁物を求めて彷徨うはずだ。彼らは家で「マルちゃん正麺」の袋を破り、汁を啜ることに必死で、洋食屋という贅沢な選択肢からは脱落していく。思った通り、ミッキーハウスは珍しく静かだった。テーブル席が一つ、私を待つように開いている。計画通りの勝利だ。鉄板の上では、生姜焼きのタレとナポリタンのケチャップが、しなしなの玉ねぎを介して手を取り合っている。分厚い生姜焼きには「メイン」としての権威を求めないが、このプレートの中での「薄切りプラ版」のような生姜焼きの佇まいは、ナポリタンとの最強のデュオを組んでいる。生姜焼きはとんてきの肉じゃなくて、薄切りで、雑であって欲しいの!!タルタルソースがかかっているとても嬉しいクリームコロッケの両端を落とし、中心の「密集地帯」を最後に食べる。そのクリームで汚れたナイフでハンバーグを切り、デミグラスとクリームを共犯関係にさせる。満腹という名の「何をしていても楽しい」多幸感の中で、私は昨日の節分な〜んにもしなかった反省を忘れていた。世の中の残った節分豆たちよ、私の喉はタルタルが添えてある贅沢クリームコロッケと、濃密なコーンスープ、そしてサービスが細かすぎるが故に一口ごとに水を入れてくれるおばちゃんのおかげで喉潤いまくってるので私が救ってやる!!!!!!!!【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://lit.link/kuiizi LISTENで開く

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    大切フードを大切にしすぎて大切じゃなくなった時に食べるのではなくて大切絶頂期に食べよう

    大切フードを大切にしすぎて大切じゃなくなった時に無理やり食べてきた。もちろん、好きなものも最後に食べる。トイレも済ませて、手洗いして、色々片付けた後、そのくらい、本当に最後の最後の最後。一食の物語のフィナーレを優雅に飾りたいと願ってきた。大好きなガストの「チーズインハンバーグ」の食べ方ルーティンは、まず外側の楕円を少しずつ削ぎ落とし、中心の「チーズ密度の最も高い四角形」を聖域として最後まで守り抜く。しかし、いざその聖域に箸を入れる頃、私の大好きなチーズは、時の流れと共に冷え固まり、もはや「これってチーズだったっけな」と首を傾げるほどの無機質な塊へと変貌している。私の「家」と呼んでいるほど愛している「しゃぶ葉」でも、同じ過ちを繰り返す。せっかくのしゃぶしゃぶ食べ放題でも、ケチを発揮し、お肉3皿限定というストイックなプランを選び、その貴重な3枚を最後のフィナーレにとっておくのだ。しかし、肉を温存している間に野菜やカレーで胃袋はパンパンに膨れ上がる。結局、最後には「いかに肉を小さくするか」という、もはやしゃぶしゃぶへの冒涜とも言えるほど湯がきまくったボロボロの肉片を、苦し紛れに胃へ押し込む。最初にお肉をしゃぶしゃぶすれば、そのエキスが鍋全体に広がり、後から入れる野菜たちをもっと美味しくしてくれたはずなのだ。チーズも、とろけているうちに食べれば、それは間違いなく「チーズ」として生を全うできたはずなのだ。大切だからって大切にしすぎるのが正しいってわけじゃないことを子育て本にも書いてありそう(知らんけど)「大切にしよう」という決意は、時に食べ物を「泣き散らかした後の肌」のようなパサパサの状態へと追いやってしまう。冬の間、撫でるだけで決して剥かなかったみかん。救急救命のつもりで慌てて剥いたときには、水分は逃げ出し、口に残る皮だけが「遅すぎたよ」と私を責める。イチゴにしてもそうだ。真っ赤な肌に白い綿(カビ)が生えたとき、YouTubeの知識は「根っこまで腐っているから捨てろ」と警告する。けれど、イチゴという尊い存在を前にすると、私の脳は「そこだけ切り取れば大丈夫」という都合のいい嘘を信じ込んでしまう。追熟しない彼らにとって、「今この瞬間」こそが全盛期なのに、私は目が慣れるまで眺めていたいというエゴで、彼らの命を枯らしてしまうのだ。そんな、結局あらゆる色を無駄にしてしまう悲しい私に、「シャインマスカットを真っ先に食べていいんだよ」と言ってくれた人がいた。「自分を喜ばせれば、また新しいマスカットがやってくる。それ以上の喜びが舞い降りてくるから、遠慮せずに食べていい」その言葉は、私にとっての「許可証」だった。自分には忍者めしの硬いグミがお似合いだと思い込んでいた私に、宝石のような果実を真っ先に味わう資格があるのだと教えてくれた。食後、満腹になれば人は誰しも少しだけ頭がおかしくなり、紙飛行機を折るだけで楽しくなれる。だからこそ、最後のフィナーレを豪華にする必要なんてないのかもしれない。最初に最高の記憶を刻みつけ、最後はどうでもいい…?からこそ、満腹という幸せな「ぼんやり」の中で終わればそれでいいのだ。確かに最初の方が味覚も冴えてる気がするよ。好きなものを、好きなときに。大切に思うからこそ、その命が輝いているうちに私の血肉にする。それが、大切フードへの一番の報いなのだと、今は強く信じている。【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://lit.link/kuiizi LISTENで開く

  31. 121

    煮込みを煮込むだけと思うな!!!!ジャムは買おう!アヲハタを!90歳おばあが謎にインド料理サモサを作れる不思議

    私は激怒している。一番好きな和食店の大将に対して。値段以上すぎる食材とサービスと個室という素晴らしいお店、人柄も常に謙虚で素敵な方なんだけど、私は怒ってるよ。3日間。キッチンに立ちながら、焦げたジャムを見て、ずっと怒ってるよ。ことの始まりは、大好きな和食店の大将が放った「煮るだけですよ」という甘い罠。皮を剥いて砂糖で煮る、ただそれだけ。その言葉を信じた私は、ルフィが海賊王を夢見るような純粋さで柑橘と向き合った。しかし、いざ包丁を握れば、本来一分で済むはずの皮剥きに二十分を費やし、鍋に火をかければ焦げ付き防止センサーが「お前、ずっと見てろよ」と言わんばかりにピーピーと私を叱りつける。スマホ片手に漫画を読もうにも、意識のすべてが鍋に吸い取られ、赤ちゃんを世話しているような義務感で頭が回らない。結局、出来上がったのは「カラスが漁った後のゴミ袋の皮」のようなパサパサの成れの果てだった。大将の言う「だけ」は、初心者の私には決して到達できない神の領域だったのだ。煮込みを、ただ煮込むだけと思うな。それが私の血の滲むような教訓となった。そして、こういう手間暇フードは全て市販の恩恵を授かろう。この激闘!ジャム作り体験のおかげで私はより一層和食店に行った時の感謝を増大することができるだろう。怒りが感謝に変わる。やっぱり消費者さいこ〜〜〜〜〜〜!!!!!!この激動は私がよき消費者になるために必要な経験だったんだろうね!!話は変わり、私のホーム、デパ地下。隙あらばデパ地下話がしたい。そして願わくばデパ地下に住みたいよ〜。デパ地下の地下とか。パラサイトしたい〜。デパ地下で最後まで残った惣菜たちどーなってんのよ!!!!見せて見なさい!!!私が食べ尽くすから!!!!!!!!!今日はおこわの話。デパ地下には映画館のポップコーンのように私を誘惑する「おこわ」のショーケースがある。しかし、デパ地下は貴族の遊び場だ。スペアリブを頼めば、骨の重さまで金に換算され、葉っぱ一枚のサラダがデジタル計量器の上で驚異的な数字を叩き出す。「このゼロの単位、間違ってないか?」と腰を抜かしつつも、私は炊き立てのおこわを手に取る。冬のライフハックとして、私は温かいおこわをお腹にあて、カイロ代わりにすることにしている。ポットのお湯を膝の上で我が子のように抱きしめる喜び(ついには服を濡らして極寒を味わうリスクを孕んでいても)と同じで、温もりは抱きしめるものなのだ。デパ地下のおこわは一口で消える。しかし、私の実家には、食べても食べても地下から湧き出してくる「デッッッッッカイ魔法のおこわ」を授けてくれる、90歳の祖母がいる。彼女には不思議な能力がある。インドにルーツがあるわけでもないのに、なぜか「サモサ」を皮から完璧に作り上げるのだ。他のインド料理は何も知らないのに、サモサだけは手が覚えている。我が家のファミリーヒストリーを遡れば、一瞬だけ現れては消えたインド人がサモサの製法だけを刻み込んでいったのでは。彼女のサモサはとても美しく、美味しい。彼女の料理は、すべてが「無限」だ。食い意地が止まらない私に常に夢を与えてくれる。お正月、三段重のおせちを当日朝の数時間で作り上げるその手際は、伝説のバイトリーダーのよう。重箱の中のレンコンを褒めれば背後から巨大タッパーが、エビを愛でれば追加の援軍が現れる。お祝いの席はいつの間にか、重箱を包囲するタッパーの要塞と化す。そうそう、何が言いたかったのかというと、おこわでもサモサでもなく、このおばあがかつて作ってくれた「リンゴジャム」のこと。素晴らしかったの。とろとろで、この世のものとは思えないほど優しかった。りんごは風邪の時に食べるイメージのものだったけどこの優しさが所以するのだろう・・・!優しさフード。りんごの笑顔が見えたよ。これの作り方を聞いた時も、「ストーブの上に置いてただけだよ」といっていた。この時も私は安易に「だけ」を信じて呑気にジャムを作ったが失敗したよ。その「だけ」には、90年という歳月をかけて手から染み出したエキスと、煮込み料理を見守り続けてきた慈愛の結晶が詰まっている。私が自宅で焦がした「パサパサの皮」を見つめながら思う。専門家や、ベテランの言う「だけ」は信じてはいけない。けれど、その「だけ」を愛おしみ、制作過程ごと味わうことこそが、食を愛するということなのかもしれない。いつか私も、あのおこわを無限に湧き出させ、サモサを魔法のように包めるようになるだろうか。それまでは、デパ地下の無慈悲な計りに怯えながら、しばらくは、デパ地下のことを「見る専」させてもらい、実家に帰ったときにおばあたちの夢幻の教授に浸っていたい。【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://lit.link/kuiizi LISTENで開く

  32. 120

    料理人が言う「だけ」は、美人が言う「なんもしてない」より信用できない。ジャム作りに3日囚われた話

    大好きなお店で最後に出された、苦みのない完璧な柚子皮の砂糖煮。サーフボードのような形をしたトゥルトゥルの皮。苦味など微塵もなく、温かいお茶と口の中で手を取り合う完璧な調和。思わず「美味しいです」と伝えた私に、大将は事も無げに言った。大将の「剥いて煮るだけですよ」という軽やかな言葉に、私はルフィが海賊王を夢見るような純粋さで踊らされた。いや、けどそうは言っても、多少はめんどくさそうなこともわかってたよ。ルフィより大人なので。そうはいっても、難しいんでしょ〜と思いながらも、大将から頂いた言葉を素直に受け取ってしまった。美人が「肌断食(肌に何も塗らないこと)」をしてると聞けば、私も肌断食をしてきた。しかし、普段スキンケアを怠っている私は「肌断食」にはならない。ただの日常なので、断食でもなんでもなかった。いつも頑張ってる人が言う言葉でありやる行為なんだよ。料理人が言う「だけ」もそうである。慣れすぎて、やりすぎて「だけ」になっているので、やったこともない私がやると、それはそれはもう引越しレベルの重労働。しかし。。。お店ではたった一つしか食べれないものを家でたらふく食べれたらどれほど楽しいだろうと思ったのと、この時の幸せに頭の中のシュミレーションでは一瞬でいけたので、対象の言葉を信じて、砂糖煮込みを作ることにした。柑橘を手にもっただけで正直めんどくさかったし、包丁を入れるたびに諦めようと何度も思った。私が今、ゴールを「砂糖煮込みを作ること」ではなく「柑橘をそのまま食べること」にしたらどれだけ楽か。だけどやると決めた以上、手が止まらずに、剥く作業の大変さを「これが終わればあとは煮るだけだし」とポジティブに乗り越えた昨日の自分を、今の私は全力で止めたい。鍋に火を入れた瞬間、煮るだけだからと目を離した隙に、コンロが「ピーピー」と冷酷な警告音を鳴らす。焦げつきアラーム。それは、私の甘い見通しを嘲笑う叱責だった。焦げを「これが正解だ」と自分に言い聞かせ、分散させ、誤魔化す絶望。その間にも、砂糖まみれの洗い物は増え、コンロは強敵・ベタベタに占領されていく。スマホを持って立って、ひたすら砂糖煮込み・・・と言う名のジャムを見守る時間は、もはやリラックスタイムではなく「監視」という名の重労働だ。保母さん。プロの「だけ」は、何万回という反復の上に成り立つ「呼吸」のようなものであって、初心者の「だけ」には、迷いと義務感と後悔がぎっしり詰まっている。味見をした瞬間の「全然できてない」という絶望。あの大将の柚子皮には、ポン酢から余った皮だけでなく、私の想像もつかないほどの「見守りの時間」が凝縮されていたのだ。出来上がったのは、ドロドロの塊と、砂糖でベッタベタになったキッチン、そして信じられない量の洗い物だった。ふと我に返り、私はアヲハタのジャムを思い浮かべる。果肉がゴロッと入り、あの完璧な透明感を保ったジャムが、わずか四百円ほどで売られている。イチゴ一パックを自分で買うより、はるかに安くて確実だ。私たちは一体、何を求めてコンロの前で数時間を無駄にしているのだろうか。かつて私は、安さだけを求めてドラッグストアで九十九円の紙パックジャムを買っていた時期があった。ギンガムチェックのパッケージは可愛い。しかし、あのゼラチンだかペクチンだか分からない嘘の塊で固められたジャムを、パンは決して受け入れなかった。パンの気泡が「こんな嘘のジャム、馴染みたくねえぞ」と反骨精神を剥き出しにし、互いに反発し合っていた。あのとき、プラス三百円をケチったばかりに、私のパンは悲しい思いをしていたのだ。ジャムだけではない。のりたまの代わりに安すぎるふりかけを選んだとき、ご飯だって悲しんでいる。今回、料理人の「だけ」を信じて痛感した。専門家の「だけ」は、何千回という反復に裏打ちされた特権的な言葉なのだ。素人が専門家と同じ土俵に上がろうとしてはいけない。素人は、専門家が作り上げた素晴らしい「成果物」の、良き利用者であればそれでいい。瓶詰め作業を前に、アヲハタのロゴが頭をよぎる。このベタベタの思い出は、二度とジャムを作らないという誓いとともに、ゆっくりと味わうことにしよう。と思ったけどゆっくり味わっていたら後悔ばかり生まれそうな味なので、カモフラージュしつつ無理やり食べ続けよう。【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://lit.link/kuiizi LISTENで開く

  33. 119

    風邪は立ち食いカツカレーと丸齧りりんごで治るけど、病人のうちにおかゆ作っとこ!というか、おかゆってのりたまのために作るもんだよね

    これだけ栄養をとっているはずなのに、私は定期的に風邪をひく。だいたい喉から始まって、鼻に抜けていくタイプの風邪だ。多分、喋りすぎの罰なんだと思う。そう思って一応反省はするんだけど、そういう時に限って、ものすごく喋りたくなる。結果、風邪はだいたい1ヶ月くらい居座る。もう友だち。さすがにこれは今日は無理だな、という日がある。熱もあって、体も重くて、「今日はこの私でも、おかゆしか食べられない日だな」と思う。正確には、おかゆというより、熟々に溶かした豆腐とか、茶碗蒸しとか、そういう“病人メニュー”しか無理な日。でも、食い意地の性質はいくら風邪ひいていても無くならないので、おかゆを作ろうと思って立ち上がり、何かを口に入れると、その瞬間から、急に元気になる。気づいたら、あんかけ焼きそばを食べている。カレーもいける。わざわざレトルトをチンしてまで食べている。「あれ、起きて口に入れさえすれば、何でも食べられるじゃん」そうなると不思議になる。なんで病人って、すりおろしリンゴとか、ゼリーとか、アクエリアスだけで生きれるんだろう。って思ってたけど、寝ながら食べるからだろうね。立とうぜ!!!!!!!それだけでげんきになる!!!!!風邪を治すには立ち食いカツカレー。りんごはすりおろさず、丸齧りしよう。昔ちょっとだけ留学していたとき、ランチバッグに必ず入っていたのが、サンドイッチとバナナと、リンゴ丸ごと一個だった。そのサンドイッチがまた、日本のとは全然違う。具がどうこうじゃなくて、「パンとパンを挟んだだけ」の、潔すぎるサンドイッチ。リンゴも、皮付きで丸ごと。歩きながら普通に食べている。ああ、海外だな、と思った。私はこれをしに貯金を全て使い果たしてカナダに来たんだな。と街を歩きながら浸っていた。当時の私は、リンゴの芯や種をどこまで残していいのかわからなかった。しかも、ゴミを出したくないし、一回口に入れた芯をランチバッグに戻すのも嫌で、結局、全部食べきっていた。そのうち気づいた。「あれ、リンゴって全部食べられるじゃん」そこから私は、リンゴを丸かじりする人になった。だから今も、風邪をひいていても、すりおろす暇なんてない。それでも、せっかくだから病人らしくおかゆを一応作る。おかゆって、思った倍の水を必要としてくる。「え、まだ吸うの?」「まだいけるの?」未知との遭遇みたいな顔で、米がどんどん増えていく。米不足が色々問題になる世の中だけど、おかゆで全て解決なのでは。ぜんざいも同じだ。「まだ増えていいの?」「まだ私にこの贅沢くれるの?」ってくらい、どんどん増える。だいたい作りすぎて、飽きる。でも飽きても、ジップロックに入れて冷凍すればいい。解凍する必要すらない。ぜんざいは、そのまま『あずきバー』になる。普通、冷凍した食べ物って、“解凍”という工程が追加されるのに、ぜんざいだけは商品形態が変わる。さらに煮詰めれば、あんこになるし、餅と食べてもいいし、いちご大福にしてもいい。しかも「ぜんざい」という名前。あんなに濁点ついてるのに、なんであんなにやさしいんだろう。おかゆも同じで、芋を入れてもいいし、小豆を入れてもいい。あと、おかゆは塩。「こんなに入れて大丈夫?」ってくらい入れたほうが美味しい。そして、ここで本題。おかゆに一番合うのは、のりたま。これは断言できる。のりたまは、ご飯にかけるために存在しているんじゃない。おかゆにかけられるために存在している。水分を少し吸ったあの粒たちが、ここで本領発揮する。海苔の存在感も異常だ。絶対いい海苔使ってる。京都のなんとか園とかだと思う。だから私は、のりたまを食べるために、おかゆを作る日がある。梅干しとか、昆布とか、おかゆにつきものみたいに言われてるけど、今日はもう一旦忘れてほしい。おかゆは、のりたまだ。海苔といえば、、、お土産で海苔をくれる人、本当にありがたい。お菓子よりも、食卓にずっといてくれるもの。軽いし。潰れないし。漬物は好みが分かれるけど、海苔は強い。昔、お菓子コーナーにあった、付箋サイズの梅味の海苔のお菓子、あれどこいった。パウチに入ってて、狂ったように食べていた時期がある。最近見ない。令和の子たちは、黒い食べ物を食べてる場合じゃないのかもしれない。歯にもつくし。でも、あれは本当に美味しかった。今日も、おかゆとのりたまがある。ありがとう。そして最後に、混ぜ込みわかめは、混ぜ込んでこそ100%というみんなわかってる、というか、タイトルにそう書いてある。知恵【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://lit.link/kuiizi LISTENで開く

  34. 118

    鯖の味噌煮を水道で洗ってから食べる祖母の意地&チェーン店でもシェフに大声感謝申し上げていておもろい

    ちょっと続かせて、焼きそば話。台湾の「焼きそばロール」という名の焼きそばを米粉で包む食べ物ゆえの胃袋拡張体験。台湾の漢方で相殺!わーい。台湾の夜市は、食い意地の極限を試される場所だ。屋台の熱気に浮かされ、あれこれ食べ歩いた末の「締め」に選んだのは、米粉で作った分厚いクレープ生地で焼きそばを巻いた「炒麺餅(チャオミェンビン)」だった。太巻きほどのサイズにカットされたそれは、一見軽そうに見えて、実は恐ろしい密度を誇っている。一口食べれば、もっちもちの皮とソースを吸った麺が、おにぎり一個分、いや焼きそばパン一個分の満足感で胃を蹂躙してくる。すでに満腹だったはずの私の胃は、その圧倒的な炭水化物の物量に、自らの限界を超えて新たな「余白」を拡張させられた。不思議なことに、その直後にはもう餅を食べていた。台湾という場所は、薬膳茶ですべてのカロリーを相殺し、プラマイゼロにしてくれる魔法の地なのだ。もし胃の小ささに悩んでいる人がいるなら、私は迷わず台湾を勧めたい。そこには、自分の限界の向こう側へと連れていってくれる、力強い「餅」と「麺」の抱擁が待っているから。おばあちゃんの意地!サバ味噌を洗う儀式私の祖母は、カップラーメンもレトルト食品も、「今のこういうのは凄いんだよ」という私の説得も、彼女の鉄壁のプライドの前には無力である。おばあちゃんにとって、レンジでチンするパスタは「嬉しい食べ物」ではなく、どこか得体の知れない「手抜き・衰え」の象徴。そんな祖母との冷戦に終止符を打ったのは、意外にも「生協(ララコープ)」だった。祖母が「サバの味噌煮を頼んでいる」と聞いた瞬間、私は歓喜した。生協のサバ味噌は、日本の定食界の頂点に君臨する、企業努力の結晶だ。確かに、概念としてのレトルトデビューは生協がピッタリ!!!!ニコニコ笑顔の私の口角を祖母は一気に下げまくった。やっぱり、おばあちゃんは変わらない。「味が濃すぎるから、一度洗ってから食べている」と言っていた。洗う。あの完成された味噌だれを、水で流す。絶叫しそうになったが、それが彼女なりの「ひと手間」であり、市販のものは全て味が濃いと仮定している。企業に屈服しないための最後の抵抗なのだ。生協様でもダメですか・・。祖母は、ポムの木に行けば「メニューが多すぎる」とブチ切れながらも、結局は私の頼んだ変わり種オムライスを「アボカドいいね」と横取りし、最後には厨房の奥へ「美味しかったです!」とプロ同士の挨拶のように叫びに行く。紙コップのスープさえも「勉強になるね」とプラスに変える、その小学生男子のような負けず嫌いさと好奇心。祖母が「もう面倒くさいから作りたくない」と言いながら作ってくれたロールキャベツは、生協の既製品を一度洗い、改めて生協のトマト缶とコンソメで煮直したものだった。その余計な、けれど愛おしい手間の分だけ、スープは深い味がした。むしろ濃すぎたのでパスタソースと化した。祖母がサバ味噌を洗わずに食べる日は来るのだろうか。いやこないだろうな。『薄味!』の鯖の味噌煮がたとえ新商品で出たとしても・・・。祖母にとって『薄味』はどんな色でも全ての褒め言葉であり、オムライスの時もそう言っていた。ケチャップビシャがけなのに。でも、それまでは彼女の「薄味こそが正義」という、世界で一番頑固な美食家としての矜持を、私は隣で味わい続けていたいと思し、食体験は自由でいいし『美味しい』はある意味思い込みでもある。【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://lit.link/kuiizi LISTENで開く

  35. 117

    焼きそばパンの焼きそばはゴムでラップは極薄で鬼臭でお願い!&コロッケよりコロッケぱんの方が安い謎

    麺が(いい意味で)輪ゴムで、安さを追求したあまり薄すぎる(いい意味で)ラップに包まれた焼きそばパンの話焼きそばパンって、ホットドッグ型のコッペパンに焼きそばが挟まっている、あの完成形。あれはもう「焼くなよ」と言いたくなるコッペパンの意思を、こちらが勝手に尊重している食べ物です。ふかふかで、ちょっとパサついていて、私たちを「どうぞ」と迎えてくれる。そして何より、あの安いラップ。原価のことしか考えていない、薄くて、すぐ破れそうな、ぴったり密着するラップ。あれで包まれた焼きそばパンには、独特の匂いがある。パンにしみ込んだ、ラップの匂い。あれが、最高にいい。コロッケパンも、ナポリタンパンも同じだ。お惣菜がコッペパンに挟まれ、安いラップでみちみちに包まれ、隣のパンのうまいエキスまで吸い合っている。もしこれをクレラップで包んでいたら、絶対にこんな味にはならない。このラップの薄さは美味しさをシェアしたいがゆえである。この世の不思議なんだけど、コロッケ単体より、コロッケパンの方が安い時がある。ほとんど。中のコロッケの大きさ、そんなに変わらないのに。むしろ、コロッケパンの方が2個も入ってる時あるよ。ナポリタンだって、焼きそばだって、おかずとして売られるより、パンに挟まれた途端、価値が下がる。パンの価値、どこ行った。パサパサだから、「ないもの以下」にされてるんだろうな。だからその分私が強い愛で噛み締めて食べるね。最近、デパ地下が閉店5分前になると異世界転生する、というライフハックを知ってしまった。だから私は、19時55分には必ずデパ地下にいる。普段は1400円くらいするパスタが、拳ひとつ分の量なのに、3個で何円、実質70%オフみたいな勢いで並び出す。見た目は完全にナポリタン。味も多分ナポリタン。でもデパ地下では絶対に「ナポリタン」とは呼ばれない。なんとかセレブなんとか、みたいな名前がついて、それだけで価値が上がる。冷静に考えたら、元から500円だったら絶対買わないのに、デパ地下だと私は手に取ってしまう。デパ地下に行くと、頭がおかしくなる。それでも大好きだ。「2人前入ってます」と言われて、どう見てもシルバニアファミリーの2人前でもない量でも、私は怒りながらも通ってしまう。無料で入れるテーマパーク。ディズニーランドより飽きない。怒りながら帰っていて、怒っていても買わなきゃいけないと強く脳裏に住み着くのが「トイレットペーパー」という存在でして、それを買うためにドラッグストアに行ったおかげで、私はナポリタンの正解を見つけた。それが、ヤマザキのナポリタン。パック入りの。チルドの。まさかのドラッグストアに正解ありました。何より安くて(178円)、麺は細麺でも中麺でもない、絶妙な間。麺全体が赤くて、その周りに「赤かす」がまとわりついている。私はこれを「嘘のナポリタン」と呼んでいる。トマトケチャップの味だけじゃないけど、何かはわからない。これは何味なんだろう、と考えながら食べる。でも、なぜか美味しい。この嘘のナポリタンが、ロケ弁の副菜として、よく入っている。潰れた弁当の底で、ご飯に侵食して、白米を赤く染めている。ある日それを一緒に食べて、気づいた。ナポリタンは、ご飯に合う。ケチャップでも、具材でもない。この「麺」が必要だった。潰れた弁当をラップにまとめて、後でおにぎりみたいに食べた時、ナポリタンとご飯の一体感に驚いた。安いパスタはご飯のおかずになるんだ!焼きそばも同じだ。焼きそば単体を、ちゃんとお店で、座って食べる機会は意外と少ない。だけど常にそばにいてくれる焼きそば。焼きそばパンのことも適当にしか食べたことないのに、ここまで私を強く支えてくれている。私は焼きそばを作るのが得意だ。焼きそばは「焼きすぎ」が正解。自分が思ってる5倍は焼く。なのに、カップ麺のUFOは焼いてないのに美味しい。あのしなびた、命のないキャベツは何なんだろう。私は野菜嫌いの弟が残したUFOのキャベツを、一枚一枚、大切に食べて育った。小指くらいのキャベツに、冬キャベツ一玉分の旨みと栄養が詰まっていると、本気で信じている。だからUFOは、栄養食品!!!焼きそばパンが好きなので、たとえば全部高級素材にしてみたらどうなるかなって妄想してみた。でも、私が本当に好きなのは、高級な焼きそばパンじゃない。生食パンに、出来たての焼きそば。それはきっと美味しすぎる。飲んじゃう。私が好きなのは、パサついたコッペパンに、原価最低限の焼きそばが挟まって、安いラップで水分が抜けきった、あの感じ。輪ゴムと焼きそばを目隠しで食べたら、分からないかもしれない、あの麺。そして、真ん中にだけ乗っている青のり。そこに辿り着くまでの道のり。一口で青のりを迎えていいのかという葛藤。最後はパサパサのパンで、歯と唇についた青のりを掃除して終わる。順番通りに食べなさい、という教えなのかもしれない。冷静に考えたら、コロッケパンは、パンの中にパンが入っている。パン粉をまとったパンを、パンに挟む。すごすぎる。もしかしたら、この世で一番すごい食べ物は、コロッケなのかもしれない。安い。毎日食べても飽きない。アレンジが無限。肉じゃがも、おでんも、ポテサラも、全部コロッケになれる。世の中で『結局一番美味しいもの選手権〜』があったとしたら、あらゆる審査項目を戦わせた結果、残るのはコロッケ。焼きそばパンの話をしていたはずなのに、気づいたらコロッケに辿り着いていた。でも、それでいい気がする。だって、この世の中が、結局コロッケに恋焦がれちゃうのはしょうがないようになってる。【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://lit.link/kuiizi LISTENで開く

  36. 116

    練り物トランポリンランドの構想を練って考える・・!なんつって☆彡

    大人になってからあらためてキャラかまぼこに向き合って「自炊の正解」を見つけた私はムチムチしたかまぼこが苦手で、タイヤの皮を食べているようなある種の不信感を抱いてきた。それでも食べ続けてきた。特に安いかまぼこしか食べたことないかもだけど、魚のDNAが薄まりすぎて、大正時代から令和に至るまでの家系図の果てにたどり着いた残像のような存在だと思っていた。しかし、そんなかまぼこ嫌いの私を救ってくれたのは「キャラかまぼこ」!!パステルカラーの魔法、存在自体がプリキュア。都会のスーパーを巡ってもなかなか見つからないその希少性は、購入する際、二十歳以上かを確認される酒やタバコと同等の「身分」を問われているような気がしてくる。友達の子供のために必死に探し、全く見つからなくて、結局ナルトで妥協した私に、その子はちょっと忖度も入ってそうな笑顔で「可愛い!」と喜んでくれた。その優しさは、私の荒んだ練り物観を浄化した。そして私は最近、自炊の最終的なゴールを見つけてしまった。それは「キャラかまぼこのふりかけ」である。半額の弁当やカップ麺の上に、ピカチュウやちいかわの薄いかまぼこを空中浮遊または密着させる。5分ほど放置し、ご飯の湿気で目をうるうるさせた彼らと見つめ合いながら食べる時間は、もはや鍋も包丁も必要としない「究極の自炊」だ。ケアの自炊・・・!!一つ一つのおかずたちと真摯に向き合いたいので、私は人生で「三角食べ」をいくら推進されてきても、給食中の校内放送で言われまくっても、ポスターで見たとしても、この行為を絶対にしてこなかった。そのおかげで、白米を最後まで残す習慣が身についている。最後に残った白米の上で輝くキャラクターと対峙する。これこそが、食に対する誠実な向き合い方であり、自炊のゴールである。独裁者はんぺん、伊達巻という名の免罪符おでんという過酷な煮込み現場において、はんぺんの立ち振る舞いはあまりにも堂々としすぎている。他の具材が「すみません」と身を寄せ合い、出汁に染まって小さくなっていく中で、はんぺんだけは誰よりも上に陣取り、鍋全体を支配する。その図々しさ。しかし、それだけの自己主張をしなければ、おでんの迷宮の中で「そういえば入ってたね」と忘れ去られてしまう。確かに、煮込み料理はどれだけ主張したかが勝負の決め手でありそうだね。謙虚であることが必ずしも正解ではないと、はんぺんはその白い巨体で教えてくれる。一方、伊達巻。私はこの存在がスイーツではなく、堂々と「食品(おかず)」として君臨しているこの国の制度に、心から感謝したい。冷静に考えれば、伊達巻はロールケーキよりも甘く、カステラよりもぎっしりと密度が高い、完全なるデザートだ。それなのに、「魚の栄養が入っている」という免罪符一枚で、夕食の食卓に紛れ込む。正月という多幸感に包まれた日、私は伊達巻の上に生クリームとイチゴを乗せて食べる。それは、コンビニのロールケーキを凌駕する背徳の味!魚さえ入っていれば、こんなドスイーツも栄養である。かまぼこがムチムチの筋肉質で社会の厳しさを語り、キャラかまぼこで妄想のあわい世界を実現してくれる。はんぺんはふわふわの虚無で自由を説き、自己主張の大切さを教えてくれて、伊達巻は、砂糖は毒だとか言われて脱砂糖が推進されるこの時代に、ちょっとの魚の栄養だけでおかずとして君臨してくれる。練り物コーナーに並ぶ彼らは、単なる加工品ではない。私たちの「食い意地」を肯定してくれる、最高にファンタジーな仲間たちなのだ〜。練り物トランポリンランドをいつか開業したいよ〜!【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://lit.link/kuiizi LISTENで開く

  37. 115

    【バレンタインのチョコ話】ごまさえあればいいと思ってるアスパラガス(人気のなさゆえにシェアできないお菓子)をヤンヤンつけぼーのパンダは絶対見下してる

    最近調子に乗ってることの代表エピソード。夜のコンビニでヤンヤンつけボーを買い、パソコンの前に座る。無職はドラックストアでプライベートブランドのスナック菓子買っとけって話なのに。ヤンヤンつけボーは、絶妙な「労働」だ。労働を体験ありがとう!と思わせてくれる絶妙バランスのお菓子。ねるねるねるねや知育菓子のような過剰な作業ではない。これは労働。特にハンバーガーとか寿司作るやつ。過労。ただ、ディップして、カラースプレーを纏わせる。その計算された分量配分に、私たちは知らず知らずのうちに計画性を学んできた。ヤンヤンつけボー子そ真の知育菓子。しかし、その影で泣いている存在を忘れてはならない。「アスパラガス」という名の棒ビスケットだ。スティック状で湿気ず、黒ごまという、一粒でも入れたら健康フードにしてくれる魔法の免罪符ーど(メンザイフード)まで持っているのに、お菓子会では誰の手も伸びない。私は今までに合計1,000人の前で「アスパラガス好き」を公言してきたが、共感を得たことは一度もない。一袋を一人で消化するために、唾液でふやかして離乳食のように食べるという悲しい消費の仕方に辿り着いた。夏は特に辛いの。アスパラガスが私のことを一気に砂漠に連れて行く。最近のアスパラガスの「mini」展開は、そんな孤独な愛好家たちが、シェアを諦めたことへの敗北宣言のようにも見える。ゴミ袋の中から、ヤンヤンつけボーのパッケージに大きく描かれているやんちゃ系パンダがこちらを覗いている。絶対にアスパラガスのことを馬鹿にしてるな・・・という顔で。一人で食べ終えた後に残る、潰せないカップの嵩張り。じゃがりこはあんなに簡単なのに。カップの高さと厚みからやっぱり、パッケージのパンダの世間を舐めてる感が否めない。そりゃパンダはいいよね。生まれてくるだけで愛され確定人生なんだから。ヤンヤンつけボーを調子に乗って一人で食べた私に「これは本来、誰かと分かち合うべきものだったのではないか」という、小さな後悔を突きつけてくるパンダ。パックンチョコという名の「世界代表パティシエ」最近、お菓子とぜーんぜん真剣に向き合ってない。個包装のお菓子を、袋しか見ずに、パソコンに視線を当てたまま、口に入れている。そんな慢心した私を震えさせるのが、パックンチョコだ。あの小さな一粒に描かれたアートを、無視せずにはいられない。美術館の鑑賞。もしあれがディズニーランドの中で売られていたなら、間違いなく10倍の値段がついているはずだ。本当に。プリンセスの複雑な髪の毛のうねり、ツヤまで・・・。ドレスの網目、スティッチの毛並み……。プリント技術だと分かっていても、そこには「世界代表パティシエ選手権」の決勝戦のような、緻密な執念が宿っている。多くのキャラクター菓子が、見た目だけで満足して味を疎かにする中、パックンチョコは味のクオリティすら一切の妥協を許さない。パティシエが宿ってる。一粒一粒を美術館の絵画のように鑑賞し、技術に想いを馳せる。ヤンヤンつけボーのフィーバータイム(最後にチョコをたっぷりと贅沢に乗せる瞬間)が、幼少期よりそこまで興奮しなくなったけど、パックンチョコの芸術への感動はいまだに変わりない大きな感動だ。お菓子の袋ばかりを見て、中身と対話することを忘れた大人たちへ。今こそ、パックンチョコの緻密なアートを凝視し、ヤンヤンつけボーのカラースプレーを一粒も零さないよう集中するべきだ。そこには、効率化された現代が忘れてしまった「一瞬への情熱と熱狂」が詰まっているのだから。ワールドカップですね。【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://lit.link/kuiizi LISTENで開く

  38. 114

    コーンスープを食べたら必然と朝になっちゃうので情報消さなきゃ(+富の象徴、パイ包みスープ +青春の象徴、ケンタのバーベル)

    テレビで「コーンスープの世界」が始まった瞬間、私は反射的にスイッチを切った。今これを観てしまえば、私の脳は夜を朝だと勘違いし、眠れなくなる。メディアの奴隷にはなりたくない。そう抗いながらも、結局はコーンスープへの愛を語らずにはいられない!!!黄色といえば、コーンスープの黄色を思い浮かべちゃうのが日本人。クノールの洗脳!!私にとって、コーンスープの頂点は「クノール」である。安価なプライベートブランドでは決して到達できない、あの絶対的な安心感。そして、その進化系として君臨するのが「パイ包みスープ」という、気軽に「好き」とは呼べない皇族のような存在だ。子どもの頃、ご機嫌な日曜日にイオンで買ってもらう伊藤ハムから出てるチルド惣菜のパイ包みスープは、豊かさの象徴だった。弟はパイの部分しか食べないという、底辺庶民にあるまじき貴族的な暴挙に出ていたが、私はそれを友人に話せばスナイパーに狙われるのではないかと本気で怯えていた。かつての私は、パイのサクサクを壊さぬよう別々に食べていた。しかし、ある時出会った「パイ包みの師匠」が教えてくれたのだ。パイは一目散に、地獄に落とすかのごとくスープの深淵へと沈めるべきだと。バターたっぷりのパイがスープを吸って、災害用おしぼりのように膨れ上がった瞬間、手間と原価が口の中で最大化される。それは、効率やマナーを超えた、食い意地という名の「実利」にたどり着いた瞬間だった。世の中には、どうしても解せない「色のバグ」がある。お気に入りで買ってる豆腐のパッケージについて。木綿が「青」で絹が「緑」。絶対的に逆でしょ!!!!!!スーパーという「文字の読めない戦場」では、色感覚だけで手を伸ばし、何度目かの敗北を喫する。これはもはや、企業へのお問い合わせを出すレベルのミステリーだ。絶対に逆だからねー。すみません、こんなことにケチつけてるから、私は友達と家でケンタッキーを食べるという青春を逃してしまったんだろうなと思っています。ケンタッキーの「バーレル」という、青春を形にしたバスケットに憧れ続けている。ネイルサロンのお姉さんが語る「スタッフでケンタのバーレルを予約している」というキラキラした予定。私はその輪に入り、彼女たちが食べ残すであろう骨付きチキン(おしゃれな人たちは手羽先とか骨付き肉とか、焼き魚食べるの下手そうという偏見)を、骨まで噛み砕いて平らげる「骨折職人」になりたかった。いつか、クリスマスにコーンスープを飲みながら、チキンを予約する。そして当日、スキップしながらチキンのバケツをとりに行って、パイ包みスープをチンしながら、ピザはウーバーに運んでもらうような豊かで贅沢なクリスマスが訪れますように。とサンタに願おう。そして再来年あたり叶えてもらおう。と思いながら、パイ包みスープのホームページを眺める。大きなヨーグルト。ブルーベリージャムの。公式はこれを朝に食べて欲しかったのか・・・。やっぱり、公式というものは世間とずれがある。いつも。シャウエッセンも公式がいくら「ボイルがいいよ」といっても私たちは切れ目入れて永遠カリカリに焼き続けるからね。そして結局、夜にコーンスープの映像を見て、食べたくならないように必死に我慢した。視界を狭く、しかし、お湯を少なめにしたコーンスープペーストをパンに塗り、周りをマヨで囲ってチーズのっける映像の衝撃は忘れられない。天気がいい真夏のひまわり畑やん。【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://lit.link/kuiizi LISTENで開く

  39. 113

    底こそ魂!雪国ブーツのような餃子とカステラの底

    日本の夜は、王将の煙によって守られてるし、見えなくぼんやり、不景気も忘れさせてくれる。疲れ果てた仕事帰りの人々が、隣の店がスカスカであろうとも我先にと列をなすのは、あの赤いテーブルとニンニクの匂いにしか救えない「脳の飢え」と餃子の王将でしか満たされない不思議な栄養分と、赤の机の刺激を目に入れたいからだ。ディズニーの行列設計すら超える王将の凄みは、並んでいる間に強制的に「仕事の話」をさせることにある。お酒が入る前のシラフの会議、これこそが日本経済を回す隠れた原動力なのだ。そして、その頂点に君臨するのが、あの「底」である。王将の餃子の底は、分厚さや焼き加減の問題ではない。あれは、北海道の雪道を歩くための重厚なスノーブーツのような、肉だねのすべてを受け止める「覚悟」の現れだ。数時間経っても、テイクアウトの箱の中でも、決して中身を裏切らない。ちなみに、そもそも、お持ち帰りのパックではなく「箱」ってところもこだわりで素晴らしい。結婚式の引き出物のような立派な箱、これに餃子入れていいの?といつも思う。もし私が王将の偉い人と結婚できたなら、まず真っ先に、あのスノーブーツのような「底面インソール」だけをくり抜いて、水を並々と注いだピッチャーを横に、バリバリと食べ続けたい。「底」のかすかなジャリジャリに歯を喜ばせる、食教授としての最高の贅沢なのだ。【カステラ執刀医の密かな報酬!ざらめ団子!!】長崎県民にとって、『底フード』といえば、カステラ。カステラは単なる菓子ではない。それは「ザラメ」という宝石をいかにして掠め取るかという、静かなるオーディション会場だ。小学校の時のプールの宝探し。私は子どもの頃から、スポンジ部分はあくまで「ザラメ」という本体を輝かせるための前座、あるいは言い訳に過ぎないと考えていた。大人になった今、私は「カステラを切る」という重労働を買って出る。牛乳パックほどもある巨大な塊を、手がベタベタになるのも厭わず切り分けるのは、ひとえに執刀医だけに与えられる「紙フィルムの利権」のためだ。スプーンではなく、フォークの一直線のエッジを使い、紙フィルムに残ったザラメの残像と茶色のカスを執念深くこそげ取る。それをラップでギュッと固めたとき、手元には「遊びすぎて乾いた泥団子」のような、醜くも愛おしい至宝が現れる。食べ物の魂は、すべてその「底」に沈殿している。ザラメを奥歯の溝(十字架の真ん中)で粉砕し、忠誠を誓う^^牛乳で流し込む瞬間の全能感。この「底」に詰まった権威と覚悟を研究し続けることこそが、肉まん顔から脱却し、いつか「王将の偉い人」へと近づく唯一の道なのかもしれない。【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://lit.link/kuiizi LISTENで開く

  40. 112

    焼肉の締めには、ケチャップすぎるオムライスでさっぱりしよう

    私はずっと、焼肉に対して怒ってきた。「なぜ高い金を払って、客である私が肉を焼くという重労働を担わなければならないのか」と。ホールスタッフの大学生活エンジョイ一軍!!みたいなバイトたちの暇そうな手つきとだるそうな顔を睨み、アルバイト代を請求したい気分でトングを握る。それが私の焼肉観だった。しかし、島にあるディープな焼肉屋は、そんな私の「怒り製造機」としての牙を、いとも容易く抜いてしまった。そこは、花びらの枚数が異常に多い謎の昭和食器や、絶対灰皿だろっていう器、サーフボードを握りつぶしたような形の皿が並ぶ昭和から時が止まった不思議な空間。焼肉屋なのに、注文を受けてから皮を包む餃子があり、注文を受けてから野菜を切り始める野菜炒めもあって、みじん切りから始まるケチャップべちょべちょのオムライスがある。このサイドメニューの本気の手間暇を昭和のスケスケレースカーテンから、厨房の中が丸見えなので、実際に目に見ることができる。この姿を見ているから、「むしろ私に焼肉を妬かせてくだせえ!!!」という気持ちになる。というか、肉をキッチンにまで取りにすらいってしまう。肉は生に下すだけだからこの時間があるんだろ・・?と思わせない肉の旨さ。これね、昭和ばーちゃんフィルターかかってなくても、全力で上手いと思える美味しさ。東京で食べたら1500円の肉が2万とれるはず。本当に。大袈裟じゃなく。美味しいと、柔らかい、旨みがあるが全て崩されず両立されている。最近の肉はとろける=美味しいという評価軸になってるでしょ。それだとわたあめでいいじゃん。もっと肉の旨み感じたい!!!肉の繊維が挟まってもいいんだよ!フロス使おう!それだけ丁寧に歯を磨いていったとしても歯医者さんに毎回言われるでしょ。「フロス使ってくださいね」って。だから、フロス使おう。肉を食べよう。繊維を歯の隙間に入れよう。作業が落ち着くと、厨房から出てきてカウンターに立って、店のおばあちゃんがみかんを「皮ごとバキッと割って」食べながらテレビ見たり、調理したり。その姿を見て、私はハッとした。忙しい合間にみかんがカピカピにならないよう、食べる分だけ都度剥く。それは、かつての「生きることに必死だった時代」の合理的な知恵だ。のんきに白い筋を取っている現代の私たちの豊かさを、そのみかんの剥き方が教えてくれる。当たり前のように、みかんをズルむき状態にしてから食べてる豊かさ。令和だ。私は生きるのが遅い。大学生になれば自然にバーベキューをして彼氏ができると思っていたけれど、そんなのは自分で動かなければ手に入らないものだと今更気づく。でも、いいのだ。その分遅れて青春がやってくる。老後の楽しみわっしょい。80歳になったとき、私は海でバーベキューをしているだろう。バチェラーに出てくるようなプールサイドでスイカジュース飲んでるだろう。人よりだいぶ遅足の私の人生は、きっと老後に一番のピークがくる。パンチを繰り返す焼肉のお供に、おでんの優しさが欲しい。タンパク質を食べてるというのに、タンパク質が欲しくなるのでゆで卵はマスト。おでんの時だけは半熟が許されない、古風な卵スタイル。焼肉の脂をおでんの出汁で流し込み、古風な薄黄身が溶け出し少し濁った汁を啜る。その後に焼肉のタレご飯。結局濃い味で蓋をする。焼肉は、店を出てからも終わらなすぎるのがいいところであり、悪いところ。服に染み付いた煙の匂いを嗅ぎながら「洗濯物が増えたな」と呟くお風呂上がりに、その真のクライマックスはやってくる。焼肉を食べた後のおならは、焼肉のタレの匂いがするのは純粋にハッピー。おならをしてむしろ深呼吸するのは焼肉の後だけ。しゃぶしゃぶのごまポンや、居酒屋の刺身醤油では決してこうはいかない。焼肉のタレだけが、体内の「特別な裏口」を通る権利を得ているのではないか。やっぱり、焼肉のたれは調味料の王者なんだろうね。まるで甲子園のシード権を手に入れたエリート選手のように、焼肉のタレは消化という過酷なトーナメントを悠々と勝ち抜き、純粋な香りを保ったまま「お土産」として外の世界へ放たれる。おならをするたびに「今日のタレは甘かったな」と今日という日をリフレクションできる。こんなに幸せな排出物が他にあるだろうか。焼肉のダクトと焼肉後のオナラのタレの香りは同じ。食後、血糖値が上がって頭が働かなくなる私は、ただのゲップのお披露目会のようなラジオを恐れていた。でも、幸せなときに幸せだと言うことが、参列者を無視した結婚式のようだとしても、この「タレの匂い」という豊かさと、大好きな焼肉屋のおばあちゃんのみかんの剥き方は脳裏に刻まなきゃ。ケチャップが濃すぎるオムライスのケチャップは口に含んで溜めておいて、帰りのカラオケで頼んだポテトにつけたらいい。【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://lit.link/kuiizi LISTENで開く

  41. 111

    1500円だけど、5000円の朝食に挑む。気合いゆえ、初めから汗だく喉カラカラ

    寝れなかった。そりゃ寝れないだろう。寝ない方が正しい。5000円の朝食をいただける貴重な機会をいただいた。私は「5,000円の朝食」に挑む前夜、5000円とは、朝食を100円のドデカデニッシュで済ませていた私にとって、1ヶ月のランチ代より高い。これを1食の食事と捉えられず、大きな体験のような感じで、テーマパークに行くわくわくというより、5000円を堪能しなければという試合前のような緊張感。朝5時、いや4時。前夜からの焦燥感を引きずりまくったまま、私は「5,000円の朝食」という未知の戦場へ向かっていた。普段の朝食が100円のデニッシュで完結する私にとって、それは一食の食事というより、もはや一種の「儀式」だった。寝不足と緊張で胃は縮み上がり、都会の迷路でフルマラソン並みの猛ダッシュを強いられた私の顔は、会場に着く頃にはホカホカの「肉まん」と化していた。そんな私を一瞬で察知し、下駄で颯爽と案内してくれた着物のお姉様のプロフェッショナリズム。そして、目の前に現れた「永遠に飲めない水」。巨大な氷が鼻を塞ぎ、水が「すいません、通ります」と遠慮がちに隙間を縫ってくる。この不自由さこそが、一流の証なのか。メインが選べる朝食。メニューについてはテスト前夜の如く深く読み込んできたので、ノールックで注文できる。メインが、「鮭の漬け焼き」、「だし巻き卵」、「納豆・豆腐」の3種類から選べる。ここで納豆・豆腐を選べる人に足を向けて眠れないだろう。多くの人が選ぶであろう鮭の麹漬け焼きをメインに選ぶ。魚の焼き汁一滴たりとも落とさない勢いで食べる。一口目はコブダイのような頭からCMのように贅沢に!一口目にしかできない特権。二口目は皮をピラーっと剥がし、パリパリの食感をポッピングシャワーのように楽しむ。そして最後は、クリオネのごとき脂の乗った尻尾のジュルジュルをボーナスとしていただく。周りの「身分の違う」人々が、和紙に包まれた極上の梅干しを平然と残していく中で、私はその「老人と新生児のほっぺたを合わせたような」美しさに、島に住む家族の顔を重ねていた。こんなにうるうるな梅干しは見たことない。このうるうる感のまま、丁寧に、和紙を汚さないようにポケットに入れて持ち帰りたい衝動を、かろうじて「今のこの贅沢を味わい尽くすことが次への一歩だ」という、成長した食い意地魂で抑え込む。結局、緊張で肩肘はって食事をしたため、食べたものが全て消費されて、食後なはずなのに、お腹が空きすぎた私は、帰りに160円の菓子パンを買い食いするしてしまい、情けないなと思ったものの、多分口も脳も体も、この5000円の大きな衝撃について行けなかったから、この延伸感が欲しくて私は菓子パンを食べたんだと思う。私は人生において、温泉卵は「丸飲み」してきた。黄身を1滴たりとも無駄にしたくない、その一心だった。しかし、5,000円の朝食という静謐な空間で、私は初めて温泉卵を「割る」という贅沢を知った。黄身の中に箸を入れて、とろっととろける美しいオレンジ色。今までは半透明のフィルムに覆われた姿しか見えてなかった黄身との初対面。ヤッホー!お前、そんなにトロッとしていたのか〜出てきてくれてありがとうね。そうだ。こうやって、口に入る瞬間に割ってあげなければ、この美しい太陽は見えなかった。私の胃の中に爪楊枝を持って待っている人はいないのだ。私がわたしの箸で割ってあげなきゃ行けない。定食の中の小鉢にある、牛すきのタレをハンモックのように肉で受け止め、口の中で「自家製温玉牛丼」を完成させる。5000円の定食となれば、普段表に出まくって存在の主張が激しい「牛肉」ですら、深くて、しかも底面より上の面の方が丸の半径が狭い隠れん坊スタイルの器。牛肉を隠すのか。しかも、ミニトマト入りの牛肉。最近ミニトマトもイチゴレベルで高級なのに。そのほかにも、昆布、筍、煮物2種、そして温泉卵に、パリパリの海苔、うるうるの梅干し、ご飯のお供が多すぎて、ご飯が全く足りないという朝食のバグ。そもそもお櫃ご飯なんだから、ご飯のお供はいらない。キッラキラのご飯は汚さずそのままのツヤで口の中に入れてあげたい。お櫃から掬い上げる白飯の輝き。それらを目の端に焼き付けながら、私は「場所代」や「サービス代」に込められた、目に見えない価値を噛み締めていた。TVのショップチャンネルで宝石が映される時、キラキラ〜の加工が入るけど、それが実際にこのご飯に見えた。夏の豪華花火の付属品にある3Dメガネのよう。この体験をして気づいたのは、値段が上がるほど、お腹も心も満足するものと思っていたけど、そうじゃない。むしろ、余白をくれるのが、この値段がゆえなのかも!だから、私が食後お腹を満たすために菓子パンを食べたのは正常である。朝は忙しくて空を見上げる時間や、息を吸う時間はないと思っていたが、こんな高い場所で景色を見ながら、豊かなサービスを受ける。わちゃわちゃしない「朝」ってあるんだ!もちろん、スタッフの方のゆとりと余裕もすごい。締めのカフェタイムの時、8人中6人がカフェオレを頼んだ。カフェオレ担当の人がカフェオレを持ってきてすぐに全部こぼしてしまった。スタッフの人はそれでも落ち着いていた。まるで自分がこぼしていないように。私の方が飛び跳ねて、なんか悪いことしたなと思ってドキドキしちゃったよ。しかも、カフェオレだよ。牛乳大変じゃん。こぼして、「申し訳ありません」をとっても落ち着いていい、その後近辺の人に汚れてないかの確認。私だったらすぐに隠蔽工作を始めるだろう。まずしなければいけない優先順位をしっかり把握している。朝の落ち着きと、ゆとりこそがお金持ちの余裕なんだと思った。お金持ちとは余白のある人・・・・!!!そういや私はなかった。ドデカデニッシュばかり食べた結果かもしれない。デニッシュというのはパンの中で珍しく発酵とかじゃなくて層を重ねていくもの。密度が高い。もっとここでふんわりしたパンを食べてた方がよかったのかもしれない。確かに、中学生のころは「ハイジの白パン」しか食べなかった時があったけど、この時の方が豊かだったな。心も白で澄んでたし、ふわふわ軽くて、肌も綺麗だった。なかなかない体験で、刺激が多く、自分との違いがゆえ、色々反省してしまい、落ち込んでしまった。かなり落ち込んだ。歩くスピードも遅すぎる。動けない。落ち込みが止まらないので、こういう日はカキフライに救ってもらおう。私のお守り。カキフライ!!!そう決めた途端、小躍り。やっぱり、どれだけ落ち込んでも、一日の終わりをカキフライで締めることで最高の一日になる!私のゆとりはカキフライが作ってくれる。タルタルやソースを最初からかけず、まずはそのまま。後からソースを追いかけさせる、それがカキフライへの礼儀。情けない私カキフライの茶色い衣の中にカニ味噌のようなボーナス!やっぱりついてる。カキフライは私を見守ってくれている。お腹も心もいっぱいということは何にも入る隙間がないのと同じ。せっかくのサービスも感じられない。だからたくさん吸収しよう!満たそう!ではなくて、常にゆとりを持っておこう。【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://lit.link/kuiizi LISTENで開く

  42. 110

    日曜のスーパーがRPGすぎてゲーム系弱いので困る

    この世で一番好きな言葉は、「本日ご来店のお客様だけの特別価格。チラシには載ってません」絶対にこの商品をどんなものよりもすごい勢いで買うし、たとえチラシに載ってたとしても、許せる自信がある。この言葉だけは無条件で信じる。手に取る。カゴに入れる。帰ってから「本当にチラシに載ってなかったかな?」と確認することは、絶対にしない。なんか載ってそうな気がするからかも。とりあえず、見て得することは何にもないので、やらなくていいことは徹底的にやらない。人の荒探しが得意な私が、これをしない。つまりこれはもう、価格の話ではなく気分の話。セールのことは、振り返らない。疑った瞬間に、負ける。こういう売り文句は日曜日に多い。で、本題。日曜日のスーパーが疲れすぎる。通せんぼ祭り。悪い方は100%私なこと、わかってる。無職の私が平日のガラガラな時間に行けばいい。なのに日曜日に行ってしまい、勝手に疲れ、勝手にイライラしている。日曜日のスーパーには家族連れがいる。子どもはいい。むしろ可愛い。お菓子コーナーで大の字になって「これが欲しい!!!!」と泣き叫ぶ姿を見ると、羨ましくなる。私はもう、できない。年齢的にも、サイズ的にも。でも私は、やってきた。ゲーセンでも、カード売り場でも、お菓子コーナーでも。公共の場で許される迷惑は、だいたいフルコンプリートしている。だから今は、ただ「いいな」と思うだけで済んでいる。子どものうちにしかできないことは、ちゃんとやっておいた方がいい。大声で泣くことも、床に寝転がることも、大人になったら一生できないのだから。日曜日のスーパーには、もう一つの名物がある。世の中のお父さんである。なぜか分からないが、お父さんは必ず邪魔な場所に立つ。道のど真ん中。値札が見えない位置。私が進みたい進路の、ちょうど正面。おそらく理由はこうだ。お母さんは夕飯のことを考えていて、スーパーの地図が頭に入っている。お父さんは、ついてきているだけ。結果、私は通れない。私はスーパーを、スケートリンクだと思っている。シュッ、シュッ、と滑るように買い物をしたいのに、RPGでしか見たことのない「ぶつからないと通してくれない生物」が出現する。そんな私が日曜に行ってしまう、心から愛しているスーパーがある。フードパワーセンター ダイキョービッグバリュー。名前が強い。そして毎回、「本当にビッグだな、バリューだな」と思わせてくる。店員さんは感じがよく、恵方巻きの前には「私のおすすめ:卵巻き(限定30本だから気をつけて)」と大きなメモ。最高。クリスマスにはチキンを推し、季節ごとに被り物をし、日曜朝一には振る舞いまである。しかも振る舞いが本気。全ざいには豆がちゃんと入っている。豚汁には肉がある。ネギは後入れ。今日は、鶏そばだった。そばだけでもいいのに、なぜ鶏まで入れてくれるの。本当ビッグバリューなんだね。ありがとう。しかし、私にとって日曜の朝は12時から始まるので、起きた頃には何故か朝一が終わっている。しかも、日曜日は世の中のお父さんたちがスーパーに来るせいで、来客が増えすぎて早く振る舞いがなくなる。余計に私が起きる頃にはすっからかん。このイライラをおさめてくれるのが、出口にある、麦茶。庶民のために。庶民という存在は麦茶が大好きだからね。昔は100円うどん屋があり、今は釜焼きピザがある。いびつな形で、ちゃんと美味しい。綺麗な丸の形のピザは信用しないぞ〜!!!!!お惣菜は受賞しまくりなのに、ハズレがない。それが一番すごい。ビッグバリューみたいに、生きたい名前の重さを背負って、油断せず、ちゃんと人に向き合って商売をする。私は、ビッグバリューみたいな人になりたい。だから今日も文句を言いながら昼過ぎに日曜に行き、たくさんの敵と戦い、買い物をする。そして、振る舞い分の大きな空っぽ鍋を見て歯を食いしばる。【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://lit.link/kuiizi LISTENで開く

  43. 109

    カレーパンマンのカレー黄色すぎない?そんなことよりバタコさんの労働問題

    アンパンマンを観るたびに、ずっと思っていたことがある。カレーパンマンのカレー、黄色すぎない?子どもの頃は給食のカレーが基準だったから、なんとなく受け入れていたし、甘口だから黄色いんだろうな、くらいに思っていた。星の王子さまカレーとか、アンパンマンのパウチのカレーとか、あの常温で持ち運べるやつ。おにぎりと一緒に持っていけば、レンジなしでカレーが食べられるあれの色だから。というか、これら本当に革命すぎ。「子供用」という製品で軽視されてるけど、だいぶ助かりまくってる。レトルトカレーたちも見習って!!!これのおかげで豊かで身軽な弁当生活送れました。感謝。でも大人になって、改めて考えるとやっぱり黄色い。というか、服黄色だもんね。顔はさ、カレーパンだとしたら茶色すぎるよね。焦げすぎてる。そしてパン粉どこいった。カレーパンマンだから、カレーパンってパン粉ついてないとカレーパンって名乗っちゃいけないんだけど。カレーパンマンが口から出すカレーについて。茶色の概念がない。黄土色ですらなく、ほぼ黄色。大人になったからこその結論。ターメリックを多く使ってるんだろうなって思った。あとさ、カレーパンマンは口からカレーを噴射するけど、ドロドロの日本式カレーだったら、あんなに勢いよく飛ばない。つまり、あれはサラサラ系。もしかするとカレーですらなくて、南インドのダルスープ(インドでいう味噌汁みたいな存在のやつ。カレーの一種でもあるんだけど)なのではないか。しかも不思議なのは、カレーパンマンがカレーをアニメの中で提供する時、だいたいご飯の方が分量が多い!!!!なんでー!と思ったけどやっぱり自分は普段パンだから、ご飯に飢えててついご飯多くなっちゃうし、そもそもアンパンマンの世界の人たち、パン食だからこういう時に米多くしてあげよ〜の優しさなのか、自分のカレーに自信がないのか、米が物価高だけど優しいから大盛りにしてくれてるとか。だけど、カレーパンに置いて、ルーってパンに比べて少ないじゃん、そもそも包まれているし。私は、カレーが、カレーライスの方を見慣れすぎて、カレールウとご飯の割合は7:3でカレーが多い方が当たり前と思っていたけど、これは自分の中の決めつけであって、カレーパンにおけるルウをご飯にのせるとなると控えめでいいのか〜。カレーライスにおけるカレーと、カレーパンのために作ったカレーは粘度が違うもんね!!けどさ、それにしても、カレーパンマンならもっとカレーを前面に押し出してアピールしたらいいのに、マジでご飯の方をメインに差し出してるし、スプーンも雑に添えてる。カレーに浸っててめっちゃ嫌。おもてなしかけてる。カレーパンマンってデリカシーなさそうだもんね(偏見)だけど、考えていくうちに気づいた。カレーパンマンはカレーが好きなんじゃない。カレーを“背負ってる”。カレーが好きすぎて、脱サラしてカレー屋始めたというタイプではなく、家業引き継ぎパターンだと思う。彼は自分の中から無限にカレーが湧くわけじゃない。バタコさんが補充してくれる。つまりカレーは仕事で、宿命で、役割だ。私はお菓子屋をやっていたからわかる。元々、お菓子は食べる方はそんなに好きではなく、作るのだけが好きで始めたから、特に作りすぎると余計に全くケーキなどを食べたくなくなる。カレーパンマンもそうだと思う。元々好きでもない料理ジャンルに毎日触れすぎて、あんまりもうカレーみたくないんだろうね。私は作ってない時間とか、お風呂の時間とかはお菓子から離れられるけど、カレーパンマンは常にカレーと一緒だし、吹き出すから、常にカレーを口に含んでるんだよね?そりゃ嫌だわ〜。そしてさ、食べてるどころか、自分から吐き出してるんだから、その感覚でカレーと向き合ってたらそりゃ嫌になる。というかさ、カレーパンマンのカレー、ばたこさんが作っとるやん。掘り下げていくと、アンパンマン世界の真の料理担当は完全にバタコさんだった。パン生地以外の全て作らされてる。アンパンマンのあんこを炊いたのも、カレーパンマンのカレーを作ったのも彼女。(かき混ぜたりするのが多いから、チーズも結構混ぜるの手伝ってくれてる。)(自動で混ぜる機械買ってあげよう。パン捏ねの機会はあるっぽいから、それの先っぽ変えて、鍋も自動でかき混ぜようよ。特にあんことかほんと大変だよ。)ジャムおじさんはパンしか作らない。パン屋の手をしすぎてるからもうこれだけで十分なんだけどね。パンダのシャンシャンがいるだけで十分〜みたいな感覚。パン屋の手を持って生まれて、パン屋になってくれてマジ感謝〜美味しいパンを焼く人の手って、本当にわかるよね。実生活でも。手だけ見てわかる。パン屋さんの手図鑑あったら欲しい。作りたい。そもそも、アンパンマンがここまで気軽にパンをいろんな人にあげれる豊かさがあるのは完全にジャムおじさんとバタコさんのおかげなんだよ。それなのに、称えられるのはいつもアンパンマン。でも、見えないところで支える人がいなければ、あの世界は回らない。そういう存在に気づける人間になりたいと、最近よく思う。というか、アンパンマンの住人たちは結構みんな感謝述べてる「いつも」ありがとう。と、ジャムおじさんやバタコさんに言ってるのを聞いたことある。何回も。だからみんな陰の立役者のことを知っていて目立つ部分や形式的な感謝で終わらず、深い感謝で繋がってるからあんなお気楽世界が続いて、毎日天気も晴れてるんだろうな〜。太陽のグラデーションが素晴らしいんだよね。アンパンマンの世界。とにかくアンパンマン大好きなので、チャーハン王子の回を観て、追加で思ったこと言いたい。お調子者っぽい声色のチャーハン王子。みんなにチャーハン振る舞う時に盛大に失敗。正直、自分で王子って名乗っちゃうやつは失敗してくれーと思ってたけど。王子っていうのは人から呼ばれるものであって、自分では言わないからね。人に振る舞う時ほど、料理はうまくいかないのは痛くわかる。気合を入れすぎると、失敗する。どうでもいい日の夕飯ほど、なぜか美味しくできる。本気で評価してほしい相手に出す一皿ほど、空回りする。だから私は、店も人も、一回で判断したくない。でも、食べられる回数も、胃袋も、人生も限られている。結局、一回で判断せざるを得ない現実がある。気合を入れすぎると失敗する現象。料理だけじゃなく、人生全部そうなのかもしれない。でも、じゃあ「適当」が正解かというと、それも違う。見栄を張らずに、落ち着いて日常を生きて目の前に人に提供する優しい気持ちが料理やあらゆるサービスに必要なことなんだと思う。やっぱりいい世界。アンパンマン。アンパンマンがあんぱんちぎるのもいつも適当だから、絶対大きさの差とか、中心部分の人あんこ多くていいなあとかここまで配るなら薄皮あんぱんスタイルにしたらいいのにーとかなるはずなのに、誰も言わない。自分が持ってるものを惜しみなく与えることとそこへの感謝で世界が回ってて、バタコさんみたいに本当に忙しい人が、忙しいアピールや、慰めてアピールを一切せずに基本は呑気キャラでみんなを支えてるのが本当に素晴らしい。バタバタしちゃうのはお前らのせいだぞ!って思っちゃいそうなのに、それをキャラとして演じ切ってくれてるし、チーズも、忠犬ハチ公みたいなスタンスなのがいい。犬だから可愛がられるのあたり前〜と思ってるシェアハウスにいるタイプの犬とは全く違う。【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://lit.link/kuiizi LISTENで開く

  44. 108

    お願いだから肉じゃがは煮崩れまくっててほしい

    肉じゃがは、崩れれていれば崩れているほどいい。じゃがいもは形を失い、煮汁と一体化し、もはや粕汁、濁り酒みたいになってるくらいが理想。玉ねぎは箸ですくえないほどトロトロで、人参は流石に煮崩れは外部の力がないと難しいので、縁がふわふわしている感じ、肉はトロトロまたはカチカチ、肉かすも煮汁に溶けまくる(日高屋の野菜炒めみたいに)。糸こんにゃくをすくえば、まわりにじゃがいもの粒と玉ねぎの残骸がまとわりついてくる。あれがいい。だから私は、人生で唯一行った料理教室の初回体験を、いまだに忘れられない。体験メニューは体験オブ体験の肉じゃがだった。そこでは「煮崩れないこと」が美徳とされ、じゃがいもは角切り、油でコーティングされ、ピッシリと形を保っていた。丁寧に作られた、あまりにも整った肉じゃが。火は通っているはずなのに、口に入れるとシャーっと音がする。包丁を食べているような錯覚。飲み込むと痛ささえ感じる。煮汁も、醤油・みりん・砂糖がそれぞれ別行動をしていて、全然手をつないでいない。馴染んでない。とても気まずい飲み会みたいになってる。現場も実際にそうだったから、この空気感を感じて調味料たちがこんな風になってたんだろうね。「これは肉じゃがじゃない」と泣きそうになりながらも、エプロンを着ること、手を洗うこと、計量すること、みんなで作って一息つきながら食べること、その空間自体はとても素敵だとも思っていた。料理って素敵!愛おしい!めんどくさいものじゃないし、手際良くする必要もない!でも、私が再び料理教室に行くことはなかった。今日、祖母が持ってきてくれた肉じゃがは、最高だった。煮崩れまくり、じゃがいもは煮汁に溶け、家だから視線気にせず、汁を冷めたご飯にかけてジュルジュル言わせながらスプーンで味噌汁ご飯のように食べる。料理教室日はみんなの視線が逸れたタイミングで急いでツヤツヤのご飯にかけて煮汁を飲み干したことを思い出していた。肉じゃがの肉は、関東は豚、関西は牛だと言う。「ケンミンショー」はすぐ県民性で分けたがるけれど、私の家にはその前に「選択肢が豚しかない」という現実があった。牛か豚かで語れるのは、それだけで豊かなことだ。ぎゅうもあるんだ・・・!と知った時の絶望と現実。漫画ならトーンだいぶつけられてる。牛肉の肉じゃがは、きっとすき焼きみたいで、ちょっとリッチで、卵を落としても美味しいんだろう。でも私にとって肉じゃがは、ぐちゃぐちゃで、混ざり合っていて、豚の白い油があって、境界線が溶けているものだ。きれいに作られた料理が、美味しくて、必ずしも正解じゃない!煮崩れは褒め言葉である。【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓ ↓https://l.instagram.com/?u=https%3A%2F%2Flit.link%2Fkuiizi&e=AT3XSFafeOvCYz-Qrs2YZVSzaeTnwEMBOgkeC95oI-CnVLmvnk71aqxhJDN4sl3o0BcDpUnJIM0b_GCLR3YqBToaVq13H6ahdt7eI7Bd_MXgSsHMnZQg-nhRT2SJ_rgRR4_KKBBPBsrS LISTENで開く

  45. 107

    デパ地下閉店5分前に異世界転生その後の電車宴会

    要約↓昨日、電車に乗っていたら、優先席で宴会を始めている人たちがいた。女性二人と男性一人。縦長の大きな缶ビールを手に、仕事の雑談をしている。周りの視線なんてお構いなしで、完全に下町居酒屋モード。私はそれを見ながら、「どう考えても家で飲んだ方がいいのに」とずっと思っていた。だって、家まで我慢して走って帰れば、カロリーも消費できるし、歩きやすいし、何より家でプシュッと開けた方が絶対おいしい。電車で見られながら飲むビールより、帰ってからの一杯の方が気持ちいいに決まっている。とはいえ、走ったせいで泡が大爆発したらどうするんだろう、とも思う。年末に、スパークリングの濁り日本酒を開けた瞬間に大噴火した事件を見たことがある。床も服もベトベト、掃除も大変。でもあれはあれでちょっと楽しかった。掃除のために年末年始始めてこたつから出るし。動けるし、年末のいい運動にもなる。だから結局、家で飲めばいいのに、とやっぱり思う。……と、そんなことを考えながら、私もそのとき手にコロッケを持っていた。神戸コロッケのレンコンコロッケ。デパ地下の中で唯一、庶民に優しい心を開いてくれているあのコロッケ屋さんである。私はデパ地下の攻略法を知っている。閉店5分前になると、どこからともなく「半額ポップ」が異世界転生みたいに現れるのだ。あれはきっと、5分前まではこの世に存在していない。その戦場で私は、新発売のレンコンコロッケを手に入れた。普通のコロッケの倍の値段だけど、段をつけて生まれたての赤ちゃんみたいに奉られて飾られていたら、買ってしまうに決まっている。本当は電車の中ですぐ食べたかった。でも宴会している人たちを見てしまった手前、なんとなく我慢した。幸い乗り換え後は人も少なくなり、そこでひっそり食べた。(というか、マナー違反すみません)疲れた顔の人たちの中で食べる冷たいコロッケは、「生きてるなあ」という実感をくれた。でも終盤になると気づく。これ、普通のコロッケの中に角切りレンコンが少し入っているだけじゃないか。それだけで私は倍の値段を払っている。なのに全然怒っていない。コロッケという食べ物は不思議だ。明太子ロッケ、梅大葉コロッケ、ジャガバターコロッケ――“何かひとつ入った瞬間に値段が倍になる”のに、誰も文句を言わない。牛丼だったら、キムチが入っただけで倍になったら絶対に許さないのに、コロッケだけはなぜか許されている。さらにそのレンコンコロッケには、粉チーズとパセリがふりかけられていた。この二つは本当にすごい。粉チーズとパセリがかかるだけで、食べ物は三倍おしゃれに見える。私はそれに完全に騙されて買った。一生懸命チーズとパセリの部分だけ味わおうとしたけれど、結局よくわからなかった。コロッケといえば、私は北海道物産展が大好きだ。人生の半分くらいは北海道物産展に支えられて生きてきたと言ってもいい。ただ、ひとつだけ言いたい。北海道のコロッケは、すぐジャガイモを信じなくなる。北海道なのに!!!!!北海道が信じなくてどーする。バター味だの、カレー味だの、海苔味だの。「いやいや、北海道こそジャガイモそのままで勝負してよ」といつも思う。ジャガイモはそれだけで十分おいしいのに、すぐ何かを足したがる。……と思いつつ、結局それらも全部おいしいから悔しい。そう考えると、コロッケという食べ物は本当に罪深い。ちょっと具を足すだけで価値を倍にし、粉チーズとパセリでさらに格上げし、電車の中で食べても幸せをくれる。そして私は今日もまた、半額ポップに誘われて、新しいコロッケに騙されに行くのだと思う。【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://l.instagram.com/?u=https%3A%2F%2Flit.link%2Fkuiizi&e=AT3XSFafeOvCYz-Qrs2YZVSzaeTnwEMBOgkeC95oI-CnVLmvnk71aqxhJDN4sl3o0BcDpUnJIM0b_GCLR3YqBToaVq13H6ahdt7eI7Bd_MXgSsHMnZQg-nhRT2SJ_rgRR4_KKBBPBsrS LISTENで開く

  46. 106

    アメリカンドッグがフランクフルトで、フランクフルトがアメリカンドッグっぽいよね

    たぶん要約↓小学生の頃、お祭りのメニュー表が雑すぎてアメリカンドッグとフランクフルトの違いが分からず、本当は衣つきのアメリカンドッグが食べたいのに間違えてフランクフルトを頼んでしまうことが多かった。フランクフルトを持ってる同世代を見ると「この子も間違えたんだ…」と勝手に共感していた。大人になった今は、ソーセージ系への愛(シャウエッセンはボイルよりカリカリ焼き派)を語りつつ、アメリカンドッグの“店による差”は工場差じゃなく揚げ具合・放置時間・設備の差だろうと思っている。アメリカンドッグは日本全国一社提供なはずなので(多分&確実)あとアメリカン『ドック』と『ドッグ』どっちだったけ〜〜〜と、と毎回思って調べるときに「犬と同じだよ!」ということは覚えているものの、だから!!!犬がカタカナでドックだっけ、ドッグたっけってなって結局どっちか分からずじまい。低学歴おつ。そして一時期流行った「アメリカンドッグの下のカリカリが一番うまい」論には反発。あれは本当は“好き”というのはただの言い訳で、貧困の意地で食べてる部分で、それを正当化したいだけの言い訳である。カリカリ部分だけを商品化したドンキは“全て間違ってる”と感じた。いつかカリカリ部分を捨てられるくらい余裕のある大人になりたい、あそこの部分に目も向けず、ポイっと捨てれる人になりてえ。さらに、食べ物は串に刺さってるだけでうまそうに見える(焼き鳥・唐揚げ串など)それは、鶏肉系はとにかく自己主張させてあげよう!という子育て論がゆえに!串刺しがおいしく見えるんだろうね〜〜〜冷たいカップデリ唐揚げを買ってしまうのは、透明容器が唐揚げの“自己主張”を保っていて魅力的に見えるからだと気づいた。最後に、コンビニのアメリカンドッグでもらえるパウチのケチャップが全然足りない&食べ歩きで扱いづらいので、もっと使いやすい仕組みにしてほしいです。ケチャップ持参でコンビニ行かせてください。そして店員さん、ケチャップ乗っけるの手伝ってください。ここから世界平和生まれると思う!ああ!!!!アメリカンドッグに砂糖まぶすの最高においしいよね!というのと、アメリカンドッグにマスタード必須になったら大人になった証拠っていうの忘れてたのでお見知り置きください!!!【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://l.instagram.com/?u=https%3A%2F%2Flit.link%2Fkuiizi&e=AT3XSFafeOvCYz-Qrs2YZVSzaeTnwEMBOgkeC95oI-CnVLmvnk71aqxhJDN4sl3o0BcDpUnJIM0b_GCLR3YqBToaVq13H6ahdt7eI7Bd_MXgSsHMnZQg-nhRT2SJ_rgRR4_KKBBPBsrS LISTENで開く

  47. 105

    安くておいしいもの または、 素朴でシンプルでおいしいもの を食べて「こういうのでいいんだよ」ってさえいえばいいと思ってる人にならないぞ!って思ってたけどなっちゃった。悲しい

    要約になってない要約↓私はずっと「孤独のグルメ」が大好きだけれど、あえて聖地巡礼はしないようにしている。行ったら絶対に“五郎さんごっこ”をしてしまう自分が想像できて、恥ずかしいから。そうなってる痛い人たちをたくさん見てきたし。安くておいしいもの または、 素朴でシンプルでおいしいもの を食べて「こういうのでいいんだよ」ってさえいえばいいと思ってる人。むしろ、この言葉を言いたいからそういうものを食べにいく人。レビューや口コミに頼らず、自分の直感と運だけでお店を選べる人になりたい。でも実際は、食べログやGoogleマップを血まなこで見てしまい、知り合いのおすすめよりも見知らぬ人のレビューを信じてしまう自分が本当に情けない。だから永遠飲み会やお茶会などにも誘われにくい人種のままなんだと思う。永遠一人語り人生。結局痛い孤独のグルメ像は自分が一番なってる。理想は「気になった店にパッと入れる人」になること。そのためには“比較しないこと”が大事だと気づいた。これは人生においてもそうですよね。最近たどり着いたのは、「お腹に聞くのではなく、気分でごはんを選ぶ」という方法。そして、一旦口の中に漬物か梅干しを入れながら考える方法。お腹は空いていると何でも食べたくなるから判断が鈍る。そして疲れていても鈍る。焼肉のたれしか飲みたくなくなる。でも気分に合わせて選ぶと失敗しにくい。その象徴が「大戸屋」と「松屋」の体験。・背伸びしたインターン説明会でボロボロに疲れた日は、大戸屋の温かい定食が心に染みた。・ひどく怒られた日は、松屋の牛丼がいちばん正解だった。 丼ものは情報量が少なくて、心が疲れているときにちょうどいい。逆に落ち込んだ日にデパ地下のキラキラ惣菜を食べると、情報量が多すぎて余計にしんどくなる。というか、いくと疲れる。だから元気な日は華やかな食事、落ち込んだ日はシンプルな丼もの。これが自分なりの食選びの正解だとわかった。最後にNetflixで陸上アニメ「100M」を観て、漫画「アシガール」を読んだあと、ネパール料理のスパイスを大量摂取したら、なぜか自分の足が速くなった気がした。今回は、スパイスを食べると猛烈に足が速くなるという話でした。【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://l.instagram.com/?u=https%3A%2F%2Flit.link%2Fkuiizi&e=AT3XSFafeOvCYz-Qrs2YZVSzaeTnwEMBOgkeC95oI-CnVLmvnk71aqxhJDN4sl3o0BcDpUnJIM0b_GCLR3YqBToaVq13H6ahdt7eI7Bd_MXgSsHMnZQg-nhRT2SJ_rgRR4_KKBBPBsrS LISTENで開く

  48. 104

    成城石井のポテサラは成城石井アピが強かったです。

    【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://l.instagram.com/?u=https%3A%2F%2Flit.link%2Fkuiizi&e=AT3XSFafeOvCYz-Qrs2YZVSzaeTnwEMBOgkeC95oI-CnVLmvnk71aqxhJDN4sl3o0BcDpUnJIM0b_GCLR3YqBToaVq13H6ahdt7eI7Bd_MXgSsHMnZQg-nhRT2SJ_rgRR4_KKBBPBsrS要約になってない要約↓成城石井のポテトサラダは、一口食べてみて、成城石井を感じすぎた。あまりにも世の中が「成城石井のポテトサラダ」を褒めちぎるので、ちゃんと向き合ってみることにした。しかも、自由が丘の成城石井という強い4文字の組み合わせ!!!!!!イートインスペースで、ポテトサラダだけを大量に食べる。真摯に向き合うよ。そもそも成城石井にイートインなんてあるのか、という話なのだけれど、自由が丘店にはちゃんとある。しかも結構広い。仕切りもあって、外から見えにくい。「自由が丘の成城石井で夜に一人ポテサラをむさぼる人」として世間に晒されない優しい設計になっていて、そこはとてもよかった。壁にはワインの写真が飾られていて、なんとなく上品な空気。私は成城石井のカタログを読みながら、成城石井の割り箸で、成城石井のポテトサラダを食べる。成城石井に包囲された時間だった。成城石井バー!そして、肝心のポテトサラダ。ひと口食べて思った。おしゃれすぎる。これはもう、ポテトサラダというより「成城石井」だった。ポテトサラダにおいて一番大切なのは、素朴さだと思っている。主張しないこと。家庭料理としての控えめさ。けれどこのポテサラは、「私は成城石井発の洗練されたポテトサラダです」と名刺を配り歩いているような味だった。原因はたぶん、セロリと薄いマヨネーズ。セロリと粒マスタードという存在は、食べ物を一瞬で海外旅行させてしまう力を持っている。おしゃれサラダなら大歓迎だけれど、シンプルを売りにするポテサラに入ると、どうしても出しゃばりすぎる。昔のレビューを調べてみたら、以前はもっと家庭的で、きゅうり・にんじん・玉ねぎ中心の、ほくほく系だったらしい。今はなめらかで洗練された路線に変わっていて、なんだか少し遠い存在になってしまっていた。とはいえ、成城石井そのものはやっぱり好きだ。おしゃれで楽しくて、つい寄りたくなるお店なのは間違いない。ただ、このポテトサラダは私の中の“ポテサラ像”とは少し違っただけで。それで改めて思った。ポテトサラダにはいろんな世界がある。家庭で作る素朴なポテサラ。お弁当にちょこんと入っている業務用の“嘘ポテサラ”。居酒屋でこだわって作られている本気のポテサラ。そして成城石井みたいに、どこまでもおしゃれに走るポテサラ。その違いをまとめた「ポテトサラダの家系図」みたいな本を、いつか本気で作りたいと思っている。ちなみに最近の発見は、ポテトサラダは春巻きにするとめちゃくちゃおいしいということ。けどやっぱり、成城石井は全ての惣菜において成城石井アピ強くいてくれ!!!!そのほうが消費しがいがあるー!!!!! LISTENで開く

  49. 103

    あったかいのがおいしいという最終結論

    最近、「食べ物はあたたかいほど美味しい」という当たり前だけど大事な真理に気づいた。私はサラダバーが大好きで、店選びも“サラダバーがあるかどうか”で決めるくらい。でもいつも満足しきれずに帰ることが多かった。それは結局、サラダが“冷たい食べ物”だからだと気づいた。冷蔵庫から出した揚げ物やお弁当をそのまま食べたり、冷凍食品を温めずに食べたりしていたけれど、ほんの1分我慢して温めるだけで驚くほど美味しくなる。野菜も生より湯がいたほうが甘くておいしいし、ブロッコリーや白菜もクタクタにするほど美味しい。表示時間や見た目の色合いより、“しっかり温めること”が大事だと実感した。アイスは冷たいけど美味しいと思っていたのは、冷たさで舌と脳がパニックになって騙されているだけ。本当はあらゆる食べ物は温かいほうが美味しいはずだと気づく。さらに“温かい”ことのメリットは、あまり美味しくない食べ物でも美味しく感じさせてくれること。安いコンビニのハンバーガーも、冷たいとただのパサパサなのに、熱々にするとちゃんと美味しくなる。寿司の練習で酢飯を大量に食べていたときも、冷たいのが当たり前だと思っていた酢飯を温めてみたら驚くほど美味しかった。刺身ですら、体調次第では温めたほうが食べやすく美味しい。だから結論。コンビニで「温めますか?」と聞かれたら、基本は“温めた方がいい”。むしろ店員さんに「絶対温めてください」と念押ししてほしいくらい。世の中の食べ物は、だいたい温めたほうが正義。【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://l.instagram.com/?u=https%3A%2F%2Flit.link%2Fkuiizi&e=AT3XSFafeOvCYz-Qrs2YZVSzaeTnwEMBOgkeC95oI-CnVLmvnk71aqxhJDN4sl3o0BcDpUnJIM0b_GCLR3YqBToaVq13H6ahdt7eI7Bd_MXgSsHMnZQg-nhRT2SJ_rgRR4_KKBBPBsrS LISTENで開く

  50. 102

    お土産の正解はゴンチャ!ケンタッキーは人間としての体調が最高の時にしかいけない&サーティーワンは持ち運べるプリ機

    【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://l.instagram.com/?u=https%3A%2F%2Flit.link%2Fkuiizi&e=AT3XSFafeOvCYz-Qrs2YZVSzaeTnwEMBOgkeC95oI-CnVLmvnk71aqxhJDN4sl3o0BcDpUnJIM0b_GCLR3YqBToaVq13H6ahdt7eI7Bd_MXgSsHMnZQg-nhRT2SJ_rgRR4_KKBBPBsrS長い要約↓お土産の最適解はゴンチャ!私は普段、島に住んでいる。ときどき東京に行って、また飛行機で島に帰る。飛行機の中用の本を持参したり、映画ダウンロードするのに、ついつい、人が持ってるお土産袋に目がいく。リュックの中のお土産品も透視できたらいいのに、とすら思ってる。この前、隣に座っていた人が「ゴンチャ」を二つ持っていた。あのタピオカドリンクのゴンチャである。女子高生にとってのアンパンマンみたいな存在の、ゴンチャ様。ユン様みたいな、本当に。普通のコーヒーショップの飲み物は、カップの上にプラスチックのフタがついている。でもタピオカ屋さんのカップは違う。上をシールでぺたっと密閉する。あの機械が私は大好きで、必要ないのに毎回アマゾンで価格検索してしまうくらい憧れている。タピオカも飲まないけど、欲しいな〜そのおかげで、ぶん回してもこぼれない。その人は、透明な袋にゴンチャを二つ入れていた。降りるときに気づいて、「あ、ゴンチャだ」と思った瞬間、思わず抱きしめたくなった。お土産にゴンチャを選ぶ――。日々、お土産選びに悩み、苦しみ、たくさん時間をかけて結局間違ってしまう私にお土産の正解を教えてくれた。ひよこだとか、めんべいだとか、いろいろあるけれど、本当のお土産ってきっとこういうことだと思う。その土地でしか手に入らない生物、流行もの、心が求めているもの、定型分の「ありがとう」じゃなくて「やった〜〜〜〜〜!」という言葉が出るものこそ、お土産なんだと思う!!!!そして、それをちょっとめんどくさくても、丁寧に持って帰ってきてくれること。それがお土産!!!島にはチェーン店がほとんどない。マクドナルドも、ケンタッキーも、ミスタードーナツも遠い存在だ。だからお土産はだいたいそのどれかになる。カルディのお菓子や鍋つゆもめちゃくちゃ嬉しい。島の人たちは、お土産に騙されていない。「名物っぽい箱菓子」よりも、普段味わえない「都会の日常そのもの」を持って帰ってきてくれる方がよっぽど嬉しいのを知っている。地元のスーパーにもタピオカは売っている。でも、ゴンチャのカップで飲むタピオカはやっぱり違う。たとえ中身が同じでも、あのロゴがあるだけで全然違う。女子高生が身近にいない私は、スタバをお土産にしてみたいと考えた。しかし、ふたが外れやすいので難しい。スタバ思い出。私は夜行バスに乗ることが多いのだけど、ある日ちょっと背伸びしてスタバの抹茶ラテを買って乗り込んだ。「スタバの大きいやつを持ってる自分」を演出したかったのだ。ところが隣に座った登山客みたいな人がリュックをガンッと置いた瞬間、私の抹茶ラテは見事に倒れた。床にビチャー。夜行バスという存在は徹底的にコストカットしてくれて私たちに異動を提供してくれているので、雑巾なんてない。みんなの汗拭きシートを総動員して拭き取る地獄。私は一口も飲めないまま喉カラカラで夜を過ごした。けど、抹茶は良かったかも。日本人のこころ。その香りと共に〜、密閉旅。その日以来、「カップの飲み物は持ち運ぶべきではない」という教訓を得た。身分に合わないことをするな、とも思った。それでもスタバへの憧れは消えなくて、今では空のスタバカップをわざわざ持って帰り、家でティーバッグのお茶を入れて“スタバごっこ”をしている。私にとっての最高贅沢時間。なんだかんだ、私が島の家族たちへのお土産でよく買うのはパンだ。島にはおいしいパン屋が少ないから、デパ地下のパンはとにかくありがたい。あと、パンの袋を閉じてくれる、あのデパ地下シールと紙袋。これら全て含めてお土産!この前はプルプルのフレンチトーストを大事に持って帰ってきたのに、トランクを閉めるときに自分の手で挟んで潰してしまった。持ち運びで潰れたならまだ許せるのに、自分でトドメを刺したときの絶望は大きい。お土産界の王者は、やっぱりサーティワンのアソートパックだと思う。あれを持ってきてくれる人は、どんなおじさんでも一瞬でヒーローになれる。怖かった親戚のおじさんも、サーティワンを抱えて現れた瞬間だけは神様に見えた。キムタクに見えた。いいお土産さえ持っていればカッコ良くもなれる。特にサーティーワンくらいキラキラしてるものは持ち運べるプリ機(プリントシール機)だと思う。ドライアイスまでセットでついてくるあのエンタメ性。これは、でんじろう先生のサイエンスショーのチケット付きと考えていい!わーい。あれ以上の土産はなかなかない。そしてケンタッキー。山盛りで買ってきてくれるのは嬉しいけれど、子どもの胃にですら、ケンタッキーは重い。ケンタッキーという場所は人間が一番元気な時に行く場所だからね。最近全然行ってないわ。脱毛でいったキラキラのお姉さんが、ここのサロンメンバーとクリスマスにケンタッキー予約してるんです。とキラキラの笑顔で言ってきた日の脱毛は、普段痛みに鈍感な私が初めて脱毛痛いと思った瞬間だった。消費できないほどもらった時に登場するのが「ケンタッキーカレー」だ。余ったチキンをカレーにする―これが本当においしい。余らずとも作りたいくらいおいしい。出来たてが一番おいしいカレーなんて他にない。公式でレシピ化してほしいくらいだ。ただ、ケンタッキーには一つだけ言いたいことがある。部位の振り分けが不平等すぎる。お金のない学生にはなぜか小さくてひもじい部位が回ってくる。国会で「学生には大きい部位を優先する法律」を作ってほしいくらいだ。そんなふうに、私は今日もお土産のことを真剣に考えている。高級菓子よりも、都会の日常の一コマ。ひよこよりも、ゴンチャ。島に住んでいるからこそ、そういう“本当のお土産”の価値がよくわかる。次に飛行機で帰るとき、私も誰かにゴンチャを二つ買って帰ろうかな、と思っている。 LISTENで開く

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9月14日、“くいしんぼうの日”に食の神様に愛されすぎて爆誕した私が、ただただ食への愛とおさまらない食い意地を発散させてます。変でごめんー!だけどみんなと食欲わかちあいたい!ほんとポッドキャスト感謝!これなかったら私の食欲の発散場所なかったよ!!!!!ありがた祭り!音声とか聞きにくめなところ多いですがまだ成長段階なので🤱やさしくみまもってね🦷食べ物に愛を伝え、食への情熱を仕事に、、、という野望をこめてお届けします。職業食いしん坊として生きてくぞ〜。ちなみに本業はわーいでのんきなクリエイター「もしもし五島列島」です。よろしくね(圧)Instagram https://www.instagram.com/illustwaai?igsh=MXU1ZGdiaWFxdnVnbA%3D%3D&utm_source=qr 食い意地ラジオみてね↓https://lit.link/kuiizi

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