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ネットラジオ版安心問答(浄土真宗の信心について)

ブログ安心問答(浄土真宗の信心について)の音声版です。浄土真宗の教え、信心、その他についていろいろと話をするpodcastです。

  1. 53

    #058「二種深信にあるように『曠劫よりこのかた』の過去世のことまで分かるようになるのですか?」について(頂いた質問)

    前回57回目を聞かれた方からの質問です。○質問---私には、生まれる前のこと(始まりのない始まりから、生死輪廻を繰り返してきた過去世のこと)は、全く分かりませんが、信心獲得すると、教行信証の信巻に書いてある「二種深信」のような、「一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなく、かの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。」ということが、ハッキリと自覚できるのでしょうか?もし、自覚できるとしたら、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし」と、自身(私)が曠劫より生死輪廻を繰り返してきたことが分かるような文章の内容が書かれていますが、実際は、信心獲得すると、自分自身が生死を繰り返してきた過去世のことまで分かるのでしょうか?また、「自身」と書いてあるように、曠劫から迷いの世界を輪廻してきた「私」(汝)というものが、本当にあるのでしょうか?ちなみに、この「私」の意味は、私や他者が認識している私ではなくて、「永遠のいのち」(自己統一的主体)みたいなイメージです。最後に、阿弥陀仏の本願は、「阿弥陀さまから見た私」を「只今救うぞ」と、前回のネットラジオでお話をされていましたが、「阿弥陀さまから見た私」を、この私が自覚することが、--本当にできるのでしょうか?---○質問---それは、「後生の一大事と信心獲得について」です。信心獲得すると、一体、私の何がお浄土に生まれて仏に成るのか?について知りたいです。私は、仏教の唯識で言われる「私の阿頼耶識」が、流転輪廻を繰り返していて、常に変わり続けながら、六道輪廻を抜け出せずに、迷い苦しんでいるのではないか?と考えています。浄土真宗では、一体、私の何が、極楽浄土に生まれて成仏すると教えられているのか?について知りたいです。---話の中で出たご文○教行信証信文類一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。 二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。○教行信証証文類しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。質問・感想はブログ、メール、質問箱、メールにてお願いします。---⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠安心問答ー浄土真宗の信心について⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠[email protected](⁠⁠⁠@anjinmondou⁠⁠⁠)⁠⁠⁠匿名での質問はこちらから⁠⁠⁠⁠マシュマロ⁠⁠⁠⁠

  2. 52

    #057「阿弥陀仏は一体、私の何を救って下さるのか?」について(頂いた質問)

    以下の質問について話をしました。ーーー(略)ここで、根本的なお尋ねがあるのですが、阿弥陀仏は、一体、私の何を救ってくださるのでしょうか?私の肉体は、死んだら無になります。意識も無くなります。仏教では、目に見えない「魂」や「霊魂」などの存在も認めないと聞いたことがあります。 では、一体、仏教は何を問題にして、生死輪廻を繰り返している私の正体(本体)は何であり、阿弥陀仏は、「只今私を救う」と仰っているけれども、一体私の何を救ってくださるのか?が分からないので、今回は、一体、阿弥陀仏は、私の何を救ってくださるのか?生死輪廻を繰り返している「この私」とは一体何者なのか?そもそも、仏教は何を問題にしているのか?について、ネットラジオ版安心問答でお話をしていただけると有り難いです。よろしくお願いします。ーーー○話の中で出した話・慧能禅師のエピソード「善を思わず、悪を思わず、正に恁麼の時、いかなるか是れ、明上座、父母未生前の本来の面目」・なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ(二河白道の譬え)----質問・感想はブログ、メール、質問箱、メールにてお願いします。⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠安心問答ー浄土真宗の信心について⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠[email protected](⁠⁠⁠@anjinmondou⁠⁠⁠)⁠⁠⁠匿名での質問はこちらから⁠⁠⁠⁠マシュマロ⁠⁠⁠⁠

  3. 51

    #056「教行信証の総序に書いてある「たまたま行信を獲る?」や「弘誓の強縁が多生にも値ひがたく、億劫にも獲がたい?」、親鸞聖人は、なぜ、「遠く宿善を慶べ」ではなく、「遠く宿縁を慶べ」と言われたのか?」について

    今回は以下の質問について話をしました。ーーーー教行信証の総序に、「ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に不蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。」とありますが、この「行信を獲る」のは、「たまたま」なのでしょうか?(私は、「たまたま」の意味を、偶然とか、運が良く、などの意味で考えています。)もし、「たまたま」が偶然とか、運が良く、などの意味であれば、宝くじに運が良く大当りしたみたいに、思えてしまいます。また、「弘誓の強縁が多生にも値ひがたく、億劫にも獲がたい」のであれば、今生で阿弥陀仏に救われるのは無理なのかなぁ?と、心が折れ、あきらめの境地になってしまいます。さらに、「遠く宿縁を慶べ」とありますが、これは、「宿善」ではなく、「宿縁」と親鸞聖人が書かれているのは、何か深い意味があるのでしょうか?これらの教行信証の総序に書いてある「たまたま行信を獲る?」や「弘誓の強縁が多生にも値ひがたく、億劫にも獲がたい?」、親鸞聖人は、なぜ、「遠く宿善を慶べ」ではなく、「遠く宿縁を慶べ」と言われたのか?について、ネットラジオ版安心問答でお話しを聞かせていただきたいです。ーーーー○話にでたご文穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。(教行証文類・総序・P132)○悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。(化身土文類・浄土真宗聖典註釈版P412)----質問・感想はブログ、メール、質問箱、メールにてお願いします。⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠安心問答ー浄土真宗の信心について⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠[email protected](⁠⁠@anjinmondou⁠⁠)⁠⁠⁠匿名での質問はこちらから⁠⁠⁠マシュマロ⁠⁠⁠

  4. 50

    #055「阿弥陀仏の本願は、「ただ今救う」本願ですが、「ただ今救う」と今聞けていないのは、まだ、私の機が熟していないからでしょうか?」(頂いた質問)

    今回は以下の質問について話をしました。ーー第54回目を聞いて、阿弥陀仏の救済と「宿善」の関係については、「宿善」は阿弥陀仏の調育(調熟)の光明(智慧)のはたらきであり、一人一人違う未熟の機を調育して、本願を素直に疑い無く聞ける身に育ててくださることが分かりました。しかし、そうすると、やはり阿弥陀仏の調育の光明によって、私の機が熟して、本願を疑い無く聞けるようになるには、機が熟すまでの時間がかかるように思えてしまいます。阿弥陀仏の本願は、「ただ今救う」本願ですが、「ただ今救う」と今聞けていないのは、まだ、私の機が熟していないからでしょうか?また、阿弥陀仏の本願は、短命の者や無常迅速の機をお目当てにしていると聞いているのですが、もし機が熟さないと、信心獲得できないとしたら、臨終の者は、どうなってしまうのでしょうか?口伝鈔に、以下の文言がありましたので、今回は、短命の根機(無常迅速の機)と阿弥陀仏の調育の光明の関係について、またネットラジオ版安心問答でお話しを聞かせて頂きたいです。よろしくお願いします。ーー話のなかで出たご文○そのゆゑは如来の大悲、短命の根機を本としたまへり。もし多念をもつて本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもつて淵源とす。そのゆゑは願(第十八願)成就の文(大経・下)には、「聞其名号 信心歓喜 乃至一念 願生彼国 即得往生 住不退転」と説き(口伝鈔・浄土真宗聖典註釈版P911)----質問・感想はブログ、メール、質問箱、メールにてお願いします。⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠安心問答ー浄土真宗の信心について⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠[email protected](⁠@anjinmondou⁠)⁠⁠⁠匿名での質問はこちらから⁠⁠マシュマロ⁠⁠

  5. 49

    #054「現世(今生)で救われる人と、来世(未来世)で救われる人が出てきてしまうのは、やはり「宿善」の厚薄が関係しているのでしょうか?」(頂いた質問)

    今回は、以下の質問について話をしました。頂いた質問--第53回目のネットラジオ版安心問答を聞いて、阿弥陀仏の側で、この人は好きだから早く救おうとか、この人は嫌いだから救うのは遅くしようとか、そういった差別はないことが分かりました。そこで、また重ねてお尋ねがあります。阿弥陀仏の側で救いの差別はしていないけれども、現世(今生)で救われる人と、来世(未来世)で救われる人が出てきてしまうのは、やはり「宿善」の厚薄が関係しているのでしょうか?浄土真宗辞典で「宿善」について調べたら、①過去世に積んだ善根のこと。②宿世の善因縁の意で、獲信のための善き因縁のこと、と書いてありました。また、「宿善」は浄土真宗では、信心を得る縁となる阿弥陀仏の調育のはたらきであるとすると書いてありました。さらに「宿善の開発」を同じく浄土真宗辞典で調べたら、信心を得るための過去の善き因縁が熟して、信心が開けおこること、と書いてありました。そうすると、早く信心獲得できるかできないかは、「宿善」が厚いか?薄いか?に拠る所が大きな要因になると、この浄土真宗辞典では読めてしまうのですが、実際の所は、この「宿善」が信心獲得の大きな要因になるのでしょうか?また、もし「宿善」の厚薄が阿弥陀仏の救済の因縁であるとするならば、たくさん善い行いをしたり、たくさん念仏を称えたり、たくさん聴聞をしたほうが、早く阿弥陀仏の救済に遇えると考えてしまうのですが、実際はどうなのでしょうか?今回は、この阿弥陀仏の救済と「宿善」の関係について、またネットラジオ版安心問答でお話しを聞かせていただけると有り難いです。--○話の中ででたご文一 光明・名号の因縁といふ事。 十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。(略)また光明寺(善導)の御釈(礼讃)には、「以光明名号摂化十方 但使信心求念」とものたまへり。 しかれば往生の信心の定まることはわれらが智分にあらず、光明の縁にもよほし育てられて名号信知の報土の因をうと、しるべしとなり。これを他力といふなり。(浄土真宗聖典註釈版P874)○鎮西派・聖光房弁長(弁阿)上人「浄土宗名目問答」このこと極めたる僻事なり。そのゆえは、全く他力を憑みて一分も自力なしということ、道理としてしらるべからず。自力の善根なしといえども他力によって往生を得るといはば一切の凡夫の輩、いまに穢土に留まるべからず。みなことごとく浄土に往生すべし。(浄土宗全書10・ P410)----質問・感想はブログ、メール、質問箱、メールにてお願いします。⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠安心問答ー浄土真宗の信心について⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠[email protected](@anjinmondou)⁠⁠⁠匿名での質問はこちらから⁠マシュマロ⁠

  6. 48

    #053「同じ内容の本願を聞いていても、本願を信じられずに、念仏だけ称えている者は、阿弥陀仏のお救いから漏れてしまうのでしょうか?」(頂いた質問)

    #052を聞かれたら方から以下の質問を頂きました。今回はこちらについて話をしています。ーー⚪︎質問「念仏衆生摂取不捨」の念仏者とは、阿弥陀仏の本願を聞いて、その本願の通りに念仏している者(本願を信じ念仏している者)を摂取して見捨てないということですが、①同じ内容の本願を聞いていても、本願を信じられずに、念仏だけ称えている者は、阿弥陀仏のお救いから漏れてしまうのでしょうか?②もしそうだとしたら、阿弥陀仏の本願は、差別的な本願になりませんか?(信心のある念仏者は救うが、信心がない念仏者は救わないという差別になりませんか?)③もし、阿弥陀さまの本願が、本願に疑いある者は救わずに、本願に疑い晴れた者だけ救う本願であれば、どうして「無条件のお救い」とか、「無差別のお救い」とか、「そのまま救う」とか、そんな無責任なことが言えるのでしょうか?④同じ内容の阿弥陀仏の本願を聞いていても、阿弥陀仏の本願によって救われる者と、救われない者が出てきてしまうのは、何が原因になっているのでしょうか?⑤もし私の側に何か救われない原因(理由)があるとすれば、それは何でしょうか?⑥また、阿弥陀さまは、私を救いたくても、本願に疑いある状態のままでは、私を救うことができないのでしょうか?(本願に疑いある念仏者は救えないようなシステムや構造になっているのでしょうか?)ーー話の中で出したご文⚪︎「故使如来選要法」といふは、釈迦如来、よろづの善のなかより名号をえらびとりて、五濁悪時・悪世界・悪衆生・邪見無信のものにあたへたまへるなりとしるべしとなり。これを「選」といふ、ひろくえらぶといふなり。「要」はもつぱらといふ、もとむといふ、ちぎるといふなり。「法」は名号なり。(唯信鈔文意・浄土真宗聖典註釈版P711)⚪︎(60)不了仏智のしるしには 如来の諸智を疑惑して 罪福信じ善本を たのめば辺地にとまるなり(正像末和讃・誡疑讃・浄土真宗聖典註釈版P610)質問・感想はブログ、メール、質問箱、メールにてお願いします。⁠⁠⁠⁠⁠⁠安心問答ー浄土真宗の信心について⁠⁠⁠⁠⁠⁠[email protected](@anjinmondou)⁠⁠⁠https://x.com/anjinmondou⁠⁠⁠匿名での質問はこちらからマシュマロ

  7. 47

    #052「念仏衆生摂取不捨」について・「念仏によって救われるのか?」「信心によって救われるのか?」(頂いた質問)

    今回は、こちらについて話をしています。--第51回目のお話しの中で、阿弥陀さまは本願を疑いなく聞き受けて、信心が定まった者を忘れずに必ず摂取して見捨てないというお話しがとても印象的でした。その話を聞いて、私は念仏衆生摂取不捨というお言葉がすぐに頭に思い浮かびました。以下は、AIで、念仏衆生摂取不捨の意味について調べた内容です。AIの回答を、そのままコピーしたので、少し長文になりますが、一読していただき、このAIの回答に間違いがないか?もし間違っているとしたら、どこが間違っているか?を取り上げていただき、またお時間がある時に、ネットラジオ版安心問答で、「念仏衆生摂取不捨について」お話しをしていただけるとありがたいです。ちなみに、私が主に知りたいのは、「念仏によって救われるのか?」「信心によって救われるのか?」についてです。(頂いた質問)--資料として頂いたAIによる「念仏衆生摂取不捨」の文章です。--(以下がAIの回答の全文です)「念仏衆生摂取不捨(ねんぶつしゅじょうせっしゅふしゃ)」は、阿弥陀仏が「南無阿弥陀仏」と念仏を称える人々を光明で照らし、決して見捨てず、必ず極楽浄土へ救い取るという救済の約束を表す言葉です。『観無量寿経』に基づく浄土教の根幹となる教えで、現世での安心と死後の救済を意味します。 真宗の本棚 +4意味と詳細- 出典: 『仏説観無量寿経(観経)』の「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」という一節。- 摂取不捨(せっしゅふしゃ): 逃げ惑う者(衆生)を追いかけ、必ず捕らえて抱きしめ、二度と捨てないこと。-- 念仏衆生(ねんぶつしゅじょう): 念仏を称えるすべての人。-阿弥陀仏の救い: この世では光に照らされて守られ、死後は極楽浄土へ連れて行かれるという絶対の幸福。 --真宗の本棚+4Usage Examples (使い方・関連語)-摂取不捨の利益: 念仏を称える者が、阿弥陀仏にすがり、死後必ず浄土へ往生できるという幸せ。-摂取の光明: 衆生を摂め取って捨てない、阿弥陀仏の智慧の光。-光明遍照(こうみょうへんじょう): 阿弥陀仏の光がすべての世界をあまねく照らしていること。-法然上人の教え: 摂取不捨を「月の光」にたとえ、公平に注がれる慈悲を信じて念仏を称えるよう説いた。 --浄土真宗本願寺派総合研究所 - +4類語・関連表現-他力本願: 自らの力ではなく、阿弥陀仏の力によって救われる。-見捨てぬぞ・必ず救う: 摂取不捨を分かりやすく表現した言葉。-おさめ取って捨てない: 摂取不捨の分かりやすい現代語訳。 - -浄土真宗本願寺派 +4-この言葉は、法然や親鸞が、どのような罪深い者でも念仏によって救われる根拠とした、非常に重要な言葉です。 --浄土宗全書テキストデータベース +2--話の中で出したご文一々光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨(一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。)(観無量寿経・浄土真宗聖典註釈版P102)(82)十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる(浄土和讃・浄土真宗聖典註釈版P571)摂めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり。摂はをさめとる、取は迎へとる。(浄土真宗聖典註釈版P571)またかの一々の光明、あまねく十方世界の念仏の衆生を照らして、摂取して捨てたまはず。われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて、見たてまつることあたはずといへども、大悲倦むことなくして、つねにわが身を照らしたまふ。(往生要集・浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)P956)いかにいはんや十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまはず。ゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつると。(教行信証・行巻・浄土真宗聖典註釈版P186)

  8. 46

    #051「信相の一念」の自覚があるかないかで、「信心獲得」したのか?まだ「信心獲得」していないのか?を自分自身で信疑決判できるという理解で間違いないでしょうか?」(頂いた質問)

    今回は、以下の質問に回答しました。ーー第50回目を聞かせていただき、「信の一念」には意味が2種類あり、①時剋の一念は自覚はできないけれども、②信相の一念は、阿弥陀仏の救済を疑心なく信じた人には、信相の一念の自覚があることが分かりました。そうすると、この「信相の一念」の自覚があるかないかで、「信心獲得」したのか?まだ「信心獲得」していないのか?を自分自身で信疑決判できるという理解で間違いないでしょうか?また、入信には、二つのパターンがあり、どちらかのパターンでなければならない、ということはないことが分かりました。そこで、極端な話、阿弥陀仏の本願を聞いていない時(例えば、お風呂に入っている時や寝ている時など)に、入信することもあり得るのでしょうか?さらに、私の側では、いつどこでどんな状況で、入信するかは分からなくても、阿弥陀さまの側では、私がいつどこでどんな状況で入信するかは、全てご存知なのでしょうか?ーー話の中で出たご文「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念文意・浄土真宗聖典註釈版P678)質問・感想はブログ、メール、質問箱、メールにてお願いします。⁠⁠⁠⁠⁠⁠安心問答ー浄土真宗の信心について⁠⁠⁠⁠⁠⁠[email protected](@anjinmondou)⁠⁠⁠https://x.com/anjinmondou⁠⁠⁠Peing(質問箱)⁠⁠⁠https://peing.net/ja/anjinmondou⁠⁠⁠

  9. 45

    #50「阿弥陀仏の本願をその通りと聞けるようになった瞬間を、「信の一念」と浄土真宗では言っているのでしょうか?また、この「信の一念」は、自覚ができるのでしょうか?」(頂いた質問)

    今回は、以下の質問に回答しました。ーー阿弥陀仏の本願をその通りと聞けるようになった瞬間を、「信の一念」と浄土真宗では言っているのでしょうか?また、この「信の一念」は、自覚ができるのでしょうか?獲信(回心)のパターンには、二つのパターン(突然的回心と漸次的回心)があると聞いたり、本で読んだことがあるのですが、親鸞聖人は、どちらのパターンで獲信(回心)されたのでしょうか?ーー話の中で出たご文然るに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行 を棄てて本願に帰す。(教行信証化土巻)噫、弘誓の強縁多生にも値ひがたく、真実の浄信億劫にも獲がたし、遇たま行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。(教行信証総序)質問・感想はブログ、メール、質問箱、メールにてお願いします。⁠⁠⁠⁠⁠安心問答ー浄土真宗の信心について⁠⁠⁠⁠⁠[email protected](@anjinmondou)⁠⁠⁠https://x.com/anjinmondou⁠⁠⁠Peing(質問箱)⁠⁠⁠https://peing.net/ja/anjinmondou⁠⁠⁠

  10. 44

    #049「阿弥陀仏の本願を疑い無く聞けるようになる(聞く耳をいただく)と、往生一定だとハッキリして、今までの本願に対するモヤモヤも日本晴れのようにスッキリするのでしょうか?」

    今回は、第48回を聞かれた方からの質問メールについて話をしました。以下、質問です。--阿弥陀仏の本願に救われると、往生一定とハッキリする、と聞いたことがあるのですが、阿弥陀仏の本願を疑い無く聞けるようになる(聞く耳をいただく)と、往生一定だとハッキリして、今までの本願に対するモヤモヤも日本晴れのようにスッキリするのでしょうか?(このスッキリするの意味は、今まで本願を疑い無く聞けなくて、悶々としていた心が、本願を疑い無く聞けるようになったことにより、悶々やモヤモヤが無くなり、楽に本願を聞けるようになることを意味しています。)また、一度、本願を疑い無く聞ける耳をいただくと、いつどこでどんなときでも、極端な例を出せば、私が認知症などになっても、本願を疑い無く聞けるのでしょうか?さらに、浄土真宗の篤信者が、臨終に信心が崩れたみたいな話を聞いたことがあるのですが、自分の信心が、自力の信心ではなく、他力の信心であると確信するには、臨終まで信心の沙汰をして、本願を聞き続けていく必要があるのでしょうか?この辺りのお話しを、またネットラジオ版安心問答で、お時間がある時に、お話ししていただけると、ありがたいです。よろしくお願い致します。--○話の中で出したご文【28】 次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。(教行証文類・信文類・浄土真宗聖典註釈版P234)しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。(教行証文類・証文類・浄土真宗聖典註釈版P306)正念といふは、本弘誓願の信楽定まるをいふなり。この信心うるゆゑに、かならず無上涅槃にいたるなり。この信心を一心といふ、この一心を金剛心といふ、この金剛心を大菩提心といふなり。これすなはち他力のなかの他力なり。(御消息1・浄土真宗聖典註釈版P735)聞思して遅慮することなかれ(教行証文類・総序P131)(80)真宗念仏ききえつつ 一念無疑なるをこそ 希有最勝人とほめ 正念をうとはさだめたれ(高僧和讃・善導讃・浄土真宗聖典註釈版P592)質問・感想はブログ、メール、質問箱、メールにてお願いします。⁠⁠⁠⁠安心問答ー浄土真宗の信心について⁠⁠⁠⁠[email protected](@anjinmondou)⁠⁠⁠https://x.com/anjinmondou⁠⁠⁠Peing(質問箱)⁠⁠⁠https://peing.net/ja/anjinmondou⁠⁠⁠

  11. 43

    #048「自分自身で信疑決判できるのでしょうか?」(頂いた質問)

    今回は#047回を聞いた方からの質問メールについて話をしました。以下質問メールよりーー本願を信じるか・信じないか?本願を疑いなく聞いたか・聞いていないか?は私の選択や決断ではないですよね?阿弥陀仏の本願は、差別的な本願ではなく、万人が平等に救われる唯一の道であり、後生は自分ではどうしようもなく、後生は阿弥陀仏におまかせするしかないと思ってはいるのですが、どうも本願を疑いなく聞けていない自分もいるような気がします。「念仏称える者を極楽浄土に生まれさせて仏に成らせる」のが阿弥陀仏の本願であると聞いて、最近は何も引っかかりもないですし、疑いもないのですが、救われた自覚みたいのもないですし、とくに心境の変化とか、特別な体験とか、念仏がありがたいとか、本願がありがたいとか、そういう思いはあまり湧いてこないのですが、自分自身で信疑決判はできるものなのでしょうか?これについて、またネットラジオ版安心問答でお話しをしていただけないでしょうか?—話の中ででて来たご文○一念多念文意「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(浄土真宗聖典註釈版P678)○教行信証化身土巻如来の誓願、疑蓋雑はることなきがゆゑに信とのたまへるなり。(P393)質問・感想はブログ、メール、質問箱、メールにてお願いします。⁠⁠⁠安心問答ー浄土真宗の信心について⁠⁠⁠[email protected](@anjinmondou)⁠⁠⁠https://x.com/anjinmondou⁠⁠⁠Peing(質問箱)⁠⁠⁠https://peing.net/ja/anjinmondou⁠⁠⁠

  12. 42

    #047「死後の行き先である、極楽浄土のことも何も分からず、仏に成るとは、どういうことかも分からず、親さまと呼ばれる阿弥陀さまのことも分からずに、「ただ本願を信じ念仏を申さば仏に成る」ということだけなのでしょうか?」(頂いた質問)

    今回は#046を聞かれた方からの質問について話をしました。以下質問ーーー因果の道理や六道輪廻は、仏教全般に言える教えで、これは阿弥陀仏の本願の内容とは、直接的には関係がないから、本願疑惑心ではなく、疑煩悩であるということが分かりました。また、阿弥陀仏の存在や極楽浄土の存在については、そもそも、阿弥陀仏は、無上仏であり、色も形もない、真如(法性)そのものであり、信心獲得したからといって、凡夫に阿弥陀仏のことが分かるということはないと知らされました。極楽浄土についても同じで、実際に信心獲得しても、極楽浄土が目に見えるようになるわけではなく、また確認のしようがないので、これもまた凡夫には極楽浄土の世界は分からないと知らされました。しかし、そうすると、凡夫である私たちは、仏教で教えられている因果の道理や、六道輪廻のこと、また阿弥陀仏の存在や極楽浄土の世界のことなど、何も分からないまま、死後(後生)は、阿弥陀仏の極楽浄土に生まれ、仏に成るのでしょうか?死後の行き先である、極楽浄土のことも何も分からず、仏に成るとは、どういうことかも分からず、親さまと呼ばれる阿弥陀さまのことも分からずに、「ただ本願を信じ念仏を申さば仏に成る」ということだけなのでしょうか?獲信者と未信者の違いは、本願を疑いなく聞けているか?聞けていないか?の違いだけで、その他は何も変わらないのでしょうか?また、ネットラジオ版安心問答で、お話しをしていただけると、ありがたいです。ーーー○話の中で出てくるご文○唯信鈔文意【4】大涅槃と申すにその名無量なり、くはしく申すにあたはず、おろおろその名をあらはすべし。(浄土真宗聖典註釈版P709)<前後>「極楽無為涅槃界」といふは、「極楽」と申すはかの安楽浄土なり、よろづのたのしみつねにして、くるしみまじはらざるなり。かのくにをば安養といへり、曇鸞和尚は、「ほめたてまつりて安養と申す」とこそのたまへり。また『論』(浄土論)には「蓮華蔵世界」ともいへり、「無為」ともいへり。「涅槃界」といふは無明のまどひをひるがへして、無上涅槃のさとりをひらくなり。「界」はさかひといふ、さとりをひらくさかひなり。大涅槃と申すにその名無量なり、くはしく申すにあたはず、おろおろその名をあらはすべし。「涅槃」をば滅度といふ、無為といふ、安楽といふ、常楽といふ、実相といふ、法身といふ、法性といふ、真如といふ、一如といふ、仏性といふ。仏性すなはち如来なり。(浄土真宗聖典註釈版P709)(略)阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧のかたちなりとしるべし。(浄土真宗聖典註釈版P710)○唯信鈔文意【3】ひとすぢに具縛の凡愚・屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。(浄土真宗聖典註釈版P707)質問・感想はブログ、メール、質問箱、メールにてお願いします。⁠⁠安心問答ー浄土真宗の信心について⁠⁠[email protected](@anjinmondou)⁠⁠⁠https://x.com/anjinmondou⁠⁠⁠Peing(質問箱)⁠⁠⁠https://peing.net/ja/anjinmondou⁠⁠⁠

  13. 41

    #046「信心獲得すると、同じ仏願の生起本末(阿弥陀仏の本願)を聞いても、おとぎ話や作り話ではなく、真実(事実)の話として、疑いなく聞けるようになるのでしょうか?」(頂いた質問)

    今回は#045からの質問です。ーーー45回目の質問された方からの追加の質問です。(略)そこで、この疑いは、本願疑惑心なのか?それとも、疑煩悩なのか?いくつか具体例を挙げてみたいのですが、親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願を疑い自らはからう心を、本願疑惑心と定義されているようですが、たとえば、因果の道理を信じられない心や、私が六道輪廻(流転輪廻)をしている存在であることが信じられないこと、阿弥陀仏の存在や極楽浄土の存在が信じられないことなどは、本願疑惑心になるのか?それとも、疑煩悩になるのか?知りたいです。未信の私にとっては、因果の道理や六道輪廻、阿弥陀仏の存在や極楽浄土の存在が、信じられません。また、仏願の生起本末(阿弥陀仏の本願)を聞いても、おとぎ話や作り話としか思えず、まるでファンタジーの世界の話を聞いているようです。仏願の生起本末(阿弥陀仏の本願)を何度聞いても、感想は同じです。リアル感が全くないです。これが、信心獲得すると、同じ仏願の生起本末(阿弥陀仏の本願)を聞いても、おとぎ話や作り話ではなく、真実(事実)の話として、疑いなく聞けるようになるのでしょうか?それとも、信心獲得しても、仏願の生起本末(阿弥陀仏の本願)は、おとぎ話や作り話、ファンタジーのような話のままなのでしょうか?その辺の話を、またネットラジオ版安心問答で話していただけると、ありがたいです。--○話の中で出てくるご文・自然法爾章無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときは、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめに弥陀仏とぞききならひて候ふ。弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。質問・感想はブログ、メール、質問箱、メールにてお願いします。⁠安心問答ー浄土真宗の信心について⁠[email protected](@anjinmondou)⁠⁠https://x.com/anjinmondou⁠⁠Peing(質問箱)⁠⁠https://peing.net/ja/anjinmondou⁠⁠

  14. 40

    #045「本願疑惑心と疑煩悩(煩悩としての疑い)の区別(分別)は、未信の者にも分かるのでしょうか?」(頂いた質問)

    前回の配信記事#044についてーー「本願を信じて、念仏していない」念仏は、念仏ではないと仰っていましたが、法然上人や親鸞聖人は、信前の者にも、念仏することを勧めてはいないのでしょうか?信前の者でも、お念仏を称えることは、尊いことではないのでしょうか?私は、私の心が、どんな状態(心境)であっても、お念仏を称えること自体が、尊いことだと思っていました。また、今回のお話しを聞いて、阿弥陀仏の本願を疑う心(本願疑惑心)があるかないかが、一番重要なんだと知らされました。そこで、この【本願疑惑心】について、詳しく知りたいのですが、本願疑惑心と疑煩悩(煩悩としての疑い)の区別(分別)は、未信の者にも分かるのでしょうか?もし、お聖教に、本願疑惑心と疑煩悩の違いが示されているお言葉があれば知りたいです。(頂いた質問)ーー○話の中で出で来るご文仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。(教行信証化身土文類・浄土真宗聖典註釈版P378)(60)不了仏智のしるしには 如来の諸智を疑惑して 罪福信じ善本を たのめば辺地にとまるなり」(正像末和讃・浄土真宗聖典註釈版P610)
浄土真宗辞典 疑惑 疑い惑うこと。親鸞は、阿弥陀仏の本願を疑い自らはからう心とする。(63)仏智疑惑のつみにより 懈慢辺地にとまるなり 疑惑のつみのふかきゆゑ 年歳劫数をふるととく(正像末和讃・浄土真宗聖典註釈版P611)質問・感想はブログ、メール、質問箱、メールにてお願いします。安心問答ー浄土真宗の信心について[email protected](@anjinmondou)⁠https://x.com/anjinmondou⁠Peing(質問箱)⁠https://peing.net/ja/anjinmondou⁠

  15. 39

    #044「念仏する者を必ず助ける(念仏の回数や時節は関係ない)という本願であれば、念仏している私は必ず救われると安心してよいのでしょうか?」(頂いた質問)

    #044今回は、前回43回目の質問をされた方から、前回を聞いた上での質問を頂きました。以下質問ーー話の中で出てくるご文①「乃至十念」と申すは、如来のちかひの名号をとなへんことをすすめたまふに、遍数の定まりなきほどをあらはし、時節を定めざることを衆生にしらせんとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそへて誓ひたまへるなり。(尊号真像銘文・浄土真宗聖典註釈版P643)⇒阿弥陀さまは、第18願文に、「乃至十念」と、称名念仏を勧めておられますが、念仏する者を必ず助ける(念仏の回数や時節は関係ない)という本願であれば、念仏している私は必ず救われると安心してよいのでしょうか?信心と念仏の関係が、今ひとつ理解(整理)できていないので、お聖教を根拠に、信心と念仏の関係を教えていただけると、ありがたいです。②しかればたれだれも、煩悩のうすくこきおもかへりみず、罪障のかろきおもきおもさたせず、ただくちにて南無阿弥陀仏ととなえば、こえにつきて決定往生のおもひをなすべし、決定心をすなわち深心となづく。その信心を具しぬれば、決定して往生する也。 (西方指南鈔・大胡太郎実秀に与ふる書・浄土真宗聖典全書3-P997)⇒「ただくちにて南無阿弥陀仏ととなえば、こえにつきて決定往生のおもひをなすべし」という法然上人のお言葉ですが、これは、私が称名念仏することによって、信心決定するという意味合いでしょうか?私の口から出る称名念仏(南無阿弥陀仏)を、私の耳で聞いて(南無阿弥陀仏と聞いて)、お念仏一つで(南無阿弥陀仏一つで)、浄土往生(念仏往生)できると確信(安心)できたのが、他力信心なのでしょうか?こちらも、称名念仏と信心(真実信心・他力信心)の関係性についての疑問になりますので、①と②を合わせて、また、ネットラジオ版安心問答で、お話しを聞きたいです。ーー今回話の中で出てきたご文信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。(親鸞聖人御消息7・浄土真宗聖典註釈版P749)---質問・感想はブログ、メール、質問箱、メールにてお願いします。安心問答ー浄土真宗の信心について(https://anjinmondou.hatenablog.jp)[email protected](@anjinmondou)https://x.com/anjinmondouPeing(質問箱)https://peing.net/ja/anjinmondou

  16. 38

    #043「本当に阿弥陀さまは、私に向かって『ただ今おまえを助ける』と仰せになっているのでしょうか?」(頂いた質問)

    #43質問:(ブログやネットラジオ版の中で)繰り返し何度も、阿弥陀さまの仰せは、「只今おまえを助ける 」とお話しをされていますが、本当に阿弥陀さまは、私に向かって「只今おまえを助ける」と仰せになっているのでしょうか?また、南無阿弥陀仏の言葉の意味が、「只今おまえを助ける」という、阿弥陀さまからの呼び声なのでしょうか?阿弥陀さまの仰せが、また、南無阿弥陀仏が、「只今おまえを助ける」という、阿弥陀さまからの呼び声(仰せ)であるという根拠が、お聖教のどこに書かれているのか?知りたいです。可能であれば、本願寺出版社の浄土真宗注釈版聖典(第ニ版)の何ページに、阿弥陀さまの仰せが「只今おまえを助ける」意味だと分かる具体的な根拠として書かれているのか?をお示しいただけると、大変有り難いです。いつも、「只今助ける仰せを、只今聞いて、只今救われてください」の言葉を聞いて、阿弥陀さまは、本願文(第18願文や第18願成就文)のどこに、そんなことが書いてあるのか?疑問や不審に思っていました。の質問・感想はブログ、メール、質問箱、メールにてお願いします。安心問答ー浄土真宗の信心について(https://anjinmondou.hatenablog.jp)[email protected](@anjinmondou)https://x.com/anjinmondouhttps://peing.net/ja/anjinmondou

  17. 37

    #42「念珠を持った方が良い(略)等のお勧めが気になりビクビクします。信心がわからないからか具体的な行動にすがり、特に禁止的な勧めに過敏反応し、苦しくなってしまいます。(Peing-質問箱-より)

    Peing-質問箱-に頂いた質問について話をしました。ーー質問「念珠を持った方が良い、西に足を向けるようなのは極楽を思えば控えた方が良い等のお勧めが気になりビクビクします。信心がわからないからか具体的な行動にすがり、特に禁止的な勧めに過敏反応し、苦しくなってしまいます。どうすればというのはおかしいはずなのですが、どうすればと聞きたくなってしまいます。」(Peing-質問箱-より)https://peing.net/ja/q/684fa5ed-5d38-4f4d-bc4b-4f06efa62ff3---話の中で出てきた根拠○御文章一帖目三通(三)  まづ当流の安心のおもむきは、あながちにわがこころのわろきをも、また妄念妄執のこころのおこるをも、とどめよといふにもあらず。ただあきなひをもし、奉公をもせよ、猟・すなどりをもせよ、かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどひぬるわれらごときのいたづらものを、たすけんと誓ひまします弥陀如来の本願にてましますぞとふかく信じて、一心にふたごころなく、弥陀一仏の悲願にすがりて、たすけましませとおもふこころの一念の信まことなれば、かならず如来の御たすけにあづかるものなり。○法然聖人のお言葉法然上人云く。稱名念佛は。樣なきを樣とす。身の振舞。心の善惡をも沙汰せず。念比に申せば往生する也。ーー質問・感想はブログ、メール、質問箱、メールにてお願いします。安心問答ー浄土真宗の信心について(https://anjinmondou.hatenablog.jp)[email protected](@anjinmondou)https://x.com/anjinmondouhttps://peing.net/ja/anjinmondou

  18. 36

    #41「十劫安心は間違っていないように思うのですが、どこがよくない考えなのでしょうか?」

    質問箱より「御文章の「此方十劫邪義章」における十劫安心への批判がよくわかりません。」という質問について答えました。

  19. 35

    #040「聞即信」とは、聞いているままが信心であって、聞いたら信心をいただけるということではないのでしょうか?(Peing-質問箱-より)

    質問: 「聞即信」とは、聞いているままが信心であって、聞いたら信心をいただけるということではないのでしょうか? https://peing.net/ja/q/98bb7cad-284d-424b-b2bc-1fc22b856e9c 質問箱には以下のように回答しています。 ーー はい。聞いたら→信心を頂けるということではありません。 信心とは、本願名号を現在聞いている状態をいいます。聞いたら信心を頂けるとすると、「聞いた」ことがあってもそれは時間が経つほど「過去」のことになってしまいます。現在「聞いている」ということにはなりません。 ーー これに加えて話をしています。 話の中に出てくる根拠 「聞其名号といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを聞といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。信心歓喜乃至一念といふは、信心は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり」(一念多念文意 浄土真宗聖典註釈版P.678) ブログ 安心問答-浄土真宗の信心について- メール [email protected] X @anjinmondou

  20. 34

    #039「弥陀をたのむ」とは、観念的・抽象的な阿弥陀仏をたのみにすることではなく、具体的に、今、口から出ている南無阿弥陀仏をたのむということでしょうか?

    #039回は、質問箱の以下の質問について話をしました。 質問: 「弥陀をたのむ」とは、観念的・抽象的な阿弥陀仏をたのみにすることではなく、具体的に、今、口から出ている南無阿弥陀仏をたのむということでしょうか? 質問箱には以下のように回答しています。 はい。口から称名となって称えられている南無阿弥陀仏以外に、何か「概念としての」南無阿弥陀仏を想定しても、それは自分の想像したものです。 「弥陀をたのむ」の弥陀とは、南無阿弥陀仏と称えられているこの南無阿弥陀仏です。  これに加えて話をしています。 話の中に出てくる根拠 わが弥陀は名をもって物を接したもう。ここをもって、耳に聞き、口に誦するに、无辺の聖徳、識心に攬入す。(教行信証行巻) 「帰命」ともうすは、如来の勅命にしたがいたてまつるなり。(尊号真像銘文) 質問や感想は以下によろしくお願いします。 ブログ安心問答ー浄土真宗の信心について x:@anjinmondou

  21. 33

    #038「念仏は、やっぱり真面目に真剣に称えないとダメだ」と思ってしまうのも、結局本願を疑っていることになるのでしょうか?

    質問箱に頂いた質問について話しました。 Q「念仏は、やっぱり真面目に真剣に称えないとダメだ」と思ってしまうのも、結局本願を疑っていることになるのでしょうか? A「どう称えたか」によって、念仏それ自体が何か変わると思うのは疑っていることになります。それは、念仏を冷凍食品のように「レンジで解凍・あたため」をしないと食べられないもののように考えるからです。 質問箱の回答に加えて話をしました。 あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。(行文類・P186) 番組の感想、質問は ブログ安心問答 https://anjinmondou.hatenablog.jp/ 質問箱 https://peing.net/ mail:[email protected] twitter:@anjinmondou

  22. 32

    #037「阿弥陀様をたのむものを必ず助けるということですが、阿弥陀様に助けてくださいとお願いするのではなく、仰せをそのまま承るとはどのようなことなのでしょうか?」(頂いた質問)

    第36回目を聞かれての質問について話をしました。 質問「阿弥陀様をたのむものを必ず助けるということですが、阿弥陀様に助けてくださいとお願いするのではなく、仰せをそのまま承るとはどのようなことなのでしょうか?我にまかせよ、必ず助けるという仰せについて疑いのない状態、御本願をそのまま受け入れている状態を言うのでしょうか?」 話の中で出てきた御文 「「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念証文 浄土真宗聖典註釈版P678)」 番組を聞いての質問は ブログ安心問答のコメント欄 https://anjinmondou.hatenablog.jp 質問箱 https://peing.net/ja/anjinmondou メール [email protected] twitter  @anjinmondou までお願いします。

  23. 31

    #036「蓮如様は、口に念仏申しただけでは助からぬと仰っていると思います。(略)今のままでは助からないのでしょうか?」(Peing-質問箱-に頂いた質問)

    今回は、質問箱に頂いた内容について話をしました。 質問 「蓮如様は、口に念仏申しただけでは足すからぬと仰っていると思います。 一方で、阿弥陀様の御本願には、お念仏をとなえる衆生を必ず助けるとお誓いになられています。 蓮如様のお言葉をどう解釈したらよろしいでしょうか? 今私は助かりたい一心で、御本願を信じてお念仏をあげています。 今のままでは助からないのでしょうか?」 今回紹介した御文章。 答へていはく、まづ世間にいま流布してむねとすすむるところの念仏と申すは、ただなにの分別もなく南無阿弥陀仏とばかりとなふれば、みなたすかるべきやうにおもへり。それはおほきにおぼつかなきことなり。(略) 他力の信心といふことを一つこころうべし。さて他力の信心といふ体はいかなるこころぞといふに、この南無阿弥陀仏の六字の名号の体は、阿弥陀仏のわれらをたすけたまへるいはれを、この南無阿弥陀仏の名号にあらはしましましたる御すがたぞとくはしくこころえわけたるをもつて、他力の信心をえたる人とはいふなり。この「南無」といふ二字は、衆生の阿弥陀仏を一心一向にたのみたてまつりて、たすけたまへとおもひて、余念なきこころを帰命とはいふなり。 つぎに「阿弥陀仏」といふ四つの字は、南無とたのむ衆生を、阿弥陀仏のもらさずすくひたまふこころなり。このこころをすなはち摂取不捨とは申すなり(御文章3帖目5通) 番組を聞いての質問・感想は以下へよろしくお願い致します。 番組URL:https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2022/05/12/040544 質問箱 https://peing.net/ja/anjinmondou メール [email protected] twitter:@anjinmondou

  24. 30

    #035「阿弥陀様が、南無阿弥陀仏という名前になって私を救ってくださる。という理解でよろしいでしょうか?」(頂いた質問)

    ブログ記事はこちら 安心問答ー浄土真宗の信心について- 話の中に出てくる御文 いかにいはんや十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまはず。ゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつると。(顕浄土真実行文類 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P187) (82) 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる(浄土和讃 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P571) 質問箱はこちら

  25. 29

    #034「南無阿弥陀仏を称える衆生を必ず助けるという御本願をそのままきくことができません。どうしたらよいでしょうか?」(頂いた質問)

    ブログ安心問答ー浄土真宗の信心についての音声版として配信をしています。 今日の質問は質問箱のこちらからです。 話のなかで出てきた尊号真像銘文。 「「乃至十念」と申すは、如来のちかひの名号をとなへんことをすすめたまふに、遍数の定まりなきほどをあらはし、時節を定めざることを衆生にしらせんとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそへて誓ひたまへるなり。」

  26. 28

    #033「この問題は阿弥陀様が勝手に解決してくれるまで待つしかないのでしょうか?」(頂いた質問)

    質問の全文は、ブログ安心問答浄土真宗の信心についてをご覧ください。

  27. 27

    #032「心が南無阿弥陀仏になるというのはどういう意味なのでしょうか?」(頂いた質問)

    #032「心が南無阿弥陀仏になるというのはどういう意味なのでしょうか?」(頂いた質問) Peing-質問箱-に頂いた質問について話をしました。 話の中に出てきたご文 (安心決定鈔より) 【6】 念仏三昧において信心決定せんひとは、身も南無阿弥陀仏、こころも南無阿弥陀仏なりとおもふべきなり。ひとの身をば地水火風の四大よりあひて成ず、小乗には極微の所成といへり。身を極微にくだきてみるとも報仏の功徳の染まぬところはあるべからず。されば機法一体の身も南無阿弥陀仏なり。こころは煩悩・随煩悩等具足せり、刹那刹那に生滅す。こころを刹那にちわりてみるとも、弥陀の願行の遍ぜぬところなければ、機法一体にしてこころも南無阿弥陀仏なり。弥陀大悲のむねのうちに、かの常没の衆生みちみちたるゆゑに、機法一体にして南無阿弥陀仏なり。 われらが迷倒のこころのそこには法界身の仏の功徳みちみちたまへるゆゑに、また機法一体にして南無阿弥陀仏なり。浄土の依正二報もしかなり。依報は宝樹の葉ひとつも極悪のわれらがためならぬことなければ、機法一体にして南無阿弥陀仏なり。正報は眉間の白毫相より千輻輪のあなうらにいたるまで、常没の衆生の願行円満せる御かたちなるゆゑに、また機法一体にして南無阿弥陀仏なり。われらが道心二法・三業・四威儀、すべて報仏の功徳のいたらぬところなければ、南無の機と阿弥陀仏の片時もはなるることなければ、念々みな南無阿弥陀仏なり。されば出づる息入る息も、仏の功徳をはなるる時分なければ、みな南無阿弥陀仏の体なり。縛曰羅冒地といひしひとは、常水観をなししかば、こころにひかれて身もひとつの池となりき。その法に染みぬれば、色心正法それになりかへることなり。 (尊号真像銘文より) 「帰命尽十方無碍光如来」と申すは、「帰命」は南無なり、また帰命と申すは如来の勅命にしたがふこころなり。「尽十方無碍光如来」と申すはすなはち阿弥陀如来なり、この如来は光明なり。「尽十方」といふは、「尽」はつくすといふ、ことごとくといふ、十方世界を尽してことごとくみちたまへるなり。「無碍」といふはさはることなしとなり、さはることなしと申すは、衆生の煩悩悪業にさへられざるなり。 「光如来」と申すは阿弥陀仏なり、この如来はすなはち不可思議光仏と申す。 この如来は智慧のかたちなり、十方微塵刹土にみちたまへるなりとしるべしとなり。 (御一代聞書より) (237) 一 弥陀をたのめば南無阿弥陀仏の主に成るなり。南無阿弥陀仏の主に成るといふは、信心をうることなりと[云々]。また、当流の真実の宝といふは南無阿弥陀仏、これ一念の信心なりと[云々]。 ブログ 安心問答 twitter @anjinmondou メール [email protected]

  28. 26

    #031「念仏しようとしたり、聴聞しようとする殊勝な心を私達は元来、持っていないという内容はお経の中にありますでしょうか?」(頂いた質問)

    「真宗において 称える心、聴聞しようとする心、 それらをもともと持たない私たちが、 阿弥陀仏のお働き、お育てにより念仏を称えるという 内容を見聞きすることがありますが、 念仏しようとしたり、聴聞しようとする殊勝な心を 私達は元来、持っていないという内容はお経の中にありますでしょうか? いまいちお経のどこから出てきた内容なのかがわかりません。 教えていただければ幸いです。」 について話をしました。 安心問答 浄土真宗の信心について

  29. 25

    #030「ただ今助けるという阿弥陀仏の本願を『許諾する』『受け入れる』『聞き受ける』等のニュアンスが分かりません」(頂いた質問)

    #030 今回は質問箱に頂いた質問 「ただ今助けるという阿弥陀仏の本願を『許諾する』『受け入れる』『聞き受ける』等という表現がされますが、そのニュアンスがよくわかりません。 自分の心でただ単に『許諾した』と思い込むことでもないですよね?」 について話をしました。 質問箱はこちら 関連したブログ記事  「『南無阿弥陀仏を南無阿弥陀仏と聞く』というのは、南無阿弥陀仏の謂れ(善導大師・親鸞聖人・蓮如上人等の六字釈等)を思い出しながら、念仏を称え、それを聞くことでしょうか?」(Peingで頂いた質問)

  30. 24

    #029「自力を捨てるとは、自力が問題にならなくなることですか?それとも自力が意識から消えるのでしょうか?」(頂いた質問)

    質問箱に頂いた質問 「自力を捨てるとは、自力が問題にならなくなることですか?それとも自力が意識から消えるのでしょうか?」 について話をしました。 話の中で出てきたご文 自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず、ひとすぢに具縛の凡愚・屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。(唯信鈔文意 註釈版浄土真宗聖典P707) http://ur2.link/RYIS ブログ安心問答−浄土真宗の信心について− https://anjinmondou.hatenablog.jp/

  31. 23

    #028 信後には安心がありますか?(頂いた質問)

    質問箱に頂いた質問について話をしました。 「信後には安心がありますか?」 話の中で出てきたご文 弥陀の名号称えつつ 信心まことにうるひとは 憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり(浄土和讃) http://ur0.work/znv3 ブログ 安心問答−浄土真宗の信心について

  32. 22

    #027 逆謗の死骸である機を見つめよとか、機はほっといて法の尊さに目をつけよとか言いますが、どららが正しいのでしょうか?

    質問「逆謗の死骸である機を見つめよとか、機はほっといて法の尊さに目をつけよとか言いますが、どららが正しいのでしょうか?どちらもそんなに気にせずに聴聞すればいいのでしょうか?」 についての話をしました。 話の中に出てくる親鸞聖人の御言葉 摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。(教行信証 総序) http://urx.space/Ue4Z 浄土真宗聖典註釈版P132 https://anjinmondou.hatenablog.jp/

  33. 21

    #026 お寺に行って聴聞すること、ネットでの法話を聴聞すること、本を読むことの違いについて

    パロディ (id:parotan) 2019-08-20 交通の便が悪い田舎に住んでいることや、自分の体調のこともあり、なかなかお寺へ参ることができません そのため本を読んだりネットで法話の動画を見て浄土真宗の勉強をしているのですが、聴聞をしないものは救われないのでしょうか。について、思ったことをラジオ版で話してみました。

  34. 20

    #025「阿弥陀仏の本願に対する疑いがどうしても晴れません。悩んでいます。救うと誓われているのになぜ獲信者が少ないのでしょうか 」について

    今回は、頂いた質問 「阿弥陀仏の本願に対する疑いがどうしても晴れません。悩んでいます。救うと誓われているのになぜ獲信者が少ないのでしょうか」 について話をしました。 −−− 今回出てきた和讃は、以下 正像末和讃 (67) 自力諸善のひとはみな 仏智の不思議をうたがへば 自業自得の道理にて 七宝の獄にぞいりにける (68) 仏智不思議をうたがひて 善本・徳本たのむひと 辺地懈慢にうまるれば 大慈大悲はえざりけり https://bit.ly/2JFKyWN −−− 番組に対する感想・質問があれば、ブログ安心問答コメント欄または、[email protected]までお願いします。                           

  35. 19

    #024「阿弥陀仏という余りにも抽象的な概念をそもそも信じるとか信じないとかどういうことだろう?」 「阿弥陀仏に救われるとはどういうことなのだろう?その概念自体が理解できない?」

    https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2019/03/21/055958 に関連した内容をラジオ版で収録しました。 ・一 あさの御つとめに、「いつつの不思議をとくなかに」(高僧和讃・三三)より「尽十方の無礙光は 無明のやみをてらしつつ 一念歓喜するひとを かな らず滅度にいたらしむ」(高僧和讃・三八)と候ふ段のこころを御法談のとき、「光明遍照十方世界」(観経)の文のこころと、また「月かげのいたらぬさとはなけれども ながむるひとのこころにぞすむ」とある歌をひきよせ御法談候ふ。なかなかありがたさ申すばかりなく候ふ。上様(蓮如)御立ちの御あとにて、北殿様(実如)の仰せに、夜前の御法談、今夜の御法談とをひきあはせて仰せ候ふ、ありがたさありがたさ是非におよばずと御掟候ひて、御落涙の御こと、かぎりなき御ことに候ふ。(御一代記聞書2) ・スイカ泥棒の話

  36. 18

    #023「してはならないことを一つ一つ潰していけば最終的に「おまかせする」ことになるのかなあとも愚考します」(猿松さんのコメント)

    猿松 2019-02-28 12:03:25 (略) あれから「おまかせする」ということについて考えておりました。 「弥陀の本願信ずべし」とは「弥陀をたのめ」ということであり「阿弥陀仏におまかせする」ということである。これを詳しく言うと「阿弥陀仏に自分の後生をおまかせする」ということなると思います。 しかし自分の心底を見てみると、本当に阿弥陀仏の存在も自分の後生の存在も信じているのか、かなり怪しいところです。 では、なぜ浄土真宗を求めているのかといえば、「このままではロクなことにならない」という漠然とした将来の不安と「この教えには何かある」という漠然とした希望でしかありません。 こんな私が「阿弥陀仏に自分の後生をおまかせする」には具体的に何をすればよいのか、お念仏すればよいのか、聴聞に行けばよいのか…しかしこういう思考で念仏したり聴聞したりすること自体ダメだというのはわかります。 つまりしてはならないことはわかるが、してよいことがわからない(してよいことを考えること自体ダメですが…)だからしてはならないことを、ついついしてしまうといった感じで、行き詰まっております。 してはならないことを一つ一つ潰していけば最終的に「おまかせする」ことになるのかなあとも愚考します。 とりとめのない質問となりましたが、先生のご指導をいただければと思います。 頂いた猿松さんのコメントについて話をしました。

  37. 17

    #022「罪障功徳の体となる」のご和讃の「罪障と功徳が等価にならない」について

    ブログ記事 https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2019/02/02/203016 に関連して、 罪障功徳の体となる 氷と水のごとくにて 氷多きに水多し 障り多きに徳多し  (高僧和讃) のご和讃について話をしました。 過去の理解と今の理解の違い「罪障と功徳が等価にならない」について話をしました。

  38. 16
  39. 15

    #020「金剛心になると聞いたことがあります。なにが金剛なるのでしょうか?」(頂いた質問)

    #020「金剛心になると聞いたことがあります。なにが金剛なるのでしょうか?」(頂いた質問)

  40. 14

    #019「命がけで聞かないと救われないのでしょうか?」について

    頂いた質問 「命がけで聞かないと救われないのでしょうか?」について話をしました。 (63) 一 仏法者申され候ふ。わかきとき仏法はたしなめと候ふ。としよれば行歩もかなはず、ねぶたくもあるなり。ただわかきときたしなめと候ふ。(御一代記聞書)

  41. 13

    #018 「私はなぜ助からないのでしょうか?」

    今回は頂いた質問 「私はなぜ助からないのでしょうか」について話をしました。

  42. 12

    #017 ありがたそうな人の念仏と私の念仏は違うような気がします(いただいた質問)

    #017 今回は南無阿弥陀仏と念仏していてもいかにもありがたそうに称えられる人の念仏と比べると、私が称える南無阿弥陀仏と違うのではないかと思ってしまいます。という方からの質問について話をしました。

  43. 11

    #016「たすけたまへと弥陀をたのめ」について

    御文章、領解文に書かれている「たすけたまへ」「弥陀をたのむ」について話をしました。

  44. 10

    #015「易往而無人」について

    園児さんのコメントより 「易往而無人」について話をしました。 −−−− 律宗の用欽のいはく、「法の難を説くなかに、まことにこの法をもつて凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆゑに、おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん。すなはち『大本』(大経・下)に〈易往而無人〉といへり。ゆゑに知んぬ、難信なり」と。 (教行信証信巻 註釈版聖典248頁) この一念の安心一つにて浄土に往生することの、あら、やうもいらぬとりやすの安心や。されば安心といふ二字をば、「やすきこころ」とよめるはこのこころなり。さらになにの造作もなく一心一向に如来をたのみまゐらする信心ひとつにて、極楽に往生すべし。あら、こころえやすの安心や。また、あら、往きやすの浄土や。これによりて『大経』(下)には「易往而無人」とこれを説かれたり。この文のこころは、「安心をとりて弥陀を一向にたのめば、浄土へはまゐりやすけれども、信心をとるひとまれなれば、浄土へは往きやすくして人なし」といへるはこの経文のこころなり。 (御文章2帖目第7通 註釈版聖典1119頁) −−−−−−−−−−−

  45. 9

    ♯014 「愚者になりて往生す」について

    今回は園児さんのコメントから 「愚者になりて往生す」(末灯鈔)について話をしました。

  46. 8

    #013 心得たと思ふは心得ぬなり。心得ぬと思ふは心得たるなり。(御一代記聞書232)について

    今回は 「心得たと思ふは心得ぬなり。心得ぬと思ふは心得たるなり。」(御一代記聞書232)の意味について質問を頂いたので話をしました。 ------- 一 おなじく仰せにいはく、心得たと思ふは心得ぬなり。心得ぬと思ふは心得たるなり。弥陀の御たすけあるべきことのたふとさよと思ふが、心得たるなり。少しも心得たると思ふことはあるまじきことなりと仰せられ候ふ。されば『口伝鈔』(四)にいはく、「さればこの機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのらんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや」といへり。 (御一代記聞書232 https://bit.ly/2Qg0iSn) ---------

  47. 7

    #012 阿弥陀仏に早く救われる人と時間がかかる人と何が違うのですか?

    今回は、「阿弥陀仏に救われるのに、信心決定するのに、早い人と遅い人がなぜいるのでしょうか?」という質問について、話をしました。

  48. 6

    #011 親鸞聖人は、歎異抄一章に「摂取不捨の利益」と仰っておられるとお聞きしますが、その世界は、どういう世界でしょうか。

    メールで頂いた質問 歎異抄一章に「摂取不捨の利益」と仰っておられるとお聞きしますが、その世界は、どういう世界でしょうか。 について話をしました。 今回収録に出てきた御文 弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなり と信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。(歎異抄) http://labo.wikidharma.org/index.php/歎異抄#.E7.AC.AC1.E6.9D.A1 (114) 超日月光この身には  念仏三昧をしへしむ  十方の如来は衆生を  一子のごとく憐念す(浄土和讃) http://labo.wikidharma.org/index.php/浄土和讃#P--577 真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。(御消息) http://labo.wikidharma.org/index.php/親鸞聖人御消息#.E6.9C.AB.E7.81.AF.E9.88.94.281.29

  49. 5

    #010 「聞思して遅慮することなかれ」 これは、海のマグロに泳ぐのをやめろ!という ようなものではないかと思うのです。(タロウさんのコメントより)

    タロウさんのコメントについて話をしました。 以下、ブログのコメントより −−−−−−−−− タロウ 2018/10/06 22:38 山も山さんこんにちは。 わざわざ記事にしてくださりありがとうございます。 >それは、なんとかなろうと聞いているときも同じです わからないのがここです。 これだと、 「なんともなろうとは思ってない聞き方」があると解釈 できてしまします。 ネットラジオNo4で山も山さんがお話になった、 「聞思して遅慮することなかれ。」っという ことなのだと思うのですが、心の性質上そんなこと が可能とは思えないのです。耳で聞いた情報は、耳に入ってき た瞬間に思いが(計らい事が)働き、自分勝手に解釈 してしまうようにでけていると思うのですよ。。 「聞思して遅慮することなかれ」 これは、海のマグロに泳ぐのをやめろ!という ようなものではないかと思うのです。 つまり、できっこないことをヤレ!と言われている 気分なのですよ。 気にする、注意する、思う・・っといったことは、 わりかしできますが、 ・思うな ・気にするな ・計らうな これは無理っぽいです。 ・思う必要がない ・気にする必要がない ・計らう必要は無い これが腑に落ちる縁に出会った時に初めて可能 になるのだろうとは思います。 聴聞というのは禅の公案みたいな ものなのかな?とは勝手に思っています。 聞いたまんまが信心です・・の、聞即信。 聞いたまんま、そうですね・・っと、 ならないのが煩悩の仕業であるとは 思ってます。 「必ず救う、我に任せよ」・・ これが、たとえおとぎ話であろうがなんだろうが、 本心から、 「ホントにそうなんだぁ!、なんてこったいウヒョー!!」 っと思い喜べたら、それは間違いなく素晴らしいことです。 頭がイカれた奴と思われても私は一向に構いません。 −−−−−−−−−

  50. 4

    #009 今日こそは本願を聞いて救われるつもりで法座に足を運びますが、今日も駄目だったかと帰っている日が続いてます。

    今回の頂いた質問 「法座に足を運ぶ時、今日こそは聞いて疑いない身になろうと思っています。しかし、法座が終わると今日も駄目だったかと肩を落として帰っています。こう言う状態がずっと続いていますが、どう聞いたらいいでしょうか」 不断光ということから話をしました。

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