ひとりひとりの人生・オンリーワン

PODCAST · education

ひとりひとりの人生・オンリーワン

特別な人でなくても、一人ひとりに価値① 1人1人素敵なものを持ち、1人1人違う人生を歩んでいる。でも、みんな気付いていない、、だから、あなたのオンリーワン(失敗、成功、キャリア、価値観など)を発信します。世の中には色々な人、考え方、価値観を知ることができます。「自分は狭い世界で生きていたな~。こんな人生もあるんだ」と自分を変えるキッカケ、感動、刺激、楽しい人生になると最高です。② この番組は、有名人ではなくとも、身の回りの方々の物語を紡ぎ出す特別な番組です。私たちの周りには、スポットライトを浴びることのない素晴らしい人生が無数に存在しています。「オンリーワン」は、そんな"普通の英雄たち"の物語を、深い対話を通じて紡ぎ出していきます。ここでは、テレビでは決して語られることのない、人生の真実の物語が展開されます。③ 番組の特徴的なのは、単なるインタビューではなく、国際コーチICF資格を持ったプロのコーチとの深い対話を通じて、ゲスト自身も気づいていなかった自分の価値や人生の意味を掘り起こしていくところ。④ さらに、この番組はゲストの方の「人生の名刺」としても活用できます。自分の価値観や生き方を、音声という温かみのある形で残すことができるのです。⑤ テレビや雑誌では決して語られることのない、しかし確かにそこにある輝かしい人生の物語。それがオンリーワンです。

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    #113 あなたの隣のすごい人生。「やるか、やらないか」の寺村さんの人生物語②

    あなたの周りにいる「キラキラした人」にも、こんな夜があった。誰かの成功だけを見て、「自分には無理だ」と思ったことはないだろうか?寺村さんのような人がいる。ダメな自分を認めながら、それでも「やる」を選び続けた人が、、、彼女の答えは、拍子抜けするほどシンプルだった。「やるか、やらないか。それだけなんですよ」人生の選択肢は、結局この二択しかない。「やる」と決めたなら、どうやるかを考える。ただ、それだけだと——700万円を失い、それでも笑い続けた夜を越えてきた彼女は、静かに言い切る。今回のエピソードは、そんな一人の女性の正直な話だ。

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    #112_700万円がゼロになっても前を向き続けた寺村さんの人生物語①

    不動産営業12年、貯金700万円を使い果たした先に、寺村さんが掴んだ「本物の稼ぎ方」とは?あなたは「稼げない」と悩んだことがありますか?売上が出ない、成果が出ない、このままでいいのか——そんな重たい問いを胸に抱えたまま、毎日を過ごしていませんか。今回のゲスト、寺村さんも、かつて同じ闇の中にいた一人でした。しかし彼女が若い頃に出会った「ある言葉」が、彼女の人生を根底から変えることになります。「お金っていうのは、感謝の大きさだ。お客様からの"ありがとう"が大きければ大きいほど、大きな対価を得られるようになるんだよ。」これは彼女が若い頃、ある人物から受けた言葉です。飾り気がなく、当たり前のように聞こえるかもしれない。でも、 この言葉を「本当に信じて行動できる人」が、一体どれほどいるでしょうか。

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    #111 何度も転びながら、それでも前に進み続ける小西さんの人生物語②

    「こんなに頑張ってるのに、なんで報われへんのや…」もしあなたが、そう思ったことがあるなら――この物語は、あなたのためのものです。

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    #110 全力投球したラグビーで最後までスタメンに立てなかった努力が未来を変えた―小西さんの人生物語①

    中学から大学までラグビーに全力投球するも、最後までスタメンに立てなかった男。✔ 努力が報われない経験✔ 大事な場面で結果を出せなかった悔しさ✔将来、 日本代表キャプテンになるような後輩にポジションを奪われる経験これらすべてが、彼の人生を“唯一無二”に変えていきます。なぜ、小西さんの人生はここから大きく変わっていったのか?なぜ、挫折の連続だった彼がその後の人生で結果を出せるようになったのか?“報われなかった努力”が、どう未来に繋がるのか?リアルすぎる人生の裏側が語られています。その男の名前は小西 宏明さん。Co-Creation Laboratory株式会社 代表取締役。ICF(国際コーチング連盟)認定プロコーチとして、ビジネスコーチング・講師・コンサルティングを行う。その穏やかな雰囲気と豊かな発想で、多くのビジネスパーソンの可能性を引き出し続けている。「コーチ・講師・小西」という、「こ」から始まる三拍子そろった韻を踏む名前が愛されキャラでもある。人生は、偶然の積み重ねでできている。でも——聴けば、必然に見えてくる。保育園の運動会では、いつもビリだった少年が、どうして人の可能性を引き出すプロコーチになったのか?楕円のボールに出会った日から、何かが変わり始めた。その「何か」の正体を、あなた自身の耳で確かめてほしい。

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    #109 生きる屍から、人間に戻った依田さんの7年間の壮絶人生物語 ②

    今回のゲスト・依田さんは、かつてはバリバリ働くキャリアウーマンでした。「私は大丈夫」みんな、同じことを言いますよね。依田さんも、そう言いながら、休みなく働き続けた結果——自分自身が病気になるという経験をしたのです。全身真っ黒、体重30kg、余命宣告——それでも彼女は立ち上がった「もう家で、一人で死んだ方がマシ」そう思った女性が出会ったのが、何千年もの歴史を持つ「中医学」の知恵でした。奇跡の回復を遂げるまでの人生物語です。元気とは何か?私たちが忘れかけている「生きる」という意味とは?その答えが、この30分の中にあります。PS依田さんのYouTube、インスタライブ、ブログ、LINEなどの情報は下記リンクからチェックしてみて下さい。【LINE】https://lin.ee/xCF4Tf1【Facebook】https://www.facebook.com/yukange#【YouTube】https://m.youtube.com/channel/UCiXxVy2IoyWdOBkM1oVxOCA【Instagram】https://www.instagram.com/yukari.ange【アメブロ】https://profile.ameba.jp/ameba/yukariange/ママズの家 セミナー (蛇窪神社横)2/24 11:00〜 インスタライブ 2回/月3/2511:00〜  インスタライブ 2回/月

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    #108 売上120億の頂点から、爪も髪の毛もなくなる入院生活、依田さんの働きすぎた人生物語①

    「こんな人生、ドラマでも信じてもらえない」徹夜続きのバブル期の電通プロックス。タクシーチケットを振っても、タクシーが来ない時代。 朝3時、4時に家に帰り、シャワーを浴びるだけの日々。そんな激務の中、彼女はCMを作り続けた。電通プロックスを退職した依田さんはドクターデヴィアス化粧品という高級化粧品ブランドで、売上120億を達成。さらにプロデューサーとして独立。 華やかなキャリアの裏で、彼女の身体は確実に蝕まれていった。 今回のゲストは、依田侑香里さん。現在の肩書きは「医学气功師」と「国際中医薬膳師」。でも、そこに至るまでの道のりは、波乱万丈の人生。 1.シャワーのためだけに帰る家――バブル期、彼女の限界点撮影現場に女性がほぼいない中、依田さんは電通プロックスの関連会社でCM制作担当として働いていた。1年目から徹夜の連続。「家に帰るのはシャワーを浴びるため」という日々だった。しかし、会社でも休めない、家でも休めない。当時うつ病だった母親は彼女の帰りを待ってましたとばかりに母親は彼女の部屋に来て、ずっと喋り続ける、怒鳴り続ける。 父親は夜の10時に帰らないと、プロデューサーにまで怒鳴り込む人だった。限界を迎え、電通プロックスは病気が原因で退職することに、、、 2.一流企業から、4万3000円の部屋へ「私の人生、どうなるんだろう」母親から家を出たら「縁を切る」と言われる矛盾。 病気で電通プロックスを退職した彼女は、病気を治すために病气治療を経て月4万3000円のアパートで、ゼロからの人生を始めることを選んだ。 3.派遣から始まった、次の時代派遣社員としてようやく辿り着いたのが、NTTドコモの黎明期。 「携帯なんて売れるか」と言うおじさんたちの中で、彼女は毎月「何万台達成!」という時代の転換点を目撃する。 4.畑違いの挑戦が、会社を急成長させた「もう激務はやめよう」広告業界は好きだけどやめておこうと思っていたのに、やっぱり好きで正社員としてドクターデヴィアス化粧品の広報企画本部に入社。広告の人間なのに、商品開発。でも、それが運命の転機となる。彼女が関わった商品は、会社を20億、40億、80億へと急成長させた。ようやく掴んだ成功。ようやく見えた光。 8.独立し、限界は、静かに近づいていた依田さんはドクターデヴィアス化粧品を退職し、プロデューサーとして独立後はさらに過酷な仕事が加速します。  9.病院で目覚めたら、肌が黒くなっていた3年が経ったある日、彼女の身体は限界を迎える。 突然の入院。パジャマに着替えたところまでは覚えている。次に目が覚めたとき、依田さんは全身が真っ黒になっていた。最初は4人部屋だったはずが、気づけばナースステーション横の特別室に移されていた。 看護婦長さんがずっと付き添っていたという。「先生、これは何なんですか?私は黒人になったんですか?」医師も答えられなかった。 「免疫が間違ったとしか言えない。メラニンを大量に発生してしまったのかもしれない。元に戻るまで、1年はかかると思う」しかし1年では戻らなかった。3年経っても、彼女の肌は真っ黒だった。いや、今も完全には戻っていない。 10.爪、髪の毛がなくなり、老婆のような姿にそれは始まりに過ぎなかった。1日3食きちんと食べても、彼女の体重はどんどん落ちていく。髪の毛が抜け落ちた。爪までなくなった。「爪ってなくなるんだ」と、依田さんは驚いた。体重は30kgまで落ち込み、中の肉がなくなったせいで、座っているだけで骨が痛む。余った皮膚がペロンと垂れ下がる。太ももも、お尻も。顔はシワシワになり、まるで知らない老婆のようだった。トイレに行くたび、鏡に映る自分の姿を見て「誰、これ?」と思う。そして「ああ、私か」と気づく。自分の姿を忘れるほどに、彼女は変わり果てていた。身体だけではない。お金も、人も、すべてが消えていった。 12.もう、この人生を終わりにしてください3年が経ったころ、依田さんは毎晩、天に祈るようになった。全身真っ黒で、髪も爪もなく、体重30kg。お金も人も失い、「もう、この人生を終わりにしてください」「私はもう無理です。この依田侑香里という人生は、もう限界です。このままでは路上生活になる。家賃も払えなくなる。自殺も考えた。でも飛び降りて、もし生き延びてしまったら?半身不随になったら?怖くて、自分では死ねなかった。未来が見えなかった。 今、あなたは「やりすぎ」ていませんか?依田さんの物語は、ただの成功談ではありません。月曜日から金曜日まで毎日終電帰り、土日も休まず働き続ける。栄養ドリンクで身体を騙し、「私は大丈夫、大丈夫、仕事が好きだから、全然へっちゃら」と言っている人たち。 自分のことを後回しにして限界を超えて働いた先に何があるのか?そして、本当に大切なものは何か。その答えが、このエピソードにあります。そして、そこからどうなったのか?どうやって彼女は、「漢方医」という全く異なる世界へと辿り着いたのか? この配信では、依田さんの口から語られる、リアルすぎる昭和と、何度倒れても、立ち上がり続けた女性の物語が明かされる。 彼女は今、穏やかに、そして力強く、漢方医として多くの人を救っている。 人生に「遅すぎる」なんてない。人生に「終わり」なんてない。そう思わせてくれる、圧倒的な物語が、ここにある。

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    #107 失われた日本に必要な行動力がここにある、碇さんの人生物語②

    起業する気などなかった青年が、なぜ30億円企業を作れたのか。8年間も影に徹しながら、なぜ4億円を稼げたのか。そして、過疎地域の廃校で、なぜ新しいビジネスを始めたのか。 その答えは、彼の人生そのものの中にあります。起業を考えているあなたへ。逆境をチャンスに変えたいあなたへ。地方創生に興味があるあなたへ。一人ひとりの人生には、必ず学びがある。 1.高校卒業10日前、人生は始まったこの男、ただ者ではない。高校卒業まであと10日。普通なら卒業式の準備をしている時期に、高校を中退し、彼は家を出た。先輩の家に転がり込んで7日。「早く出てけ」と言われ、築地で住み込みの仕事を始める。そして1年後、結婚。さらに3ヶ月後には子供ができていた。20歳で父親になった男、碇さんの物語がここから始まる。築地で働きながら音楽活動を続ける日々。しかし、そこには「遅刻OK」「飲酒運転も薬物使用も黙認」という独特の世界が広がっていた。「ここにいたら人間的にやばい」そう感じた碇さんは、冷凍庫のオペレーター、半導体工場へと転職を重ねていく。 2.理解されない選択を、選び続けた人そんな中、北海道の実家から連絡が入る。父親が病気で手術が必要だと。中学生の弟を残すわけにはいかない。妻子を連れて北海道へ。父親は家業を継いでくれると期待していた。しかし碇さんの答えは違った。「2拠点生活をしよう」墓も2箇所、家も2箇所、仕事も家業と自分のやりたいこと、両方やればいい――。30年以上前、そんな提案をした男がいた。当然、理解されなかった。「お前とは意見が合わない」。再び東京へ。 3.今の若者に足りないのは「行動力」だ碇さんは語る。「今の子たちは頭がいい。でもリスクヘッジばかりで行動が足りない」「リスクヘッジじゃなくて、リカバリーで考える。右に曲がりながら方向修正する方が頭を使った方がいい」「やらない選択肢は誰でもできる。PDCAを1回転目でやめてしまう」この言葉、あなたの心に刺さりませんか? 4.Windows95前夜、パソコンとの出会いが人生を変える碇さんは、元々ミュージシャンを目指していた。しかし、現実は厳しかった。「パソコンで音楽編集しないと、これからのミュージシャンは売れないぞ」Windows95が出るか出ないかの時代。そんな言葉に後押しされ、半導体工場で働きながらパソコンを購入した。音楽の道を諦めた青年が手にしたパソコン。それが、彼の人生を大きく変える「原型」となった。半導体工場では、派遣法の制約で年間10ヶ月しか働けなかった。2ヶ月の空白期間をどう過ごすか。そんな時、中古パソコンのオークション会社のアルバイト募集を見つけた。「パソコンが安く買えるかもしれない」という軽い気持ちで飛び込んだその会社で、碇さんは中古パソコン販売の面白さに目覚める。世の中にほとんど知られていなかった、その可能性に。 5.「絶対に会社なんてやりたくない」と思っていた男実は、碇さんには起業する気など全くなかった。家業が自営業で、人を雇う側と雇われる側の間の苦労話をさんざん聞いていた。「絶対にこんなのやりたくない」。それが彼の本音だった。しかし、運命は彼を起業へと導く。中古パソコン会社で働いていた時、経営者から声をかけられた。「社員になるか、それとも独立して会社を持って、うちの業務を下請けしてくれないか」そして、あの提案が来た。「月額80万円で、アルバイト18人分の仕事をやってくれ」「計算が合わないんです。ちょっと預からせてください」どう考えても無理な話だった。普通なら、ここで断る。しかし、彼は違った。相手の会社の業務と自社の業務をうまく組み合わせる方法を考えた。数日後、彼は「逆提案」を持って再び、その経営者の前に現れる。場所を借りる、リソースを一緒に使う。条件を整えた逆提案を持って行き、「これを飲んでくれるなら80万円で受けます。飲んでくれないなら受けられません」と交渉した。経営者は、その提案を受け入れた。この一手が、のちに年商30億円を超える企業グループへの扉を開くことになる。冷静に考えれば、断るべき条件だった。 6.8年間、影に徹した男起業したものの、碇さんには奇妙な制約があった。「会社名で営業してはいけない。代表の名前も出してはいけない。表に出るな」。オークション会社の事情で、運営を外部委託していることを明かせなかったのだ。会社は立ち上げた。しかし、8年間、彼は影に徹した。インターネット通販だけで販売し、営業活動は一切しなかった。それでも、結果は驚異的だった。初年度で売上4億円。3年で10億円に到達した。「超超ブラック企業スタイル」と彼が振り返る、猛烈な働き方があったからこそ実現できた数字だった。8年後、ようやく碇さんは表舞台に立つことを許された。会社名もリペアシステムサービスから株式会社RSSへ、そして現在の株式会社リングローへと変わっていった。 7.廃校が、ビジネスになる中古パソコン事業を軌道に乗せた碇さんは、次なる挑戦に目を向けた。「中古パソコンは、20代後半から50代の男性には人気がある。でも、それ以外の層にはハードルが高い」。そのハードルをどう下げるか?彼は常に考えていた。ある時、壮大なアイデアが浮かんだ。「ビルを1棟、サーバーにしよう」。パソコン内部のようなサーバー設備を持つビル、アミューズメントパークのような空間。しかし、見積もりを取ると「何億円かかるかわからない」と言われた。資金力が足りない。諦めかけた時、彼の頭に別のアイデアが浮かんだ。「廃校なら、タダで借りられるかもしれない」日本全国で、人口1万人以下の小さな町や村から、企業が撤退していた。携帯キャリアも店舗も閉め、地域の人々は十分な情報を得られず、「別にいらない」「使わなくてもいい」という選択をしている。それは、もったいない。碇さんは、廃校を拠点に、デジタルデバイド対策を始めた。地域全体を顧客化し、ハードウェアのメンテナンスからサポートまで提供する。誰も手をつけていなかった、ブルーオーシャンの領域だった。 8.ブレない軸、柔軟な手段音楽からパソコン、中古パソコン販売から廃校利活用へ。一見バラバラに見える碇さんの選択には、実は一本の太い軸が通っている。目標への圧倒的なコミット力。そして、「手段はあの手この手でいい」という柔軟性。「順調なんてことは全然ない。常に山あり、谷あり」と碇さんは語る。年商30億円を超える企業を築いた裏には、語りきれないほどの苦労があった。今、彼が見据えているのは、リングローをコーポレート化してグループ企業として成長させること。そして、一般社団法人として運営している廃校利活用事業を公益社団法人にして、各拠点を自走させること。「その地域のものにしていきたい」という、彼の想いは揺るがない。 今すぐ聴く 高校中退から始まった型破りな人生。その先に見えてくる、本当に大切な「行動力」とは何か。リスクヘッジではなく、リカバリーで生き抜く。 碇さんの人生哲学が、あなたの明日を変える。「やらない選択肢は誰でもできる」今すぐ聴いて、あなたも一歩を踏み出そう。

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    #106 高校卒業まで10日を残して中退する有言実行の碇さんの人生物語①

    ドイツのフランクフルトで、老夫婦に道を尋ねられた。タイでは、現地の女子大生にアンケートを求められた。「いや、俺日本人なんだけど…」英語はろくに話せない。でも、世界中どこへ行っても、人と仲良くなれる碇さんは、2つの会社を経営されています。• リングロー株式会社 代表取締役社長・創業者• 廃校利活用の一般社団法人 代表理事一見、優しく穏やかな表情からは想像できない、波乱万丈の人生。大人を困らせた「めんどくさい子供」が、どのようにして成功企業を築き上げたのか?その答えは、彼の幼少期の経験と、培われた独自の価値観にありました。 ありふれた成功ストーリーではありません。これは、型にはまらない少年が、自分の「欠点」を最大の「武器」に変えて駆け上がった、唯一無二の人生物語です。 1.笑顔の裏に、型破りな子供時代優しい雰囲気の経営者・碇さん。しかし、その印象とは裏腹に、彼の幼少期は「とにかく、大人の揚げ足を取り、めんどくさい子供」だったと本人が語ります。 「社長の親じゃなくて良かった」「こんな子供欲しくない」——今でも社員からそう言われるほどの、型破りな子供時代だったのです。 2.普通じゃない子供時代が、普通じゃない人生を作る「働かざる者食うべからず」碇さんの家には、お小遣い制度はなかった。欲しいものがあれば、交渉する、働く、対価を得る。同級生がお小遣いをもらっているのを見て、羨ましかった。でも今思えば、それが彼の原点だった。小学2年生。150円を握りしめて、勝手にバスに乗った。目的地は親戚の家。親は困惑した。「なんでそこにいるの?」「行きたかったから」見知らぬ土地へ行くこと。見知らぬ人と出会うこと。それが、彼の生き方になった。 3.北海道の自転車旅行者に声をかけ、家に連れて帰る少年学校帰り、北海道の国道沿いで旅人を見つけると、声をかける。「よかったら、うちでご飯食べてって」親は最初驚いたが、やがて慣れた。「またか」赤の他人が1人、2人増えても、誰も気にしない。それが、碇さんの育った環境だった。 4.「厄介な性格」こそが、経営者としての武器碇さんの特異な能力: (1)   恐るべき記憶力飲み会の会話も、面接時のやり取りも、すべて記憶。「その話は忘れてください」と社員に言わしめるほど。(2)  本質を見抜く観察力人の行動、会話、矛盾——すべてを見逃さず、一言一句覚えている。(3)  幼少期からのビジネスマインドお小遣い制ではなかった家庭環境で、小学生時代から自力で稼ぐ術を編み出していた。 5.高校卒業まであと10日を残して、なんと高校中退中学生の頃、音楽に目覚めた。「東京でやりたい」父は最初、理解を示してくれた。東京の専門学校にも泊まってもらった。でも、卒業直前になって、父は言った。「行く必要ねえだろう。早く働け」約束が、覆された。「じゃあもう、高校行くのやめる」卒業まで、あと10日。校長先生まで出てきて説得された。でも、彼の決意は揺るがなかった。「約束を破られたなら、俺も約束を守らない」ギター1本、着替え3日分、現金3万円。それだけを持って、彼は東京へ向かった。 6.有言実行。手段を問わず。高校3年の2月。音信不通で家を出た。ギター1本。着替え3日分。現金3万円。先輩の家に転がり込んだ。捜索願が出るかどうか、というギリギリのライン。でも、彼にとっては当たり前のことだった。「やると言ったら、やる」 7.この男の人生は、まだ序章に過ぎない目的にコミットした時の強さ。周りがドン引きするほどの行動力。それが、会社の立ち上げに。AIの活用に。すべての成功に繋がっている。碇さんの物語は、ここから始まる。常識を超えた人生を生きる男の、本当の話。あなたの人生観が、変わるかもしれない。あなたの「めんどくさい部分」も、実は誰にも真似できない強みかもしれない。碇さんの物語が、あなたの人生の見方を変えるかもしれません。

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    #105 「等身大」を貫く勇気――「自由と納得」を大事にするエグゼクティブコーチ、八起さんの人生物語 ②

    1.「あ、私それになる」──その瞬間、すべてが動き出した就職へのモチベーションがなかった。専業主婦になるつもりだった。それなのに、慌てて就職活動をして、なんとか福岡の不動産会社に滑り込んだ八起さん。1日100件の営業電話をかける日々。バリバリの営業職。新人賞を獲得するほどの成績を残しながらも、社内のゴタゴタで退職。誰もが「普通の人生」を歩むと思っていた24歳の女性が、ある出会いで、22年続くコーチング人生への扉を開けることになります。その出会いとは、、、 2.変屈な私でも、納得できた「私、結構変屈だと思っていて」八起さんは自分をそう表現します。何かを学ぶとき、いつも心の中で「いや、そうは言っても」「ここが押し付けがましくないか」と疑問を抱いてしまう。素直じゃない、可愛くない。そんな自分に気づいていました。恋人との喧嘩が絶えない。喧嘩をしたくて付き合っているわけじゃないのに、どうしてもぶつかってしまう。どうしたもんか──。そんな悩みを抱えていたとき、朝日カルチャーセンターの新聞広告で「コーチング」という言葉を見つけました。カルチャースクールに通い始めた八起さん。そして、運命の2回目の講座で、講師がこう言いました。「コーチングを専門にして、1対1でコーチをする職業があるんだよ」その瞬間──「あ、私それになる」恋愛の悩みはどこかへ消えていました。 3.高校時代から繋がっていた、見えない糸説明会で提示された会社名は「コーチ21」。スクリーンに映し出された社長の名前を見て、八起さんは息を呑みました。「伊藤  守」高校時代、繰り返し繰り返し読んでいた本の著者。あの伊藤 守さんが作った会社。「絶対間違いない」働いて貯めたお金、約70万円を迷わず即申し込み。福岡から電話会議システムという当時の最新の技術を使って、スクールに通い始めました。 4.「自由」という言葉がポロッと出た瞬間八起さんの口から、何度も出てくる言葉があります。「自由」と「納得」小さい頃から、制約されることが苦しかった。納得しないと前に進めない。そんな変屈な自分でも、コーチングは受け入れてくれました。押し付けない。教えるというスタンスを貫かない。自分に考えさせる。自分に気づかせる。「自由に、自分のペースで成長ができる。そんな変屈な私でもやっていけるっていう確信しかなかった」2005年1月2日。開業届を提出。それから22年間、八起さんのコーチング人生が始まります。 5.売上は好調。なのに、心は地獄だった。「クライアントは目標を達成していく。でも、私には、それがハリボテにしか見えなかった」八起さんがそう語る時、その声には今でも当時の苦悩が滲んでいました。35歳で育児休暇から復帰した彼女が飛び込んだのは、いわゆる「稼げる系コーチングスクール」。売る方法は完璧に教えてくれる。実際、売上は順調に伸びていきました。でも、提供するコーチングの質は「ズタボロ」。目先の目標達成だけを追いかけ、クライアントの本当に大切な価値観、腹の底にある想いには触れることができない。自分が良いコーチングができていないことを、誰よりも自分自身が分かっていたのです。「良くないものを売り続ける苦痛が、きつすぎた」 6.「計画的育児休暇」の5年間実は八起さん、20代でコーチングの道に入り、順調にキャリアを積んでいました。個人クライアントへのコーチング、研修講師。副業もしながら、着実に実績を重ねていた彼女が選んだのは、30歳から35歳まで丸5年間、仕事を完全にストップして育児に専念すること。「保育園に預けるという発想を持っていなかった」と笑う彼女ですが、その5年間は単なる休息ではありませんでした。「毎日トライアスロンをやっているみたい」自分の限界を突破し続ける日々。3人の子どもを育てながら、彼女は"プロの専業主婦"として、自分と向き合い続けていたのです。 7.技術を取り戻す――そして、仲間を救う稼げる系スクールを離れた八起さんは、コーチングのスーパービジョン練習会に通い、徹底的に自分の技術を立て直しました。すると、不思議なことが起こります。かつてのスクール仲間たちが、次々と彼女に相談を持ちかけてきたのです。「コーチングができない」「クライアントからクレームが来た」「キャンセルされてしまった」困っている人たちが目の前にいる。そして、コーチングの契約をもらえるということは、それ自体が奇跡のようなことだと彼女は考えていました。 「お金を払ってまで、1人の人を雇うんです」 その奇跡が、技術不足によって壊れていくのを、業界の一人として放っておけなかった。恐る恐る始めたコーチング指導。でも、彼女が教えた人たちは、どんどんコーチングができるようになっていきました。「私、うまいじゃん」――その瞬間、新しい道が開けたのです。 8.感覚ではなく、エビデンスで伝える八起さんのコーチング指導には、明確な哲学があります。「感覚で伝えない」セッションを文字起こしを行い、エビデンスを示しながら解説する。「ここの関わりが良かった」「この質問はクローズドになっていて相手を追い詰めている」――黒板に書くように、見える化し、スキルとして伝えていく。でも同時に、こうも言います。「それは私の主観であって、唯一の答えではない」極めて冷静に、理論的に。でも、クライアント一人ひとりの心境に寄り添いながら。 9.「労働者」として生きる幸せ今、八起さんは3つの柱で活動しています。ワンオンワンのコーチング、コーチング技術指導、そして企業研修。「事業をもう一回り大きくしたい」と言いながらも、彼女が目指すのは途方もない成功ではありません。「もっと自由に遊びたい。真面目に楽しみたいんです」労働を愛し、腕まくりして「よっしゃ行くぞ」と働く。短時間で集中して働き、自由な時間を生み出す。「私は労働者だと思っていて、そういう自分が好き」等身大。無理に大きく見せない。圧をかけない。それは夏目漱石の言葉「則天去私(天に則り、私を去る)」にも通じる、彼女のコーチング哲学そのものでした。八起さんの人生には、自分らしく生きるためのヒントが詰まっています。

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    #104 「専業主婦のプロ」を目指した女性が、「裏方のプロ」になるまでの八起さんの人生物語 ①

    なぜ、彼女は中学時代に「鎧」を着ていたのか?「芸能人に詳しくないと…深夜番組を知らないと…1日3本映画を見に行けないと…」私立女子中学で感じた息苦しさ。周りに合わせるために着ていた見えない鎧。でも、公立高校に転校したその日、彼女は初めて気づいたのです。「あ、自分のままでいいんだ」と。その瞬間、彼女の人生が動き出しました。今回のゲストは、コーチング歴22年のプロのエグゼクティブコーチ、八起(やおき)さん。福岡を拠点にオンラインで全国のクライアントをサポートし、コーチ育成にも携わる業界屈指のベテランです。1.“鎧”を着て生きた中学時代八起さんの原点は意外にも、「大人数が苦手」「女子より男子と遊ぶ方が楽」「自由でいたい」という、少し風変わりな小学生時代にありました。八起さんが語る中学時代の「鎧」事件は、多くの人の心に刺さる物語です。私立女子校で感じた居場所の悪さ。友達と遊びに行けば、休日に3本も映画を見るような派手な遊び方。芸能人や深夜番組の話題についていかなければ、、、「どんだけお金使って遊ぶんだろう」「そんなに何本も映画なんて見たら疲れるよ」と心の中で思いながらも、無意識に合わせていた自分。2.鎧を脱いだ少女の再生物語家族の引っ越しをきっかけに公立高校に転校したとき、世界が一変しました。「裸で運動場を駆け回るみたいな素朴な学校」で、彼女は初めて鎧を脱ぐことができたのです。私立時代には「知らない方」だった自分が、公立では「いろんなことを知ってる人」になった。友達から「そんなに知らなくても全然いいんだって」と言われたとき、彼女は悟りました。「私、努力しなくていいんだ。ついていこうとしなくていいんだ」と。この経験こそが、八起さんの今のコーチング哲学を形作っています。3.人は変わらない。でも“環境”が人を活かす「人は根本では変わらない。でも、それとどう付き合うか」。気を使う性格も、自由を求める心も、大人数が苦手なところも、小さい頃から変わらない。でも、環境によって、その個性が苦痛にもなれば、強みにもなる。両方の学校を経験したからこそ、彼女は「自分にとっての心地よさ」を知ることができました。4.高校時代に見つけた「自分の役割」執行部という部活動。40km遠足の企画運営。文化祭の副運営委員長。表舞台に立つのではなく、裏でゴソゴソと準備をする。当日、みんながスムーズに動いていく様子を見守る。「私がトップの役をやることは違うな」派手な運動会の盛り上げ役には関わらない。でも、行事の裏方では誰よりも輝いていた。彼女は気づいたのです。自分の好きなの裏方。**「人がうまくいくサポートをすること」**だと。5.あなたは、自分の「役割」を知っていますか?大学生の頃、多くの同級生が就職活動に奔走する中、一人の女性は違う夢を描いていました。「私は、有能な専業主婦になりたい」周りからは珍しがられたその夢。でも彼女の中では、すでに明確な人生哲学が確立されていました。6.専業主婦も、コーチも、本質は同じ「専業主婦は家族がうまくいくことをサポートする影の存在」「コーチはクライアントがうまくいくのをサポートする影の存在」主役はあちら。私は裏方。そう語る八起さんの目は、驚くほど澄んでいました。学生時代から一貫して持ち続けてきたこの価値観。それは今も、彼女の人生を貫く一本の軸となっています。7.「やってみる」ことで見えてくる道多くの人が気づかない自分の適性を、なぜ八起さんは早くから理解できたのか?答えはシンプルでした。「やりたいことをやってみる人だったから」合うこと、合わないこと。好きなこと、苦痛なこと。ひとつひとつ試して、確認して、自然と「自分」が見えてきた。父親が会社経営者だったこともあり、就職というレールを意識せずに育った彼女。だからこそ、自分の心に正直に生きられたのかもしれません。8.付け焼き刃の就職活動、そして...「卒業と同時に結婚」の予定が、相手がいないという現実に直面。慌てて始めた就職活動は、企業にことごとく見破られ、内定は一社のみ。でも、そんな中でも八起さんが最初に行動したのは...整理収納アドバイザーへの直接アプローチ飯田久恵さんという著名なアドバイザーの本に心を動かされ、どうにか電話番号を調べて直接連絡。「アシスタントの募集はないですか?」結果は「もっと人生経験を積んでからおいで」という返答。でも、この行動力。このまっすぐさ。「すごく慎重派だけど、静かに行動してます」彼女自身は謙遜しますが、多くの人はこれを「行動派」と呼ぶでしょう。9.自分を知る旅は続く「自分のことは分かってるような、分かってないような」そう笑う八起さん。でも、自分が何に心引かれているか、何に興味があるか。それを慎重に感じ取り、調べて、行動する。この繰り返しの中で、彼女はある出会いを果たします。コーチングとの運命的な出会い—続きは、八起さんの人生物語②で「裏方」という役割に誇りを持ち、人をサポートすることに生きがいを感じる女性。彼女がどのようにしてコーチングと出会い、どんな人生を歩んできたのか。あなたも、自分の「役割」を見つけるヒントが、ここにあります。このエピソードは、自分らしさを見失っている方、周りに合わせて疲れてしまう方、コーチングに興味がある方、そして自分の個性との付き合い方を知りたいすべての方に聴いてほしい内容です。22年もコーチングを続けられる秘訣が、実は自分の個性を受け入れることだったという事実に、あなたも驚くかもしれません。「鎧を脱いだ瞬間、本当の人生が始まる」──あなたも、自分が無意識に着ている「鎧」に気づくかもしれません。八起さんの22年のコーチング人生の原点を、ぜひあなた自身の人生と重ね合わせながらお聴きください。この番組では、ゲストの人生を深く掘り下げ、その人だけの「オンリーワン」なストーリーを配信しています。今すぐ再生ボタンをクリックして、八起さんの物語を聴いてみてください。あなたの「鎧」は、どこにありますか?

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    #103 50歳で廃業、そして再起。「仕事がある喜び」に気づいた北村さんの人生物語4

    うれしーーーーい!なんと北村さんが2度目の登場です! まさか2度も出演して下さるとは思っていなかったので、びっくり。 今回は、新生北村!新しく生まれ変わった北村さんの人生物語です。 成功を恐れる経営者の、誰にも言えなかった本音がここにあります。 あなたは今、何と戦っていますか?その答えが、この配信の中にあるかもしれません。 1.「俺の方がすげえ」あなたは今、何と戦っていますか? 「俺の方がすげえ」 かつて北村さんの心を支配していた、この言葉。 大企業で出世競争に明け暮れ、ベンチャー企業の「C◯◯O」という肩書きを名刺に刻むことが人生のゴールだった男。成功している人を見ては比較し、自分の価値を測り続けていた。 でも今、彼は全く違う戦いをしています。「他人」ではなく「自分」と戦う日々へ。 2.「このままでいいのか?」現在、50社の顧客を抱え、契約率は驚異の30%(業界平均3%)。一件一件の仕事に真剣に向き合い、目の前の人を大切にする。そのサイクルが「あったかい」と北村さんは言います。順風満帆に見えるビジネス。なのに、なぜ彼は不安なのか?「大きな成功を手にした時、また昔の自分に戻ってしまうんじゃないか?」この番組で語られるのは、成功者の華やかな物語ではありません。むしろ、成功を恐れる経営者の正直な葛藤です。 3.「友達不要論」から「大切な人を大事にする」へかつて効率を追求し、人間関係さえもコスパで測っていた北村さん。それが今では「誰かのために何かをする楽しさ」を知り、「酒がうまい」と感じる瞬間を人生の指標にしています。でも、彼はこう言うのです。「油断すると、また変わってしまう気がする」この価値観の転換は、どうやって起きたのか?そして、なぜ彼は「満心」を警戒し続けるのか? 4.一度は全てを失った経営者が、たどり着いた"本当に大切なもの"とは?大きな仕事を取れば取るほど、心は不安になる。成功すればするほど、失うことが怖くなる。「このままでいいのだろうか…」50歳を過ぎ、一度は廃業を経験した北村さん。 再び起業した今も、心の奥底に迷いを抱えていました。 5.成功の裏に隠された"ビビり"の正体個人事業主として、3年半。順調に見える日々の中で、北村さんは大きな矛盾を抱えていました。「大きな仕事は取りたい。でも、取った時にビビってしまう」なぜなのか?それは、太いご縁が切れる恐怖。安定を手に入れた瞬間に、それを失う不安が襲ってくる。そして何より、自分の"器"への自信のなさ。50歳を過ぎて一度失敗した自分に、本当にそれだけの価値があるのか— 6.対話の中で見えてきた"本質"しかし、対話を重ねる中で、北村さんの表情が変わり始めます。「仕事がある喜び」創業時につけた会社名「Work Be」に込めた想い。それを語る時、北村さんの目は自信に満ち、声にはエネルギーが溢れていました。仕事は単なる収入源ではない。人を成長させ、自己実現のツールであり、そこで作られる関係性に人生がある。営業で何度も断られ、「向いていない」と思った日々。それを乗り越えた先にあった、絶大なる成長とやりがい。 7.たどり着いた答えは、驚くほどシンプルだった「それだけでいい」大きい仕事も小さい仕事も、法人化も個人事業も— 実は、それらは本質ではなかったのです。北村さんが本当に大切にしたいもの。 それは「仕事がある喜び」を伝え続けること。成功する前の絆奏が大切。結果が出ないからと辞めてしまう人たちに、働く喜びを伝えたい。対話の最後、北村さんの顔は驚くほどすっきりしていました。 8.50年かけて気づいた"本当の価値"「もっと早く気づけば良かった」そう笑う北村さんですが、50年かけて気づいたからこそ、 その価値観の変化は本物でした。一度は全てを失った経験。それがあったからこそ、仲間のありがたさ、支えてくれた人たちへの感謝、 そして「仕事がある喜び」の尊さに気づけたのです。 9.聞いてください:本音の経営論北村さんの言葉から「結局、正直に自分を見つめた時、良かったかどうか。仕事も人生の一部。分けてないんです」「昨年の自分に勝つ。これが僕なりのゴール」「成功体験に溺れてしまうリスク。大きな仕事が取れた時、また曲がってしまうんじゃないか」 10.聴けば分かる、"本物の気づき"が生まれる瞬間この配信では、リアルタイムで北村さんの表情が変わり、声のトーンが変化し、エネルギーが満ちていく様子が分かります。コーチングの対話を通じて、 一人の経営者が自分の本質にたどり着く17分間。計算された成功ストーリーではない、 生々しい人間の変容の物語がここにあります。 ひとりひとりの人生「オンリーワン」北村さん回 - 50歳からの再起、そして気づき 今すぐ再生して、本物の"気づきの瞬間"を体験してください。「余計なことは考えない。仕事がある喜びを、これからも伝えていきたい」

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    #102 「NO」を97回聞いた男が、法人化という夢に挑むまで。北村さんの人生物語3

    うれしーーーーい!なんと北村さんが2度目の登場です! まさか2度も出演して下さるとは思っていなかったので、びっくり。 今回は、新生北村!新しく生まれ変わった北村さんの人生物語です。 北村さんの人生物語は、まだ完結していません。法人化という新たなスタートラインに立つ彼が、これまでの3年半の経験をどう語り、そしてどんな未来を選ぶのか── 今回の人生物語で明かされること ― 数千万円を失った絶望からどう立ち直ったのか?― 97%の断りをどう乗り越えたのか?― 「友達不要論者」から「仲間こそ全て」への価値観の大転換― 法人化を前に揺れる本音と、これからの選択そして何より──成功した後に訪れる「本当の迷い」をどう乗り越えるのか 1.二度目の挑戦、それは絶望からのスタートだった北村さんは、かつて数千万円の早期退職金を全て失い、廃業という痛恨の経験をしています。高校時代、うまく陸上で推薦を受けながら、自分のパフォーマンスを発揮できなかった時から、彼の人生は「うまくいった瞬間にこける」パターンを繰り返してきました。愛知県から東京へ、そしてグループ全体の責任者へ ──20年間積み上げたキャリアは、上司との衝突で一瞬にして崩壊。そこから始まった再起への道。それは想像を絶する厳しさでした。 2.97%の「NO」と向き合う日々ゼロから顧客を作る。ペンネーム「Work Be」として活動を始めた北村さんを待っていたのは、月100件のうち、97件に断られるという現実でした。そう97%も断られ続けたのです。普通なら心が折れる数字です。しかし、彼は歩み続けました。Work Be売上推移の数字だけ見れば成功です。でも、北村さんは今、迷っています。 3.「このままでいいのか?」法人化の決断に揺れる心株式会社として正式に歩み出す──人生に一度あるかないかの節目。嬉しいはずのこの瞬間に、北村さんは立ち止まります。「一定作りたい世界は作れた」「でも、過去を振り返ると、そう思った瞬間にこけてる」成功体験がトラウマになる。そんな矛盾を抱えながら、彼は自問します。このやり方を続けることが、本当に正しいのか? 4.3年半で掴んだ「本当の宝物」数字、実績、安定した生活──それらを手に入れた北村さんが気づいたこと。それは、**「仲間の存在」**でした。97%断られる中で出会った仲間たち。一緒に仕事を取りに行く相棒。支えてくれる友人たち。「組織にいた時は、同僚や後輩がいるのが当たり前だった。でも今は違う。1人だからこそ、仲間の存在の大きさが分かる」かつて「友達は踏み台」と言い切っていた男は、今こう語ります。「全ては仲間がいて実現している」 5.80点から90点への挑戦──彼が選ぶ次のステージとは?0点から80点への道のりは険しくとも、確実に前進できました。しかし、80点から90点へ──この10点が、最も難しい。「3年続けることには可能性がある。でも、同じことを10年続けることが正解なのか?」法人化という節目を前に、北村さんは新たな決断を迫られています。 6.人生は、うまくいった時こそ試される仕事がうまくいった日。 北村さんは一人で飲みに行きます。 それは、自分への問いかけの時間。「慢心していないか?」「大切な人を大切にできているか?」 7.かつて「友達不要論者」だった男の告白「なんで分かってくれないんだろう」「自分が正しい、自分が一番できる」北村さんは、そんな風に考えていた時代を振り返ります。 客観的に見ると「つまんないやつだった」と。そこに戻りたくない。その強い思いが、今の彼を支えています。 8.廃業という転機が教えてくれたもの厳しい廃業を経験し、必死で生きていく中で、気づいたら価値観が変わっていた。今、北村さんが大切にしているのは2つ。①大切だと思う人を大切にできること (スターになりたいわけじゃない)②相手を思う気持ち (プレゼントを渡す前に考えている時間が楽しい)50歳を過ぎて気づいた、この喜び。 9.成功の陰にある、静かな悩み「いいやつの後ろには、いいやつがいる」多くの人に支えられ、濃厚な時間を過ごす日々。 でも、人が増えれば一人当たりの時間は減っていく。アクセルを踏むのか ?ブレーキを踏むのか ?次の予定が入ってしまい、ちゃんと御礼を言って、帰れなかった日。振り返って、悔いが残る。成功している人だからこそ抱える、関係性の総量という悩み。 10.3年後も笑顔でいるために「なんで分からないんだろう」と思っていた自分には、油断すると戻ってしまう危機感がある。だから、今日も問い続ける。大切な人を大切にできているか、と。プライベートでも、仕事でも、 疲れた顔ではなく、笑顔でいたい。それが、北村さんの願いです。 11.相手を思う気持ちを忘れてないか?自転車操業から抜け出し、今は多くの人に支えられながら充実した日々を送る北村さん。その言葉の端々には、 失敗を経験した人だけが持つ深みと優しさがあります。「相手を思う気持ち」が何より大切。そう語る彼の笑顔の裏には、戻りたくない過去と、守りたい今があります。 12.今すぐ視聴人生の転機を経験したすべての人へ。 北村さんの率直な語りが、あなたの心に響くはずです。「このままでいいのか?」と悩むすべての人へ贈る、リアルな再起の物語第2回では「油断すると戻ってしまう」という危機感について、さらに深く語ります。お楽しみに。

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    #101 「辛いからこそ、楽しい」 人生を変える"繋がり"の法則を楽しむ 樫村さんの人生物語2

    「辛いからこそ、楽しさが増すんです」42.195kmを走り切る苦しみ。山頂を目指す険しい道のり。それでも、また挑戦したくなる理由。 今回の「オンリーワン」では、 ランニングコミュニティ「RANVE」を通じて人と人を繋ぎ続ける樫村さんの人生に迫ります。 1.体調不良をきっかけに気づいた「本当の健康」とは?「心臓に良くないと思っていたんですよ」そう語る樫村さんは、かつてランニングを避けていました。体には自信があり、大きな病気もしたことがない。そんな彼の人生が大きく変わったのは、2019年の出来事がきっかけでした。韓国旅行から帰国後、突然襲った「帯状疱疹」。痛くて眠れない夜。「こんなにしんどいのか」と初めて自分の体の限界を知った瞬間でした。医師から告げられた言葉は「ストレスから来ているのでは」。自分は健康だと思っていた。でも、そうじゃなかった―。 2.夏の夜、山下公園で始まった小さな一歩人生の転機は、意外なところから訪れます。ビジネスで交流のあった小池さんが、夜な夜な山下公園でランニングをしていることを知った樫村さん。興味はなかったけれど、「これも何かのご縁かな」と思い、一緒に走ってみることにしました。夏の夜風。汗をかいた後の、立ち飲みの焼き鳥屋でのビール。「ラン後のビールが、めちゃくちゃ美味しくてですね・・」そこから始まった小さな習慣が、やがて450人のコミュニティへと成長していくことになるとは、誰が想像できたでしょうか。 3.「旗の下に人が集まる」―ラン部誕生秘話2人から3人へ。そして徐々に仲間が増えていく中で、樫村さんたちは「グローバル人事塾RAMVE」を立ち上げます。「ラン部だと、よくわかんないから、ローマ字でRANVEにしよう」「RANVEの「V」はビクトリーのVですね」デザイナーに依頼して作ったロゴマーク。そして、人事塾同様のサイズの旗。「旗の下に人が集まるっていう本能を考えて、なんと旗も製作」旗の製作費を捻出するため、小池さん企画:村田さんへ講師を依頼し、ランニングセミナーを開催。コロナ禍の2020年、オンラインで集まった参加費で、ついに旗が完成しました。 4.健康、つながり、そして人生の豊かさ「足は動くんで」右肩を脱臼する自転車の事故に遭われたも関わらず、樫村さんは近くハーフマラソンに出場する予定です。樫村さんがランニングに見出したものは、単なる健康維持だけではありません。・島を走り、山を走り、現地のランナーたちと出会う。・旅先で見る景色。・仲間との語らい。「人生の豊かさを広げてくれる」そして、樫村さんにとっての豊かさとは―「人と人との繋がりの中で生まれるもの。自分から進んで動いた結果として、自然につながっていく関係」 5.フルマラソンの苦しみの先に見つけた、人生の真理「辛いからこそ、楽しさが増すんです」樫村さんは、42.195kmを走り切る苦しみについて、そう語り始めました。フルマラソンを走っている最中は、むちゃくちゃ辛い。めちゃくちゃしんどい。でも、最後まで走り切った時の達成感と楽しさがあるから、やめられない。そして、その感覚はマラソンだけでなく、人生のすべてに通じている。40代で出会ったランニングが、樫村さんの人生を大きく変えました。ランニングコミュニティ「RANVE」を通じて、新しい出会いが生まれ、その繋がりが次の繋がりを呼び、気づけば出版の話まで舞い込んでいたのです。『「RANVE」に誘った難波さんのご縁で大村さんと出会いました。そこから繋がっていったんです』そう『副業の超基本』です。樫村さんの言葉には、人との出会いへの感謝と、その偶然の連鎖への驚きが込められていました。 6.すべての行動の中心にある、たった一つの軸仕事、出版、ランニングコミュニティ、グローバル人事塾、そして昨年からスタートしたランニングチーム。一見バラバラに見える活動の数々。しかし、それらすべての中心には、たった一つの明確な軸がありました。「繋がりを作る、ということですね」 樫村さんは、自分の人生にとって最も大きなキーワードは「繋がり」だと語ります。それは、マンダラチャートの中心に置かれた言葉のように、すべての活動を支える核となっているのです。 自分自身が繋がりたいという思いもある。でも、それ以上に、誰かと誰かを繋ぐことで得られる喜びが大きい。樫村さんは、繋がりを作るエンジンのような存在として、多くの人々の人生に関わり続けています。 しかし、その繋がりには、大切な条件がありました。「無理しない中で、自然に繋がる人との関係性を大切にしていく。気がついたら一緒にいるよね、という人たちとの関係が、人生にとって一番大事なんです」無理して作った関係ではなく、自然に繋がっていく人たち。そういう人たちとの出会いが、次の扉を開いていく。樫村さんの人生は、まさにその連続でした。 7.60歳までに叶えたい、世界を駆け巡る夢話が進むと、樫村さんの表情が、ふと笑顔に変わりました。その笑顔の意味を尋ねると、樫村さんが60歳までに叶えたい夢を語り始めたのです。世界6大マラソン、アボット・ワールドマラソンメジャーズ。ボストン、ニューヨーク、シカゴ、ベルリン、ロンドン、東京。この6つの大会を完走することで得られる、6つの輪がある星のフィニッシャーメダル。60歳までに、それを手にすることが目標なんです。「海外だと、イタリアとか、ドバイとか、ケニアも走ってみたいですね。世界中のレースに出てみたいという気持ちがすごくあります」樫村さんの目は、まるで既にその景色を見ているかのように輝いていました。そして、その夢は個人的なものだけではありません。ランニングチームで、海外ツアーもやってみたい。仲間と一緒に、世界を駆け巡りたい。そんな未来を描いているのです。 8.今から準備する、もう一つの人生の楽しみ方しかし、樫村さんは同時に、現実的な視点も持ち合わせていました。「今はある程度健康だから継続できているけれど、健康でなくなった時には継続できなくなることもある。だから、体が動かなくなった時に楽しめるものを、今から見つけておくことも、人生において大切なアクションだと思うんです」それは囲碁かもしれない。ゆっくりとしたハイキングかもしれない。あるいは釣りかもしれない。今の激しい趣味の先に、もう一つの人生の楽しみ方を見据える。その先見性こそが、樫村さんの人生を豊かにしている要因の一つなのでしょう。「この先のことは正直わからないですね。でも、どこかのタイミングで、また何か40代でランニングに出会ったような、全く新しい世界に触れるかもしれない。そういう予感はあります」 9.辛さと達成感が織りなす、人生の真理話は再び、マラソンの話に戻りました。フルマラソンを走っている時は、本当に辛い。でも、その辛さがあるからこそ、走り切った後の達成感は格別なのだと。「こんな辛いことに耐えて、まだまだいけるじゃん、って自信に繋がるんですよね」打ち合わせで悩んだり、どんなことをやろうか考えたり、辛いこともある。でも、終わってビールを飲んでいる時に「今日良かったな」という言葉が出てくると、すごく達成感が湧いてくる。「頑張りすぎずに、でもやり切るまでがんばってみる。やりたいことをやるということを、日々積み重ねていきたいんです」樫村さんのこの言葉には、人生を楽しむための絶妙なバランス感覚が表れていました。 10.あなたの人生の中心にあるものは、何ですか?樫村さんの「繋がりをつくる」という軸。その軸があるからこそ、自然と行動が繋がり、人生が豊かになっていく。「自分の中での達成感や満足感も必要だけど、やっぱり、誰かにそこで認められたり、応援されたりすると、より達成感が増すんですよね」樫村さんの最後の言葉は、人との繋がりの本質を表していました。 11.この配信があなたに届けるメッセージ人生は、一つの行動から始まります。そして、その行動が人との繋がりを生み、新しい出会いを呼び、予想もしなかった未来へと導いていきます。樫村さんの人生は、無理しない繋がりと、挑戦し続ける姿勢が、いかに人生を豊かにするかを教えてくれています。40代で出会ったランニングが、出版へと繋がり、新しいコミュニティへと広がっていく。その連鎖は、決して計画されたものではありません。自然に繋がっていった結果なのです。・辛いからこそ楽しい。・苦しみの先に達成感がある。・仲間がいるから頑張れる。そして、その経験が自信となり、次の挑戦への原動力となる。この配信を通じて、あなたも自分の人生の中心にある軸を見つけてみませんか?あなたのマンダラチャートの真ん中に置くべき言葉は、何でしょうか?

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    #100 「今日、生きていてよかった」と思える樫村さんの人生物語1

    記念すべき100回目の配信は、いつも大変お世話になっている樫村さんです。パチパチパチ「今日、生きていてよかった」と思える樫村さんの人生物語を配信しました。1.いじめっ子だった少年が、人と人とを繋ぐリーダーになるまでいつもエネルギーに溢れ、行動力が半端でない樫村さん。ゼスト株式会社代表取締役、一般社団法人グローバル人事塾では、どんな場面でも、優しく場をまとめる“兄貴分”的な存在です。けれど――彼の人生を深く聞いてみると、まったく違う顔が見えてきました。横浜で生まれ、大阪、横須賀と転々としながら、常に「水」がそばにある生活環境で育った樫村さん。子供時代はガキ大将、学生時代は引っ込み思案、そして社会人では独立されて人を導くリーダーへ。55年以上の人生で培われた、**樫村さんの「本当の強さとやさしさ」**を、あなた自身の耳で確かめてください。 2.幼い日のトースター事件「幼稚園の頃、お腹が空いて、自分でパンを焼こうとしたんです。そしたら、トースターが燃えちゃって…」幼い樫村さんは、目の前で火があがるのをただ見ていることしかできなかった。どうしたらいいか、わからなかった。「両親がそばにいない寂しさ。何もできない無力感。」その光景は、50年以上経った今でも鮮明に記憶に残っています。それは、樫村さんの人生に繰り返し現れる「原体験」だったのかもしれません。 3.両親の離婚、そして“何もできなかった”悔しさ小学1年生のとき、両親の喧嘩。父が母に手をあげ、幼い彼はその場に立ち尽くしました。「悲しい。辛い。でも、どうすることもできない。」母をかばいながら、その無力感が胸に焼きつきました。愛情を求めても、うまく届かない。そんな“寂しさ”が、彼の中に静かに根をおろしました。 4.引っ込み思案の学生時代学生時代の樫村さんは、あなたが今見ている姿とは正反対でした。2〜3人の決まった友人としか遊ばない、非社交的な若者でした。 「えっ、あの樫村さんが!?」そう、信じられないかもしれません。毎日ライブハウス・レコード店に通い、音楽に没頭する日々。それは社会への反抗でもあり、現実からの逃避でもありました。「掴みどころのないありふれた人間」――周りから見れば、**「何者なんだ?」**という存在。「自分が好きになれなかった」孤独な人生。深い人間関係を築けない苦しさ。30代半ばまで、そんな日々が続きました。あの人を惹きつける笑顔も、愛嬌のあるトークも、実は“努力の結晶”だったのです。 5.しかし、そんな彼が変わった理由とは?「愛情に飢えていた10代」「寂しがり屋とリーダー、両方の顔を持つ矛盾」「2008年4月、起業という決断」樫村さんの人生には、私たちが学ぶべき**"何か"**があります。それは、過去のトラウマや弱さを抱えながらも、人生を切り開いていく勇気と行動力です。 6.43歳、人生が変わった瞬間「目立つのは嫌いだった。でも、どこか自由なアウトローに憧れていた」今では「とても社交的ですね」「コミュニティづくりが得意ですね」と言われる樫村さん。しかし、20代・30代の彼は、まったく違う人間でした。2013年、樫村さんが43歳のとき、すべてが変わりました。きっかけは、GCDF(グローバル・キャリア・ディベロップメント・ファシリテーター)という国際資格。資格取得後の継続学習プログラムを見て、彼は思いました。「高すぎるセミナー費用。これに毎月何万円も払うのか…?もっと安価で受講できるプログラムはないのか・・?」そして、ある決断をします。「だったら、自分で継続学習の場を作ればいいんじゃないか」 7.「グローバル人事塾」誕生2023年、樫村さんは『人事の力で世界をかえる!』をビジョンに「グローバル人事塾」を立ち上げます。最初はたった3人でスタートし、今では50名の有志・仲間が支えてくれている。月2〜3回、全国で10数年以上継続する人事コミュニティへと成長しました。でも、本業の時間を削って人事塾を存続させる意味はあるのか?と道半ばで自問自答しながらも、樫村さんは続けることができたのでしょうか?理事の松田さん曰く、「気合と根性と樫村の3Kで継続しているのがグローバル人事塾」。そう笑って答える樫村さん。でも、その裏には深い"生きがい"がありました。 8.インテリジェンス(現パーソル)時代に見た"不幸なマッチング"インテリジェンス (現パーソル)での横浜支店長時代、営業をしながら採用も担当していた樫村さん。そこで彼が目の当たりにしたのは——「どんなに優秀な人材を採用しても、すぐに辞めてしまう現実」それは単なる採用ミスではなく、"その人に合う環境設定がなされていなかった" という組織の問題でした。「この不幸なマッチングをなくしたい」その想いが、独立後の人材紹介事業をはじめるきっかけになった。そして人事担当者を育てる「グローバル人事塾」の設立へとつながっています。 9. 「今日、生きていてよかった」と思える瞬間グローバル人事塾の継続の秘訣を聞かれた樫村さんは、こう答えました。「生きている実感がするんです」参加者からの「すごく良かったです」「明日から実践できます」という一言。全国各地で開催しているグローバル人事塾での、参加者の笑顔。利益でも、損得でもない。精神的なご褒美が、彼を突き動かしていたのです。「周りが理解できなくても、自分が使命感を持ってやる。それがものすごく大事なことなんです」「実は永年のビジネスパートナーがきっかけで49歳で出会ったランニングもそうなんですよ」人事を変え、社会を変え、自身も変え続ける樫村さん。利益じゃない。損得じゃない。人を動かし続ける本当の原動力とは——今すぐ視聴して、あなたの明日のヒントを見つけてください。 『オンリーワン』で語られる、“人生の本音”いじめっ子だった少年が、やがて人の心に寄り添うリーダーになるまで。どんなきっかけで、彼は変わったのか?なぜ今、仲間を大切にするのか?そして――彼の中にある“寂しさ”は、どんな形で昇華されたのか?そのすべてが、『オンリーワン』で語られています。聴き終えたあと、きっとあなたも自分の人生を振り返りたくなるはずです。樫村さんの物語は、どこかあなたの心にも“流れ”を生み出してくれます。

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    #99「命とは時間だ」―亡き父と母が教えてくれた大村さんの人生物語2

    1. あの日見つけた父の手紙が、人生を変えた ―「1日1秒を、命だと思って生きている人はどれくらいいるだろう?」会社員として多忙を極め、ストレスを酒で流しながら過ぎていく日々。そんな大村さんの人生が、一通の手紙で一変します。それは、41歳という若さで亡くなった父が、亡くなる数ヶ月前に書いた「最後の手紙」でした。「もっと生きたかった。1秒でも長く…」その言葉を目にした瞬間、彼は初めて“父と繋がった”と感じたと言います。そして気付くのです。自分が浪費してきた時間こそが、父の望んだ“生きたかった時間”だと。その日を境に、彼はお酒を断ち、「命を使う=使命を生きる」という生き方へと舵を切りました。そこから始まった人生の再構築。学び、出会い、コミュニティ、そして――出版。 📘 初著『片付けパパの最強メソッド』は、「部屋から人間関係、そして人生まで整える」というコンセプトで誕生。講演で出会った編集者の一言がきっかけでした。 偶然か、必然か。コロナ禍で空いた時間が、彼の人生の“使命”を形にするために用意されていたように。「命とは時間」「使命とは、命をどう使うか」大村パパさんの言葉には、体験からしか出てこない重みがあります。 2.【命=時間】亡き母が教えてくれた“人生の本質”あなたは、「命とは何か?」と聞かれたら、どう答えますか?大村さんがその答えに出会ったのは、母を看取った日のことでした。病室で、静かに息を引き取る母を前にして——「時間が止まったような空間」がそこにあった。その瞬間、大村さんは悟ったのです。「命って、“時間”のことなんだ。」その気付きが、すべての始まりでした。父、母と相次いで見送った経験。後悔、喪失、そして静かな確信。「命とは時間。そして、時間を大切にすることこそ、人を大切にすること。」それ以来、大村さんの人生は180度変わりました。仕事も人付き合いも、「どう時間を増やせるか」で考えるようになったのです。ある時、ホームページの設定に1日かかりそうな作業を、ITに詳しい友人が30分で解決してくれた。その瞬間、大村さんは気づきます。「あ、人と人が“得意”を分け合えば、時間を増やすことができるんだ。」それ以来、大村さんはこう呼んでいます。お互いの時間を増やし合える人を——「仲間」と。彼の活動はすべて、この哲学に貫かれています。講演も、本の執筆も、そして「まんせきBar」という交流の場も。そこには、単なるビジネスの話ではなく、「どうすれば命(=時間)を豊かにできるか」という問いが流れています。 3.「副業の超基本」──10年前の自分に届けたい1冊「副業を始めたいけど、何から手をつけたらいいのか分からない」「本業が忙しくて、時間もエネルギーも残っていない」そんな方々のために大村さんは、樫村さんと一緒に『副業の超基本』を12月5日に出版されます。3.1  サラリーマンを続けながら、副業を10年大村さんは某大手電機メーカーでマーケティング、そして現在は人材開発を担当。平日は会社員として働きながら、もう10年以上“副業”を続けてきました。言葉で言うのは簡単ですが、現実は甘くありません。時間は限られている。家族との時間、体力、そして心のバランス。それでも彼は、**「副業で人生を整える」**道を歩み続けてきました。それは、単なるお金稼ぎではなく、**「自分の生き方を整えるもう一つのキャリア」**だったのです。3.2 手探りの10年で気づいた“近道”がある「副業を始めた頃、正直、何もわかりませんでした。」と語る大村さん。だからこそ、この本には、**10年前の自分が読みたかった“地図”**が詰まっています。「無駄な時間を使ってほしくない」「遠回りじゃなく、近道を選んでほしい」経験者だからこそ言えるリアルな“超基本”。それはネット検索では手に入らない、実践者の知恵と、誠実なリアルを書かれています。3.3  副業は「がんばる」より「整える」この本は、副業ノウハウ本ではありません。それは、大村さんが“片付けパパ”として提唱してきた哲学とつながっています。「部屋が整えば、人生も整う」「副業も同じ。やみくもに動く前に、自分を整えることが大事」副業は「足し算」ではなく、「引き算」。やるべきことよりも、やらなくていいことを見つけること。その結果、時間が生まれ、人生が動き出す。3.4  読む人へのメッセージ『副業の超基本』は、「副業で人生を変えたい」すべての人へのガイドブックです。・副業を始めたいけど、何からすればいいか分からない人・今の働き方にモヤモヤを感じている人・自分らしい生き方を取り戻したい人そんな方のために執筆されています。📘 『副業の超基本』著者:大村 信(片付けパパ)、樫村 周磨発売日:2025年12月5日今さら聞けない 副業の超基本:知識ゼロ 経験ゼロから始める (今さら聞けない超基本シリーズ) | 大村 信夫, 樫村 周磨 |本 | 通販 | Amazon 10年前の自分に教えたい、最短の道。遠回りしないための“整える副業術”。「遠回りしたくない人」に届きますように。あなたの時間を、大切にするための1冊です。 4.「時間が足りない」と感じたら聴いてほしい、人生の近道の見つけ方今回のポッドキャストでは、大村さんの“人生の軸”がどのように生まれ、どう現在の活動につながっているのか——まるで一冊の自伝のように語られています。「この瞬間、僕らは命を分かち合っているんですよ。」そう語る大村さんの声には、時間の重みと、優しさが滲んでいます。もしあなたが今、「時間が足りない」「やりたいことが進まない」と感じているなら——このエピソードは、あなたの“時間の感覚”を変えるかもしれません。時間は限られていない。私たちは、増やし合うことができるのです。

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    #98「部屋を整えたら、人生が動き出した」──片付けパパ・大村信夫の整う生き方物語1

    「マクドナルドに授業を抜け出して行ったのが、人生で一番の悪事かもしれません」そう笑って語るのは、整理収納アドバイザー1級とキャリアコンサルタントの資格を持つ「片付けパパ」こと大村信さん。 部屋を片づけると、人生まで整っていく。そんな話を聞いたことがありますか?ただの整理収納アドバイザーではありません。彼はこう語ります。「物の片付けから、人間関係、そして人生まで整える」 そう、部屋を整えることは、自分の生き方を整えること。そんな哲学を持つ“人生の整理人”です。 1.優しい少年が、静岡の田舎で育った日々父親がいない環境で、おばあちゃん、お母さん、8歳離れたお姉さんに囲まれて育った彼は、「手のかからない子」でした。子どものころの大村さんは、とてもおとなしくて素直。女の子と遊ぶほうが安心する、競争よりも「みんな仲良く」を願う、のび太君のような少年時代。ところが、その背景には深い物語があります。大村さんは幼い頃に父親が白血病で亡くなられ、お母さんとおばあちゃん、そしてお姉さんに囲まれて育ちました。「だから、男性には苦手意識があったんです」——この言葉には、彼の優しさと繊細さがにじんでいます。 2.浪人、挫折、そして母への申し訳なさ──高校時代。時はバブル崩壊直後。「銀座で働くビジネスパーソンの就職は厳しくなる」、「理系なら潰しが効く」という情報を信じ、高3直前に文系から理系へコース変更という無謀な挑戦。成績優秀だった彼は、東京の大学から指定校推薦のオファーまで受けていましたが、「聞いたことのない地味な大学だから」という理由で辞退。猛勉強の末、第一志望の大学を目指して1年間必死に勉強するも、結果は全落ち。浪人するも、皮肉にも、1年前に推薦を断った大学に入学することに、、「推薦で行けるって言われた大学に、1年浪人して結局入学することになった。この1年間の時間とお金は何だったんだ…」普通なら絶望する状況。使った時間とお金は何だったのか──そう母親に謝った大村さんに、母はこう答えました。 「それが運命だったんだよ。この1年間は無駄じゃない。一生懸命勉強して、努力することができたことは、きっと将来のためになる」 しかし当時19歳の大村さんには、その言葉を受け入れる余裕はありませんでした。母子家庭で一生懸命支えてくれた母への申し訳なさ。自分の選択への後悔。大学時代は不真面目に過ごしました。 3.大学での「不真面目」が生んだ、「サバイバルスキル」入学初日こそ出席したものの、1週間後にはほとんど大学に行かなくなった大村さん。バイトに明け暮れる日々。でも、留年はしたくない。そこで彼が身につけたのが──「過去問と資料を集める仲介屋」としてのスキルでした。「これを持ってきたんで、どうですか?」「ギブアンドテイク」「みんなでシェアすれば、みんなハッピーじゃん」競争ではなく、仲間。争いではなく、協力。この「サバイバルスキル」こそが、後に彼の人生を支える核となっていきます。 4.就職氷河期、10月の決断大学4年の10月。周りが内定を決めている中、大村さんはまだ進路を決めていませんでした。大学院に行こうか迷っていた彼に、親戚のおじさんが一喝。「お前の母親、どれだけ頑張ってると思ってるんだ」その言葉でハッと我に返り、就職活動を開始。でも時すでに遅し──1997年の10月、超氷河期です。しかし大村さんは、就職活動の掲示板から1社だけピックアップし、応募。書類選考、1次面接、2次面接、最終面接──すべてパス。SPIも受けず、1社目で内定。「本当に偶然でした」と本人は笑います。 5.「英語喋れます」と言って入社、3週間後に海外出張最初の会社で3年、システムエンジニアとして激務をこなした後、転職。2社目の面接でまた言ってしまいました。「英語、喋れますよ」入社3週間後、いきなり海外出張の辞令。「マジか」と思いながらも、英語メールが半分以上。必死で対応する日々。でも、そこでまた発揮されたのがサバイバルスキル。半年でTOEICが200点近くアップ。海外での仕事もこなせるようになりました。 6.今につながる「仲間づくり」の原点大学時代に培った「みんなで合格すればいい」という感覚。それは今、グローバル人事塾、まんせきBar、さまざまなコミュニティでの活動につながっています。出版、コミュニティ運営、そして20年以上続く会社員生活──。すべての原点は、「留年しないため」に編み出した「みんな仲良く」「みんなでシェアすれば、みんなハッピーじゃん」というサバイバルスキルでした。 7.現在ー「部屋から人生まで整える」という使命挫折と葛藤を経験した大村さんは今、大手電機メーカーでマーケティングから人材開発へ。そしてパラレルキャリアとして「片付けパパ」として活動しています。物の片付けから、人間関係、人生までを整える。 「物が散らかっていると、生活も散らかる」子ども時代の"整えられない感情"、受験失敗という"整理できなかった選択"、母への想いという"片付けられなかった気持ち"ーそれらすべてが、今の彼の使命に繋がっています。 優しすぎた少年は、どのようにして「人生を整える専門家」になったのか。 ぜひ大村さんの本を読んでみて下さい。彼の物語は、失敗や挫折を経験したすべての人への、温かいメッセージです。Amazon.co.jp: 大村 信夫: 本、バイオグラフィー、最新アップデート

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    #97  27歳、貯金ゼロ。人生のどん底から這い上がった柳沼さんの人生物語3

    挫折、絶望、そして再起。何度も壁にぶつかりながら、自分の道を切り開いてきた柳沼さんの人生ストーリー。✅ 失敗を恐れず挑戦する勇気 ✅ どん底から這い上がる強さ ✅ 本当の「自立」とは何かこの物語は、あなたの人生にも勇気と希望を与えてくれるはずです。

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    #96 2度の挫折から本当の「働く意味」を見つけた柳沼さんの人生物語 2

    高卒・学歴なし。体力だけが武器。22歳の彼が、なぜ今「幸せな働き方」を企業に教える存在になったのか? 1.「お前、元気そうだな」──たった15分の面接が運命を変えた高校卒業間際。就職活動もせず、進路が決まらないまま焦る日々。そんな時、友人の父親の紹介で出会った電気工事会社の社長。「体を動かすのが好きか?」「はい、それしかできません」「よし、合格」わずか15分。歩いて2分の距離にある会社で、彼の職人人生が始まった。 2.東京ビッグサイト、幕張メッセ──2〜3ヶ月に1回の休み?戦場のような現場展示会の仮設電気工事。スポットライトを設置し、コンセントを這わせ、1〜2日でブースを完成させる。会期が終われば即日には撤去。深夜から次の展示会の準備。徹夜は月に何度も。休みは2〜3ヶ月に1回。「見て覚えろ」の世界で、気性の荒い職人たちと肩を並べ、見えない電気と格闘する日々。給料は20万、30万──。大学に行った同級生より稼いでいた。でも、それが「幸せ」だったのか?  3.「このままでいいのか?」──22歳、心も体もヘトヘトだった月100〜200時間の残業。体は悲鳴を上げ、心は疲弊していく。職人たちも疲れきっている。不平不満が飛び交い、職場の空気は重い。転職したくても、学歴もスキルもない。辞めたくても、次の仕事が見つかる保証もない。「一体この先、どうしたらいいんだ…?」希望の見えない日々の中で、彼は大きな決断を迫られていた。  4.そして今──「真逆」を生きる選択あの地獄のような日々があったからこそ、彼は今こう語る。「働きがい、やりがい、生きがい──当時の僕には何もなかった。だから今、真逆のことをやりたいと思ったんです」現在、柳沼さんは「Well-being HR」という事業を立ち上げ、企業に「幸せに働きながら、利益を上げる経営」を支援している。かつて自分が苦しんだからこそ、伝えられることがある。誰もが幸せに働ける社会を作りたい──その想いが、今の彼を動かしている。  5.「もう、飛び出すしかなかった」— 後がない状態から始まった、人生の大逆転劇あなたは、人生で何度「ゼロ」になったことがありますか?多くの人は、一度もないかもしれません。 しかし、柳沼さんは違いました。25歳までに、2度も会社を変わる経験をにし、その度に、人生のすべてを失いかけた男。電気工事の現場で朝から晩まで働き詰め。深夜まで荷物を仕分けし、朝8時にまた出社。「ウェルビーイング?そんなもの、考える余裕すらなかった」彼が経験したのは、ただ働くだけの人生。やりがいも、未来への希望も見えない日々。  6.就職先も決めずに退職 —「追い込まれた」からこその決断電気工事会社で4年間、必死に働いた柳沼さん。 しかし、心の中のモヤモヤは募るばかり。「今のままでは耐えられない」相談できる人もほとんどいない中、 彼が選んだのは、就職先も決めずに会社を辞めるという危険な賭けでした。普通なら、絶対にやってはいけない選択。 でも、それしか道がなかった。  7.祖母の家庭料理屋で運命の出会い人生のどん底にいた柳沼さんに、一筋の光が差し込みます。祖母が営む家庭料理屋の常連客。 その人が、偶然にも車の運転手を探していたのです。「お前、仕事決めないで 辞めるなよ」怒られながらも、その人の紹介で会った社長は、 柳沼さんの人生を変える存在になります。お抱え運転手として1年間、毎日送り迎え。そして、社長が独立を決意したとき—「お前も、一緒に来ないか?」仕事もない。行く場所もない。 だからこそ、彼は迷わず答えました。「行きます」 8.4人から始まった会社が、3年で売上10億円へ倉庫を借りるところから、トラックの手配、営業活動— すべてがゼロからのスタート。25歳の若さで、柳沼さんは**「0→1」の起業の現場**を体験します。トラックの運転手でありながら、営業もこなし、マネジメントも担当。 部下は20人。アルバイトも含めれば、さらに多くの人を束ねる立場に。会社は急成長を遂げ、 たった3年で従業員25人、年商10億円という驚異的な成長を実現。「やっと、報われる」そう思った矢先—  9.突然の撤退決定。すべてが水の泡に3年半、必死に働き続けた柳沼さん。 しかし、ある日突然のトラブルが発生します。経営方針の変更。 事業部ごと、撤退。物流事業に関わる全員が、リストラ対象に。「どうしようもなかった」深夜まで働き、朝8時に出社する日々。 それを3年以上続けて、最後に残ったのは—「人に人生を振り回される」という、無力感だけでした。  10.2度の挫折が教えてくれた、本当の「働く意味」電気工事会社での4年間。 物流会社での3年半。合計7年半。柳沼さんは「やりがい」を感じられない日々を過ごしてきました。でも、だからこそ彼は気づいたのです。「自分の人生は、自分でコントロールしなければならない」 そして今、彼は新たな挑戦を始めています。どん底から這い上がった男の、リアルな人生ストーリー。あなたの人生にも、必ず響くものがあるはずです。最終回の第3話もお楽しみに!

  19. 97

    #95「誰もやっていないこと」に0から挑戦し続ける柳沼さんの人生物語 1

    初対面の印象は「真面目で優しい人」。 でも話を聞けば聞くほど、柳沼さんの中には誰もやっていない道を選ぶ勇気がある。彼自身は「アウトロー的なところがある」と笑う。 小学3年生で野球の仲間集めに成功し、チームを0から立ち上げた。その経験が、今の柳沼さんを作っている。3つの会社を経営し、ウェルビーイングという大きなテーマで事業を展開する。常に「誰もやっていないこと」に0から挑戦し続ける彼の原点は、あの小学校時代の成功体験にあった。「なんかこう、成功体験として今も残ってるような感じがします」柳沼さんはそう語る。話を聞いていると、その語り口の上手さにも驚かされる。まるで映画のワンシーンを見ているかのように、情景が目に浮かぶ。 1.「なんとなく」から始まった野球人生柳沼圭佑さんは1985年生まれ。今は 3つの会社の代表として「ウェルビーイング」をテーマに事業を展開している。しかし、彼の人生は決して順風満帆ではなかった。山あり谷ありの波乱万丈な道のりを歩んできた。その原点は、小学校時代にある。父親に「野球を習いなさい」と言われて始めた野球。正直なところ、最初は「なんとなく」だったと柳沼さんは振り返る。学校から帰ってきては、グローブとバットとボールを持って友達と練習する日々。少年野球のチームに入り、同級生がまだ野球を習っていない中、2つ年上のお兄さんたちと一緒にプレーしていた。でも、小学3年生の時、何かが変わった。 2.チームを「0から作る」という経験小学3年生の時、柳沼さんの中にある想いが芽生えた。「同級生として大会に出たい」。でも、それを実現するには自分が友達を誘ってこないといけない。そこで彼は動き出した。クラスメートや他のクラスの友達で「いいな」と思う子を見つけると、「野球習わない?」とスカウトしに行った。そう野球チームを0から作り始めたのだ。 3.小学3年生の前歯にボールが直撃事件「本気で投げてこい」クラスのガキ大将がそう言った。でも、小学3年生の柳沼圭佑さんは躊躇した。怪我をさせたくなかったから。けれど相手は引かない。「そんなんじゃ物足りない。本気で投げてこい」仕方なく、本気でビュンと投げた。次の瞬間、ボールは彼の前歯を直撃した。「最悪だ!」柳沼さんは頭が真っ白になった。同級生を集めて野球チームを作りたかった。そのキーマンとなる彼を、自分の手で怪我させてしまった。その日、前歯を折られた少年は帰っていった。柳沼さんは「もう終わった」と思った。しかし、翌日──「やっぱり野球やるわ」前歯を折られたはずの少年が、そう言って戻ってきた。しかも、彼の周りには5人から6人の仲間がいた。ガキ大将が放った一言が、すべてを変えた。「お前ら、野球やれ」。その言葉で、一気にチームメンバーが増えた。そして前歯を折られた彼は、後にエースピッチャーとなる。 4.『自分で作る喜び』が人生を変えた──起業家の原点1人、2人と増やしていき、最終的に11人ほどの同級生を集めることに成功した。そこでは、チーム名を決めるところから、ユニフォームのデザインまで、すべてを自分たちで決めることができた。同級生がいない中、2つ年上の先輩たちと、わずか10人から11人というギリギリの人数で始まったチーム。振り返ってみれば、これが柳沼さんの「チームってこうやって出来上がるんだ」という原体験になった。そして今、3つの会社を立ち上げた彼は言う。「0から1を作るのが好きなんです」誰もやっていないことをやりたい。自分だからこそできることに、やりがいを感じる。その根底には、小学3年生で味わった「自分で作っていく喜び」があった。これが、現在40歳で3つの会社を経営する男の、原点の物語だ。 5.負けたら坊主。だから、彼は野球をやめた——中学2年生の柳沼さんは、顧問の先生にこう告げられました。「試合に負けたから、お前ら全員 坊主だ」チームメイトは従った。でも、彼は違った。納得できない。一生懸命やったのに、なぜ負けたら坊主なんだ?「じゃあ、野球をやめます」その日、彼は9年間続けた野球から離れることになります。 6.父子家庭、東京の団地、買えないもの小学1年生で両親が離婚。父親と2つ年上の姉、3人での生活が始まりました。経済的に豊かではない日々。買いたいものも買えない。野球部の月謝も払えない。母親もいない寂しさを紛らわすように、ただひたすら野球に没頭しました。地域のオールスターチームのキャプテン。小学校では仲間を集め、チームを作る才能を発揮。野球は彼の居場所でした。 7.「お前、才能あるんだから、もう1回、野球をやれ」先輩だった中学3年生を送り出す卒業式の日。やめたはずの野球部の顧問が、彼を呼び止めました。いつものように耳を引っ張りながら。「お前才能あるんだから、もう1回、野球をやれ。俺もいなくなるから」先生も、学校を去るタイミングでした。葛藤の末、彼は決断します。最後の夏、ピッチャーとして戻ることを。 8.不真面目だった自分が、ピッチャーで試合に出ていいのか?真面目に続けてきた仲間たちの中で、ピッチャーマウンドに立つ。3回戦で敗退。「こんな自分がピッチャーをやっていいのか」今でも心に残る、複雑な思い。でも、チームは彼を受け入れました。戦力として、仲間として。 9.そして高校へ——野球を続けるか、やめるか有名な高校からの誘いもありました。でも、経済的な余裕はない。私立という選択肢は選べない。中学3年、千葉県の拓大紅陵高校のグラウンドで、選抜メンバーとして他地区の強豪と対戦した時——全然通用しなかった。体格も実力も、圧倒的な差。胃の中がひっくり返るような衝撃。「これはダメだな」自分に言い訳しながら、彼は野球から離れる決断をしました。 10.40歳で、まだ「0→1」は終わらない今回のポッドキャスト番組「人生配信オンリーワン」では、柳沼圭佑さんの人生を配信しています。小学校時代の「0→1」成功体験から、3つの会社を経営するまでの「山あり谷あり」の人生。ウェルビーイングを広める理由。仲間を集め、チームを作る極意。そして40歳で「誰もやっていないこと」に挑戦し続ける理由。前歯を折ってしまった相手が、エースピッチャーになった。小学3年生で11人のチームを作り上げた。その経験が、今も彼を動かし続けている。起業を考えている人、チーム作りに悩んでいる人、0から1の仕事に興味がある人、人生の転機を迎えている人、誰かの人生に勇気をもらいたい人。このエピソードは、あなたの心に響くはずだ。選択と葛藤の連続が、人を作る高校時代、野球をやめた彼はアルバイトと友達との時間に没頭します。そこから彼の人生は、どう展開していくのか——?第2話もお楽しみに! PSあなたの“スキ”が、もっと誰かの人生の灯になるかもしれません。共感していただけたら、お気軽にポチッと押していただけると嬉しいです。

  20. 96

    #94 挑戦する人だけが見える景色 ― クロスボーダーキャリア支援の藤井薫のオンリーワン人生物語3

    1.まず自分自身が”プロとして生き残ること”そう本音で語るのは、ドバイでグローバルキャリアを支援する藤井さん。彼女の声には、理想と現実の狭間で戦う“プロの覚悟”がにじむ。かつて、人材育成からキャリア開発までを一貫して支援してきた藤井さん。彼女の中にはずっと変わらない軸がある。それは――**「多様性に満ちたキャリアの選択肢を広げ、人の可能性を世界に繋げたい」**という想い。しかし、いま彼女が立つ場所は、世界で特に競争が激しい街・ドバイ。LinkedInに求人を出せば、500通以上の応募が届く。採用の現場では、AIが候補者を自動でマッチングする時代がすぐそこまで来ている。「このままでは、生き残れない。」彼女はそう痛感した。だからこそ、今はしゃがむ。教育ビジネスも、一時的に脇に置いた。再び“プロの人材紹介の現場”で勝負するために。そして彼女が見据える次のステージは――「クロスボーダーのエグゼクティブサーチ」。世界をまたぎ、国境を越え、リーダーたちの未来を繋ぐ挑戦だ。 2.ドバイに飛び込んだ、日本人女性の挑戦― 誰もいない場所で、オンリーワンになるために ―「日本人の人材コンサルタント?この国にはまだいないよ。」その一言が、藤井薫さんの心に火をつけました。北京で教育に携わり、数多くの若者のキャリアを支えてきた彼女。“挑戦し続ける人であれ”と生徒たちに語ってきた言葉を、今度は自分自身に向けて証明する時が来たのです。舞台はドバイ。世界中から才能が集まり、AIが採用を変えようとしている超競争市場。それでも「本当に必要な一人」は、簡単には見つからない。AIでも探せない人材を、国を超えてつなぐのが彼女の仕事。――そう、“人”の心と“可能性”を見抜く力が、藤井さんの武器です。今、彼女は新しい山を登っています。新しい世界を舞台に、挑戦し続けるプロフェッショナルとして再び立ち上がったのです。「夢は簡単に叶わない。でも、挑戦し続けること――その繰り返しが人生だから。」いつも教え子にそう語った言葉を胸に、藤井カオルさんは今日も異国の地で、自らの言葉を生きています。 「やはり、どの国でも、プロとして良い仕事がしたい」その言葉に、彼女の“今”が凝縮されている。崇高な夢を持ちながらも、現実を直視して進化し続ける。まさに“しゃがんで、ジャンプする時期”。  3.『止まって、退化するのが怖い』― ドバイで挑み続ける、日本人女性・藤井薫の生き方 ―「安定してる場所にいると、急に不安になるんです。だから、また挑戦してしまう。」藤井薫さんは笑いながらそう話します。けれど、その言葉の裏には、何度も“破壊と創造”を繰り返してきた人生がありました。そして今、舞台はドバイへ――。そこは、世界中から才能が集まる競争の街。文化も価値観も、何もかもが違う場所で、彼女はまたゼロから積み上げを始めています。「止まるのが怖い。でもそれ以上に、“挑戦しない自分”になるのが怖いんです。」リスクを取らないことが、最大のリスク。その選択を、何度も繰り返してきた藤井さん。彼女の生き方には、「挑戦する人だけが見える景色」があります。ただのキャリア論ではありません。それは、“自分という人間を生きる覚悟”の物語。 「挑戦が好きなんです」と、少し照れながらも本気で言える人。そんな彼女の姿に、きっとあなたも心を動かされるはずです。 『人生配信オンリーワン』今回のゲストは、ドバイから挑戦を続けるグローバルキャリアコーチ・藤井さん。彼女の「生き残るための挑戦」と「未来を繋ぐ想い」を、どうぞ耳で感じてください。 PSあなたの“スキ”が、もっと誰かの人生の灯になるかもしれません。共感していただけたら、お気軽にポチッと押していただけると嬉しいです。#BridgingEastAsiaAndDubaiAbuDhabi#DiverseCareerDesign #GlobalCareerCoaching#CrossBorderRecruitment

  21. 95

    #93 「キャリアを“捨てる”勇気が、私を自由にした」藤井薫さんの人生物語2

    1.離婚、オーストラリア、そして東京。― 一度しゃがんで、大きく跳ぶ―人生が思い通りにいかないとき、それは“しゃがんでいる時間”なのかもしれません。ファッションデザイナーとしてキャリアを歩み始めた藤井さん。しかし、人生の流れは静かに、けれど確実に方向を変えていきました。転職、タレント事務所での新しい仕事。そしてオーストラリアでのワーホリは単なる「語学留学」では終わらなかったのです。 2.結婚したまま、オーストラリアへ行く前から、離婚の予感はあった。それでも夫は言いました。「行っておいで。結婚したままでいいから。」ブリズベンとシドニー、2つの家庭でのホームステイ。どちらも離婚を経験したシングルファミリー。彼女たちは、悲しみよりも「たくましさ」で生きていました。――その姿を見て、藤井さんは気づきます。「あ、離婚してもいいんだ。人生はそこで終わらない。」そして日本に戻り、離婚。けれど、そこからが藤井さんの“人生の再スタート”でした。 3.大阪を出たからこそ、東京に行けた離婚したから、自由になれた。自由になったから、挑戦できた。挑戦できたから、東京へ行けた。――そして、世界最大級の人材会社「ランスタッド」でキャリアを積み上げていく。ファッションデザイナーから人材ビジネスへ。まったく異なる世界で、ゼロから山を登るように挑戦を重ねた日々。その頂上で、彼女は確かに“見たかった景色”を見たのです。 4.登りたい山を、見つけていますか?藤井さんの人生は、まるで登山のよう。一度しゃがんで、大きく跳ぶ。そして登った先で、次の山が見える。「どの山に登りたいのか?」「その山の頂上から、どんな景色を見たいのか?」キャリアに悩む人へ、藤井さんが語る言葉には、“等身大のリアル”と“希望の手ざわり”が詰まっています。 5.みんなが登る富士山じゃなくて、私は“藤井山”を登る― 人生のリセットを繰り返しながら、見える景色を変えていく ―人生は“登山”のようなものかもしれません。登る山が変われば、見える景色も変わる。そしてその景色が変わるたびに、「生きてるって、こういうことなんだ」と感じられる瞬間がある。藤井さんの人生は、まさにその連続でした。5.1  ファッションデザイナーから、キャリアの大転換最初の山は「ファッションデザイナーの世界」。華やかな業界の中で、キャリアを積み上げていく日々。けれど、ふと気づいた。「私が登りたい山は、本当にここなのかな?」そうして彼女は、勇気を持って一度しゃがみ、全く新しい山――人材ビジネスの世界へ飛び込みました。5.2  離婚、オーストラリア、そして中国・深圳へ留学、離婚、転職、海外。誰もが迷い、立ち止まるような岐路を、藤井さんは何度も越えてきました。でも、彼女にはひとつの哲学があったのです。「次の山を登るときは、いま持ってる成功をいったん捨てる。」それは、自分を軽くして、もっと高くジャンプするための「リセット」でした。そうして彼女は、東京・深圳・北京・ドバイへと舞台を変えながら、自分だけの“登山ルート”を切り拓いてきたのです。5.3  「みんなが登る富士山じゃなくて、私は“藤井山”を登る」ある日、お母さんが言いました。「あなたは特別な才能があるわけじゃない。だからみんなが登る富士山の頂上は難しいかもしれない。でも、自分の“藤井山”なら、登れるはずよ。」その言葉が、藤井さんの人生の軸になりました。他人と比べるのではなく、自分の登りたい山を見つける。それこそが“自分らしく生きる”ということ。5.4  今、あなたの登っている山は「誰の山」ですか?エベレストを目指す必要なんてない。評価されるための山でもなくていい。あなたが「この景色を見たい」と思える山を見つけたとき、人生は驚くほどクリアに、そして力強く動き出します。 6.何を捨てて、何を残すか?― キャリアのリセットで人生をワープさせた、藤井さんの挑戦 ―「捨てなきゃ、掴めない。」ファッション業界から人材業界へ。日本からオーストラリア、中国、そしてドバイへ。そのたびに、彼女は“何かを手放す決断”をしてきました。彼女が大切にしているのは、ただの“転職”ではありません。それは、“生き方を更新する”という選択。「人間のキャパには限界がある。だから、次に欲しいものを両手で掴むためには、まずは今の荷物を降ろす必要があるんです。」クライアントとの関係も、積み上げた実績も、すべて一度リセットして、新しいステージへ挑む。その潔さが、彼女のキャリアをワープさせてきました。 7.捨てた先に見えた“想定外の景色”深圳に渡ったとき、藤井さんは学生ビザ。中国語も話せず、仕事のツテもゼロ。それでも、「英語でできることをやろう」と決めて一歩を踏み出した。すると、Forbes JAPAN公式コラムニストへの抜擢、現地の経営者たちとの出会い、そして日本と中国をつなぐヘッドハンティング事業の成功へ。「学生ビザで始めた1年後には、クライアントと一緒にロサンゼルスにいたんです。」まさに“想定外の成長”。環境を変えることで、人生は一気にワープできる。藤井さんはそれを体現していました。 8.能力は同じ。でも、場所を変えると価値が上がる印象的だったのは、この一言。「私の能力は日本にいたときと何も変わってない。でも、場所を変えたら“希少価値”が上がった。」つまり、“自分の才能を活かせる市場を選ぶ”という発想です。彼女はそれを戦略的に実践し、“自分の価値を最大化する生き方”を選びました。 9.あなたに問いかけたい今のあなたのキャリアは、本当に自分の価値が輝く場所にありますか?もし少しでも「違うかも」と感じたら、藤井さんの言葉を思い出してください。「次に掴みたいものが大きいほど、手放す覚悟も大きくなる。」 PSあなたの“スキ”が、もっと誰かの人生の灯になるかもしれません。共感していただけたら、お気軽にポチッと押していただけると嬉しいです。 #BridgingEastAsiaAndDubaiAbuDhabi#DiverseCareerDesign #GlobalCareerCoaching#CrossBorderRecruitment

  22. 94

    #92 UAE、中国など世界を舞台に生きる藤井薫さんの人生物語1

    「結婚も出産も、無理にしなくていい。あなたは、あなたの人生を生きなさい。」「女の子だから」「周りに合わせなさい」そう言われるのが当たり前だった時代に、たったひとり、娘に“逆のこと”を言い続けた母がいました。母にそう言われて育った少女は、やがて世界を舞台に“自分の道”を切り拓いていく。彼女の名は――藤井薫さん。20年以上にわたり、企業と人をつなぐ仕事に没頭。日本で会社を立ち上げた直後には、中国・深圳へ単身移住。さらに北京で教育事業を展開し、今はドバイに拠点を構え、「日本×中国×UAE」を結ぶクロスボーダーキャリア支援を行っています。けれど、彼女の人生は決して“順風満帆”ではなかった。岡山の田舎で生まれ、「女性はこうあるべき」と言われる時代に、“自分の人生を自分でデザインする”という生き方を選んだ彼女。小さいころからの夢であったファッションデザイナーを5年間経験した後に、全く違う業種への転職。オーストラリアへのワーホリ、離婚、東京進出のための転職、起業など、数多くの困難に立ち向かい、藤井さん自身が日々もがき苦しみながら、数多くのキャリア支援をされています。まさに「グローバルキャリアの先駆者」。そんな藤井さんが赤裸々に語られた人生物語は、新しいキャリアに向けて、捨てる勇気など数多くのことを学ぶことができます。 1.“みんなと同じ”じゃなくていい —母がくれた人生の軸 藤井さんは岡山の田舎で育ちました。当時の地域性や時代背景を考えると、「自分の意見を持つ」とか「個性を大事にする」という考え方は、ほとんどありませんでした。まわりの同級生も、きっとそうだったと思います。「みんなと同じように」「ちゃんとした大人になりなさい」——そんな空気が当たり前の時代でした。でも、うちの母だけは違いました。「自分がどうしたいのか、ちゃんと考えてごらん」「夢があるなら、自分の言葉でプレゼンしてみなさい」まるでコーチみたいに、子どもの私に“自発性”を促してくれたんです。だからこそ私は、幼いころから「こうなりたい」「だからこう頑張る」という感覚が自然に身についていた。それは今の私の“人生の軸”にもなっています。たぶん、普通の小学生だったら、そんなことを言われるとプレッシャーを感じたり、戸惑ったりするかもしれません。でも私にとっては、それが当たり前の環境でした。だから他の家庭と違うことを言われている、なんて感覚もなかったんです。今振り返ると、母は私に“枠”をはめなかった人でした。「周りがこうだから、あなたもそうしなさい」——そんな言葉を一度も言われた記憶がありません。たとえば田舎では、「この年齢になったら結婚」「このくらいで子どもを持つ」という暗黙のルールがありました。でも母は、そんな価値観に縛られることを望まなかった。むしろ、「あなたはあなたでいい」と言ってくれた。そのおかげで私は、“枠にはめられない生き方”を、心から心地よく感じられるようになりました。  2.夢を手放した日、私は“本当の自分”に出会った—藤井さんの転職物語子どもの頃からの夢は、ファッションデザイナーになること。その夢を追いかけ、必死で学び、ようやく憧れの仕事に就いた藤井さん。最初の数年は苦労の連続。それでも5年目にはようやく“形”になってきた——周囲からも認められ、生活も安定し、夢は叶ったはずでした。でも、心のどこかでずっと聞こえていた小さな声。「この道では、一流になれない気がする」その気づきは痛みとともに訪れます。そして彼女は、**「夢を叶えたのに、満たされない自分」**と向き合うことになります。ある夏の日、デパートの水着売り場で自分のデザインを販売していたときのこと。お客様と直接話し、笑い合い、感謝される時間が——どんなデザインよりも楽しかった。先輩に言われた言葉が心に刺さります。「藤井ちゃん、販売とか営業のほうが向いてるんじゃない?」その瞬間、彼女は悟りました。自分の中に流れる“人と関わる仕事”へのDNA。そう、両親もまた営業職。血の中に流れていたものを、ようやく自分で見つけたのです。  3.5年間のデザイナーという経験と夢を捨てる勇気悩みに悩み、藤井さんは、ファッションデザイナーという安定を手放し、人材ビジネスの世界へ転職するという大きな決断をします。人と人をつなぎ、誰かの人生の転機を支える仕事でした。かつて布をデザインしていた藤井さんが、今度は「人のキャリアをデザインする」ようになったのです。「私にとって、マッチングの仕事は“究極のクリエイティブ”。だから今も“デザイン”という言葉を会社名に入れています。」自身の会社「ダイバースキャリアデザイン」には、そんな想いが込められています。多様性を受け入れ、自分らしい生き方をデザインする。それは、藤井さん自身の生き方そのもの。「人と人をつなぐ仕事」は、まさに彼女の天職。 4.「一生かけられる」と思えた瞬間ファッションデザイナーから人財ビジネスへ転職を決めたとき、正直、ものすごく悩みました。「これだったら、一生かけてもいい」と思えるものに出会えたからこそ、決断は重かったんです。子どものころから夢見てきたデザイナーの道。そのために努力を積み重ね、時間もお金も注いできた。でも、その夢を手放さなければ次の一歩に進めない——。そんな覚悟が必要でした。一度やめたら、もう戻れない。その怖さを感じながらも、「今の自分を生きる」という想いの方が強かった。だからこそ、あの時の決断は、私の人生の転機になりました。正直に言えば、「これまでの努力を無駄にしたくない」という気持ちもありました。親への感謝や、学費への申し訳なさもあった。「せっかくここまで来たのに、もったいない」周囲からもそう言われました。でも、私は思ったんです。——“もったいない”って、誰の基準なんだろう。結局のところ、自分の人生は自分で選ぶしかない。その時の私は、すべてを手放してでも「無の状態からもう一度、自分が本当に欲しいものを掴みに行こう」と決めました。 雑音に惑わされず、自分の心の声だけを信じた。あの瞬間を思い出すたびに、「あの決断があって本当に良かった」と今も心から思います。過去を捨てる勇気は、未来をつかむ第一歩なんですよね。 5.人生のリセットは、次のジャンプの始まり「一度、人生をまっさらにして世界を見たい」誰もが不安で足を止めるその瞬間、彼女は“しゃがむように”一度下がり、そしてさらに高くジャンプしました。「今思えば、ファッションデザイナーから人材ビジネスというリセットがあったからこそ、その後も挑戦し続けられたんです。」夢を叶えた後に訪れる「空白の時間」。誰もが恐れる“しゃがむ瞬間”を、藤井さんは、逃げずに受け止めました。そして、ジャンプするためにしゃがむ勇気を持ったからこそ、今、人の人生を支える立場に立っているのです。一度しゃがんだからこそ、今こんなに高く跳べている。 夢を叶えたあと、“もう一度”自分を探したくなったあなたへ。あなたの中にも、もう一度ジャンプしたい気持ちはありませんか?藤井さんの言葉には、その勇気をくれる力があります。人生をデザインし直すヒントが、ここにあります。 PSあなたの“スキ”が、もっと誰かの人生の灯になるかもしれません。共感していただけたら、お気軽にポチッと押していただけると嬉しいです。

  23. 93

    #91 誰も褒めてくれない大人へ――“大人の通信簿”で成長するサトウくんの人生物語3

    「過去は変わる。全然変わるの。」そう断言する一人の男性がいます。多くの人が「過去は変えられない」と諦める中、彼は空港の案内板がパタパタと変わるように、すべての過去をポジティブに書き換えてしまうのです。甲子園を夢見ていた野球少年が、なぜリーゼントパーマをかけてソフトボール部に入り、国体選手になったのか。そして就職活動もせずに入った会社で、なぜ取締役まで上り詰めることができたのか。その答えは、彼が持つ独特の人生哲学にありました。 1.野球少年がリーゼントでソフトボール国体選手に?!甲子園を夢見ていた一人の野球少年がいました。しかし高校に入学する頃、時代は不良ブーム真っ盛り。横浜銀蝿やシャネルズに憧れた彼は、野球部に入って坊主頭になることよりも、リーゼントパーマをかけることを選んだのです。そんな彼が見つけたのが、なんと「男子ソフトボール部」でした。野球に似ているけれど、髪の毛を伸ばしていてもいい。真面目な高校生だった彼は、憧れのリーゼントパーマをかけながらも成績優秀で、ソフトボールでも才能を発揮します。そしてついに、千葉県選抜として国体出場という快挙を成し遂げました。行進で手を振る自分の姿が、今でも鮮明に記憶に残っているそうです。 2.お風呂なし→トイレ付き→完備→彼女欲しい!「大学生の立身出世の夢」大学時代は、まさに昭和の青春そのものでした。最初はお風呂なし、トイレ共同の下宿からスタート。でも彼には明確な夢がありました。「立身出世」という、今では死語になってしまった言葉を純粋に信じていた時代です。2年生でトイレ付きの部屋。3年生でついにお風呂もトイレも完備した部屋を手に入れます。そして今度は「彼女が欲しい」と、段階的にステップアップしていく大学生活。現代のように最初から満たされていない時代だからこそ、一つ一つの成長に純粋な喜びを感じることができたのです。彼はこれを「立身出世の夢」と表現し、その輝かしい思い出が今でも走馬灯のように蘇ってくると語ります。 3.悪魔のささやきがくれた最適解そして4年生。就職活動の季節がやってきます。マスコミやテレビ局への憧れはあったものの、何十社も回って挫折を味わうのは嫌だと思っていた時、またしても「悪魔のささやき」が現れました。高校時代の大学推薦に続いて、今度はゼミの教授からの紹介です。「佐藤君、金融系会社はどう?」金融業界なんて全く興味がなかったのに、「まあ、いいかな」という軽い気持ちで就職活動もせずに入社。それが現在の取締役という地位につながったのです。当時は「推薦なんか受けなければ、もっといい大学に入れたのに」「もっとちゃんと就職活動していれば、もっとすごい企業に入れたのに」と思う時期もありました。しかし今振り返ると、「人生万事塞翁が馬」。すべてが最適解だったと確信しています。大手企業に勤める友人たちを見ていると、50歳を過ぎれば出向の現実が待っています。どんなに楽しくても、残りの10年間を屈辱的な思いで過ごす可能性が高い。そう考えると、教授の「悪魔のささやき」に素直に従ったあの判断は、まさに大正解だったのです。会社からは様々な投資をしてもらい、海外研修なども経験し、多くのことを学ぶ機会に恵まれました。そして何より、自分なりの「逆転の美学」を身につけることができたのです。 4.過去は変えられる――全部ポジティブに書き換える人生哲学この物語の真の魅力は、彼の独特な人生哲学にあります。「過去は変わる。全然変わるの」多くの人が過去を後悔する中、彼は「過去なんてそもそもない。あるのは捉え方や記憶だけ」と断言します。そして捉え方を変えれば、「過去なんてゴロゴロゴロゴロ全部ポジティブに変わっていく」のです。あの時振られた彼女への憎しみも、今では「振ってくれたから今の家族ができた。すごいありがたかった」に変わります。空港の案内板がパタパタと変わるように、すべての過去がオッケーサインに変わっていく。この発想の転換こそが、彼の人生を輝かせ続ける原動力なのです。 5.誰も褒めてくれない大人へ――“大人の通信簿”がくれる成長の力さらに興味深いのは、彼が持つ「大人の通信簿」という概念です。郷ひろみをアイドルとして掲げ、「他人と比べても無意味。つまらない優越感しか生まれない」という信念を持ちながらも、実は心の奥底で「大人の通信簿」を求め続けています。「誰も褒めてくれない大人になったけれど、僕の中でやっぱり通信簿っていう概念がずっとあって、いい通信簿を取りたい」この純粋な気持ちが、彼を常に成長させ、新しい挑戦へと向かわせるのです。人から「ダンディだね」と言われることを「おじさんみたいで嫌」と言いながらも、それが自分への評価だと受け取り、さらに磨きをかけていく。「常に今がピークなんだよ。それを更新していってるの。どんどんどんどん」だからこそ、暗い過去も全部明るく思える。今の自分に5をつけられるから、今を肯定できるのです。昔の写真を見せて「かっこいいだろう」と自慢する先輩を見て感じた違和感から、「今を見てもらって、今かっこいいって言ってもらう方がいい」という哲学が生まれました。この男性の人生は、現代を生きる多くの人にとって大きな示唆を与えてくれます。挫折を恐れることの意外な効用、過去の捉え方を変える力、そして「大人の通信簿」を求める純粋な気持ちの大切さ。 6.「毎日がハッピーバースデー」を実践する人生哲学雨の日曜日の夜。5歳の少年は窓際に膝をついて外を眺めていました。曇った窓ガラスに一滴の雨水が右上から左下へとすーっと流れ、窓を二分割したその瞬間、彼は悟ったのです。「人は死ぬんだな」と。それから小学校まで続いた死の恐怖。特に日曜の夜、テレビが終わる時間になると死ぬことばかり考えてしまう少年は、やがて一つの答えにたどり着きました。「100歳まで心も体も元気良くかっこよく家族と幸せにいる」という人生の目標です。これは、野球少年からリーゼント国体選手、そして現在は取締役まで上り詰めた一人の男性の、30分間にわたる人生の全てを語った物語です。 7.影を見るだけで生まれ変わる男の秘密毎朝、ジムでトレーニングを終えてサウナに入り、髭を剃ってシャンプーを済ませる。そして洋服を着替えて飯田橋駅へと向かう途中、アスファルトに映った自分のシュッとした影を見た瞬間、彼は思うのです。「ああ、また生まれ変わった」と。これが彼の言う「毎日がハッピーバースデー」の正体でした。筋トレで充実感を得て、サウナで汗を流して代謝を良くし、身だしなみを整えて颯爽と歩く。その影を見るだけで、毎日新しい自分に生まれ変わったという実感を得られるのです。 8.「株式会社自分」の経営哲学「大半の人は赤字決算で年を重ねている。どんどん負債が増えて、それは経営努力してないから」彼が語るのは、人生を「株式会社自分」として経営するという革新的な考え方です。キャリアという陳腐な言葉ではなく、自分という会社をどう経営していくか。赤字にならなければいい、黒字なら最高だと割り切る潔さがありました。そして彼は「大人の通信簿」を常に意識しています。誰も褒めてくれない大人になったけれど、心の奥底では「いい通信簿を取りたい」という純粋な気持ちを持ち続けている。だからこそ、常に自分を磨き、新しい挑戦を続けているのです。 10.マンダラチャートで描く100歳への道のり大谷翔平が作ったマンダラチャートを使って、真ん中に「100歳まで」を目標に設定。周りに8個、その周りにさらに8個ずつ、全部で64個の項目を埋めて、時々見直しながら評価しています。「言ってるだけじゃ無理だよね。100歳で元気にかっこよくなって。そのためにやっぱり構成するものを一個一個やっていかないと」この計画性と実行力が、彼を常に成長させ続けているのです。 11.家族への感謝と自己受容しかし、彼は決して完璧な人間ではありません。家のことは妻に任せきりで、大学生のような一人下宿人状態。DIYなどの家庭的なことは一切できない。それでも彼は自分の限界を受け入れ、家族への感謝を忘れません。「そういう家族との接し方を犠牲にしてる部分もある。いいことばっかりじゃ実際はないよね。でもそれを分かるようにしてるから、また感謝できるし」この自己受容と感謝の気持ちが、彼をより魅力的にしているのかもしれません。 あなたの人生も変わる30分間昭和から令和まで生き抜いた一人の男性の証言は、現代を生きる私たちに多くの示唆を与えてくれます。「満たされた」現代では味わえない、純粋な向上心と成長への渇望。そして何より、「運命」や「縁」を信じることの大切さを教えてくれるのです。そして何より、5歳で感じた死の恐怖を100歳への目標に変え、毎朝の影を見るだけで生まれ変わりを実感する。過去を全てポジティブに変換し、「大人の通信簿」を求めて常に成長し続ける。 この30分間の物語は、あなたの人生観を必ず変えるでしょう。人生に迷いを感じている方、過去を後悔している方、自分の可能性を信じたい方。そして何より、毎日を生き生きと過ごしたい方にとって、この男性の人生哲学は宝物のような示唆に満ちています。 「今がピーク。それを更新していってるの。どんどんどんどん」そう語る彼の声には、確固たる自信と温かい人間味が溢れています。きっとあなたも「毎日がハッピーバースデー」の意味を理解し、明日からの生き方が変わるはずです。

  24. 92

    #90 鏡の中の自分に「大丈夫だよ」と言いたくなるようなサトウくんの人生物語2

    太っていて、暗くて、親は離婚、母親は水商売...普通なら「どうせ俺なんて」と諦めてしまいそうな環境。夜中に勉強していると、酔っ払いが外階段をドンドンと登ってきて、部屋のドアを叩く音が響く。そんな日常が当たり前だった少年時代。でも、サトウくんは違った。テレビに出る子役として華やかな世界を経験しながらも、家に帰れば複雑な家庭環境。コンプレックスの塊のような毎日を送っていたはずなのに、彼の心の奥底には不思議な確信があった。「俺は大丈夫だ」「きっとできる」という、根拠のない自信。普通なら心が折れるような状況で、なぜ彼は自分を愛し続けることができたのか? 1.吃音と孤独に向き合った少年の記録小学校低学年のサトウくん。太っちょで、しかも吃音症でした。国語の時間になると、教科書の音読が回ってこないかと油汗を流しながらビクビクしていました。「男」も「赤」もうまく言えない。そんな彼が編み出したのは、「うお」と小さく言ってから「男」と発音する独自の裏技でした。必死に、必死に自分のハンディキャップと向き合っていたのです。しかし、試練はそれだけではありませんでした。小学6年生の時、両親の不仲が原因で祖父母の家に預けられることになります。夜になると、狭い部屋におばさんとおばあさんの母親への悪口が響きます。幼い彼は枕を耳に当てながら、その辛い時間をただただ耐えるしかありませんでした。体は痩せて格好良くなりつつあるのに、心には新たなコンプレックスが芽生えていたのです。 2.コンプレックスを力に変えたサトウくんの逆転人生ところが、ここで人生の不思議が起こります。その辛い1年間が、なぜか彼にとって最高に幸せな時期となったのです。野球が上手になり、クラスの人気者になり、まるで別人のような輝きを見せ始めました。まさに「人生はプラスマイナス」を体現する瞬間でした。しかし、再び試練が襲います。中学に戻ると両親は結局離婚。当時はまだ珍しかった「片親の子」というレッテルが、新たなコンプレックスとなって彼を苦しめました。そんな彼を救ったのは、ピンクレディのミーちゃんでした。テレビで「頬の肉をなくすには叩くといい」と言っているのを見て、彼の「頬を叩く人生」が始まったのです。継続的な努力、強い意志、そして明確な目標。これらが彼を今の姿に変えていきました。今では信じられないかもしれませんが、あの饒舌で自信に溢れたサトウくんの頬がこけているのは、実はこの努力の結果なのです。彼は語ります。「努力が必要だよね、継続的な。なりたいっていう強い思いがね」と。片親だからこそ勉強を頑張り、公立高校から大学へ。運動も継続し、常に何かの目標を持ち続けました。コンプレックスを原動力に変え、逆境を乗り越えてきた彼の人生は、まさに現代人への希望のメッセージなのです。 3.「ある心理学理論」との出会い数十年後、キャリアコンサルタントとして活動していたサトウくんは、カナダの心理学者バンデューラが提唱した理論と出会う。その瞬間、まるで稲妻に打たれたような衝撃が走った。「あ、これだったんだ」自己効力感。自分には「できそうだな」という感覚を持つこと。多くの日本人が苦手とするこの感覚を、彼は無意識のうちに身につけていたのだ。子役時代の成功体験、テレビで見るかっこいい大人たちへの憧れ、周りからの「サトウくんは大丈夫だよ」という言葉。そして何より、自分で自分を褒め続けてきた習慣。これらすべてが、バンデューラの理論が示す「自己効力感を高める4つの要素」と完全に一致していた。 4.「自分をけなす人生」か「自分を褒める人生」か「自分と一緒にいる時間が一番長いんだから、自分をけなす人生と自分を褒める人生、どっちを選ぶ?」サトウくんのこの言葉に、多くの人がハッとする。日本人は謙遜を美徳とし、減点主義で育てられる。でも、それでは自己効力感は育たない。海外で活動することが多いリスナーは、日本人の元気のなさを痛感している。「だからこそ、僕たちが変えていけばいい。周りの人に自己効力感を教えてあげればいい」サトウくんの人生は、まさに希望の光だった。どんなにコンプレックスがあっても、どんなに困難な環境でも、自分の中に「できそうだな」という感覚を育てることができれば、人生は必ず好転する。 5.マネジメントの本質も、子育ての秘訣も、すべてここにある部下に成功体験を与える、自分がお手本を示す、褒めて認める、体調を気遣う。これらはすべて、自己効力感を高めるための4つの要素そのものだ。優秀なマネージャーが無意識にやっていることを、理論として体系化したとき、その威力は何倍にもなる。子育てでも同じ。「あなたはダメな子」ではなく「あなたはできる子」と伝え続けることの大切さ。それは単なる励ましではなく、科学的根拠に基づいた人間育成の方法論なのだ。今、草野球で最年長選手として記録を更新し続けているサトウくん。大谷翔平やイチローの試合を見ると「打てそうな気がする」と笑う。この感覚こそが、自己効力感の真髄だ。 今すぐ、この物語を体験してくださいコンプレックスに悩んでいる人、自分に自信が持てない人、部下や子供をどう励ませばいいかわからない人。大丈夫です。サトウくんの実体験が証明しています。人は本当に変われるのです。すべての人に聴いてほしい、特別な20分間がここにある。理論だけではない、リアルな体験に裏打ちされた智慧。今日から使える具体的な方法。そして何より、「自分も変われるかもしれない」という希望の光。彼の率直で感動的な体験談は、あなたの心に勇気の火を灯すはずです。あなたの中に眠る「できそうだな」という感覚を呼び覚ます物語が、ここから始まります。聴き終わった後、きっとあなたは鏡の中の自分に「大丈夫だよ」と言いたくなるでしょう。 PSあなたの“スキ”が、もっと誰かの人生の灯になるかもしれません。共感していただけたら、お気軽にポチッと押していただけると嬉しいです。

  25. 91

    #89 幼稚園に通わなかった子役が、金融系企業の役員になるまでのサトウくんの人生物語1

    あなたが幼稚園に行っていた頃、一人の少年は撮影現場でベッドに横たわり、死亡役を演じていました。上から大人の役者がかぶさってくる中、その少年の心には深い印象が刻まれていたのです。今回の「人生配信オンリーワン」第1話のゲスト、サトウくんが語るのは、まさにその時の体験から始まる驚異的な人生哲学です。「太った子どもの小役」というコンプレックスに苦しんだ幼少期が、後に人生最大の武器となった奇跡の物語。それは単なる成功談ではなく、私たち全員が今すぐ実践できる生き方の革命でした。 1.幼稚園に行けなかった子役朝4時。千葉市の住宅街はまだ薄暗い中、一台の黒塗りのクラウンが静かに停車します。座席には黒いカバーがかけられ、まるでVIPを迎えに来たかのような重厚な雰囲気。しかし車に乗り込むのは、まだ幼い一人の男の子でした。この男の子の名前は佐藤一明、通称サトウくん。彼がこれから向かう先は、伊豆の海辺や都内の大別荘での撮影現場。なぜなら彼は、2歳の頃からテレビ、映画、CMなどの子役だったからです。「僕は幼稚園に行ったことがないんですよね」現在、金融系企業で役員を務めるサトウくんが、そう静かに口にした時、配信を聞いている私たちは一瞬言葉を失います。幼稚園への憧れを今でも抱き続ける彼の人生は、まさに「普通」とは真逆の道を歩んできたのです。 2.コンプレックスと、それを跳ね返すリベンジの人生当時の子役界は、クリクリした目の可愛いハーフの子どもたちが主流でした。サトウくんは、女性セブンに掲載され、人気アイドルのドラマにも出演していたような子役とは違いました。ハーフでもない、どちらかというとぽっちゃりした「健康優良児」。その一風変わった存在感こそが、彼の武器だったのです。しかし、成功の裏には深刻な苦悩がありました。大別荘での金持ちの息子役の撮影。周りには監督、カメラマン、照明、音響…約20人の大人たちが彼を取り囲みます。「はい、スタート!」その瞬間、極度の緊張から彼を襲ったのは吃音症でした。「ど、ど、どうして…」言葉が出てこない。焦れば焦るほど、どもってしまう。袖から心配そうに見つめる母親の顔が目に入ると、さらに焦りは増していきます。子どもながらに感じる周囲への迷惑、そして自分への失望。これらすべてが、後の彼を形作る「原体験」となっていたのです。「僕の人生は、コンプレックスとそれを跳ね返すリベンジの人生なんです」太っていることへのコンプレックス、吃音症への恐怖、幼稚園に通えなかった疎外感、同世代の子どもたちとの圧倒的な経験の差。これらのコンプレックスが、彼の人生を動かす原動力となったのです。そして現在。あの「健康優良児」だった子役は、金融系企業で役員を務めています。人事部長として10年間のキャリアを積み、株主総会を経て2期目の役員として活躍中。反抗期もなく大人になった彼の人生には、一体どんな秘密があるのでしょうか。特殊な幼少期を過ごした人が、どのようにしてビジネスの世界で成功を収めたのか。コンプレックスをどうやって武器に変えたのか。そして今も続く「リベンジ人生」の全貌とは。 3.コンプレックスが最高の財産に変わる瞬間「僕の中にある印象としては、やっぱり太った子役みたいな、それがずっとあって」幼少期という多感な時期に感じたこのコンプレックスが、実は彼の人生を豊かにする土台となっていったのです。なぜなら、その特殊な環境こそが彼に「役割の重要性」を教えてくれたから、撮影現場では一つ一つのパーツが重要で、どんな小さな役でも全体を支える大切な存在だということを、幼い彼は肌で理解していました。この経験が、後に会社という組織の中でも「パーツとしての重要性」を自然に理解し、プレッシャーを感じることなく、様々な役割をこなせる大人へと成長させていったのです。 4.無意識の演技を意識化する革命数十年後、人事の仕事に携わったサトウくんが出会ったのが、アメリカの心理学者ドナルド・スーパーの「キャリアレインボー理論」でした。この理論は、人間は様々な役回りを持ち、それらが多いほど豊かな人生を送れるというもの。まさに幼少期から実践していた彼の生き方と完璧に重なったのです。「あ、良かったんだ」と感じたその瞬間、彼の中で全てが繋がりました。私たちは皆、毎日無意識に様々な役を演じています。会社員として、親として、友人として、そして一人の人間として。しかし、多くの人はそれを意識していません。「無意識でやってるっていうのはもったいない」とサトウくんは語ります。意識するだけで、お父さんの顔、会社の顔、プライベートの顔が全く変わってくる。見え方も視点も気づきも、すべてが劇的に変化するのです。 5.株式会社「自分」の社長としての経営戦略さらに革新的だったのは、マーケティング理論を自分自身に応用するという発想でした。自分は、株式会社「自分」の社長なわけだから企業がセグメント分析をしてポジショニングを決め、ターゲットを設定して4P戦略を展開するように、私たち自身も同じことができるのです。自分のポジショニングはどこにあるのか?ターゲットとする相手は誰なのか?そして自分という商品をどう磨き、どうプロモーションしていくのか?この戦略が明確な人は魅力的で、人が自然と近寄ってきます。そして新しいコミュニティが生まれ、また別の顔、別の役割が生まれていく好循環が始まるのです。 6.ただし、大根役者では売れないしかし、ただ役を演じるだけでは不十分だとサトウくんは警告します。「大根役者じゃ、どんな役をやってても売れないよ」自分の見せ方、演出の仕方、そして役作りのすべてを自分で考え抜いてこそ、上のステージに行けるのです。これは決して表面的な演技の話ではありません。学び続けること、成長し続けること、そして自分自身を深く理解することが、真の「役者」になるための条件なのです。 7.あなたの人生脚本を今すぐ書き換えませんか?この配信は、単なる成功体験談ではありません。幼稚園での特殊な体験から始まり、心理学理論、マーケティング戦略まで、人生の「脚本家」「演出家」「主演俳優」すべてを自分で担う具体的な方法を教えてくれる、実用的な人生講座です。この配信を聞き終えた時、あなたは間違いなく「人生」というものについて、全く違う見方をしているはずです。今すぐ再生ボタンを押して、サトウくんの壮絶で感動的な人生ストーリーに耳を傾けてみてください。そして次回、小学生編では、さらに予想もつかない展開が待っています。 PSあなたの“スキ”が、もっと誰かの人生の灯になるかもしれません。共感していただけたら、お気軽にポチッと押していただけると嬉しいです。

  26. 90

    #88 海を越えて夢を追う沢野さんの人生物語3

    この配信は、単なる成功談ではありません。 大企業で30年間、海外でグローバルに戦い続けた一人の男が、ついに自分だけの使命を見つけるまでの、リアルで生々しい人生ドキュメントです。 キャリアに悩むあなた、海外挑戦を考えているあなた、起業を検討しているあなた、そして日本の未来に想いを馳せるあなたにとって、必ずや新たな気づきと勇気を与えてくれる内容となっています。沢野さんの率直で時に迷いも見せる語り口から、あなたも自分の人生について深く考えるきっかけを得られるはずです。大企業での安定した地位を捨ててまで追い求めた「本当にやりたいこと」とは何だったのか。その答えを、ぜひあなた自身の耳で確かめてください。 1.経営企画部門、華やかなキャリアの裏に潜む“違和感”「テンション、むっちゃ下がってますね...」 配信の途中で思わず指摘されてしまった沢野さんの表情の変化。実はそこに、多くのビジネスパーソンが抱える深刻な問題が隠されていました。 ドイツ駐在から帰国し、誰もが羨む「経営企画部門」に配属された沢野さん。中期経営計画の策定、戦略立案、M&A案件、そしてPMI(ポストマージャーインテグレーション)まで、まさにエリートコースを歩んでいました。取締役会議の事務局を務め、構造改革プロジェクトを率いる日々。周囲から見れば、これ以上ない華やかなキャリアだったはずです。しかし、沢野さんの心の中には、言葉にできない違和感が渦巻いていました。「やりたいことではないというわけでもないけれど、ちょっと違う世界だった」。そんな微妙な感情を抱えながら、気がつけば7年という歳月が流れていたのです。「7年も経ってようやく分かれよ、という話なんですけど...」と苦笑いする沢野さん。多くの人が経験するであろう、このキャリアの迷いと向き合い続けた7年間でした。 2.エリートから挑戦者へ──中国転職がもたらした本当の輝き そして転機が訪れます。安定した日本企業を離れ、中国企業への転職を決意したのです。なぜ中国だったのか。そこには、日本の製造業の現実を海外で目の当たりにした沢野さんの深い洞察がありました。中国ビジネスの圧倒的なスピード感、迅速な意思決定プロセス、そして何より構築できた貴重な人的ネットワーク。 「エネルギー高くなってますね、今!」配信者に指摘された通り、中国企業での経験を語る沢野さんの表情は一変していました。そこには、自分が本当にやりたいことを見つけた人特有の輝きがありました。 3.世界で戦えるリーダーを育てたい──沢野さんの起業による新たな挑戦 中国企業で日本のカントリーマネージャーとして働きながら、沢野さんの心には新たな使命感が芽生えていました。「日本の中堅企業を外に出していくサポートをしたい」「それを実現できるグローバルリーダーを育てたい」。そんな想いが、2023年12月の起業へと導いたのです。会社名は「グローバルエクセレンス」。「グローバルエクセレンスに生きようぜ」という想いを込めて名付けられました。世界とお客様をスマートに繋ぐパートナーとなり、世界で活躍できるグローバルリーダーを育成する。それが沢野さんの描く未来図でした。「本当に日本の企業の方がどんどん世界に出て行って、商売していく。中小の方でも海外ビジネスを当たり前にできるような、そんな世界を作りたい」沢野さんの夢は壮大でした。個人の成功を超えて、日本全体を豊かにしたいという社会貢献への強い意志がそこにはありました。 4.中国コネクションが開いた新世界偶然とも必然とも言える中国でのコネクション構築が、沢野さんのビジネス人生を一変させました。「安くていいものを欲しがるお客さんを助ける」というシンプルな哲学の背景には、製造業の現場で培われた深い洞察がありました。彼がどのようにして海外との橋渡し役となり、お客様に本当の価値を提供できるようになったのか。その具体的なプロセスを詳しく解説しています。 5.一億円への道のり「まずは1000万円から5000万、そして1億という形で売上を上げていきたい」と語る沢野さん。この言葉は単なる夢ではありません。製造業の海外進出をサポートする独自のビジネスモデルを構築し、着実に成果を上げ続けている現在進行形の挑戦なのです。特に海外進出を望む製造業の経営者や、グローバル市場でのリーダーシップを求める企業にとって、沢野さんのアプローチは革新的でありながら実践的です。 6.グローバル人材育成の真実実は沢野さん、『グローバル人材育成の教科書』という本の著者でもあります。インバウンド対応の悩みをゼロにする グローバル人材育成の教科書[外国人観光客を相手に成果を出す人はこう考え、こう動く!]| 沢野 純一|本 | 通販 | Amazonしかし彼の教える内容は、一般的なビジネス書とは一線を画します。 「もう口角を自分で上げてくださいって僕のセミナーでは言っちゃいます」という言葉に象徴されるように、テクニックではなくマインドセットから変革を促します。 海外で笑顔で仕事を楽しむために必要な要素として、チャレンジ精神、異文化理解と対応力、英語でのコミュニケーション力、そして課題発見・解決能力を挙げる沢野さん。しかし最も印象的なのは、「ちょっとしたことだと思うんですよ。楽しく仕事しちゃうとか、チャレンジしちゃおうかなと何でもいいんですけど」という彼の言葉です。複雑に見える国際ビジネスも、実は小さな一歩の積み重ねから始まることを教えてくれます。 7.現在進行形の成長物語このエピソードが特別なのは、沢野さんが今まさに成長の最中にあることです。「これからこう上げていかなくちゃいけない」と語る彼の姿勢からは、成功者の余裕ではなく、挑戦者の熱いエネルギーが伝わってきます。売上拡大への具体的な戦略、顧問として企業をサポートする現場での実体験、そして日本企業のグローバル化への強い想いまで、すべてがリアルタイムで展開されています。 8.日本への熱い想い「日本にもっと元気になってもらいたい。多くの方々に海外に出てもらいたい」沢野さんの言葉は、単なるビジネストークではありません。グローバル市場で戦い続ける彼だからこそ見える日本の可能性と課題について、熱く語ります。少しでもエネルギーを共有し、相手をインスパイアしたいという彼の想いが、このエピソード全体に息づいています。  なぜ今、このストーリーを聞くべきなのか 円安基調でグローバルビジネスが注目される今、沢野さんの体験談は単なる成功例を超えた価値があります。AI時代だからこそ求められる人間らしさ、グローバル人材不足が叫ばれる中での具体的な解決策、そして何より「普通の人でも海外で成功できる」という希望を与えてくれます。理論ではない現場の生の声、失敗も成功も包み隠さない本音のトーク、そして今まさに売上拡大中の進行形ストーリー。このすべてが10分間に凝縮されています。 あなたのビジネス人生を変える10分間沢野さんのエネルギーと情熱は、画面越しでも確実に伝わってきます。「少しでもエネルギーの共有ができれば、それでなんか感じてくれたりね、ちょっとだけでもインスパイアーしていただければ」という彼の願いは、きっとあなたにも届くはずです。海外ビジネスへの恐怖心を克服したい方、製造業での海外進出を真剣に考えている経営者、グローバル人材として成長したいビジネスパーソン、中国ビジネスの実情を知りたい方、そして何より日本をもっと元気にしたいと願うすべての人にとって、このエピソードは必見です。今すぐこの特別エピソードをご視聴ください。沢野さんの熱い想いと実践的な知恵が、あなたの人生とビジネスに新たな可能性をもたらすことでしょう。 PSぜひ沢野さんの『グローバル人材育成の教科書』を手に取って、沢野さんの熱い想いを受け取ってみて下さい。インバウンド対応の悩みをゼロにする グローバル人材育成の教科書[外国人観光客を相手に成果を出す人はこう考え、こう動く!]| 沢野 純一|本 | 通販 | Amazon PPSあなたの“スキが、もっと誰かの人生の灯になるかもしれません。共感していただけたら、お気軽にポチッと押していただけると嬉しいです。

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    #87 海外で勝負した男の告白 - 沢野さんが語る挑戦者の人生物語2

    沢野さんの体験談は、単なる昔話ではありません。 海外駐在を夢見る人だけでなく、現状に満足してしまっている全ての日本人に向けた、挑戦者としての生き方を説いた人生論なのです。 失敗を恐れず、常に動き続ける。マグロのように、止まったら死んでしまうという危機感を持ち続ける。そんな生き方が、今の時代にこそ求められているのではないでしょうか。動き続けなければ死ぬ。それがマグロの、そして真の挑戦者の生き方です。 1.海外に行きたい想いが実現させた転職安定した企業で数年間働いた後、彼は一つの夢だけを胸に大きな決断を下しました。海外ビジネスを展開するアルプス電気(現アルプスアルパイン)への転職です。当時、その会社の6〜7割が海外ビジネス。沢野さんは車載電子部品を扱う部門に配属され、念願の海外勤務への第一歩を踏み出しました。面接では堂々と宣言したそうです。「海外に行きたいんです。そのためにここに入ってきました」 2.アメリカ駐在の現実は想像を超えていた1年間、日本で海外営業の「キャッチャー」として経験を積んだ後、ついにその時が来ました。アメリカのデトロイトへの駐在辞令です。夢が叶った瞬間でした。しかし、現実は甘くありませんでした。アパート探しから始まり、英語の契約書との格闘。マクドナルドで「ヒア・オア・トゥーゴー?」すら聞き取れない屈辱的な日々。デトロイトの早口英語は、彼の英語力を容赦なく打ち砕きました。さらに重くのしかかったのは、駐在員としてのプレッシャーでした。現地スタッフより高い給料をもらっている以上、それ相応のパフォーマンスを求められる。「こいつはこのぐらいもらってるのに、この程度のパフォーマンスか」という冷たい視線を常に感じながら、フォード、クライスラー、そして日系の自動車メーカーを相手に、エアコンスイッチやパワーウィンドウスイッチなどの車載部品を売り込む日々が始まりました。 3.なぜ彼は潰れなかったのか?多くの駐在員が現実の厳しさに打ちのめされ、日本人コミュニティに閉じこもってしまう中で、沢野さんは違いました。「海外に行きたいという想いでここまで来たのに、ここで諦めたら自分が目指すレベルに達していない。やるしかない」という強い信念が彼を支えていたのです。そして彼が口にした印象的な言葉があります。「なんか動いてないと死んじゃうみたいな、マグロみたいな人間なんです」。この哲学こそが、彼を常に前進させ続ける原動力でした。 4.現代日本への痛烈なメッセージ最終的に沢野さんは、アメリカ人と同等に戦うためにMBAまで取得し、真のグローバル人材として成長を遂げました。しかし、彼の目には今の日本の姿が深刻に映っています。「今の日本人は本当にヤバい。安定に甘んじていると、それって本当に怠惰だと思う。世界中が頑張っている中で、日本だけが今までの貯金を食いつぶしている。そこに行っちゃうと、登り上がるのにすごく時間もかかるし、上がれないかもしれない」この言葉は、現状維持に安住している私たちへの強烈な警鐘です。 5.5年間のアメリカ生活で掴んだ人生の極意とは?30代半ば、沢野さんは人生最大の決断を迫られていました。アメリカ・デトロイトへの5年間単身赴任。しかも課せられたミッションは「売上を2倍にしろ」という、まさに背水の陣でした。最初の3年間、沢野さんは正直に告白します。「毎週ゴルフしまくって飲んだくれて...そんな生活でした」。しかし、残り2年でふと我に返ります。このままではいけない。同僚たちと対等に話すために、MBAを取得しようと決意したのです。「アメリカは入るのは簡単だけど、出るのがむちゃくちゃ難しい。日本の逆なんです」働きながらのMBA取得は想像を絶する苦労でした。16科目46単位を夜と週末だけで取得する日々。「半分ぐらいは泣きが入ってました」と振り返る沢野さん。それでも現地の友人たちの温かいサポートに支えられ、ついに学位を取得します。「彼らがいなかったら絶対に卒業できなかった」という感謝の言葉からは、異国での人とのつながりの大切さが伝わってきます。 6.「しょうがねえな」と言える強さ、ドイツ8年が鍛えた“どこでも生き抜く力”5年間のアメリカ生活を終え、日本に帰国した沢野さん。新しい電気製品を揃え、「よし、日本で頑張ろう」と意気込んでいたのも束の間。なんと1年後、またしても海外転勤の辞令が下ります。今度はドイツです。「最新のエアコンも冷蔵庫も買ったばかりなのに、全部安く売り飛ばして...」こうして始まったドイツでの8年間は、沢野さんのキャリアにとって転機となりました。BMW、ダイムラー、アウディといったヨーロッパの名だたる自動車メーカーを相手に、ミュンヘン、デュッセルドルフ、イギリス、スウェーデンまで、ヨーロッパ全域のオペレーションを統括する重責を担ったのです。特に印象的なのは、日本人社長からローカル社長への交代時期と重なったこと。「サポートを強化しなくちゃいけない」という状況の中、5年の予定が8年に延長されることになります。「しょうがねえな、残るか。まだヨーロッパで行ってないところもあるし」という沢野さんの飄々とした語り口が、長期海外生活を乗り切る秘訣を物語っています。 8年間のドイツ生活で身につけたのは、単なる語学力やビジネススキルだけではありません。「住めば都って本当に正しい言葉だと思う」という言葉通り、どこでも生きていける適応力と、異文化の中でも結果を出し続ける実行力でした。 7.13年の海外挑戦がつくった沢野さんの“世界力”日本帰国後、沢野さんにはもう一つの挑戦が待っていました。中国市場への参入です。「中国をやりたかった」という強い想いを持ちながらも、会社からは一度日本に戻るよう指示される。それでも諦めない沢野さんは、中国担当として1年半にわたり現地メンバーと共にプロジェクトを推進していきます。合計13年間の海外生活。アメリカで学んだ競争の厳しさ、ドイツで培ったマネジメント力、中国で感じたダイナミズム。そのすべてが沢野さんという人間を形作っています。 今すぐ聴いてみて下さいこの配信では、グローバルビジネスの最前線で戦い続けた一人のサラリーマンの、等身大の体験談をお聞きいただけます。成功だけでなく、失敗や迷い、家族との時間、そして何度も訪れた人生の転機をどう乗り越えてきたのか。もしあなたが今、キャリアの壁にぶつかっていたり、新しい挑戦を躊躇していたりするなら、沢野さんの物語は必ず何かのヒントを与えてくれるはずです。世界を舞台に活躍することは、特別な人だけの話ではありません。普通のサラリーマンでも、決意と行動力があれば、人生は大きく変わる。沢野さんの13年間の軌跡が、それを雄弁に物語っています。ポッドキャスト「人生配信オンリーワン」沢野さんエピソード あなたの人生観が変わる20分間を、ぜひお聞きください。 PSあなたの“いいね”が、もっと誰かの人生の灯になるかもしれません。共感していただけたら、お気軽にポチッと押していただけると嬉しいです。

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    #86 人生に正解なんてない、沢野さんの人生物語1

    あなたは今、人生に迷っていませんか?「このままでいいのか?」と思いながらも、何をしていいかわからない...そんなあなたに聞いてほしい、一人の男性の物語があります。 埼玉県川越市で生まれた沢野純一さん、通称「Jay」。 現在、サラリーマンをしながら自分の会社も経営するという二足のわらじを履いています。彼が目指すのは「弱くなった日本の製造業を強くする」こと。海外進出の支援や、安価な部材の調達、そしてグローバル人材の育成という、まさに彼の経験が活かされる分野での挑戦です。 この配信を聞いてほしいのは、人生の方向性に迷っている学生や社会人、海外経験に興味があるけれど一歩踏み出せない人、転職や起業を考えているビジネスパーソン、そして「普通の人でも人生を変えられる」ということを知りたいすべての人です。 沢野さんの物語から得られるのは、まず勇気です。 「ぼーっと生きていた」人でも人生は変えられるという希望。そして新しい視点。海外経験が与える価値観の変化の実例。さらに行動力。休学してでも挑戦する決断力の源泉。加えて柔軟性。「何でもあり」という適当さの重要性。最後に実践知。グローバルビジネスの最前線で学んだ生きた知識です。沢野さんはこう語ります。 「人生に正解なんてない。でも、一歩踏み出してみれば、必ず何かが変わる。僕の『適当』な人生が、あなたの背中を少しでも押せたら嬉しいです。」 30年前、新聞社でのバイトがきっかけで海外に飛び出した一人の青年。その後の歩みは決して順風満帆ではなかったかもしれませんが、彼が手に入れたものは何物にも代えがたい人生の財産でした。今すぐ再生ボタンを押して、あなたの人生を変える「きっかけ」を見つけてください。 1.新聞社バイトから始まった、30年のグローバル人生ストーリー小学校から大学まで、彼自身が「ぼーっと生きていた」と振り返るほど、ごく普通の青年でした。勉強もそこそこ、大学でも遊びとバイトに明け暮れる日々。親も「こいつ大丈夫か?」と心配するほどの、どこにでもいる学生だったのです。しかし、運命は思わぬ形でやってきました。数あるアルバイトの中で選んだ新聞社での仕事が、彼の人生を180度変えることになったのです。新聞社には多様な人々が集まっていました。芸能人も出入りし、海外から帰国したばかりの人、これから海外に向かう人。ぼーっと生きていた青年にとって、それは全く別の世界でした。「あ、なんかこれって面白いんだな。こういう世界があるんだな」そう気づいた瞬間から、沢野さんの中で何かが変わり始めました。特に印象深かったのは、海外経験のある人たちとの出会いでした。英語もほとんど話せない、高校時代に交換留学の話が出ても「ふーーん」と他人事のように感じていた彼が、突然「海外」というキーワードに引っかかったのです。まるでスイッチがポチッと押されたかのように。決断は早かった。大学4年生の時、思い切って大学の休学を決意。どうせ勉強の柄じゃないし、ぼーっと生きてきたのだから、いっそのこと「遊学」をしようと決めたのです。遊ぶための留学。なんとも沢野さんらしい発想でした。 2.エアーズロックに呼ばれて──遊び心が起業家精神を育てた1年遊学として行き先に選んだのはオーストラリア。理由は驚くほど単純で「エアーズロックがあるな」という軽いノリ。しかし、22歳の沢野さんがオーストラリアの地に降り立った時、彼はまだ知らなかった。この経験が、彼の人生観を根底から変え、その後の波瀾万丈な人生の原点となることを。ワーキングホリデービザで渡豪した沢野さんですが、「働ける」ビザなのに基本的にはホリデーしかしていませんでした。当時のオーストラリアは今とは比べものにならないほど物価が安く、ビール1本が50円という夢のような時代。100万円程度あれば十分暮らせたため、彼の遊学生活が始まったのです。特に印象的だったのは、フリーマーケットでの商売体験でした。手作りの折り紙や飛び出す絵本のようなポストカードを作って売る。1日の売上は500円程度でしたが、それでも「お酒代になればいい」という気軽さ。この経験が後の起業家精神につながっているのかもしれません。しかし、オーストラリアで得たものは遊びの経験だけではありませんでした。アングロサクソン系とアジア系が混在する多様な社会で、様々な価値観を持つ人々と出会い。英語学校で出会ったインドネシアやマレーシアからの留学生たち。イスラム教の彼らとの交流は、沢野さんにとって毎日が驚きの連続でした。握手一つとっても、左手と右手の使い分け。お祈りの時間。宗教的な考え方の違い。「毎日がスポンジのように新しい学びを吸収していく感覚だった」と振り返る沢野さん。この多様性への理解と興味こそが、彼の人生を貫く大きなテーマとなるのです。「みんな適当なことやってるな」と感じた彼は、同時に「何でもありなんだ」「適当に生きていいんだ」という新しい人生哲学を身につけました。 3.一晩XX万円使って、左遷された男の物語帰国後に待っていたのは、全く異なる世界でした。1989年、バブル絶頂期の富士電機に入社。自動販売機の営業・マーケティング部門で、沢野さんは日本の「イケイケドンドン」な企業文化に飛び込みます。「お札でタクシーを止める」という話を聞いたことがある人は多いでしょう。でも沢野さんは、それを実際にやっていた人です。赤坂での接待、深夜1時にお客様のためにタクシーを止める光景。一晩でXX万円を平気で使う接待文化。パナソニック、三洋など競合他社との熾烈な競争の中で、それが当たり前の世界だったのです。ところが、新人だった沢野さんに転機が訪れます。ある日、お客様とのXX万円の接待について社内稟議が部長に回ると承認印を反対に押された、「やりすぎだろう」とという示唆を直属の上司(課長)から聞かされました。しかし沢野さんは、会社のための接待であり、適切な顧客対応したという自負もあり、部長のところへ謝罪も行くこともなく平然と過ごしていました。 4.左遷すらチャンスに変える“沢野流”ところが、突然、高額接待が原因かわかりませんが、(後から聞いた話ではそれが起因していたとのこと)、本社から長野県松本市への左遷通告!。え!マジ!、なんで?都会のバブリーな生活から一転、山と水に囲まれた地方都市での営業活動が始まりました。ところが、ここで沢野さの真骨頂が発揮されます。左遷を嘆くのではなく、新たな環境を楽しみ始めたのです。長野の地域コミュニティに溶け込み、長野オリンピックのボランティア活動にも参加。資格の取得(宅建士、通関士)をして次のステップへの準備を起動!「住みやすい街だった」「そして自分の充電期間だった」と振り返る沢野さんの前向きな姿勢には、オーストラリアで培った「新しいことを知る楽しさ」が息づいています。3年間の長野生活を経て、再び沢野さんの心に芽生えたのは海外ビジネスへの憧れでした。そして転職を決意──。 今すぐ聴いてみて下さいこの配信を聞けば、あなたは時代の証言者となります。バブル時代の実態を生で体験した人の話は、もはや貴重な歴史的資料です。しかし、それ以上に価値があるのは、どんな環境に置かれても学びと成長を見つける沢野さんの人生哲学です。海外で多様性を学び、バブルの狂乱を体験し、左遷という逆境を乗り越えて次のステップへ向かう。現代を生きる私たちにも通じる、人生の転機との向き合い方がここにあります。22歳での海外体験が人生観を変えた話から、バブル時代のリアルな企業文化、そして逆境を成長の機会に変える思考法まで。沢野さんの人生第一章は、まさに現代のビジネスパーソンが聞くべき生きた教材なのです。次回は、転職後の海外ビジネス挑戦編をお届けします。沢野さんの冒険は、まだ始まったばかりです。今すぐこの貴重な体験談を聞いて、あなた自身の人生に活かしてください。そして、この唯一無二のストーリーを、ぜひ大切な人たちとシェアしてください。人生配信オンリーワン - 一人ひとりの唯一無二の人生ストーリーをお届けします。

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    #85 2度の死線を越えた男が見つけた、本当の生きる意味、岡安さんの人生物語2

    岡安さんは、かつてプロスキーヤーとして雪山を駆け抜けていました。パラアジアカップ役員にも選ばれ、輝かしいキャリアの階段を一段ずつ上っているかのように見えました。しかし現実は厳しく、「これだけじゃ飯が食えない」という冷酷な事実が彼の前に立ちはだかったのです。20代でスキー競技を諦めることになった岡安さん。誰にも悲しみを伝えられない状況の中で、人生のどん底を味わいます。一時は死すら考えた絶望の淵で、彼は何を思い、どのようにして這い上がったのでしょうか。 【衝撃の人生逆転劇】元アルペンスキー選手が語る「絶望の淵から希望への道」 1.一本の電話が変えた運命の物語「お前、今何してんだ?」病院のベッドで、もう誰とも話したくないと心を閉ざしていた岡安さんに届いた一本の電話。その声の主は、現役の時から関わっていた障害者スキーチームのコーチでした。この何気ない一言が、絶望の底にいた元アルペンスキー選手の人生を180度変えることになるとは、この時誰が想像できたでしょうか。 2.栄光から一転、人生最大の危機岡安さんは現役のアルペンスキー選手として、雪山を駆け抜ける日々を送っていました。しかし、選手生命を脅かす大怪我により、愛してやまないスキーから離れることを余儀なくされます。手術への恐怖、そして何より、スキーという人生の全てを失った絶望感は想像を絶するものでした。「死ぬ一歩手前まで考えていた」と振り返る岡安さん。誰とも話したくない、もう何もかもが終わったと感じていた時期が続きました。まさに人生のどん底でした。 3.運命を変えた電話の向こうの優しさそんな岡安さんの状況を知っていたコーチは、あえて電話をかけてきました。「お前、まだ片足が残ってるだろう?だったらスキーできるだろ?選手で戻ってこい!」その言葉は、岡安さんの心に眠っていた可能性を呼び覚ましました。「ふざけないでくれ!靭帯ごときで片足選手ができるわけがない!」「あれ?」「そうだろ!選手としてではなく、また障害者チームのコーチとして戻ってこい」この提案は、新たな人生の扉を開く鍵でした。障害者の方々と長く接してきた経験があった岡安さんは、靭帯がなくても自分のスキーを待ってくれてる人がいる!という前向きな気持ちを取り戻していきます。そして何より、「みんな待ってるよ」という温かい言葉が、再び人とつながることへの勇気を与えてくれました。 4.パラリンピック黎明期での挑戦30年以上前、今ほどパラリンピックが注目されていなかった時代。障害者スキーの指導は、スキーが好きな優しいボランティアの方々が行っていました。そこに、現役に限りなく近い技術を持つ岡安さんが加わることで、チーム全体のレベルが劇的に向上しました。特にブラインドスキーでは、視覚障害者の選手が強すぎて、その前を走るガイド役のパートナーが見つからないという問題がありました。元プロスキー選手である岡安さんなら、その役割を完璧にこなせる。彼は自分だけのポジションを見つけ、選手を勝利へと導いていきました。 5.夢の舞台への切符と、理不尽な現実1994年リレハンメルパラリンピック。岡安さんはナショナルチームのコーチとして、合宿にも参加していました。夢の舞台まであと一歩。しかし、最終選考の段階で政治的な圧力が入り、担当していた選手が代表から外されてしまいます。「お前だけでも行ってくれ」と言われた岡安さんでしたが、彼の答えは明確でした。「僕はその選手のためにコーチになった。他の人のコーチはやりたくない。それがオリンピックでもパラでも関係ない」信念を貫き、大喧嘩の末に干されることになっても、岡安さんは自分の判断を後悔しませんでした。 6.人生の真の価値とは岡安さんのその後の人生は、ジャパラ(障害者スキーの国内最高峰大会)の役員、アジアカップの運営、長野パラリンピックでのサポートなど、障害者スポーツ界への貢献で彩られています。競技者としての栄光は手放すことになりましたが、多くの人の人生に光を与える存在となりました。絶望の淵にいた時に受けた一本の電話。それは単なる偶然ではなく、人とのつながりが生み出した奇跡でした。人生は予想もしない形で転機が訪れ、思いもよらない場所に新たな可能性が待っているのです。 7.大手電機メーカーでの24年間、そして運命の一日「これだけじゃ飯が食えない」という冷酷な事実に直面し、26歳で初めてサラリーマンの世界に足を踏み入れた岡安さん。大手電機メーカーでイベント業務を担当することになりました。持ち前のリーダーシップと現場を仕切る才能で、イベント現場のリーダーから新会社の事業立ち上げ、社長秘書、そして事業戦略室メンバーへと次々に昇進を重ねていきます。24年間という長い歳月を大手電機メーカーで過ごし、順風満帆なサラリーマン生活を送っていました。しかし、47歳のある日、運命が彼を待ち受けていました。ハードワークが続く中での現場の掛け持ち。ようやく訪れた休日。その日、脳卒中で自宅で意識を失い、救急搬送されたのです。医師も匙を投げるような状況で、家族が涙を流す中、息子の必死の呼びかけによって奇跡的に意識が戻りました。 8.死の淵で見つけた本当の答え「毎晩眠るのが怖かった。目を閉じたら死んでしまうと思って...でも朝起きると嬉しくて涙が出るんです」生と死の境界線で、岡安さんが気づいたのは、お金や地位では決して満たされない、本当に大切なもののことでした。20代で味わった絶望の自分を救済できていない。同じように苦しむアスリートたちの心の声を聞いてあげる人がいない。そんな思いが彼の心に蘇ってきたのです。入院中にキャリアカウンセラーの資格を取得し、ソニーからマクドナルドへ、そして独立へという驚きの転身を遂げることになります。 9.生かされている理由今の岡安さんは、力強くこう語ります。「僕が今生きてる理由は、求める人がいるから生かされてる。その人たちに答えるのが僕の存在価値であり、生きてる理由です」なぜ彼は、そこまで強い使命感を持てるのでしょうか。死線を越えた人間だけが語れる、生きることの本質とは何なのでしょうか。10.あなたも岡安さんの声に耳を傾けてみませんかもしあなたが人生の方向性に迷っているなら、キャリアチェンジを考えているなら、困難な状況から立ち直りたいと思っているなら、本当の生きがいを見つけたいと願っているなら、この配信はあなたの心に深く響くはずです。プロスキーヤーからサラリーマン、そして2度の死線を越えてカウンセラーへ。この奇跡的な人生転換ストーリーを、あなたの耳で、心で、確かめてください。きっと、あなたの人生観が変わるはずです。「人生配信オンリーワン」で検索して、今すぐ再生してください。岡安さんの生きざまを体感し、一度きりの人生を本当に大切なもののために生きるヒントを見つけてください。求める人がいるから生かされている──そんな生き方があることを、岡安さんが教えてくれます。なぜ今、この物語を聞くべきなのか現代社会を生きる私たちにも、人生の転機は必ず訪れます。それは挫折かもしれないし、思わぬ出会いかもしれません。岡安さんの物語は、どんな絶望的な状況にあっても、人とのつながりと自分の信念があれば、必ず新しい道が開けることを教えてくれます。30年以上前のパラスポーツ界の貴重な証言でもあるこのエピソードは、障害者スポーツがどのような人々の情熱によって支えられてきたかを知る貴重な機会でもあります。そして何より、一人の人間が持つ強さと優しさに、深い感動を覚えることでしょう。「人生配信オンリーワン」で描く真実の物語人生にはそれぞれ異なるストーリーがあり、一人ひとりがオンリーワンの体験を持っています。今回の岡安さんの回は、特に心に響く内容となっています。一本の電話が人生を変える。その事実は、あなたの人生にも新たな可能性があることを示しています。

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    #84 1/1000秒を削る男の壮絶なスキー人生、岡安さんの人生物語1

    1.いじめられっ子が雪上で覚醒東京・大森で生まれ育った、体が小さくて弱い一人の少年がいました。地元のコミュニティでは、いつもいじめられる側の存在。そんな彼の人生が、ある日のスキー教室で劇的に変わることになります。実は、それは単なるスキー教室ではありませんでした。選手発掘プロジェクトだったのです。そして驚くべきことに、普段はいじめられていたその少年が、スキーを履いた瞬間、先輩たちに勝ってしまったのです。「スキーを履いていないといじめられるけれど、履くと急に強くなる」—この発見が、彼の運命を決定づけました。2.小学6年生が白馬村に住込みスキー修行東京の子が本格的にスキーを続けるには限界があります。小学校を卒業する時、両親は「もういい加減にしなさい」と言われるほどです。普通なら、そこで夢は終わったでしょう。ところが、コーチが「そんなことを言わないで、なんとか続けさせてください」と両親を説得したのです。そして提案されたのが、今では考えられない解決策でした。白馬村の旅館に住み込みで働きながら、地元の子たちと一緒にスキーを続けるという、まさに奇跡のような環境だったのです。小学6年生の岡安さんは、本当に白馬村へ旅立ちました。大学生たちと同じタコ部屋で生活し、旅館の手伝いをしながら、時にはその大学生たちにスキーを教えて、空いた時間で自分の練習に励むという信じられない日々が始まったのです。信じられないような環境でしたが、岡安さんにとってそれは苦痛ではありませんでした。なぜなら、スキーが心底好きで仕方がなかったからです。3.障害者チームをサポートする小学4年生さらに驚くべきことに、岡安さんは障害者チームのサポートも始めました。片足の方やチェアスキーの方々の東京から白馬への移動や宿での生活、そしてスキー場でのサポートまで、その頃からこなしていたのです。荷物の積み下ろしから現地でのお世話まで、「僕にできることは全部やる」という姿勢で、障害者の方たちと一緒に合宿に参加していました。中学、高校時代も、この驚異的な生活は続きました。平日は東京の学校に通い、休み前になると夜行を乗り継ぎ土日や長期休みには白馬へ。そしてまた夜行を乗り継ぎ、東京へ戻り荷物を持ったままそのその足で学校へ。毎週のように行ったり来たりを繰り返しながら、朝6時から夜11時まで、時間がある限りひたすら滑り続けました。普通の学生が遊んでいる時間も、宿での夕食の手伝いや掃除をした隙間時間に、スキー靴を履いて山にいるような生活でした。4.高校1年生のプルスキーヤー、規格外の挑戦にスポンサーが惚れた瞬間運命の高校1年生。16歳の時に、岡安さんのこの規格外の生活を「面白い」と評価してくれる人が現れました。某スキーショップがスポンサーがついたのです。「板を出してあげる」「ウェアを出してあげる」「お小遣いもあげる」ここからが、本格的なプロスキーヤーとしての道のりの始まりでした。しかし、岡安さんは表舞台には立っていませんでした。「アングラなので」と本人が語るように、全中やインカレ、インター杯といった公式大会には出場せず、まさに「秘密兵器」として隠され続けていたのです。それでも彼が戦っていたのは、1/1000秒を削るという異次元の世界。アルペンスキーでは1/100秒は当たり前、トップレベルになると1/1000秒まで見る、そんな狂気じみた精密さが求められる競技だったのです。大学に進学してからも、岡安さんは数社のスポンサー企業に支えられながらスキー人生を歩んでいました。プロとしての将来への道筋も見えていました。5.足が違う方向に…16歳の天才を襲った悲劇しかし、運命は残酷でした。大学2年の時、大会中に転倒、突然の靱帯断裂。「足が違う方向いちゃってた」という衝撃的な状況でも、興奮状態で痛みを感じず、片足で滑りだそうとしましたが、左足がついてきませんでした。その重大さになかなか気づけなかったといいます。この怪我が岡安さんの人生を一変させました。それまで共に切磋琢磨していた友人たちは、実は全員がライバルでした。親とも喧嘩しながらスキーを続けていた彼には、この悲しみを分かち合える相手がいませんでした。「誰にも悲しみを伝えられない」状況の中で、岡安さんはどんどん心を閉ざしていきます。さらに追い打ちをかけたのは、適切な治療を受けられないことでした。当時の日本では靱帯の再建手術技術が十分でなく、2年間も病院をたらい回しにされてしまったのです。その間に、切断された靱帯は体に吸収されて溶けてしまいました。「要は左の前十字靱帯はなかったので、常に包帯ぐるぐるで、それでも膝の脱臼癖がついてしまって早歩きさえもできなかったんですね、僕ね」と岡安さんは振り返ります。6.絶望からの復活へ、アスリート復帰を懸けた奇跡の手術絶望の淵にいた岡安さんに転機が訪れたのは、2年後のことでした。スキーのナショナルチームのドクターとの偶然の出会い。そのドクターは「俺なら直せる」と断言し、日本ではまだ症例の少ない最新の人工靭帯を入れた膝の再建手術を提案してくれました。ただし、条件がありました。学会に発表するためのサンプルとして手術を受けること、そして必ず競技復帰を果たすこと。岡安さんは迷わず「全然戻りたいです」と答えました。この手術は普通の治療とは全く違っていました。アスリート復帰を前提とした特別な手術で、手術の2週間前から入院してひたすらトレーニング。「体ぶよぶよになっちゃってた」彼を、2週間でみっちり鍛え上げてから手術に臨んだのです。腰から腱を取り出して複雑に組み合わせる大手術でしたが、見事に成功しました。7.0.004秒の壁──そして訪れた解放の時手術から1〜2ヶ月後、退院時の検査で反射テストを行いました。結果は0.004秒の遅延。医師は「全然誤差だろう、もうほぼ大丈夫だよ」と言ってくれましたが、1/1000秒の世界で戦ってきた岡安さんには、この0.004秒が許せませんでした。「僕は1/100、1/1000削ってやってたので、0.004の遅延はもう異常値であるってことに」なってしまったのです。加えて2年間のブランクへの不安、もう一度あの状態に戻されることへの恐怖心。様々な要因が重なり、岡安さんは悩みに悩みました。そして最終的に、せっかく治してもらったドクターに「俺無理です。引退させてください」と告白したのです。予想していたのは叱責でした。しかし、ドクターの反応は意外なものでした。「お前の人生だから好きにしなさいよ」そう言われた瞬間、岡安さんの中で何かが吹っ切れました。「すごいすっきりした顔をしてたと思いますね」と本人が振り返るように、長い間抱えていた重荷から解放された瞬間でもありました。今すぐ聴いてみて下さいこの配信を聞き終えた時、あなたは間違いなく何かが変わっているはずです。小学生で単身白馬に渡り、逆境をチャンスに変え続けた岡安さんの人生は、まるで映画のようなストーリーです。しかし、これは紛れもない実話なのです。1/1000秒という想像を絶する精密さの世界で戦っていた男の美学、突然の怪我がもたらした絶望と孤独、2年間の治療困難な状況、奇跡的な手術との出会い、そして最後の引退決断まで。これほど濃密で劇的な人生を、これほど淡々と、それでいて深く語れる人はそう多くありません。「普通の人はだって、経験できないっすもん」岡安さんの言葉通り、この体験は確かに普通では味わえないものです。だからこそ、この配信には計り知れない価値があります。挫折を知る人には深い共感を、順風満帆な人生を送っている人には新たな視点を、そして全ての人に「人生とは何か」を考えさせてくれる貴重な時間となるでしょう。天才的な才能を持ちながら突然全てを失い、それでも新たな人生を歩み始めた男の生き様。高校生でプロになるという栄光から2年間の地獄、そして奇跡の手術、最後の引退決断まで。あなたの人生観が確実に変わる20分間がここにあります。今すぐ「人生配信オンリーワン」岡安さん回を再生して、この奇跡のような人生譚に耳を傾けてください。きっと、あなたの心に深く刻まれる物語となるはずです。

  31. 85

    #83 独立して3年間、12回の失敗から生まれた奇跡の「人事図書館」創設者よっさんの人生物語2

    ・なぜ日本の若者は3年で会社を辞めるのか?・なぜ数十年前から問題視されているマネジメントが今でも繰り返されるのか?・どうすれば誰も犠牲にならない組織を作ることができるのか?・一社で終わる人生でいいのか? そう語るのは、人事図書館の創設者・よっさん。よっさんは東京の人形町に、日本で唯一となる「人事図書館」をオープンさせました。クラウドファンディングで多くの人の協力を得ながら、約半年をかけて実現した夢の場所。一見すると成功者のような彼ですが、創設するまで、なんと3年間、12回の失敗を経験されています、もがき苦しみ、長い暗闇の中で、よっさんは何を見つけたのか?多くの起業家が経験する生々しい現実と、それを乗り越えた先にある深い洞察が隠されています。 1.就職した友達30人が消えた謎大学院で組論を学んでいたよっさんの周りで、不可解な現象が起きていました。大学を卒業して就職した友達が次々と会社を辞めていくのです。その数、なんと30人。しかも3年以内という短期間で。「めっちゃやめるなって思って...企業も個人もお互いダメージを受けてるのはおかしいな」よっさんは疑問に思いました。なぜこれほど多くの人が職場を去らなければならないのか?そして、その友達の一人から聞いた話は、彼の人生を大きく変えることになりました。 2.大手食品会社で起きた信じられない出来事体育会系の大手食品会社に就職した友人が体験したのは、現代では考えられないような出来事でした。飲み会の席で服を脱がされ、ベランダに出されて、面白いポーズを取らないと中に入れてもらえない。これが実際に行われていたのです。「そんなことやっていたら辞めるでしょって思うんですけど、でも大手の食品会社で当時は行われていたことを知ったときは衝撃でしたね」数十年前からこういうマネジメントは良くないと言われているのに、なぜ今だに繰り返されているのか。学んできた組織作りの理論と、現実の世界があまりにもかけ離れていることに気づいたのです。 3.リクルートという修行の場この現実を変えたい。そう決意したよっさんは、組織作りを支援する会社の中でも最も多くの事例が集まるであろう場所を選びました。リクルートマネジメントソリューションズです。そこでの14年間は、まさに組織の最前線での修行でした。適性検査、採用コンサルティング、研修、人事制度、アセスメント。あらゆる角度から企業の課題解決に取り組みました。大阪で3年半、東京で3年半、そして次第に一つの思いが募っていきます。「日本の組織作りのパターンは大体7年ぐらい見てきた。でももっと知りたい」 4.中国という未知の世界への挑戦よっさんの中で、ある確信が芽生えていました。「日本って結構キレイな国。でも人間はもっと生々しい生き物なんじゃないか」もっと人間の本質的な部分、ドロドロとしたパワーバランスや生々しい現実を知らなければ、どんな組織でも共通する真理は見つけられない。そう考えた彼は、迷わず手を挙げました。「海外で仕事をしたいです」こうして始まった中国上海での3年半。最初の3ヶ月だけで200社を回るという驚異的なスピードで、日系企業、中国系企業、欧米系企業のあらゆるバリエーションを目の当たりにしました。 5.警備員泥棒事件が教えてくれた人間の真実中国で出会った一つのエピソードが、よっさんの組織観を決定的に変えました。ある日本企業が中国に新しいスーパーを開店した時の話です。倉庫を守るために警備員を雇ったのに、なぜか商品が盗まれる。調査してみると、なんと警備員自身が犯人だったのです。「それなら警備員を2人にしよう」と考えたところ、今度は2倍盗まれるようになりました。最終的な解決策は意外なものでした。警備員を3人にして、「盗んでるやつを見つけたらボーナスを支給する」という仕組みを作ったのです。すると、ものがなくならなくなったというのです。「これ日本の中だったら一番最初から起こらないだろうな。警備員が盗んでましたっていう話があっても、そいつがおかしいみたいな話になって組織の学びにはならない」でも人間って、そういう側面が絶対にある。よっさんはこの時、組織作りの本質を垣間見た気がしたのです。 6.祖父への想いが生んだ使命感よっさんの行動力の源泉は、実は幼い頃の記憶にありました。大学教授だった祖父が、食卓で自分の研究について一生懸命話している時のこと。家族は「はいはい」と聞き流していましたが、よっさんだけは最後まで話を聞こうと決めていました。「一生懸命やってる人が犠牲になっていくのを見るのはすごく嫌で。だからどうしたら誰も犠牲にならないチーム運営とか組織運営ができるのかっていうのが、すごく大きな問いとしてあって」この想いが、30人の友達の退職を見た時の憤り、リクルートでの14年間の修行、中国での200社巡り、そして現在の活動すべての原動力になっていたのです。 7.普通なら心が折れる3年間の地獄40歳という人生の節目で会社を辞めたよっさん。しかし彼の独立理由は、多くの人が想像するものとは全く違っていました。「前の会社も好きだったし、やめたい理由なんてなかった。ただ、一社で終わる人生が嫌だっただけ」という、まるで映画のような動機だったのです。ところが現実は甘くありませんでした。独立した瞬間、「一社じゃない人生」という目標は達成されてしまい、今度は「自分はどう生きていきたいか」という根本的な問いに直面することになります。家族を養う責任もある中で、よっさんは必死に自分の旗を立てようと奮闘し始めました。「これといえば吉田さんだよね」と言われるような存在になりたい。その一心で始めた挑戦の数々は、しかし次々と失敗に終わります。適性検査の使い方をレクチャーする事業では、あまりにも分かりやすく教えすぎて、30分のレクチャーでお客さんが「もう大丈夫っす」と帰ってしまう始末。「小難しくやればよかったのに...」と周りからアドバイスを受けるよっさんの苦笑いが目に浮かびます。 8.12回の失敗が教えてくれたもの「不安でしょうがないから、次々と挑戦し続けた」。この率直すぎる告白が、よっさんの3年間を物語っています。一つ失敗するたびに、「じゃあ旗が立つようになったか」と自問自答し、答えは常にNO。それでも40歳を過ぎ、このまま60歳、70歳になった時に「今の仕事を自分に頼むかな」と考えると、立ち止まることはできませんでした。毎回真剣に「これで自分の旗を立ててやっていくんだ」と思いながらも、旗は立たない。普通なら心が折れてしまうような状況でも、よっさんは挑戦を続けました。その背景には、単なる成功への憧れではなく、もっと深い想いがありました。「誰も犠牲にならないチーム運営をもっと当たり前にするにはどうしたらいいのか」。この問いが、よっさんの心の奥底にずっとありました。一生懸命やっている人が馬鹿にされたり、自分を犠牲にして燃え尽きていく人を見るのが、どうしても嫌だった。多くの人が当たり前だと思っている「誰かが犠牲になる組織」を、本当に変えることはできないのだろうか。 9.13回目に見つけた本当の答え12回の失敗を通して、よっさんは自分の特徴を理解し始めました。「カチッとしたアウトプットを出すことには向いていないらしい」「対面で会っている方が反応がいい」「本に関しては信頼を抱きやすい」。失敗は辛いものでしたが、同時に自分自身を知る貴重な機会でもあったのです。そして13回目の挑戦として生まれたのが、人事図書館でした。これは単なるビジネスではありません。「誰も犠牲にならないで高い成果を出せるんだ」ということを、多くの人に体験してもらい、信じてもらえるような場所。よっさんが長年抱いていた想いを、ついに形にできる場所だったのです。 10.あなたにとっての13回目は何ですか?この話を聞いて、あなたは何を感じるでしょうか。・独立や転職を考えているけれど失敗が怖い人?・何度も挫折を経験して諦めそうになっている人?・40代で人生の転換点を迎えている人?よっさんの3年間は、決して華々しいサクセスストーリーではありません。でもそこには、多くの人が抱える不安や焦りとの向き合い方、失敗を恐れずに進み続ける勇気、そして本当の意味での価値ある人生を築くヒントが詰まっています。「自分じゃね、なかなか気づかないんで」と謙遜するよっさんですが、彼の経験は間違いなく多くの人の心を支える力を持っています。現代は成功事例やノウハウに溢れていますが、本当に必要なのは失敗との向き合い方と、自分らしい成功の定義ではないでしょうか。よっさんの生々しい告白と深い洞察が、あなたの明日への一歩を後押ししてくれるはずです。今すぐこのエピソードを聞いて、よっさんの3年間の軌跡を辿ってみてください。あなたの13回目の挑戦は、もうすぐそこにあるかもしれません。

  32. 84

    #82 日本唯一の「人事図書館」創設者が語るよっさんの人生物語1

    「変わってるね」って言われるとすごい喜ぶタイプですそんなよっさんが語る、誰にもマネできない人生設計術。第1話では、彼の人生の基盤となった幼少期から大学時代までを深掘りします。小学生の頃、図書室に入り浸っていた一人の少年がいました。本に囲まれて育った彼は、やがて「みんなが知らないバンド」を追いかける中学生となり、そして誰も想像しなかった人生の軌道を描き始めます。彼の名前は、よっさん(人事図書館 創設者)。一見普通に見える彼の人生には、実は驚くべき「ある法則」が隠されていました。1.3歳から始まった"発見癖"が人生を変えた話3歳のよっさんが札幌の地下鉄のホームに立っていた時、他の子供たちが電車そのものに夢中になっている中、彼だけは違うものを見ていました。車輪です。しかも、ただの車輪ではありません。よく見ると、出っ張っているものと凹んでいるものがあることに気がついたのです。「なんで出っ張ってるのと凹んでるのがあるんだろう」この素朴な疑問を両親に投げかけた時、大人たちでさえ「そうなの?」と首をかしげました。その瞬間、よっさんの心に小さな火が灯りました。「自分しか知らないことかもしれない」というワクワク感。これが、彼の人生を決定づける「発見癖」の始まりでした。2.「コンビニって何だ?」祖父が育てた思考力実は、よっさんの家庭環境は極めて特殊でした。祖父は大学教授、母方の叔父2人も大学教授、そして両親も大学関係者という、まさに学者一家。食卓で交わされる会話は、一般的な「今日何があった?」ではなく、研究内容や学術的な議論でした。特に印象深いのは、おじいちゃんとの会話です。ある日突然「コンビニって何だ?」と聞かれたよっさん。「ちっちゃいスーパーみたいなやつ」と答えると、「じゃあ小さいスーパーは全てコンビニなのか?」と返されました。この追求は止まりません。おじいちゃんは意地悪をしているのではなく、ただ正確に理解したいだけ。適当な受け答えでは納得してもらえない環境で、よっさんは物事を深く考える習慣を身につけていきました。3.なぜ『ゾロリ』じゃなく『ほうれん草マン』を選んだのか小学生になると、この好奇心はさらに広がりました。本は大好きでしたが、みんなが読んでいる『かいけつゾロリ』ではなく、その大元になった『ほうれんそうマン』を選ぶような子供でした。なぜなら、ゾロリは元々ほうれんそうマンの敵役だったという事実を知っていたから。「他の人があまり読んでなさそうな本」への偏愛は、一人っ子として大人に囲まれて育った環境で培われた、自分だけのアイデンティティを確立したいという想いの表れでもありました。ドラゴンクエスト3が大ブームだった小学1年生の時代、よっさんはゲームにも夢中になりました。新しいことをどんどん体験できるゲームの世界は、彼の探究心を満たす完璧な場所でした。読書とゲーム、そして音楽。小学6年生でCDシングルを大量に買い集めていた彼は、すでに「好きになったものは長い」という、現在も続く特徴を見せていました。そして運命的な出会いが訪れます。小学6年生の担任の先生が、本格的なバンド活動をしていたのです。ライブにも何度か足を運び、音楽の持つ力に魅了されたよっさん。4.新しいこと好き×やめない主義、最強の組み合わせ中学生になるとベースを買ってもらい、バンド活動を開始しました。この音楽活動は、なんと現在も年1回のペースで続いている、彼の人生の重要な柱の一つです。放送部に入り、剣道も継続し、バンド活動にも精を出す中学時代。一見バラバラに見える活動の根底には、常に「新しいことへの探究心」と「一度始めたことを長く続ける継続力」がありました。やめた趣味はほとんどないという彼の言葉通り、幼少期から始まった好奇心は形を変えながらも決して消えることはありませんでした。5.片道2時間の高校選択が示した、人生の方向性高校進学の際、よっさんは地元の中学校からたった一人で、片道2時間もかかる新設の私立高校を選びました。なぜそんな遠い学校を?周りからは「普通じゃない」と言われましたが、彼は「変わってるね」って言われるとすごい喜ぶタイプだったのです。この選択が、後の人生を大きく左右することになります。その高校は海外を重視する学校で、ニュージーランドでの3週間研修や6カ国から選べる修学旅行など、グローバルな体験が彼の視野を一気に広げました。そして、この体験が後のアメリカ生活への布石となったのです。6.90個のバンドが教えてくれた、チーム作りの真実大学に入ったよっさんは、軽音楽部で驚異的な記録を打ち立てます。なんと7年間の大学と大学院生活で、90個ものバンドを結成したのです。しかし、この数字の裏には深い学びがありました。「モテたいのに、モテたいって隠してやると、途中でうまくいかなくなるんですよ」彼が発見したのは、率直なコミュニケーションの力でした。好きな子に告白するための曲をやっていたメンバーが、振られた途端にやる気を失う。でも周りは「ライブをやりたい」という想いしか聞けていなかったから戸惑う。そんな体験を通じて、彼は人の本当のモチベーションと向き合うことの大切さを学んだのです。7.アメリカで見つけた、国境を越えた仲間作り大学時代、よっさんはアメリカで1年間を過ごします。現地でのインターンや語学学校での学び、そして何より印象的だったのは、水より安いビール(1ドル!)を片手に築いた国際的な友人関係でした。アジア系、フランス系、現地のアメリカ人たち。言葉や文化の壁を越えて、彼は再び「チーム作り」の魅力に取り憑かれていきます。8.知識と実践を結びつけた、独自の人生設計術本に囲まれて育ったよっさんにとって、「本にはたくさんいいことが書いてある」というのは信念でした。しかし彼が本当にすごいのは、その知識を実際の体験で試し続けたことです。組織論の理論を90個のバンドで検証し、目標設定の理論をサークル運営で実践し、コミュニケーション論を海外生活で磨き上げました。そして今、彼は人事図書館という形で、自分が本から得た学びと実体験を融合させた独自の活動を続けています。音楽、読書、海外経験、チーム作り。一見バラバラに見えるこれらの体験が、実は一本の太い線で繋がっていたのです。その「繋がり」の秘密を知ることで、あなたも自分だけの人生の物語を紡げるようになるでしょう。9.あなたも自分だけの物語を始めませんか?よっさんの人生が教えてくれるのは、「普通じゃない」選択こそが、人生を豊かにするということです。みんなが行く道ではなく、自分が本当に興味を持った道を歩む勇気。そして、その体験を仲間と分かち合う喜び。彼が大学卒業後にどんな道を歩み、現在の人事図書館にたどり着いたのか?その答えは第2話で明かされます。この配信を聞き終わった時、固定観念を打ち破り、あなたの中に眠る「発見者」を目覚めさせ、あなたは「普通じゃない人生」を歩むための最初のヒントを手に入れているはずです。

  33. 83

    #81 心をつなぐハグで新しい日本を作るマリアさんの人生物語2

    1.あなたは最後に家族をハグしたのはいつですか?TEDのステージから降りたマリアさんの元に、一人の高校生がやってきました。目を合わせることもできないほど緊張していた彼は、震え声でこう言ったのです。「一人でこのスピーチを聞きに来ました。恥ずかしいけど、今日帰ったら親に感謝をハグで伝えます」2.日本に移住されたフランス人女性はずっと1人だと感じていた同じ日、フランスから日本に移住してきた女性が、大粒の涙を流しながらマリアさんに近づきました。「日本に来てからずっと一人だと感じていました。でも今日、その理由がわかったんです。ハグしてもらえないことで、こんなにも心の距離が生まれるなんて...」3.不登校の子供が学校に通えるようになるまで不登校になった子どもの親御さんの話は、特に心に刺さります。子どもは部屋に閉じこもり、会話を拒絶していました。何を声かけても、子どものイライラを増すだけ。そんな絶望的な状況で、親御さんができることは食事を運ぶことだけでした。その時です。マリアさんの話を聞いた親御さんは、恥ずかしがって嫌がる子どもを毎日ハグし続けることにしたのです。言葉では伝わらない愛情を、全身で表現し続けました。すると少しずつ、子どもが学校に行かなくなった理由を話してくれるようになりました。そして数ヶ月後、ついに部屋から出てきて、学校にも通うようになったのです。言葉がプレッシャーになってしまうとき、ハグは無条件の愛を伝える最強のツールになります。この事例は、マリアさんの活動が単なる理想論ではなく、実際に人生を変える力を持っていることを証明しています。これらは決してフィクションではありません。マリアさんが経験された実際に起きている現実の物語なのです。4.ハグの持つ力彼らの反応を見れば、ハグが持つ力の大きさは明らかです。しかし、なぜ日本でこれほどまでに反響があるのでしょうか?マリアさんは日本人が冷たいからだとは決して言いません。むしろ、日本の文化的背景を尊重しながら、その中で失われてしまった大切なものを取り戻そうとしているのです。5.なぜ見知らぬイギリス人が、マリアさんにハグの講演を企画したのか?人生が変わる瞬間は、いつも予想外の場所で起こるものです。マリアさんにとって、それはTEDトークの舞台で話した後に訪れました。そのTEDトークを偶然見た一人のイギリス在住者の心を深く動かしたのです。その人は画面の向こうのマリアさんに強く心を揺さぶられ、「この人の話をもっと多くの人に聞いてもらいたい」と感じました。そして驚くべきことに、海を越えてマリアさんにハグの講演企画を持ちかけたのです。6.ハグ文化の国で起きた心の革命イギリスといえば「ハグ文化」が根付いている国。マリアさんは最初、そんな文化の本場で自分のメッセージがどう受け取られるのか不安でした。しかし、実際に講演の会場に足を運んでみると、30人の聴衆が集まり、彼女の話に真剣に耳を傾けてくれました。その中には、メキシコやブラジルといったラテン系の国からイギリスに移住してきた人たちが多くいました。彼らにとって、マリアさんの「ハグ」の話は特別な意味を持っていたのです。「イギリスは私たちの母国ほどハグをしないし、感情を表に出さない。だからこそ、ハグを通して感情を伝えることが恋しかった...」一人の移住者がそう語ったとき、会場全体に共感の波が広がりました。7.当たり前の中に隠された宝物さらに驚くべきことが起こりました。ハグが日常的な習慣だった人たちが、マリアさんの話を聞いて新たな発見をしたのです。「ハグはもう当たり前すぎて、その意味を考える瞬間なんてなくなっていました。でも改めて気づいたんです。家族とのハグには、ただの習慣じゃない、心が込められているということを。今度からは、その気持ちを意識してハグしようと思います」会場にいた一人がそう語った瞬間、マリアさんは自分のメッセージが確実に人々の心に届いていることを実感しました。文化の違いを超えて、人間として大切なものは共通しているのだと。8.あなたの人生にも起こりうる奇跡この物語は、マリアさんだけの特別な体験ではありません。私たちの日常にも、実は同じような「当たり前の奇跡」が隠れているかもしれません。グローバルな視点から自分を見つめ直すことで、人間関係の本質に気づき、一歩踏み出す勇気を得ることができるのです。見知らぬ人がわざわざ企画してくれたハグの講演会。30人の心を動かしたハグの物語。そして、普段何気なくしている行動に込められた愛の発見。すべてがマリアさんの人生配信に詰まっています。9.AI時代だからこそ価値が高まる人間らしさマリアさんは未来を見据えています。AIが人間の仕事を代替し、オンラインでのコミュニケーションが当たり前になった時代。スマートフォンの画面越しの「いいね」や絵文字で感情を表現することに慣れてしまい、画面越しでは伝わらない何かがあります。それが肌と肌が触れ合うことで生まれる安心感、信頼感、そして愛情です。まさにそんな時代で、「デジタル技術が進歩すればするほど、ハグのような人間的な温かさが宝物のように貴重になる」と彼女は語ります。これは感情的な願望ではなく、冷静な社会分析に基づいた予測です。マリアさんの活動は革命的な意味を持ちます。彼女は日本の文化を深く理解しながらも、「握手ではなくハグで挨拶する」という新しい可能性を提示しているのです。これは単なる挨拶の変更ではありません。人と人との心の距離を縮める、まったく新しいコミュニケーション革命なのです。マリアさんの体験談を聞いていると、自分の人生も違った角度から見えてくるはずです。TEDトークから始まったこの奇跡の連鎖が、今度はあなたの人生にも新しい気づきをもたらすかもしれません。人生は、思いもよらない場所で、思いもよらない人との出会いによって輝き始めます。マリアさんの物語があなたの次の一歩になることを願って、今すぐポッドキャストを再生してみてください。きっと、あなたの中の「当たり前」が「特別」に変わる瞬間を体験できるはずです。今すぐ聞くべき理由この配信を聞いた人たちは、すでに行動を始めています。高校生は家族への感謝をハグで伝え、親御さんたちは毎日の家族ハグを習慣にし、孤独に苦しんでいた女性は人とのつながりを取り戻しました。あなただけが取り残されていいのでしょうか?マリアさんは今、仲間を募集しています。本格的なコミュニティ活動が始まります。「ハグ文化」が日本に根付く前に、この革命の始まりを目撃し、参加する機会があるのは今だけです。明日から家族との関係を変える具体的な方法を知り、言葉にできない感謝を伝える技術を身につけ、そして孤独感から解放される実践的なアクションを学ぶことができます。さらには、日本社会の未来を変える歴史的な運動の先駆者になる可能性も手に入るのです。「人生配信オンリーワン」マリアさんエピソードを今すぐ再生して、あなたの人生を変える一歩を踏み出してください。

  34. 82

    #80 「命を救うハグ大使」マリアさんの人生物語1

    1.一つの疑問から始まった、愛と孤独の人生ブラジルで生まれ、3歳半で日本に帰国したマリアさん。日本で幼稚園のバスに乗る前、彼女は当たり前のように父親に「パパ、ハグ!」と言いました。しかし、それを見たクラスメートたちの反応は——「気持ち悪い」「なんでパパにハグするの?」その日から、マリアさんへのいじめが始まりました。2.封印されたハグ、そして父の死子供ながらに「みんなと違うことをするといじめられる」と理解したマリアさんは、外でのハグを封印。家族の中だけの特別なコミュニケーションツールとして、ハグを大切にしながら成長していきます。受験に失敗したとき、失恋したとき——いつも父親のもとへ行き、ハグで慰めてもらう。それが当たり前の日々でした。しかし、健康だった父親が突然この世を去ります。人生で一番の衝撃を受けたマリアさんを待っていたのは、日本社会の無言のプレッシャーでした。3.「大丈夫ですか?」という優しさ会社の同僚たちは心配して声をかけてくれます。でも、毎回説明した後には「大丈夫です」と答えなければならない空気。全然大丈夫じゃないのに。 泣きたいのに泣けない。 助けてほしいのに言えない。「もう誰とも会いたくない」家から出たくなくなったマリアさんの元に、一人のメキシコ人の友人が訪ねてきました。4.言葉を超えた愛の力「I am here for you」ドアを開けると、友人は何も言わずにマリアさんをハグ。「I am here for you(私はあなたのためにここにいる)」その瞬間、マリアさんはようやく涙を流すことができました。無理して「大丈夫」と言わなくていい安心感。一人じゃないという温もり。言葉の力を超える、ハグの力を実感した瞬間でした。5.命を救うハグ大使としてこの体験を通してマリアさんは気づきます。日本では1日平均50人が自ら命を絶っている。多くの人が「周りに負担をかけたくない」と助けを求められずにいる。もし誰かが言葉ではなくハグで「あなたは一人じゃない」と伝えてくれたら? SOSを出せる瞬間が作れたら? 救える命があるのではないか?現在、マリアさんは「命を救うハグ大使」として活動を始めています。6.日本の家族が抱える深刻な問題日本では、親子でさえハグをしない家庭が大多数。「お疲れさま」と言葉で伝えても、なかなか伝わらない感謝の気持ち距離感のある父娘関係夫婦間でも照れてしまうスキンシップマリアさんは気づきました。日本人は感情を体で表現する方法を知らないのだと。7.お父さんとの関係に悩む女性ある女性は、何年も距離感のあった口下手なお父さんとの関係に悩んでいました。本音で話したこともなく、どうやってコミュニケーションを取ったらいいか分からない状態でした。でも、マリアさんの話を聞いて勇気を出し、お父さんに後ろからそっとハグをしたのです。お父さんは何も言いませんでしたが、それを静かに受け止めてくれました。それ以来、会うたびにハグが習慣となり、今まで縮まらなかった父娘の距離が急速に近づいていきました。8.ハグをしたことがない夫婦今まで一度もハグをしたことがない夫婦の話もありました。ある男性がマリアさんの話を聞いて帰宅し、勇気を出して奥さんにハグをしたところ、最初は「何急に?」とびっくりされてしまいました。でも、彼は諦めずに「ありがとう」という感謝の気持ちを込めたハグだということを言葉で説明し続けました。すると、奥さんも次第にその温かい気持ちを理解し、今では夫婦の新しいコミュニケーション方法として定着しているといいます。9.カメラマンを使った革命的なアプローチでも、いきなり「ハグしましょう」と言っても、日本人は恥ずかしがってできません。そこでマリアさんが編み出したのが、**「撮影会方式」**という画期的な方法。プロのカメラマンを呼んで、「撮影のために」という理由で自然にハグをしてもらう。「カメラマンさんが言ってるからやるんだよ」という言い訳があることで、参加者は恥ずかしさのハードルを越えることができました。10.ハグの科学的な効果実は、ハグの効果は科学的にも証明されています。ハグが文化として根付いているブラジル、スペイン、イタリアなどの国々は、自殺率が低いというデータもあるのです。体感することでしか得られない、言葉を超えた深いコミュニケーション。それがハグの持つ真の力なのかもしれません。しかし、マリアさんの活動は常に誤解との戦いでもありました。話を聞いた経営者の中には「じゃあ職場でもハグをルールにしよう」と言い出す人もいたのです。マリアさんは慌ててそれを止めました。強制的なハグには何の意味もありません。大切なのは、互いの信頼関係の上に成り立つ、自然な感情表現としてのハグなのです。あなたも最後に家族をハグしたのはいつですか?大切な人への愛を、言葉以上に伝える方法があります。あなたも勇気を出して、大切な人に感謝のハグをしてみませんか?「体感しないと分からない。ハグには、言葉を超えた力がある」とマリアさんは語ります。きっとあなたの人生観も、そして大切な人との関係も変わるはずです。勇気を出して、今日から始めてみませんか?マリアさんの人生から学ぶ、本当の愛のコミュニケーションとは——今すぐ再生して、心温まる感動の実話をお聞きください。きっとあなたの人生観も変わるはずです。

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    #79 「ご縁の中で自分を生かす」與良さんの人生物語2

    あなたは知っていますか?一度はすべてを失った男が、なぜ今「エネルギーの塊」のような存在になっているのか。今回のゲストは與良 (よら)さん。一見すると、穏やかで哲学的な起業家に見える彼ですが、その裏には想像を絶する人生ドラマが隠されていました。1.その日、37歳の男は人生最大の問いを突きつけられた。~2度死んで、2度蘇った男の物語~「君は何のために生きているんだ?」突然、胸ぐらを掴まれるような勢いで問いかけられた與良さん。37歳の彼は、その瞬間まで考えたこともない質問に戸惑った。「そんなことあまり考えたことないから...」逃げようとした彼に、その男は言った。「逃げたら君の人生がダメになる。俺が一緒に本気で考えてやるから」これが、與良さんの人生を根底から変えた運命の出会いだった。2.最初の「社会的な死」物語は與良さんが初めて「社会的な死」を迎えたところから始まる。食べるために、ただ必死に働く日々。それまでの人生で培ってきたものが音を立てて崩れ落ちた時、彼が選んだのは組織・人材開発の会社「スコラ・コンサル」だった。「とりあえず飯食わなきゃいけないから働かなきゃ」そんな切実な想いでスタートした第二の人生。しかし、この選択が後に彼の運命を大きく変えることになる。3.運命を変えた3ヶ月間スコラ・コンサルで数年が経った頃、與良さんは運命の人物と出会う。総研会社の元専務取締役。外部からスコラ・コンサルに出入りしていたその男性は、與良さんに執拗に問いかけ続けた。「何のために働いているんだ?」 「何のために生きているんだ?」うざいと感じながらも逃げられない。そして始まった3ヶ月間の濃密な対話。「最初は、部活の先生みたいに嫌いだったんですけど、最後はやっぱり『いてくれたおかげです』ってなるじゃないですか。そういう感じでした」與良さんは振り返る。この3ヶ月で、彼は人生で初めて真剣に自分と向き合った。4.発見した「復活の3要素」この体験を通じて、與良さんは人生復活の秘密を発見する:1. ご縁人との出会い2.問いと対話「本気で聞いてくれる人がいる」 ただ聞くのではない。一緒に本気で考えてくれる人の存在。3. 応援「一人じゃないって思わせてくれる」 しかし、這い上がる過程には時間差がある。「いつでも戻ってきていいよ」そう思わせてくれる環境。5.二度目の試練、そして真の覚醒しかし物語はここで終わらない。與良さんは再び「社会的な死」を経験することになる。だが今度は違った。一度目の経験で身につけた「復活の3要素」が彼を支えた。問いを立て、誰かと対話し、応援してくれる人に力を借りる。「何かあった時には問いを立てて、誰かと対話して、僕を応援してくれる人に力を借りる」これが與良さんの新しい人生哲学となった。6.ギバーの矛盾復活を遂げた與良さんだが、ここで興味深い発見をする。お金を意識した時ほどうまくいかない。無意識に人のために動いた時の方が、結果的にお金も入ってくる。「無意識でいい時はギバー(与える人)になれるんだけど、意識するとテイカー(受け取る人)になってしまう」現実世界の不思議なルール。與良さんは今もこの矛盾と向き合い続けている。7.新しい世界への扉この体験が「エール」という事業の誕生につながった。学生や社会人たちに「何のために働くのか」を考える機会を提供 エール。辛い経験をした人を問いと対話と応援で支える世界を創造「僕のような辛い体験をした人が、問いと対話と応援してくれる人が存在する世界を作りたい」與良さんの新しい挑戦が始まった。8.栄光から転落へ「上場という夢の終わり」かつて與良さんには、大きな夢がありました。起業家として会社を育て、上場を目指していたのです。多くの人が羨む成功への階段を、一歩ずつ登っていました。しかし、運命は残酷でした。「一回上場とかで失敗してから...」さらりと語られるこの一言の裏には、想像を絶する挫折と絶望が隠されていました。すべてを賭けた夢が崩壊した瞬間。それは、與良さんにとって「社会的死」とも言える出来事でした。普通の人なら立ち上がれないような状況。でも、與良さんの物語は、ここから始まるのです。9.暗闇の中で見つけた一筋の光どん底の中で、與良さんは一つの気づきを得ました。「どこに向かっていくんだろうって思って生きてる...だけど、なんか どっかに向かって生きていこうとしなくていい という自分もいて」それは、目標や成果にとらわれることからの解放でした。大きな方向性として「愛と感謝の地球を作る」という想いは持ちながらも、具体的な道筋にこだわらない生き方。そして、ついに見つけたのです。「ご縁の中でどういう風に自分を生かすか」この一つの答えが、與良さんの人生を根本から変えることになりました。10.「人生暇つぶし」という名の革命失敗の経験を通して、與良さんは驚くべき境地にたどり着きました。「人生暇つぶしという前提で生きてるので」この言葉を聞いた瞬間、私は息を呑みました。これは諦めではありません。これは、成功への執着から完全に自由になった者だけが到達できる、究極の人生哲学だったのです。「売上を大きくしたいとかあんまないんですよ。飯食えればいいやぐらいで思って」でも不思議なことに、そう語る與良さんからは、むしろ強烈なエネルギーが溢れ出ていました。話しているだけで、こちらまで元気になってしまう。それは一体なぜなのでしょうか?11.執着を手放す魔法與良さんには、多くの人が持てない特殊な能力がありました。それは「手放す力」です。出版の話が進んでいた時のこと。「次の本が執着に変わってきたので、手放しました。次の本を出したい、出さなきゃになってきたから...あ、これ執着だからもう手放そうと思って」普通の人なら、せっかくのチャンスを逃すまいと必死になるところです。でも與良さんは違いました。執着に気づいた瞬間、潔く手放したのです。「僕は結構、簡単なんで」この一言に込められた境地の高さ。それは、すべてを失った経験があるからこそ到達できた境地でした。12.現在進行形の奇跡「秘密決社での若返り計画」そんな與良さんが今、取り組んでいるプロジェクトは実にユニークです。チャクラグラスでのメガネ制作オンラインサロンと起業塾の運営そして極めつけは...「若返りの秘密決社作ろうと思ってて。内側と外側の若返りを誰にもバレないようにやってく」すべては「ご縁の中で自分を生かす」という一つの軸から生まれているのです。13.新時代の起業論「セルフベーシックインカム」與良さんが提唱する革命的な考え方があります。「バイトしながら起業でもいいし、派遣しながら起業でもいい」従来の起業論では、「起業だけで食えないからバイトしている」と考えがちです。でも與良さんは違います。「焦燥感なく安心した心でいたいから、バイトしながらしている」この視点の転換が、すべてを変えるのです。同じ状況でも、見方が変わるだけで「惨めな起業家」から「賢い起業家」に変身してしまう。これが與良さんの言う「世界を見る力のアップデート」なのです。14.すべてはご縁から始まる「僕の体験は世の中の体験だと思ってるので、シェアしてなんぼだと思っている」與良さんがすべてをオープンに語る理由がここにありました。自分の失敗も成功も、すべて世の中の財産として共有する。その姿勢が、自然と人を引き寄せているのです。「なので、もう、さらけ出し人生」この言葉に込められた覚悟と愛。それが、與良さんから溢れ出すエネルギーの正体でした。15.あなたへの招待状もしあなたが今、人生に迷っているなら。もしあなたが、失敗を恐れて一歩を踏み出せないでいるなら。 もしあなたが、成功への執着で苦しんでいるなら。與良さんの物語は、きっとあなたの人生に新しい視点をもたらしてくれるでしょう。すべてを失った男が見つけた、本当の豊かさとは何なのか? 「人生暇つぶし」と笑える境地に至るまでの道のりとは? そして、なぜ彼の周りには自然と人が集まってくるのか?「人生配信オンリーワン」で、この奇跡の物語の続きを聞いてください與良さんの人生逆転ストーリーには、まだまだ語られていない秘密がたくさんあります。山あり谷ありの人生を歩み、それでも「ご縁の中で自分を生かす」ことを選んだ一人の男の物語。それは、きっとあなたの人生にも奇跡を起こしてくれるはずです。今すぐ視聴して、あなた自身の物語を始めませんか?16.  あなたも主人公になれるこの物語を聞いて、あなたの心にも「問い」が生まれているかもしれません。あなたは何のために生きていますか? あなたは何のために働いていますか?もしその問いに向き合いたいなら、もし人生の次のステージに進みたいなら、與良さんの20分の人生ストーリーを聞いてみてください。與良さんが執筆された本を読んでみて下さい。1人起業家マインドセット 「好き」を「稼ぎ」に変えるすごい働き方 | 與良 だいち |本 | 通販 | Amazon胸ぐらを掴まれるような衝撃は保証できませんが、あなたの人生を変える「何か」がきっと見つかるはずです。

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    #78 二度の社会的「死」から学び、「好き」を「稼ぎ」にできるようになった與良さんの人生物語1

    1. エリート街道20代から35歳で人生迷子大学を卒業して、伊藤忠商事に入社。25歳で外資系コンサル、アクセンチュア(旧アンダーセンコンサルティング)に転職、戦略コンサルタントに。29歳のとき、父親が経営するシステム開発会社(社員70名)に後継者候補として転職。これだけ見ると、ピカピカなキャリアに見えるでしょう。僕も、成功の人生の道を歩んでいると疑いもなく信じていました。しかし、、、34歳のとき、父親の会社で社員の退職対応やリーマンショックによる大幅売上減もあり、過剰すぎる責任感を勝手に持ってしまい、僕の力不足もあいまって、心を壊してしまいました。そこからは、薬に助けられながらの生活でした。朝、会社に向かうバスの中では「このバス、事故にあえばいいのに、、、」そんなことを毎日思う日々。そんな生活が1年ほど続いた35歳のある日・・・「銀座の交差点で叫んで走る」というところまで追い込まれ、会社にいけなくなりました。・・・はい、「社長の息子の役員が、会社に来なくなる事件」を起こしたんです。それから一度も会社に行かぬまま、会社を去ることになります。社員のみんなに挨拶もなしに...十字架を背負った気持ちになりました。そして、家から出られなくなりました。恥ずかしいし、情けない気持ちに押しつぶされるような毎日。父親にはものすごい迷惑をかけたと思います。これが、1度目の社会的「死」でした。2.2度目の社会的「死」。1円で会社を売却35歳で父親の会社を辞め、無職・無収入になりました。子供は1歳、まだ当分終わらない住宅ローン、、、人生、終わったと思いました。しかし、死ぬ勇気もない。家族のためにも、生きていかなければいけない。半年ほど時間が経ち、サラリーマンに戻りました。前の会社で「人がすべて」とわかったので、組織開発コンサルタントとして転職しました。そこの仕事はとても面白く、僕に合っていたようでした。2011年の震災を機に「ハタモク(働く目的)」という学生と社会人が「何のために働くのか」を語り合う場を仲間と立ち上げたら、それが多くの人に共感され、活動は全国に広がるほどに。何度か新聞や雑誌にも取り上げられ、一度終わったと思った人生は、少しずつ良い方向に回復していきました。2013年、この流れを事業にしたいと思い、「株式会社もくてき」を立ち上げました。「目的に向かって生きる・働く人と組織を増やす」というビジョンを掲げた会社です。いまでこそパーパス経営と言われていますが、その時は「なにいってるの?」と言われる始末でしたが、ときどき見つけてもらって、新聞に取り上げてもらったりしました。翌年の2014年には人を応援する「エール」というクラウドサービスを立ち上げ、投資家などから1億円近くを調達して上場を目指すことにチャレンジしました。「多くの人に応援を届けたい」そういった想いをカタチにしたかったんです。ですが、僕の力不足もあり、サービスが思うようにいかず...情報漏洩問題も起こして顧客はゼロに。毎月500万近くの赤字が垂れ流れ、、、3年間、それこそ寝ずに頑張りました。心の限界も超えていましたが、なんとか耐えて踏ん張っていました。・・・しかしある日、倒れました。・・・一度休んだら、心も折れました。そして、またやってしまったんです。今度は「社長がこなくなる事件」を。心も体も限界を超え、何もできなくなりました。弁護士に力を借りながら投資家と話し合った末、僕がこれ以上、会社の経営をするのは無理と判断し、会社を手放すこととしました。売却金額は1円です。翌日、銀行通帳には「1円」の入金が記帳されました。やってきたことも、社員や仲間も、お金も、すべてなくなりました。命懸けでやってきたことが1円と記帳されただけ。2016年、42歳。これが2度目の社会的「死」でした。人生で最もむくみ、体重も20キロ近く、増えました。いつもガマンばかりしていて、ストレスをためていつも背中が痛くて、呼吸もできない日々でした。家族には大変な苦労を掛けてしまいました。このときには絶対に戻りたくない。そんな時代です。3.生き直しで「半径3m」 x 「好き」の生き方にまた、無職・無収入になりました。人生2度目。「おれ、そんなに悪いことしたのかよ」神様に、そう言うしかできませんでした。「まじめに一生懸命に生きてきただけなのに。なんでこんな目にあわなきゃいけないの。つらすぎるよ。もう生きるの疲れたよ。」自分を責め続けました。人生を、あきらめたくなりました。しかし、あるとき、ふと、「あ、僕の生き方は 何かが間違っていたのかもしれない」と気づきはじめるように。そこから「生き直し」することに決めました。自分の人生を見つめ直していくと、いくつも気づきがありました。評価や実績など外側ばかりを求めた「他人軸」の生き方をしてきたこと。売上・利益を気にして「べき・ねば」で動き、「好き」を大切にしてあげなかったこと。自分や家族、身近な人を充分に大切にしてこなかったこと。それでも家族は離れずに近くに居続けてくれたこと。恥ずかしながら、そんなことがわかりました。そして、「半径3メートルを大切にする」「好きなことを、好きな人としかしない」「家族をいちばん大切にする」この3つを軸に、生き直すことを決意したのです。=================「好き」から生まれたビジョンは生きる・働くエネルギーになる=================そこから人生は確実に変わり始めました。このとき、2017年、43歳からの再出発です。4.「好き」で生きたら人生が変わった「半径3メートル」✕「好き」という自分軸な生き方に変えて、人生は大きく変わっていきます。売上などの規模を目指すやり方は、僕には合わない。社員の雇用や事務所などの固定費や借入は、心の負担になるから、豆腐メンタルな僕には合わない。自己理解が進み、さらには規模は小さくていいから・「好き」を楽しんで生きるのが僕に合ってる!・「好き」の先に魂が震えるビジョンがある!そして・夢やビジョンはバカデカくていい!こんなことがわかりました。今の僕のビジョンは「地球がひとつの家族として 人もビジネスも 愛と感謝が流れている時代を創る」恥ずかしげもなくそれを熱く語り、ビジネスもそこに結びつけています。「好き」から生まれたエネルギーは、パワフルなことを確信しています。生き方・働き方も軽やかに変わっていき、ビジネスも連続的に立ち上げて、楽しみながらできるようになりました。5.14の事業立ち上げと、4社の売却からわかったこと=================「好き」から生まれたビジョンは生きる・働くエネルギーになる=================これが僕がわかった真理。そんなビジョンに生きてきた結果、冒頭で話した事業など多くを生み出せました。さらに、ビジョンに向かって軽やかに動き続けるコツもわかりました。それは「仮決め」(かりぎめ)という技術。「好き」から生まれるビジョンと「仮決め」。この2つをセットで実践すると、充実した生き方・働き方に向かいます。それをどんなステップで具体的にどのような取り組めばいいかを描き尽くした1冊がこの本です。+☆+☆+☆+☆+☆+☆+1人起業家マインドセット〜「好き」を「稼ぎ」に変えるすごい働き方〜 はじめに 「好き」と「稼ぐ」を両立する最強の働き方第0章 僕が1人起業家になったわけ第1章 1人起業家という新時代の働き方第2章 「好きなこと」を確実に見つける方法第3章 「1人起業家マインド」で幸せに成功する第4章 「ずらし戦略」で競争力を磨く第5章 「ニッチスター戦略」でオンリーワンになる第6章 「コミュニティ・コラボ戦略」で次のステージに飛躍するおわりに 「好き」から始まる大きな循環+☆+☆+☆+☆+☆+☆+1人でも多くの人が、軽やかにポップに「自分らしく、楽しく生きる」に向かうことができるようになる本です。

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    #77 転職5回の男が語る「運命を自分で創る」Yoshiさんの人生物語2

    「親父が大腸がんになったんです。」Yoshiさんの転職理由は、多くの人が想像するキャリアアップとは全く違っていました。製薬業界で働く彼にとって、父親の病気は単なる家族の問題ではなく、自分の仕事への向き合い方を根本から変える出来事だったのです。なぜ、会社が提示した3つの選択肢ではなく、なぜ4つめの選択肢、転職を選んだのか?そう、従業員3000人の大手外資製薬会社から、たった70人のドイツ系ベンチャーへ転職。 父の病気が変えた人生の軌道。一つ一つは小さな選択でも、それが積み重なって予想もしない運命が生まれる。「運命って『命を運ぶ』って書くじゃないですか。僕はその瞬間瞬間の選択が、自分の命をどこに運んでいくかを決めている。そうして運命を作っていると考えてます捉えています」1. 転職4社目 : 10年間のサバイバル戦 - リストラの嵐を乗り越えた男「転職エージェントから『それだけでも業績ですね』って言われました(笑)」入社した会社は「取り扱い要注意」のブラックリスト企業。外国人社長が頻繁に人をクビにし、業界内では悪名高い存在でした。しかし、Yoshiさんはそこで何を見つけたのか?製品戦略担当2人のうちの1人から、マーケティング部を立ち上げる部長として14人のチームを率いるまでに成長会社も70人から200人規模へ拡大経営者視点での意思決定プロセスを体験まさに「修羅場」が最高の成長の場となった10年間の物語です。2. 夢と現実のギャップ - 海外転勤の約束が教えてくれたこと「海外で働きたい」- ブラックリスト企業に入社時の希望を伝えており、社長も上司ももちろんサポートしてくれると約束していました。実際、私が知るかぎり10年間で3度のチャンスがありました。1回目・2回目:新製品の臨床試験の失敗により機会消失3回目:なんと上司が勝手に断っていた!「日本を抜けられたら困る」という理由で、知らない間に夢を奪われていたYoshiさん。知らないうちに夢を閉ざされてしまった出来事が、Yoshiさんのその後の人生を大きく変える転機の一つとなりました。3. 転職5社目 : 運命の1週間 - サンフランシスコからの突然の電話45歳、ある医師の紹介で始まった小さな縁が、思わぬ展開を生みます。「来週サンフランシスコに来れますか?」突然のアメリカからの連絡。たまたま空いていた1泊2日のスケジュールで弾丸渡米。1日で5人との面接をクリアし、なんと日本法人設立という壮大なプロジェクトのオファーを獲得!日本法人すらない会社との契約という前代未聞の転職劇。4. 製薬業界のエリートが安定を捨てて見つけた「本当の自分らしい働き方」製薬会社で順風満帆なキャリアを歩んでいたYoshiさん。周囲からは羨ましがられる安定した地位にいながら、なぜ彼はリスクを冒してまで転職の道を選んだのでしょうか。その答えは、彼が語る「思考の枠から出た時に見えた、まったく違う景色」にありました。運命を変えた一つの決断「このままでいいのか?」製薬会社のマーケティング部長として働いていたYoshiさんの心に、ある日ふと浮かんだ疑問でした。安定した給料、将来への不安のない生活。でも、心の奥底では何かが物足りない。そんな漠然とした思いを抱えていた時、アメリカの遺伝子検査会社から声がかかります。それは、日本法人がまだ存在しない、まさにゼロからの立ち上げプロジェクトでした。周囲からは「なぜそんなリスクを?」と驚かれましたが、Yoshiさんの胸には久しぶりのワクワク感が蘇っていました。業界が騒然とした退職劇決断の時が来ました。製薬会社を退職すると発表した瞬間、業界内でSNSなど、ちょっとした騒ぎになります。「あのYoshiが製薬会社をやめた」という話題で持ちきりになり、多くの人から「もったいない」「なぜやめたんですか」と質問攻めにあいます。でもYoshiさんには確信がありました。「戻れる自信があった」から。この自信こそが、リスクを恐れずに新しい挑戦に向かう原動力だったのです。気づいた時には「日本に数人」の希少人材に癌領域での専門知識、遺伝子検査という最先端技術、海外組織でのビジネス経験、そして日本ビジネス立ち上げという特殊な経験。これらが組み合わさった時、Yoshiさんは「日本に数人しかいない人材」になっていました。軸をブラさない転職戦略が、気づけば圧倒的な市場価値を生み出していたのです。5.  もう一つの顔:コーチングとの意外な関係実は、Yoshiさんにはもう一つの顔があります。それがコーチング業です。「製薬やマーケティングと全然関係ないじゃないか」とよく言われますが、その原点は製薬会社時代の挫折体験にありました。すべては30代の頃、一本の電話から始まりました。29歳でマーケティングに異動した時、年上の部下との関係に悩み、精神的に追い詰められた時期がありました。そんな時に出会ったのが「コーチング」でした。外資系企業で管理職になった彼は、会社のコーチング研修を受ける機会を得ました。「コーチングってこんなものかな」と思いながら学んだ知識は、実際に部下を持つと全く通用しませんでした。「全然うまくいかへんやんけ」という関西弁混じりの率直な感想が、彼の探求心に火をつけました。6.   今、明かされる「思考の枠を超える」威力Yoshiさんが3度の転職で得た最大の気づき、それは「思考の枠から出ることで見える、まったく違う景色」でした。コンフォートゾーンの中で考えていた時には見えなかった世界が、環境を変えることで一気に開けたのです。結果として年収は大幅にアップし、様々な機会にも恵まれました。でも何より価値があったのは、「自分らしい働き方」を見つけられたことでした。7.  製薬マーケティング責任者からコーチング起業家へ——ある男の選択が紡いだ物語履歴書を見れば、誰もが首を傾げるでしょう。転職回数5回。普通なら「この人、何か問題があるのでは?」と思われても仕方ありません。しかし、転職エージェントは彼の経歴を見てこう言いました。「素晴らしいキャリアですね」と。現在は米系のがん遺伝子検査会社の日本法人のシニアディレクターを務めながら、自らの会社を立ち上げてコーチング事業を展開する、まさに現代の「複業」を体現する男です。8.  製薬会社を辞めた瞬間に見えた世界45歳、製薬会社を辞めた瞬間、予想外のことが起こりました。多くの人が彼のもとに相談に来るようになったのです。「製薬企業でのマーケティング責任者をやっていた人が会社を出たら、たくさんコンサルしてとの声がかかりました。薬の売り方や製薬企業へのセールスををアドバイスできる人って結構貴重なんですよね」広告代理店をはじめ、製薬向けにビジネスを展開する人たちから「どういったプレゼンをしたらいいか」といった相談が殺到しました。彼はコンサルタントとして的確なアドバイスを与えました。しかし、しばらくすると「ちょっとうまくいきませんでした」という報告が返ってくるのです。「やり方や考え方は理解して動こうとしているんだけども、結局人の問題で動けていないケースが多かった」そこで彼は気づきました。「これはもうコンサルの領域じゃない。コーチングなんだ」9.  人生を変える責任の重さ無料で相談に乗って、コーチング的な関わりをすることも多かったYoshiさんですが、あるとき重要なことに気づきました。「コーチングって、その人の人生を変える可能性があるじゃないですか。」セッションをきっかけに行動が変わり、その人の人生が変わっている。それは大きな責任を伴うことだと気付いたのです。「無料でやるというのは、逆に責任感がない。ちゃんとお金をいただいて、それに見合うスキルを身につけて、プロとしてちゃんとやった方がいい」この責任感が、彼をコーチングスクールへと向かわせました。10.  本業とのシナジーが生む奇跡コーチングの認定資格、さらにはトレーナー資格まで取得したYoshiさん。2020年後半から副業としてコーチングを開始し、現在で4年目を迎えています。特筆すべきは、本業との絶妙なシナジー効果です。製薬業界にいる彼は、多くの医師とのつながりを持っています。「お医者さんって、めちゃんこ大変なお仕事なんですよね。特に今の働き方改革で、大学病院は本当に最悪な状況」40代、50代の医師たちは仕事の業績や部下の育成はもちろん、人生やキャリアに悩むことも多く、そこでYoshiさんのコーチングが力を発揮します。結果として、本業の製薬業界での仕事とコーチング事業が有機的につながっているのです。11.  「失敗はない、あるのはフィードバックだけ」多くの転職を重ね、副業から起業へと歩みを進めてきたYoshiさんが大切にしている考え方があります。「やったら、フィードバックがあるということ。失敗はないわけです。期待する結果でなかったとしてもそれはフィードバックを得ただけ。それを踏まえて、また動いていけばいい」転職する時も、「悩んだら、とりあえずちょっと行ってみるか」という軽やかさがありました。結果的に、それが良い方向につながっています。「製薬にずっといたら、このコーチングをビジネスとして、今自分の会社まで作ってやることは多分できていない」その時、その時の選択が、今の彼を作り上げてきたのです。

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    #76、27歳で3社転職!?製薬業界を渡り歩いたYoshiさんの人生物語 1

    27歳で3社転職!?製薬業界を渡り歩いた男の人生物語。1社目:外資系製薬会社(2年半)2社目:内科系の会社(2年半)3社目:抗がん剤の世界へ(8年間)「どうやって、余命数ヶ月の父親の大腸がんの治療をしてあげたらいいかわからない」父の主治医から発せられたこの一言が、Yoshiさんの人生を180度変え、転職にも影響しています。がんについて何も知らなかった自分。 父親を救えない現実と向き合った時、新しい道を切り開いていきます。1.野球とラジコンと機械いじりの小学時代大阪・阿倍野の生まれ。自営業で、両親が飲食店を営み、子どもの頃はお金のかからない遊びが中心。小さい頃からよくやっていたのは、近所での野球。小学校の高学年くらいになると、「自分で組み立てるタイプのラジコン」。ネジを回したり、パーツをつなげたりするのが楽しくて、時間を忘れるほど没頭。小さい頃から「機械いじり」が好きな少年でした。2. 卓球漬けの中学時代小学生の頃、少年野球チームに入ってはいたものの、中学では一転して卓球部に入ることになります。その理由は、中学の野球部に入るには「坊主頭」にしなければならないというルールが単純に”嫌”。また卓球部には、ちょっと面白い特徴があり、顧問の先生が「卓球をまったく知らない人」だったということ。最初の頃はまだ形だけの指導が、2年生になる頃には「もう自分たちで練習メニュー決めていいよ」と、完全に放任状態に。これが、Yoshiさんにはすごく合っていたんです。そして中学1〜2年生の頃はかなり卓球に熱中して、早朝練習と放課後の練習。さらに夜8時半ごろから地元の卓球クラブに通うという、卓球漬けの生活。その結果、大阪の大会でベスト8に入る実力をつけることになります。別に卓球が最初から好きだったわけじゃない。でも、やっているうちに「頑張る」ってこういうことかもしれない、そんな気持ちになっていった中学時代。3. 自分たちで考える卓球練習が楽しかった卓球の練習方法を探すために、卓球の本を読んだり、技術解説を調べたりして、「こんな練習やってみよう」と毎日のように話し合って決めていた。形式にとらわれず、工夫しながら取り組むのがすごく楽しい。Yoshiさんは2年生のときには部長を任され、自分たちで練習を組み立てる自由さのなかで、一生懸命に卓球と向き合っていました。そうやって試行錯誤しながらやっていたことが、夢中になれた理由のひとつだったのかもしれません。今振り返ると、この時から「どうすればもっと良くなるか」「同じやり方じゃなくて、他の方法はないか」と工夫するのが好きだった少年。卓球部という枠の中で、自由に考え、仲間と工夫して動いていたあの時間は、Yoshiさんの「らしさ」が自然と出ていた瞬間だったのかもしれません。4.  アメンボが教えてくれた進路のヒント高校時代、最初は文系を選ぼうかと思いながら、最終的には理系を専攻。理由はシンプル。昔から「メカニズム」や「仕組み」を知るのが好きだった。当時は、ちょうどバイオテクノロジーが注目され始め、生物工学などの学科が次々と新設。「生き物の仕組みを技術に応用する」という分野に興味を持ちます。進路を決めるにあたっていろいろな大学を調べている時、ある学科の紹介文に目が止まりました。「アメンボが水の上を歩ける仕組みを人間の技術に応用する研究」「えっ、それって本当にやってるの?」と思いましたが、読んでいくと納得。アメンボの足には細かい毛があって、撥水性を持っている。だから水の表面張力をうまく使って浮かぶように歩ける。――そんな自然の仕組みを、工学的に応用する研究があったんです。その紹介を見たとき、「これは面白い!」と心から思いました。それがきっかけで、生物の仕組みを研究する大学の工学系学部を目指すようになりました。5.  メカニズムが気になる性格Yoshiさんは何かを「作る」よりも、「どう動いてるのか」「中身がどうなってるのか」を考えるのが好き。たとえば、ラジコンを作るときも、動かすのが楽しいというより、「どんな構造で動いてるのか」が気になって仕方なかった。この「メカニズムを知りたい」という好奇心によって、目に見えている物事の表面だけじゃなくて、「その裏にある構造はどうなっているのか?」と、つい掘り下げたくなるんです。6.  ジェットコースターの仕組みが気になった高校時代高校生になり、女の子と遊園地に。もちろんジェットコースターにも乗って、「キャーキャー」と盛り上がる、あの感じ。でも、ジェットコースターから降りたあとに感想を聞かれて、Yoshiさんが答えたのは、「これ、どうやって坂を登ってるんやろうな?どんな仕組みなんやろ?」女の子が期待していたのは、「怖かったね」「楽しかったね」といった共感や感情の共有。でも、Yoshiさんは完全に構造やメカニズムのほうに意識が向いていて……正直、ちょっと気まずい雰囲気になりました(笑)。7.テニスサークルの部長の大学時代理系としては珍しく、大学ではテニスサークルの部長として、ほぼ毎回参加。登録メンバーは200〜300人。夏の合宿では観光バス3台で移動するほどの大規模サークル。部長としての経験は、理系の勉強とは違った学びを与えてくれた貴重な時間でした。8. 理系から製薬会社MRへ:自分に合った道を見つけるまで理系の学生だったため、教授から大手食品会社など研究所への推薦の話がありました。しかし、研究室でずっと実験を続ける自分の姿が想像できず、早々に研究職の道は諦めて一般の就職活動を行うことに。最終的に選んだのは、製薬会社のMR(医薬情報担当者)。基本的には薬の営業という仕事内容で、理系の知識を活かしながらも、人とのコミュニケーションが中心となる職種。研究室にこもるのではなく、外に出て働ける環境に魅力を感じたのです。9.キャリアのスタート、1社目:アメリカ系大手製薬会社新卒で入社したアメリカの大手製薬会社では、早々にそれなりの成績を上げることができましたが、この会社には大きな課題がありました。製薬業界では「新薬」の存在が営業のやりがいにおいても非常に重要と考える傾向があります。新しい薬は、医師からの需要も高いため、貢献感も高く、多くのMRが新薬を扱いたいと考えています。ところが、この会社では、なかなか画期的な新薬が出てこない。細かい改良品のような市場価値がそれほど高くない薬がパラパラと出る程度で、営業としてのやりがいを感じにくい状況でした。10. 転職、2社目: 内資系製薬会社25歳頃、同じエリアを担当していた内資系製薬会社の先輩MRから「うちの会社で画期的な新薬が出るから、転職しないか」という誘いがありました。この会社では、当時としては画期的な骨粗鬆症の治療薬を扱うことになりました。骨折リスクを減らす確かなエビデンス(科学的根拠)があり、従来の治療とは異なるアプローチの薬で、非常にやりがいを感じたのです。新薬の発売に携わり成功をおさめますが、在籍期間は2年半で、薬の発売から1年半という短い期間でした。11.  人生を変えた出来事転職を考え直すきっかけとなったのは、父親の大腸がん発症でした。当時、名古屋でMRとして働いていましたが、大阪の実家で治療を受ける父に呼ばれ、病院での説明に同席。製薬会社にいるとはいえ、がん領域の薬は扱ったことがなく、専門知識はない。それでも父からは「薬のことはお前が分かるだろう」と期待されていました。しかしながら、父の病気がかなり進行した状態で発見され、余命が数ヶ月という厳しい現実。この経験が、その後のキャリアに大きな影響を与えることになったのです。12. 転職、3社目: 製薬会社で抗がん剤担当担当していた骨粗鬆症治療薬の競合企業からヘッドハンティングを受けました。私が発売した薬を、彼らが新たに発売する骨粗鬆症治療薬に切り替えてほしいというもので、当然断りました。ただ、その会社には抗がん剤の部署があり、父のことをきっかけに抗がん剤の仕事に興味を持っていました。ヘッドハンティング会社に抗がん剤の担当としてなら話を聞いてみたいと伝えたところ、そのまま選考に進み、未経験ながらも抗がん剤担当MRとして3社目となる転職をすることになったのです。3社目では8年間勤務し、34歳まで製薬会社で抗がん剤領域の仕事を担当。入社時(27歳): 営業として入社2年後: マーケティング部門に異動3年後: プロダクトマネージャーにプロダクトマネージャーとは、マーケティング部で薬の販売戦略を考える製薬会社の中でも花形部門です。そこからはずっとマーケティング業務に従事し、基本的に抗がん剤領域の製品をマーケティングとして担当していました。13.  転機となった出来事35歳直前に大きな転機が訪れました。自分が担当していた製品が「販売移管」となったのです。これは、自分の会社ではなく別のメーカーに販売をしてもらう。つまり自分では売らずに販売を別の会社にやってもらうという本社の決定でした。自分が担当していた商品を別の会社に渡すことになり、当然自分が売る薬がなくなってしまいました。幸い、会社は3つほどの選択肢を用意してくれました:抗がん剤のマーケティング部で製品の担当をする他の領域のマーケティングで新薬の担当をする販売移管先の会社との窓口業務を行う全て悪い話ではありませんでしたが、結果的に選んだのは4つ目の選択肢――会社を辞めるという選択でした。

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    #75 転職6回の異例の経歴を持つキャリアハック、吉水さんの人生物語2

    「何をやってるか、わからない会社を紹介してください」転職エージェントにこんな無茶振りをした男がいる。 その男の名は吉水さん。彼は今、人的資本の最前線で活躍するプロフェッショナルだ。 しかし、その道のりは常識を完全に覆すものだった...今回の「人生配信オンリーワン」では、転職6回、「理系研究者→銀行員→外資系コンサル→起業家」という異色の経歴を持つ吉水さんが登場。彼の型破りな人生ストーリーは、あなたの「常識」を完全に覆します。衝撃の連続!吉水さんの"非常識"キャリア1.論文で就職した男就職活動をほとんどせず、論文1本で研究職内定面接は技術プレゼンのみ、人柄や志望動機は一切聞かれず「こんな人聞いたことない」と驚愕される採用方法2.研究所脱出大作戦憧れの研究職に就くも、数ヶ月で退職願理由は「誰も喋ってくれないから」人事部も「やっぱりな」と納得の配置転換3.役員直談判事件希望部署への異動を役員に直接メールで要求翌日呼び出され、部長たちがざわつく中での説明会「良くないことしました」と反省しつつも見事に異動成功4.銀行転職の奇跡IR業務で財務知識の必要性を痛感「金融を学ぶなら銀行か証券」と1社のみ応募他業界から銀行への転職組わずか11人の狭き門を突破5.突然の英語面接地獄銀行勤務中に突然のヘッドハンティング「銀行を辞める気なんて全くなく、話だけ聞きます」のつもりが、なんと外国人社長との英語の面接。相手に話をさせてはいけないと、1時間、一度も息継ぎを与えずに日本語で喋り続けて内定を獲得。6.外資系コンサルでの7年間よく喋るから仕事が途切れない法則月のタクシー代32万円の激務時代「好きだから続けられた」の真実7.8人でのMBO(買収)挑戦会社の一部門を丸ごと買い取る大胆な決断創業メンバーとして新会社設立寝ずに働いても楽しかった理由8.突然の「飽き」と新たな挑戦「シェア100%で4000社しかない」衝撃の気づき5年間築いたキャリアを捨てる勇気社長にブチ切れられても貫いた信念今すぐ視聴する理由この配信を聞けば、あなたも気づくはずです。人生は思っている以上に予測不可能で、それこそが最高に面白いということを。吉水さんの型破りなストーリーは、きっとあなたの固定概念を打ち破り、新しい可能性を発見するきっかけになるはず。「人と違う道を歩む勇気」そして、このエピソードは、あなたの人生観を根本から変える可能性を秘めています。「計画通りにいかない人生」を歩んでいるあなたへそれは失敗ではありません。 それは、あなただけの特別な道なのです。特に印象的だった名言「好きでやってると、人がそれを評価してくれる」「自分でやってる感がすごくあったんで、寝ずにできた」「僕以外誰がいるんですか?」このエピソードから学べること✅ 吉水流キャリアハック術❌ 世間の常識:「キャリアプランを立てて計画的に転職せよ」〇 吉水流:「好き嫌いだけで70%偶発的る」✅ 「好き」を仕事にする本当の意味好きなことは評価される、そして仕事が途切れない✅ 人生の流れに身を任せる技術計画通りじゃなくても、目の前の問題解決に集中すれば道は開ける✅ 「普通」にこだわらない勇気常識に縛られず、自分らしい道を切り開く思考法✅ チャンスの見極め方限られた機会を確実に掴む戦略的アプローチ✅ 失敗を恐れない行動力「だめでも元に戻ればいい」という前向きマインド✅ 専門性の築き方目的意識を持って必要なスキルを戦略的に習得✅ キャリアの転機を見極める感覚安定を捨ててでも挑戦する価値がある瞬間の見分け方こんな人におすすめ転職を考えているけど踏み切れない人理系出身で文系職種に興味がある人失敗を恐れず挑戦したい人「普通じゃない」キャリアを歩みたい人生の転機を迎えている人今すぐ再生ボタンを押してください月のタクシー代32万円の激務時代から、突然の「飽き」まで。理系研究者が辿った予想外すぎる人生の軌跡を、ぜひあなたの耳で確かめてください。きっと、あなたの人生観が変わります。

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    #74 フランス→サウジアラビア→ベルギー→中国と4か国を渡り歩いた吉水さんの人生物語1

    生まれた瞬間から話題の人!フランス→サウジアラビア→ベルギー→中国と4か国を渡り歩いた48歳の驚愕人生。「この人、マジで何者?」病院で生まれた瞬間から大騒ぎだった男の波乱万丈ストーリー想像してみてください。あなたが生まれた瞬間、病院の先生たちが「黄疸が出た!」と大騒ぎ。検査をしても検査をしても異常なし。 困り果てた医師が父親に尋ねると...「すみません、私、日本人なんです」これが吉水さんの人生の始まりでした。1.【フランス時代】4-5歳パリ郊外でフランス人として育つ親友はジョセフィーヌちゃんとヨハンナちゃんフランス語ペラペラ(でも現在は話せない...)2.【サウジアラビア時代】幼稚園〜小学校サウジアラビアに到着初日に見た雨が...最初で最後の雨だった想像を絶する環境:機関銃を持った武装警備員がうろつく日常「人さらいが来る」という恐怖の中での生活 定期的な「犬狩り」でペットを室内に隠す文化 1年間雨が降らない砂漠の国そんな中で出会った運命のアニメが...3.ガンダムとの衝撃的な出会いなぜサウジアラビアでガンダム?女性が映るコンテンツは検閲で持ち込み禁止でもメカ好きなアラブ人にはロボットアニメが大人気砂漠で活躍するガンダム(哀戦士編)が完璧にマッチこれが後の人生を決定づける瞬間でした4.「理系じゃないと殺される」—6歳の少年が下した究極の選択あなたは6歳の時、何を考えていましたか?ゲーム?アニメ?それとも将来の夢?しかし、サウジアラビアで過ごした一人の少年は、まったく違うことを考えていました。「この国で生き残れるのは、医者と科学者だけ」6歳でサウジアラビアに住んでいた吉水さん。 そこで聞いた話は、あまりにも衝撃的でした。「革命が起きたら、ビジネスマンや教師は殺される。 でも医者と科学者だけは生き残れる。 なぜなら、人を治すことと科学は、 国や宗教が変わっても価値が変わらないから」この話を聞いた瞬間、少年の心に決意が芽生えました。「絶対に理系になる」5.砂漠の国での奇跡の幼少期「バザーで売れ残った皿を買った5歳児」周りがゴム鉄砲に群がる中、たった一人売れ残りの皿を購入する少年「この子が気の毒だった」と正直に答えて大人をドン引きさせた天才エピソード既に5歳でお金の勘定をしていた異才ぶり6.【ベルギー時代】ベルギーでの4年間が生んだ奇跡「日本人になるための壮絶な自己改造計画」古い漫画から最新作まで全てを「暗記」レベルで習得同世代が知らない昭和の名作まで完全制覇サブカルチャーを「勉強」として取り組んだ異常な努力7.逆カルチャーショック地獄帰国後、吉水さんが見たものは…「日本の子供たちについていけない絶望」三鷹と三重の田舎で感じた孤独感テレビ番組の話題に全くついていけない疎外感「帰国子女」という名の呪縛壊れていない自動販売機の列。誰も盗もうとしない平和な光景「こんなに恵まれた国があるなんて」 この瞬間、彼は決意しました。「もう二度と海外には行かない」7.400円の牛丼で号泣した中学生吉野家のカウンターで、友達の前で400円の牛丼で号泣した男の壮絶人生ストーリー「日本って...こんなに豊かな国だったんだ」8.理系学生×落語研究会の異色コンビネーション大学時代の吉水さんは、まさに「二刀流」でした。昼間:電気電子工学の研究に没頭有機発光素子の研究1日18時間の実験漬け暗室での発光組織観測夜:落語研究会でお笑い修行JAL機内番組で落語に目覚めるサッカー部との掛け持ち理系研究者とお笑い芸人の二面性9.「面白い」を追求する独特な価値観「面白いって、ちょっと違うことだと思うんです」吉水さんの「面白い」の定義:王道は抑えつつも、変わったものを好むみんなが見ていないところに着目違う視点で物事を捉えるこの価値観が、彼の研究への情熱と お笑いへの愛を同時に支えていたのです。なぜこの配信を聞くべきなのか?✅ あなたが得られるもの:視野の広がり - 常識を覆す国際的体験談困難への対処法 - 極限環境での適応力の秘密キャリアの多様性 - 6回転職した人の思考法エネルギー - 聞いているだけで元気になる人柄✅ こんな人におすすめ:刺激的な人生体験談を聞きたい自分の可能性を広げたい困難を乗り越えるヒントが欲しい単純に面白い話を楽しみたい推薦コメント「顔を見ているだけでエネルギーをもらえる不思議な人です」今回の「人生配信オンリーワン」は規格外・生まれた瞬間から話題の人。 4カ国を渡り歩き、現在は6社目。・幼少期をサウジアラビアで過ごした帰国子女・ 銃と犬狩りのある国で育ち、ガンダムに人生を変えられた男。- 小学生時代に「日本人になる」ための驚愕の努力 - 漫画・アニメ知識で同世代を圧倒する理由これほど濃い人生を送った人の話、聞かない理由ありますか?今すぐ視聴する理由この配信を聞き逃すということは...❌ 日本の豊かさを再認識する機会を失う ❌ 本当の国際感覚を身につけるチャンスを逃す❌ 努力の本質を学ぶ機会を見逃す❌ 純粋な感動を体験する時間を無駄にするでも今なら...✅ 30分で人生が変わる体験ができる✅ 明日から日常を新しい目で見ることができる✅ 本物の国際人の思考を手に入れられる✅ 感動と学びの両方を一度に体験できるこの続きが気になりませんか?教授との研究方針の対立とは?なぜ研究職を諦めることになったのか?その後の人生にどんな展開が待っているのか?第2話では、吉水さんの社会人編がスタート!6回の転職体験談人的資本コンサルティングの世界現在の仕事に至るまでの軌跡今すぐ再生して、あなたの常識を覆してください。※この人生体験談は実話です。フィクションではありません。普通の人生なんてつまらない。 一人一人が持つ「オンリーワン」な人生ストーリーを 深掘りするポッドキャスト番組です。

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    #73 「仕事旅行社」創設者 - 田中社長の波瀾万丈な人生物語

    「モヤモヤして、自分が何やりたいか、わかんない。まだ先生になるのは早い。よし、それじゃ、勝手にいろんな職場を見に行こう」これが田中さんが「仕事旅行社」を立ち上げることになった原体験の第一歩なのです。そして、「自分で人生を選択して欲しい。そういう人を増やしたい。みんなが「俺これやりたいんだよ」「私これやりたいんだよな」みたいな感じで目をキラキラさせながら、子供のように前向きに生きてくれたらいいなと思ってる。そういう人が増えると嬉しい」こんな想いで「仕事旅行社」を15年も経営されている田中さんはどんな人生を歩まれてきたのか?1.テストも異性の目も気にしなかった小学生時代。神奈川県平塚市での自然に囲まれた生活。田舎でもなく都会でもない、ちょうどいい環境でした。ただ、育った地域は学校の周りが田んぼだらけの場所だったので、自然遊びをたくさんしていました。川遊びと自由な日々。当時は投網(とあみ)で、魚を取ったり、発泡スチロールに乗って川を流れていったりと、かなり自由に自然の中で遊んでいた少年だったのです。2.バスケ部補欠の中学時代中学に入ると、双子の兄と一緒にバスケ部に入部。2人とも大した運動神経ではなかったので、部活では基本的に補欠。たまに試合に出られる程度でしたが、ここでも双子の兄の方が試合に出る機会が多い。田中さんは補欠をずっと続けているのも嫌でしたし、兄がいることも気になって、途中で部活を変えてしまいました。兄がいることと、補欠であることの両方が嫌だったんでしょうね。ここでも双子の兄は、ずっと追いかけても届かないような一貫性を持っている人になっていました。4.アメリカの大学に行くことになった 運命を変えた一言双子の兄は、高校時代、アメリカに2年間留学。その兄の友達に英語で話しかけた時の一言は、「はあ?」兄の友達は、田中さんの英語が聞き取れない。それを「カチン」ってきただけでなく、兄が翻訳をしていることがすごく嫌。「あ、英語ぐらい喋れなくちゃいけない」と思って、この屈辱的な一言が、彼をアメリカのミズーリ州にある大学へと向かわせた!ところが、英語がわからない。大学の授業で、宿題が出ているかどうかさえわからない。授業が終わると、先生に「宿題出てましたか?」と聞きに行く英語初心者生活。人口6000人の田舎町で遊ぶところもないため、ひたすら勉強するために図書館に通い詰めた青春時代。日本では生徒会で目立っていたのに、アメリカでは「空気のような存在」。自分で話さないとダメ。自分で行動しないとダメ。まさにカルチャーショック。5.ラスベガスの誘惑と転落ひたすら勉強していた大学時代。ところが田舎すぎて嫌になり、ラスベガスの大学に編入。その結果、21歳を超えてカジノに通い詰める日々。カジノで勝っても負けても授業に出ない生活に転落。さらにバイトは本人の観光ガイド。日本語しか話さない。楽しすぎて、勉強しなくなりました。このままではダメだと、再び、ミズーリ州の大学に戻ります。ビジネスマーケティングで学位を取り、無事に卒業となりますが、話はここで終わりません。家族は教員一家だったため、教員がいいなと思い、教職を取ることに。しかし教職は日本の大学しか取れない。なんと日本に帰国し、国際基督教大学 (ICU)で更に2年半、教職の資格を取るために勉強することになります。6.金融業界での4年間とミスマッチ国際基督教大学 (ICU)卒業後、さぁ先生になろうかなという時期になって、考えが変わります。・教職の世界は狭い。・一般社会でもまれたい。・まだ先生になるのは早い。その結果、最終的に就職したのは、金融業界。その仕事は富裕層の資産を増やすだけ。本当にやりたかったのは投資教育。さらに金融が好きで入社したわけでない。やりたいことと違う。やりたいことが出来ていない。7.運命を変えた仕事探訪金融業界のミスマッチに気付いた田中さん。でも、モヤモヤして、じゃあ何やりたいんだかわかんない。まだ先生になるのは早い。よし、それじゃ、勝手にいろんな職場を見に行こう。セミナー、イベント、勉強会……気になった場にはとにかく顔を出しました。出会った人に「少しお話を聞かせてもらえますか?」とお願いし、興味が湧けば「オフィスに遊びに行ってもいいですか?」とさらに踏み込みます。こうして実際の職場に足を運ぶうちに、働き方の多様性を肌で感じるようになりました。ある日訪ねたベンチャー企業。そこで田中さんは、それまで自分が抱いていた「仕事=厳しいもの。その大変さの対価として給料をもらう」という価値観が揺さぶられる体験をします。最初に勤めた職場には、まさにその空気があった。しかし目の前に現れたのは真逆の世界——楽しさや創造性が前面に出ていて、人が生き生き働いている。「あ、僕もこういう生き方をしたい!」とスイッチが入りました。8.「仕事旅行社」誕生秘話複数の職場を訪ね歩くと、それぞれの文化・働き方・価値観の違いがよく分かります。比較対象が増えるほど、自分の軸や「ここは合う/合わない」の感覚もクリアになる。田中さんは、フィールドワークを重ねるほどに視野が広がり、自分にフィットする働き方を“選べる”感覚が芽生えていったと話します。これは単なる情報収集ではなく、「体感知(たいかんち)」——体で得たリアルな気づきでした。この原体感をもっと多くの人に届けたい——そうして形になったのが「仕事旅行社」という会社です。いろいろな職場に1日訪問して、現場の空気を感じたり、そこで働く人と対話したりできる“仕事版・社会見学ツアー”のようなプログラム。キャリアに迷う人、転職を考え始めた人、若者への進路支援を考える教育関係者など、幅広い層が利用できるコンセプトとして生まれました。9.仕事旅行社が15年続く理由と永遠「お金を稼ぐためじゃない。誰かの背中を押したい。おせっかいおじさんになりたいんです」自分の過去を振り返って、1つの場所にいて、世界を知らずに苦しんでる人たちが「もっと自分のままでいいんだよ」っていうのを人に提供したいと思ってるんですよ。できる限り多くの人にそういう視野を広げる体験をしてもらって幸せになってもらいたい。自分で人生を選択して欲しい。そういう人を増やしたい。みんなが「俺これやりたいんだよ」「私これやりたいんだよな」みたいな感じで目をキラキラさせながら、子供のように前向きに生きてくれたらいいなと思ってる。そういう人が増えると嬉しい。この配信で得られる3つの宝物1. 失敗を恐れない勇気田中さんの人生は失敗の連続です。でも、その失敗こそが今の成功の礎になっています。失敗から学び、次に活かす思考法が学べます。2. 本当にやりたいことを見つける方法「教員→アメリカ留学→金融→起業」という一見バラバラな経歴に隠された、人生の軸の見つけ方が明らかになります。3. コンプレックスを原動力に変える技術「兄へのコンプレックス」「英語への苦手意識」「金融業界でのミスマッチ」...すべてが今の彼の原動力です。あなたのコンプレックスも武器になります。今すぐ再生ボタンを押してください田中さんの人生から学べることは、教科書には載っていません。 リアルな体験談だからこそ、あなたの心に響く何かが必ずあります。人生は一度きり。 でも、生き方は無限大。田中翼さんの波乱万丈な人生ストーリーが、あなたの人生を変える最初の一歩になるかもしれません。なぜ今、この話を聞くべきなのか?「自分を認めてあげられない人」田中さんは自分をこう表現しました。 そして、その経験こそが「仕事旅行社」という革新的なサービスを生み出したのです。「本当はそのままでいいんですよ。兄は兄だし、他の人は他の人。自分のやりたい方向、自分に適したやり方、自分のありたい姿があるのに、周りの人ばっかりを見て、自分を劣っているって思っちゃっている」これは現代人の多くが抱える悩みそのものではないでしょうか?田中さんの現在の成功「仕事旅行社」創設者大人向けの職業体験サービス「大人のキッザニア」として注目多様な選択肢と可能性を提示するサービス

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    #72 現状維持は衰退、チャレンジを楽しむ梶さんの人生物語2

    父親から「チャレンジしなさい」と言われて育った梶さん。現状維持は衰退。チャンスを逃がさず、チャレンジしないと次の楽しみ、ワクワクがない。この言葉を聞いて、どう思いますか?現状に満足していませんか?チャレンジしていますか?色々なことに悩みながらも、梶さんの向上心が高く、前を向いて進む姿に、きっとあなたも刺激を受けます。そして、色々なことを深く考えている21歳の等身大の悩みと気付きが、あなたの心に響きます。1.第一志望の大学に落ちた衝撃双子の姉が受かって、私が落ちた大学受験 - 運命か、実力か、それとも?「なぜ同じ勉強法で、姉だけが合格したのか?」梶さんは、双子の姉と二人三脚で大学受験に挑んだ。同じ戦略、同じ勉強法、同じ努力量。これまで成績も維持し、お互い切磋琢磨してきた最強のパートナーシップ。しかし、結果は残酷だった。姉は第一志望校に合格。梶さんは不合格。その差は、わずか1点未満。2.「悔しい」では表現できない、複雑な感情の正体「悔しかった」という言葉では片付けられない、もっと複雑で深い感情が梶さんの心に渦巻いていました。姉が受かったことで「自分たちのやり方は間違っていなかった」と証明された安堵感でも自分だけが落ちた現実への困惑1点未満の差に、「何が悪かったのか」、悩み続ける日々母親の「あなたはこの大学に行くべきだった」という言葉への複雑な想いこれは単なる大学受験の失敗談ではありません。3.「運命だよ」と言われても納得できなかった理由あなたは大学受験で第一志望に落ちたとき、どう感じましたか?「自分に足りないものがあったから」「もっと勉強すべきだった」「努力が足りなかった」そんな風に考えませんでしたか?21歳の梶さんも、まさにその渦中にいました。4.母の言葉に隠された真実「もう導かれて今の大学に入るんだよ、運命なんだよ」受験に失敗した梶さんに、母親はこう声をかけました。でも梶さんは思った――「実績がないのに、すがっちゃいけない」 「成果を出すまでは、認めちゃいけない」この21歳の想いの奥に、実は多くの人が抱える「完璧主義の罠」が潜んでいたのです。5.生徒会長として輝いた過去が教えてくれること梶さんは高校時代、生徒会長として活躍していました。「自分が引っ張るぞ!」そう意気込んでいたけれど、実際は姉や同級生たちが支えてくれていた。でも、そのことを素直に認められずにいました。なぜなら――「自分一人でできないと意味がない」「弱いところがあってはいけない」 「運や相性で片付けてしまったら負けだ」そんな思いがあったから。6.21歳が気づいた「成長の本質」ポッドキャストの対話の中で、梶さんは重要な発見をします。「向上心」と「不足感」は違う。苦手なものを無理やり克服しようとするエネルギー本当に伸ばしたいことに注ぐエネルギーこの2つを混同していたことに気づいたのです。「暗記が大嫌いなら、ボイスレコーダーや携帯を使えばいい」 「苦手なことは他の方法で補って、得意なことを伸ばせばいい」シンプルだけど、多くの人が見落としている真実でした。なぜ、この話があなたの人生を変えるのかこの対話を聞いて、あなたはこう感じるかもしれません:「私も同じような経験がある」「完璧主義で苦しんでいるのは自分だけじゃない」「運や相性を認めることって、実は大切なことなんだ」梶さんの就職活動への影響も明らかになります。「この会社に行きたい」と必死に勉強しても、社風や文化に合わなければ採用されない。それは能力不足ではなく、単純に「相性」の問題という考え方もありますよね。この配信で明かされる深いテーマ📌 比較の呪縛から解放される瞬間「比較の対象が姉から自分に変わった」と語る梶さん。それはいつ、どのような瞬間だったのか?📌 「負債」という感情の正体梶さんが抱える「負債感」。それはネガティブなのか、それとも成長の原動力なのか?📌 運命論 vs 実力論「スピリチュアルになっちゃうんですけど、何か得るべきものを教えられているのかな」という梶さんの言葉の真意とは?📌 母親の預言的な言葉「この大学に行くべきだった」という母の言葉は、単なる慰めなのか、それとも深い洞察なのか?なぜ、この配信を聞くべきなのか?✅ 挫折を成長に変える思考法が学べる梶さんの体験から、失敗や挫折をどう捉え直し、未来への原動力に変えるかのヒントが得られます。✅ 比較から解放される方法がわかる身近な人との比較に苦しんでいる方に、新しい視点を提供します。✅ 人生の「正解」について考え直せる一見すると「失敗」に見える出来事が、実は別の意味を持つかもしれない。そんな人生の奥深さを感じられます。✅ 現在進行形のリアルな成長記録梶さんの物語は完結していません。今もなお続く成長の過程を、生々しく聞くことができます。配信のハイライト過去の自分が今の自分を見た時に、誇りに思ってもらえるか。運とか相性って片付けちゃ負けでしょ。そんなのダメでしょ。認めてはいけない、自分が足りないことに気付けるから、成長できる。これらの言葉の裏にある、梶さんの深い内面世界に迫ります。今すぐ再生して、あなたの人生観を揺さぶる体験をこの配信は、単なる体験談を超えて、人生の意味、成長の本質、そして真の成功とは何かについて深く考えさせてくれます。梶さんの率直で深い語りは、きっとあなたの心に響き、新しい視点を与えてくれるはずです。『人生配信オンリーワン』では、毎回異なるゲストの人生に深く迫り、その中にある普遍的な真理や学びを共有しています。あなたの人生にも、きっと新しい光が差し込むはずです。

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    #71 、21歳、就職活動の大学生が語る率直で等身大の人生物語1

    引っ込み思案の少女が、なぜ「挑戦し続ける人」へと変貌したのか?あなたは信じられますか?親に「あなたって、とても引っ込み思案だよね」と心配されるほど控えめだった少女が、今では積極的にチャレンジし続ける大学生になっているという事実を。今回の「人生配信オンリーワン」では、就職活動中の大学生、21歳の梶さんが、驚くほど素直に等身大で、これまでの人生について赤裸々に語ってくれました。1.「目立ちなさい」父親の一言が全てを変えた小学生の頃、父親から繰り返し言われた言葉:「目立ちなさい」「チャンスがあるならチャレンジしなさい」最初は「父が言うんだから正しいんだ」と素直に従っていた梶さん。とにかく「打席に立て」と解釈していました。2.一人じゃ無理だった父親に「目立ちなさい」と言われても、「一人じゃ無理だった」と梶さんが振り返る、双子の姉との関係。明るくポジティブな姉についていこうとする中で、いつしか「負けたくない」という気持ちが芽生えます。引っ込み思案だった少女は、双子の姉との切磋琢磨により、チャレンジする人生に変わっていきます。3.とにかく褒められたい「父親に褒められたい」から始まった挑戦の数々。引っ込み思案だった梶さんは小学校時代、なんと児童会長を務めることになります。この変化の根底には何があったのか?「両親に褒められたい」「姉に負けたくない」「まわりに頼られたい」そして、周りからも認めてもらえ、「前に出るタイプ」として周りに認識されるようになります。それが大きな喜びとなっていきました。この変化に自分自身も居心地の良さを感じ、「自分はリーダーに向いている」という確信を持つようになります。チャンスがあればトップに立ちたいという気持ちに変わったのです。この小学校での出来事が、大学でリーダーシップに興味を持つキッカケにもなっていきます。4.中学時代の挑戦、合唱コンクールの指揮者物語中学では学級委員や合唱コンクールでは指揮者など、チャレンジは続きます。なぜ指揮者に挑戦したのか?これを「チャンス」だと捉えていたからです。「こんな機会は今しかない。別に自分が音楽家になるわけでもないし、手を上げれば指揮者という経験ができるなら、やってみればいいじゃん」そんな感覚でした。自分がどこまでできるか試してみたい気持ちもあったかもしれません。この「とりあえずやってみる」という価値観も、父親の「いろんなことにチャレンジしなさい」という言葉から来ています。姉と切磋琢磨しながら、以前だったら考えられないような挑戦を積み重ねていく中で、その気持ちや良さが自分の中で強化されていったのです。そして「これが正しいんだ」という感覚が、経験を通して確信に変わっていったのです。小さな挑戦の積み重ねが、今の梶さんを形作っています。5.高校時代の挑戦、生徒会長として「痛い気付き」高校2年生での新しい挑戦は、生徒会長。そして副会長に双子の姉。「私は自分の役割を全うすべきだと思って、牽引力が大事だと思っていた」ところが「姉がいなかったら、きっと組織は回らなかっただろうな」この瞬間、梶さんは重要な真実に気づきます。「引っ張っていくだけじゃダメなんだ」「人との調和、それが自分にはまだまだ足りなかった」「一人では絶対に気づけなかった」なぜ多くの人が、梶さんのような気づきを得られないのでしょうか?実は、梶さんも最初は気づけませんでした。「一人じゃ絶対に気づけなかったし、それまでがひどかったんだと思います」しかし、梶さんには決定的な「違い」がありました。それは「あ、ごめん」とか「本当に助かったな」って真剣に思う瞬間があったこの「気付く力」こそが、梶さんを普通の高校生から、深い洞察力を持つ人へと変化させたのです。6.大学で見つけた「新しい自分」小学校から高校までずっと一緒だった双子の姉ですが、大学は姉と別々の道を進むことになります。「初めての一人の状態で、本当に結構不安でした」しかし、ここでも梶さんの「チャレンジ精神」が光ります。「自分一人でも、自分を諦めちゃいけないと思って、小さいチャレンジをたくさんしよう」そして現在21歳の梶さんが目指すのは「どんな人に対しても、全てを理解することは難しかったとしても、少しでも理解のある人でありたい。想像力を働かせられる大人になりたい。」7.挑戦への感謝 - 家族の支えがくれた機会父親から教わった「様々なことにチャレンジする」という姿勢を実践してきた結果、今振り返って感じることは何より感謝の気持ちです。確かに、チャレンジの機会は自分で掴み取ったと言えるかもしれません。でも正直なところ、父をはじめとする家族が背中を押してくれなかったら、きっと行動に移すことはなかったでしょう。新しいことに挑戦するって、一人では怖いものです。でも家族がそのきっかけを与えてくれたからこそ、今の自分があるのだと思います。挑戦することの大切さを教えてくれた父、そして支えてくれた家族に、心から感謝しています。なぜ今、この配信を聞くべきなのか現代社会では多くの人が「変わりたいけど変われない」という悩みを抱えています。梶さんの物語は、環境と人間関係、そして小さな挑戦の積み重ねがいかに人を変えるかを実証する、リアルな成長ストーリーです。特に注目すべきは、梶さんが「頑張らなきゃできない」と正直に認めながらも、その動機が「人との繋がり」や「自分ならではの発見」へと昇華されていく過程。これは多くの人にとって、自分の人生を見つめ直すきっかけとなるはずです。この感動的な人生ストーリーを、あなたも体験してみませんか?梶さんの率直で等身大の語りは、きっとあなたの心に響くはずです。このエピソードで学べること✅ 真のリーダーシップとは何か一人で引っ張ることだけがリーダーシップではない周りの人との調和の重要性支えてくれる人への感謝の気持ち✅ 成長するための「気付く力」自分の足りない部分を認める勇気周りからの学びを素直に受け入れる姿勢「現段階での答え」という謙虚な考え方✅ 人生を変える「チャレンジ精神」小さなチャレンジから始める重要性一人になっても諦めない心背伸びせず、着実に歩む方法なぜ今、この話を聞くべきなのか?現代社会では、多くの人が「一人で頑張らなければ」という重圧を感じています。しかし、梶さんの体験は教えてくれます:「人は一人では成長できない」「周りの人との関係性の中でこそ、本当の自分が見えてくる」この21歳の等身大の体験談は、年齢を問わず多くの人に深い気づきを与えてくれるはずです。ポッドキャスト「人生配信オンリーワン」は、様々な人の人生経験を通じて、あなたの人生に新しい視点をお届けします。

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    #70 厳しい環境をあえて進む、なるさんの人生物語2

    1.兄弟から学んだ「失敗を避ける技術」兄がいて、小さい頃から彼らの失敗を目の当たりにしてきた「なるさん」。親に反抗して叱られる姿、間違った方向に進んで後悔する様子を見て、「自分はこうならないようにしよう」と自然に学んでいったのです。一方で、兄たちの良い部分も真似をして、効果的な勉強法や物事への取り組み方を身につけてきた。「他人の失敗から学ぶ」という独自の成長戦略を小さいころから身に付けていました。2.カナダで「徹底的な日本語禁止ルール」なるさんが19歳の時に、カナダでワーキングホリデーに行きましたが、この時も「失敗を避ける技術」を使っていました。ワーキングホリデーに行った失敗談として、なるさんは、こんな話を聞いていました。現地で日本人のコミュニティに入ってしまう結局日本語で会話することが多くなる関西弁がうまくなって帰国(笑)英語力はほとんど変わらない時間とお金をかけて海外に行ったのに、これでは本当にもったいない。この失敗パターンを避けるため、なるさんは何をしたのか?日本語を一切話さない日本人から日本語で話しかけられても、常に英語で返答日本語を話したがる人とは距離を置く時には「残念だな」と思いながらも、英語での会話を貫くなぜこれほどストイックになれたのか失敗が本当に嫌だったからです。先輩方の失敗談を聞いて、心の底から「これは避けなければ」と思いました。この強い危機感が、失敗をたくさん聞いて、厳しい環境をあえて進むなるさんの価値観になっています。3.厳しい環境をあえて進む多くの人が「厳しい環境で頑張る」と言いますが、実際にはそれができずに苦労しています。できない理由:楽な方に流されがち日本人同士の居心地の良さに甘えてしまう明確な目標設定ができていないできる理由:答えは単純で、本当に失敗が嫌。先輩や兄弟の失敗を見て育った経験から、失敗することの痛みや後悔を疑似体験してきたからこそ、それを避けるためなら多少の困難も受け入れられるのかもしれません。4.自己理解が深いのは、なぜか?なぜ、なるさんは自己理解が深いのか?これまで特に意識していなかったのですが、改めて考えてみると、その理由はコーチングとの出会い。きっかけは22歳の学生時代の就職活動。その際にプロのコーチと出会い、その時に学んだメソッドとマインドは、今でも強く印象に残っている。そこから、セルフコーチングなどの手法を継続的に実践。自分の感情や考えを言葉にして整理する習慣が、結果的に自己理解を深めることにつながっている。コーチングに出会えたこの経験は、なるさんにとって大きな財産となっています。5.そして今、業界変革への挑戦ITエンジニアとして実力を磨きながら、 ついに彼は自分の事業「ブライティ (Brighty)」を立ち上げます。その使命は、「コーチングの民主化」。現在、コーチングは「ブラックボックス」状態。受けたらどうなるのか分からない自分に合うコーチが見つからない効果が見えないこれらの課題を解決し、コーチングを身近な存在にする。 それが彼の壮大なビジョンです。6.無料で提供する、その真意とは?現在ブライティは完全無料。 なぜ無料なのか?「まずは多くの人に繋がって欲しい」収益よりも、まず価値提供。 ユーザーが本当に喜ぶ機能を追求し、 その先に持続可能なビジネスモデルを構築する。この考え方こそが、彼の一貫した成長戦略の現れです。7.夢は日本のコーチング業界を変える「コーチングって、あれね!受けたことあるよ」この言葉が日本中で聞かれる日を目指して。日本最大のコーチ登録数最高精度のマッチングAIを活用した革新的なサービス彼の挑戦は、まだ始まったばかりです。今すぐ聞く価値がある3つの理由1. 失敗を恐れる人への最強の処方箋兄の失敗から学んだ、リスクを成長に変える思考法2. 20代で身につけた自己理解の深さの秘密多くの人が一生かかっても得られない自己理解を、どう獲得したのか3. 業界変革への具体的な戦略無料提供から始まる、コーチング民主化の壮大な計画この配信を聞けば、あなたも「失敗を恐れる人生」から「失敗を活かす人生」にシフトできるかもしれません。なるさんの人生戦略、その全貌を今すぐお聞きください。ポッドキャスト「人生配信オンリーワン」では、型破りな人生を歩む人々の深い洞察をお届けしています。

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    #69 「元気だけじゃ仕事はもらえない」カナダで学んだ危機感が人生を変えた、なるさんの人生物語1

    福岡の田舎から世界17カ国へ!ITエンジニアが語る「コーチング民主化」への挑戦「自分の知らない世界を知ることが、人生を変える」中学生でアメリカに飛び、19歳でカナダで挫折を味わい、そして今、「コーチングの民主化」に人生を賭けるITエンジニア・なるさんの壮絶な人生ストーリーが今、明かされる。1.「OOをやりなさい」と言われた記憶がない少年時代福岡の田舎で生まれ育った。男3人兄弟の末っ子として、自由奔放に過ごした少年時代だった。両親から「何をやりなさい」と言われた記憶がない。毎日のように外で遊んでは、町中のすべての生き物を見つけて家に持ち帰っていた。2. 中学生でアメリカ単身ホームステイ → 人生が180度変わった瞬間中学は、田舎にあるごく普通の中学校。いや、「普通」と言ってもヤンキーが多く、少し荒れた学校だった。そんな中学校に、ある日「アメリカの姉妹都市との交流でホームステイ募集がある」というお知らせが来た。すぐに「行きたい!」と手を挙げたのは、クラスでたった一人の僕だけ。海外に行ってみたいという気持ちが、ずっとあったからだ。当時、僕の住んでいた田舎では、外国人を見ることすら珍しかった。だからこそ、実際にアメリカへ行き、ホームステイを経験したときは衝撃の連続だった。見るものすべてが違う。車の走る方向も、トイレの使い方も、食べ物も、習慣も――「本当に、こんなにも違う世界があるんだ!」と感動した。まるでドラえもんの秘密道具で、知らない世界に来たみたい。それまでの価値観がガラッと変わった瞬間だった。自分の知らなかった世界を知る。この体験が、後の破天荒な人生を決定づけることになる。中学時代にアメリカでのホームステイを経験して以来、意識はずっと「海外」に向いていた。進学した高校は、いわゆる進学校。周囲の多くの生徒が大学進学を目指し、当たり前のように勉強に取り組んでいる環境だった。その雰囲気に自然と乗ることができ、特別に目立つことはなく、シンプルに「勉強する」ということをまじめに続けた高校時代。高校時代の勉強漬けから一転、大学では花を咲かせます。海外に行きまくり、気づけば4年間で17カ国を旅するバックパッカーに。カンボジア、パラグアイ、オランダ、アメリカなど。カナダではワーキングホリデーで10か月滞在。現地のホステルに泊まり、毎日知らない人と話す。「明日どこに行こうかな?」と予定も決めず、ホステルで出会った人と一緒に観光地を巡る旅。それが心地よくて、刺激的だった。旅の中で出会った人たちとの会話は、毎回、自分の価値観を揺さぶってくれた。たとえば、イスラエル人と出会い、彼とブラジルを一緒に旅した経験。彼には兵役の経験があり、日本では想像もつかないような話をたくさん聞いた。同じ年齢でも、まったく違う世界観、生き方、考え方がある。大学ではサークルを5つほど掛け持ちし、なかでも海外交流サークルではインドネシアに行く機会もあった。海外で働くことにも興味を持ち、現地で職探しまで行った。「新しい世界を知りたい」という気持ちは止まらなかった。世界に飛び出したことで、それまで自分にかかっていた“蓋”が一気に外れたのだった。「海外に行きたい!」という想いで、大手メーカーを希望。パナソニックのインターンに参加するが、このインターン経験が人生を変えることになります。「大手企業では会社の中のネジの一つ。基盤は良いが、それも取るに足らない小さな部品になってしまう」誰もが羨む大企業での貴重な経験が、逆に大手志望は止めるという人生の方向性を決定的に変えたのです。そして、なぜ彼はITベンチャーの道を選んだのか?ITベンチャーへの道を選んだ理由は、19歳の時、カナダの10か月間のワーキングホリデーから学んだ危機感。たくさんの移民が暮らすこの国で、仕事を探す日々。最初は勢いだけでなんとかなると思っていた。でも、すぐに現実にぶつかりました。元気だけじゃ仕事はもらえない自分には「専門性」がない。履歴書に書けるようなスキルもない。自信があったはずの英語も通じない。気づけば、「自分って、何もできないんだな」と痛感していました。でもその感覚こそが、価値観を大きく変えるきっかけになったのです。日本にいたときには味わったことのなかった「危機感」。環境が変わっただけで、こんなにも自分の力のなさを思い知らされるのかと愕然としました。「このままじゃダメだ」そう強く思ったあの日から、自分を変えることに本気になりました。「安易に日本食レストランで働くのはやめよう」と決め、現地企業でのインターンシップに挑戦。わずか3週間という短期間だったが、学ぶことは多かった。たった3週間でも、学校で3か月学んだ時よりも英語が一気に伸びた。やはり実践に勝る学びはない。8.失敗を避けるのではなく、失敗から学ぶ。実は「失敗が嫌い」なタイプ。でもだからこそ、「失敗しないために、先輩や周りの人の失敗から学ぶ」というスタンスを持ち、どんどん準備し、自分を追い込んでいった。あえて厳しい環境に身を置く。そのほうが、自分の力になると信じていた。カナダにいる日本人の中には、ずっと日本人同士で行動している人たちもいた。そういう人たちは関西弁がうまくなっていたりして、そうはなりたくなかった。「英語を伸ばしたい」という強い気持ちがあったので、あえて日本語を一切話さないと決めた。現地で日本人と話すときも、英語で通した。少しストイックかもしれないが、「自分の能力をつけること」にとことんフォーカスしていた。「この先、自分には何が残るんだろう?」そう問い続けた10か月。スキルも、経験も、人との出会いも、自分の中にしっかり刻まれていった。あのカナダでの時間が、今の自分の軸をつくってくれたと思っている。このエピソードで得られるもの価値観を180度変える体験談中学生でのアメリカホームステイが人生の転機となったリアルな体験大学4年間で17カ国を回った「無計画バックパッカー旅行」の真実カナダで直面した「自分は何もできない」という現実と、そこから学んだ教訓今すぐ視聴する理由🔸 あなたの価値観が変わるなるさんの体験談は、あなたの「常識」を覆すかもしれません。特に、海外経験や挫折からの学びは、多くの人にとって新鮮な視点を提供します。🔸 行動力の源泉がわかる中学生でアメリカに行き、大学時代に17カ国を回る。この行動力はどこから来るのか?その秘密が明かされます。🔸 キャリア選択のヒント安定を捨てて挑戦を選んだ理由、フリーランスとして成功する考え方など、キャリアに悩む人必見の内容です。🔸 人生哲学の深さ「人との出会い」を重視する旅行スタイルや、「新しい価値観」への探求心など、人生を豊かにする考え方が学べます。特別な人生を送る人の共通点なるさんの話を聞いて気づくのは、特別な人生を送る人には共通のパターンがあることです:未知への好奇心挫折からの学び人との出会いを大切にする安定よりも成長を選ぶ自分の価値観を持つこのエピソードを聞けば、あなたも「普通じゃない人生」への第一歩を踏み出したくなるはずです。人生配信オンリーワン~なるさんの冒険と挑戦の物語~今すぐ聞いて、あなたの人生を変えるきっかけを見つけてください。※このエピソードは、実際の配信内容に基づいて作成されています。

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    #68 藤原さんの人生物語、収録後の雑談(藤原さんの熱い想いとは?)

    海外約30カ国を旅した男は、なぜ「日本人よ、もっと自由になれ」と言うのか?固定概念を打ち破る勇気、あなたにありますか?「楽しいか、面白いか」ーー藤原さんが人生の選択で大切にしているのは、たったこの基準だけ。小学校、中学校、高校...多くの人が「周りに合わせること」を学んでいく中で、彼は違う道を選び続けてきました。違和感を感じたら、すぐに方向転換。その圧倒的な行動力が、彼を約30カ国近い海外体験へと導いたのです。スーパーに買い物に行くと、店員さんが「今日どうだった?」と気軽に声をかけてくれる。店員さんとの自然な会話のやり取りがある。日本とは異なる対応に、こんな感想を抱きました。「マニュアル通りではない対応に、その方が、居心地がいい」日本の完璧すぎるサービス、決まり文句の挨拶、マニュアル通りの対応。それらが時として「窮屈さ」を生み出していることに、海外経験を通して気づいたのです。「今日どうだった?」が普通の世界海外では店員さんが気軽に「今日どうだった?」と話しかけてくる。そんな自然な会話が日常にあふれています。一方、日本では「いらっしゃいませ」という決まった言葉だけ。会話はそこで終わってしまう。「日本の物足りなさ」の正体が、ここにありました。なぜ日本人は「一歩踏み出す」ことを恐れるのか?海外体験の素晴らしさを友人たちに熱く語る藤原さん。実際に行動を起こした人もいる一方で、多くの人は「いやー、でも...」と踏みとどまってしまいます。それってもったいなくないですか?日本の価値観だけじゃない、もっと多様な考え方がある。もっと便利なサービスがある。「なんで日本に導入しないんだろう?」と思うようなイノベーションに出会える。閉鎖的な日本を変えるために必要なこと「型にはまりすぎている日本」を変えるために、提案するのは段階的なアプローチです。まずは自分の枠から一歩出るそして最終的には海外へ「もっと日本人は外に出てほしい」そんな想いから生まれた今回の対話は、あなたの固定概念を揺さぶる内容となっています。✅ 「楽しいか、面白いか」で人生を選ぶ勇気が湧いてくる✅ 海外30カ国の体験から得た「本当の自由」とは何かがわかる✅ 日本の常識に疑問を持つ新たな視点が手に入る✅ 一歩踏み出すためのヒントが見つかる✅ グローバルな考え方を身につけるきっかけが掴める「日本ももっと元気になってほしい」そんな熱い想いを語る藤原さんの生き方は、きっとあなたに新たな気づきをもたらすはず。固定概念を破り、自分らしく生きる勇気を手に入れませんか?今すぐ視聴して、あなたの人生に新たな可能性を見つけてください「みんな自由だな」と感じた海外体験の全貌、そして日本人への熱いメッセージが詰まった藤原さんの人生物語をお見逃しなく!「今日どうだった?」が普通の世界なぜ日本人は「一歩踏み出す」ことを恐れるのか?閉鎖的な日本を変えるために必要なことこの配信を聞けば、「日本ももっと元気になってほしい」

  47. 69

    #67 面白く、自分らしい藤原さんの人生物語2

    「先生なのに英語が話せないって、どういうことなんだろう...」第1章:挫折からの這い上がり1年半の浪人生活を経て、無事に大学に合格し、晴れて英文科に。英語を話せるようになりたい!大学で、英語教師の免許を取得!英文科で学ぶも「話せない英語教師」への疑問が芽生える、、第2章:衝撃の英語授業「同級生の帰国子女がペラペラとネイティブの英語を話す横で、英語の先生がタジタジになっている...」この瞬間が、藤原さんの人生を変えました。英語を話したいという想いで大学に行ったのに、このままでいいのか?このまま大学を卒業して、就職すると、簡単に辞められない。「行くしかない」 - 就職を蹴ってワーホリとして、オーストラリアで英語の勉強をすることに。まわりからは「なんで行くの?」「行く意味があるの?」とネガティブな反応しかなかった。それでも、なぜ安定した就職を捨ててまで、オーストラリアに向かったのか?  「ジャパニーズイングリッシュ」への違和感父親が教師だった経験から、教師の世界の閉鎖性への疑問英語を使えるグローバル人財になりたいという信念ホームステイをしながら語学学校、英語の勉強。語学学校での1ヶ月間の学びが終わり、さらに1ヶ月間、教師の卵の授業を無料で受けられることに。りんごを投げる授業? 日本では絶対にない自由な教育スタイル。「This is a pen.」の無意味さを痛感現地で学んだ「生きた英語表現」の数々「日本で学んだことが、まったく会話に役立たない...」この気付きが、藤原さんの価値観を根底から覆しました。さらに1年間のバックパッカー経験で、英語を話せるようになります。バックパッカーから帰国後の現実:理想と現実のギャップ第二新卒の厳しい現実バックパッカー経験を理解してもらえない日本社会就職活動をするも、中途採用の扱いとなり、就職が決まらない。自分のやりたいことよりも、働けるところを探すことに。新聞記事で応募した総合スーパーに就職。しかし自分に合っていないと判断し、半年間で退職することに。転機となった派遣という働き方総合スーパーを退職することになり、次は失敗できない。そこで選んだのが、大手通信会社での派遣社員での仕事。実績を積み上げ、派遣社員 --> 契約社員 --> 正社員とステップアップ。当時は電波調査業務を担当し、「めちゃくちゃ楽しかった」「楽しい」とは?何より一緒に働いている人は、良い人が多い。まわりが助けてくれる。社風がいい。成長、学びの機会が多い。色々なことにチャレンジできる。スキルをアップしたい、向上したいという気持ちに対して、自由にやらせてくれる。今ではコールセンター部門でマインド醸成、人材育成業務で活躍中。面白いかどうか? 自分らしいかどうか?第1章:書道の面白さと自分らしさ小学生から高校3年生まで7年間書道を習い、書道全国大会にも出場。名前が雑誌に掲載されることも。書道は心が落ち着くのが魅力。筆跡心理学にも興味があり、文字から心理を読み取る考え方が面白い。面白いのは、お手本通りに書くことではない。自分らしさを表現することが、本当に面白い。第2章:音楽の面白さと自分らしさ現在... 40年ぶりにピアノを再開し、7年間ボイトレを続ける藤原さん。彼が音楽に求めるのは、父から受け継いだクラシックの世界だけではありません。「ジャンルにこだわらないアーティストっていいなと思う」「カテゴリーを壊してもいいんじゃないか」ここにも彼の人生哲学が表れています。 枠にとらわれず、「面白いかどうか」「自分らしいかどうか」 を基準に生きる。筆跡コンサルタントへ!藤原さんは自分理解を深めるために、多くの研修やセミナーに参加し、自分探しを行っている時に筆跡診断に出会います。「藤原さんは組織で働くより、個人事業の方が向いています」なんと、この言葉が筆跡コンサルタントとして起業のきっかけになります。自分探しは一番難しく、ハードルが高い。でも他人に言われると説得力が増し、自分に自信が持てる。もっとイキイキできる一歩を踏み出せる。そして、「できるだけ人がやってないような珍しいものをやりたい」。この価値観から生まれたのが、筆跡コンサル × カラーセラピー × キャリアコンサルの掛け算戦略藤原さんの価値観とは💬 面白いかどうか?💬  自分らしさ💬  頭で考えても仕方なくて、やってみないと分からない💬  違和感を感じたらすぐに方向転換日本は固い、、、固定概念があるのか閉鎖的。もっと自由に、面白く、自分らしく!人生配信オンリーワン - あなたらしい生き方を見つける番組です。

  48. 68

    #66「面白いか、面白くないか」藤原さんの人生物語1

    日本社会の「レール思考」に縛られていませんか?偏差値が低い高校 → 就職 → 半年で退職 → 1年半浪人 → 大学進学→ワーホリ+世界を周遊するバックパッカー → 就職 → 半年で退職 →大手通信会社の派遣社員この一連の流れを聞いて、あなたはどう思いますか?「なんて不安定な人生...」そう思ったあなたは、まさに日本社会の「レール思考」あなたは自分の人生を「面白い」と言えますか?この人生の続きは、大手通信会社の契約社員就職 → 正社員 → MBA取得、キャリコン取得、日本ライフシフト協会支援、海岸ゴミ拾いのビーチグリーン、ピアノ弾き語り、第九合唱など多数の活動をされ、筆跡コンサルとして起業。この一連の流れを聞いて、あなたはどう思いますか?あなたは今、自分の人生に満足していますか?もしあなたが転職を繰り返し、自分の居場所を探し続けているなら、もし「このままでいいのかな...」と少しでも思ったことがあるなら、今回お話しする53歳の藤原 厳夫さんの人生物語は、あなたの人生観を根底から変えるかもしれません。運命を変えた一つの基準:「面白いか、面白くないか」【第一章】病弱な少年時代 - 強さへの憧れが生まれた瞬間内向的で体が弱く、風邪をひきやすい子供外で活動的に遊ぶことができない日々しかし、父親とのキャッチボールが少しずつ世界を広げてくれた音楽教師だった父から受けたスパルタなピアノレッスンクラシックとオペラに囲まれた幼少期【第二章】挫折と発見 - 中学の暗闇から高校の光へ中学時代は「思い出したくない」ほどの暗黒期。 人見知りで、楽しい思い出がほとんどない日々...しかし、高校で人生が一変します。偏差値の低い高校、授業にならない教室、カードゲームをする生徒たち...一見すると最悪の環境。 でも藤原さんはそこで重要な発見をしました。「みんなバカばっかりだったけど、人としてはいいやつらなんですよね」ここで彼は学んだのです。 表面的な条件や世間の評価ではなく、「面白いか、楽しいか」 が人生の本質だということを。藤原さんが通った高校は、地域でも偏差値が低く、ほとんどの生徒が就職する「就職校」でした。そんな環境で「就職するのが当たり前」という空気の中、やりたいことが見つからず、藤原さんも例外なく就職の道を選びました。 しかし待っていたのは...午前様が当たり前の、数時間睡眠の過酷な労働環境週1日しかない休日ベテラン社員もどんどん辞めていく職場「このままでは面白くない人生になってしまう」限界に達した半年後、ついに退職。なぜか?「働くっていうのは、こういう厳しさなのか...」 「高卒の給与じゃ、一生続けるのは厳しい」 「このままじゃダメだ」藤原さんが感じた強烈な危機感。これが全ての始まりでした。退職後、彼は勇気ある決断を下します。「まだ若いから、方向転換できる」周りの同世代が「安定」を求める中、藤原さんは違いました。「やっぱり大学行って、ちゃんと就職したい」「英語を活かして何か仕事したい」 「グローバル人材になりたい」藤原さんが下した決断は、1年半の浪人生活でした。後になって藤原さんが気づいたこと。お父さんの「やることないなら働け」という言葉の裏には、深い愛情がありました。「だらだら過ごしていたら、やりたいことも見つからない」 「社会の厳しさを知って、強い思いを持って行動してほしい」親の先を見越した愛情が、藤原さんの人生を導いていたのです。日本の「やり直し恐怖症」に立ち向かう藤原さんはこう語ります:「日本って、一度レールから外れると戻れない雰囲気がある」「失敗を恐れすぎている」「やり直しに優しくない」でも海外では違う。失敗は次のステップへの糧。藤原さんの体験談は、そんな固定観念を打ち破る生きた証拠です。この物語があなたに教えてくれること✅ 人生に「正解」はない。大事なのは「面白いかどうか」✅ 挫折や転職は失敗ではない。✅ 53歳からでも新しいことに挑戦できる。✅ 本当の強さは、自分らしく生きる勇気から生まれる✅ 表面的な成功より、心の底から「楽しい」と思える人生を今すぐ聴くべき理由もしあなたが...転職を考えているなら人生の方向性に迷っているなら年齢を理由に新しい挑戦を諦めかけているなら「面白い人生とは何か?」を知りたいならこの配信は、あなたの人生観を確実に変えるでしょう。藤原さんの飾らない言葉の一つ一つが、きっとあなたの心の奥深くに響くはずです。今すぐ聴いて、あなたの人生観を変えませんか?藤原さんの物語は、まだ始まったばかり。この後、大学生活、ワーキングホリデー、そして現在に至るまで、さらなる驚きのストーリーが待っています。「人生配信オンリーワン」で、あなたの人生に新しい可能性を見つけてください。「やりたいことがないから、やらないではなく、何か動いてみないとやりたいことは見つからない」この言葉が、あなたの人生を変える第一歩になるかもしれません。

  49. 67

    #65 「違いは仲間がいるかどうかだ」と語る井上さんの人生物語2

    大企業エリートが会社で初めて泣いた理由とは?無茶なノルマ、理不尽な上司、そして仲間への想いが導いた人生転換の物語。「申し訳ない...」バイヤーだった井上さんが、アメリカの同僚にこの言葉を伝えた瞬間、彼は会社で初めて涙を流しました。なぜ、仕事のプロフェッショナルが人前で涙を見せることになったのか? そして、この悔しい経験がどのようにして彼の人生を180度変えることになったのか?この人生物語で明かされる衝撃の真実【第1の真実】大企業の闇「材料費だけでも予算オーバー」の無茶な要求上司の責任逃れと現場への押し付け「決まったものは決まったもの」という思考停止【第2の真実】仲間への想いが生んだ奇跡絶望的な状況の中で見つけた一筋の光アメリカ人同僚の心温まる言葉「井上、よくやってくれた。こっちでやるから大丈夫だ」【第3の真実】人生を変えた気づき「言われたことをやるのは楽しくない」自分から始める仕事の醍醐味浪人時代の勉強法から学んだ人生哲学なぜ今この話を聞くべきなのか?もしあなたが...会社での理不尽な要求にうんざりしている上司や組織の矛盾に悩んでいる自分らしい働き方を見つけたい仲間と一緒に何かを成し遂げたいこの人生物語は、あなたの人生を変えるきっかけになるかもしれません。井上さんの華麗なる転身ストーリーBefore(大企業時代)❌ 上からの無茶な指示に従うだけ ❌ 責任を押し付けられる毎日 ❌ 矛盾だらけの組織で消耗After(独立後)✅ 自分で企画・設計・運営まで全てを手がける ✅ 猫専用アパートなど斬新なアイデアを実現 ✅ 工務店・業者・管理会社と「仲間」として協力聞き逃せない名言の数々「楽しいことは人から言われたことじゃなくて、自分からやることだ」「人間の能力なんて2倍も変わらない。違いは仲間がいるかどうかだ」「一人で早く行きたければ一人で行け。でも遠くに行きたいなら仲間と行け」配信内容(一部紹介)涙の理由大企業時代の壮絶なプロジェクト秘話無理難題を押し付けられた現場の実情仲間への申し訳なさと相手の優しさに感動転機となった気づき浪人時代に発見した「自分で問題を作る」勉強法会社の矛盾に気づいた瞬間「やらされる仕事」から「やりたい仕事」へ独立後の成功法則人がやらないことに挑戦する楽しさ床下収納・天井収納付きアパートの企画秘話猫専用アパートという斬新なアイデア仲間の力一人では成し遂げられない理由チームワークで実現する大きな成果感謝の気持ちが生む好循環この人生物語を聞くと得られるものマインドセットの変化被害者意識から主体者意識への転換仲間の大切さを再認識具体的な行動指針自分らしい働き方を見つける方法理不尽な状況への対処法成功への道筋独立・起業への心構え継続的な成長のための考え方人間関係の質向上仲間との信頼関係構築法感謝の気持ちを持つ重要性※この人生物語は実話に基づいています。一人の男性の勇気ある決断が、どのように人生を豊かに変えていくのか?その全てがこの人生物語に込められています。▼番組への感想、MCへのメッセージは以下までお寄せください。[email protected]

  50. 66

    #64 「まず、やってみる」に変わった井上さんの人生物語1

    49歳で日産を辞めて、なぜ彼は「ワクワク」を選んだのか?小学生の頃はいじめに会い、「どうせ自分なんて…」と自己肯定感の低い男性が、日産を早期退職してキャリア教育に情熱を注ぐまでの人生物語。「失敗しないために、まずやらない」これが、井上さんの小学生時代の生き方でした。 自己肯定感が低く、目立たないように、傷つかないように生きていた少年。でも今、彼は全く違います。「まずやってみる。人がやってないことをやってみる」49歳で安定した日産の職を手放し、自分の「ワクワク」に向かって歩んでいく井上さんの人生物語から、あなたの人生に役立つヒントが見つかります。まさか、この話が現実だなんて...なぜ4月2日生まれが日本で最も多い誕生日なのか知っていますか?4月1日生まれという理由だけで、まわりの子供より小学校の入学が1年遅くなり、大きな体格の子供は小学校入学初日からいじめの標的になってしまうのです。「この子に嘘をつかせるんですか?」病院の看護師さんが両親に言った一言。これが、井上さんの運命を決定づけてしまいました。誕生日を4月2日に変更しようとした両親の計画は失敗。結果として、井上さんは同級生より1歳年上で小学校に入学することになり、いじめの標的となり、自己肯定感の低い子供になったのです。高校の選択が人生を決めた「職業訓練校、それとも 大学進学か?」高校は地元の進学校にギリギリ合格。目立たず、成績が上位でない高校3年生の井上さんは人生最初の大きな分岐点に立っていました。 実践的な技術が学べる職業訓練校か、それとも大学進学か。先生だった兄に相談した結果、「大学の方がいいんじゃない」というアドバイスに従って、井上さんは大学を選択。 この決断が、後の24年間を決定づけることになります。もし他に相談する人がいて、「職業訓練校の方が良い技術が学べるよ」というアドバイスがあったら、自分の選択は違っていたかもしれない。その想いが今も引きずっています。おその経験から高校生がもっと多くのアドバイスをもらって、色々な選択肢の中から自分のキャリアを考えることができるようになって欲しいという想いが、今のキャリア教育につなっていたのです。運命を変えた「浪人」という挫折職業訓練校ではなく、宮崎大学に行くことを決めた井上さん。しかしながら、大学受験を失敗。浪人をすることになった経験が井上さんの運命を変えます。「なんで勉強するんだっけ?」大学受験に失敗した井上さんが、浪人時代に自分自身に問いかけたこの一言。これまで「なんとなく」「周りがやっているから」勉強していた彼が、初めて自分の人生と真剣に向き合った瞬間でした。 この挫折こそが彼の人生を180度変える転機となりました。「やってみないとわからない」 「知らないと好きになれない」浪人時代に芽生えたこの価値観が、その後の彼の人生を大きく動かしていくことになります。「日産で車を設計したい」その純粋な夢が、井上さんの勉強に対する姿勢を根本から変えました。目的が手段になり、手段が目的に変わった瞬間です。大学受験の失敗から学んだ3つの気付き1. 失敗は成功の始まり。井上さんの人生を変えたのは、まさに大学受験の「失敗」でした。挫折こそが、真の成長のきっかけになることがあります。2. 環境と仲間の力一人では続かなかった勉強も、同じ目標を持つ仲間がいることで「ゲーム感覚」に変わりました。勉強が楽しくなり、やればやるほど結果がでる。まさに仲間の力!3. 目的意識の重要性「なぜやるのか?」を明確にした瞬間、井上さんの人生は劇的に変化しました。あなたも自分の「なぜ」を見つけられるかもしれません。現代社会では多くの人が「なんとなく」生きています。学校に行くのも「なんとなく」会社で働くのも「なんとなく」毎日を過ごすのも「なんとなく」でも、井上さんの物語は違います。明確な目的を持った瞬間から、人生は劇的に変わるということを、リアルな体験談として語ってくれています。九州大学院への挑戦「どうせ受からないだろう」浪人生活で猛勉強した井上さんは、無事に目標の宮崎大学の機会工学に合格。しかし宮崎大学ごときが、日産のエンジン設計なんて無理だろうと思った井上さんは、大学3年生の時に、なんと日産の就職面接と同時に、ブランド力を求めて九州大学大学院を受験。指導教官からは「どうせ九州大学大学院に受からないだろう」と言われながらも、まさかの合格。しかも日産の就職面接にも合格!九州大学大学院と日産の両方に合格した井上さん。しかし井上さんが選択した結論は、日産から奨学金をもらい、九州大学大学院でブランド力をつけ、さらに上を目指したのです。そして大学院時代のエピソードが最高です:月8万円の奨学金と、月7万円のアルバイトで授業料と生活費をやりくり親からの仕送りは一切なし。完全自立。朝は味噌汁と目刺で自炊。昼と夜は学食。福岡のディスコ「マリアクラブ」で1000円チケットをゲットし、野菜を食べまくって栄養補給。日産時代:憧れの職場での24年間1992年入社 - バブル時代の就活「昨日はステーキだったので、今日は寿司でいいですか?」 そんなふざけた就職活動時代の中、ついに憧れの日産へ就職。希望していた小型エンジン設計部に配属され、シルビアのSRエンジンの時代を駆け抜けます。ゴーン時代の変化:設計からコストカットへ夢の仕事が一変ゴーン氏の到来により、井上さんの仕事は激変。 物づくりから、ひたすら「安くしろ」の世界へ。メーカーへの無理な値下げ要求、メンタル不調、それでも家族のために辞められない現実...複業から始まった逆転劇2004年、人生の転機メンタル不調の中で始めたアパート経営。 平日はサラリーマン、土日は大家さんの二刀流。そして驚愕の事実が判明。なんと複業収入が日産の給料を超えてしまったのです!お金の不安がなくなった井上さんは、今まで忖度していた会社に対して本音で提案するように。 すると、仕事が面白くなり、成果も出始めます。人生最大の発見経済的自由を手に入れ、仕事も充実していた井上さん。 しかし、49歳になって、ふと気づいたのです。「自分が設計したエンジンを載せた車に乗りたい」これが井上さんの人生最大の夢でした。 そして...24年間日産でエンジン設計者として働き、その夢はとっくに叶っていたのです。叶えた夢を忘れているほど、日常に埋もれていた自分この気づきが、井上さんの人生を再び大きく変えることになります。49歳、人生最大の決断2016年3月31日、井上さんは24年間勤めた日産を早期退職。 残りの人生をもっと楽しく生きるために、新たな挑戦を始めます。しかし、これは逃げの退職ではありませんでした。最後まで有給を取らず、ギリギリまで仕事をし、退職後も同僚たちに感謝の挨拶を続けた男性。「今だったら多分怒られちゃうんですけど(笑)」そんな彼だからこそ、今でも日産時代の仲間たちとの繋がりが続いているのです。新たなミッション:次世代への「バトン渡し」現在の井上さんが情熱を注いでいるのは、キャリア教育です。「学生時代にもっといろんな大人と出会いたかった」自分自身の体験から、小学校から大学まで幅広い年代の学生たちに、様々な大人との出会いの場を提供しています。「こういう世界もあるんだ」 「こんな人生もあるんだ」そんな気づきを次世代に届けたい。 それが今の井上さんの原動力です。人脈という「資産」が生み出した奇跡井上さんの人生を支えているのは、長年培ってきた「人とのつながり」です。日産時代の同僚たち不動産投資を通じて出会った人々プロティアンキャリア協会での仲間たち様々な業界の専門家たち「社会関係資本に支えられているからこそ、今いろんなことができている」今だからこそ言える「価値観」と「強み」小学生の頃は「どうせ自分はダメだから」と思っていた井上さん。でも今は違います。価値観:「まず、やってみる。人がやってないことをやってみる」強み:「人をつなげること。化学変化を起こすこと」根底にある自信のなさは今も変わらない。 でも、そのアプローチが「やらない」から「やってみる」に変わった。たったそれだけで、人生は劇的に変わるのです。あなたも「ワクワク」を選んでみませんか?この番組を聞いているあなたに伝えたいことがあります。年齢は関係ありません。 過去の失敗も関係ありません。 今の状況も関係ありません。大切なのは「まずやってみる」こと。井上さんのように、49歳で人生を大きく変えることだってできるのです。今すぐ聴いてくださいこの感動のストーリーの全容を、ぜひあなた自身の耳で確かめてください。きっと、あなたの人生観が変わるはずです。 そして、あなたも「ワクワク」する人生を歩み始めるきっかけを見つけられるでしょう。「人生は一度きり。だからこそ、自分らしく生きてみませんか?」▼番組への感想、MCへのメッセージは以下までお寄せください。[email protected]

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特別な人でなくても、一人ひとりに価値① 1人1人素敵なものを持ち、1人1人違う人生を歩んでいる。でも、みんな気付いていない、、だから、あなたのオンリーワン(失敗、成功、キャリア、価値観など)を発信します。世の中には色々な人、考え方、価値観を知ることができます。「自分は狭い世界で生きていたな~。こんな人生もあるんだ」と自分を変えるキッカケ、感動、刺激、楽しい人生になると最高です。② この番組は、有名人ではなくとも、身の回りの方々の物語を紡ぎ出す特別な番組です。私たちの周りには、スポットライトを浴びることのない素晴らしい人生が無数に存在しています。「オンリーワン」は、そんな"普通の英雄たち"の物語を、深い対話を通じて紡ぎ出していきます。ここでは、テレビでは決して語られることのない、人生の真実の物語が展開されます。③ 番組の特徴的なのは、単なるインタビューではなく、国際コーチICF資格を持ったプロのコーチとの深い対話を通じて、ゲスト自身も気づいていなかった自分の価値や人生の意味を掘り起こしていくところ。④ さらに、この番組はゲストの方の「人生の名刺」としても活用できます。自分の価値観や生き方を、音声という温かみのある形で残すことができるのです。⑤ テレビや雑誌では決して語られることのない、しかし確かにそこにある輝かしい人生の物語。それがオンリーワンです。

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