PODCAST · society
『芦田の毎日』
by Hironao Ashida
2000年から書き続けているプログ記事(一部は2009年から始めたFacebookの記事)、あるいは、拙著『書物の時間』(1989年)、『『努力する人間になってはいけない』(2013年)、『シラバス論』(2019年)の一部をGoogleの「音声概要」による解説会話で再編したもの。会話音声上、一部、漢字などが正しく読めていない場合がありますが、お許しください。元記事の再現力は90%くらい。漢字の読み間違いは困りますが、〝理解力〟は〈人間〉よりもまともかもしれません。漢字の読み間違い、内容的な展開などにおいて、うん?と思われた場合などは元記事を参照して下さい。お手数をおかけしますが、よろしくお願いします。※BLOG『芦田の毎日』のアドレスは、https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/ です。
-
273
教育心理学の「俗流」性、あるいは知識の軽薄化と動機主義の問題について
この資料は、芦田宏直氏と教育心理学者の市川伸一氏による、現代教育における**「自発性」や「内発的動機づけ」の功罪を巡る論争をまとめたものです。芦田氏は、教育心理学者が現場向けに発信する「俗流」の理論が、知識を軽視し学力低下や教育放棄を招いたと厳しく批判しています。これに対し市川氏は、認知心理学の立場から知識の重要性を主張しつつも、自らの提唱が意図せず「ゆとり教育」的言説に加担した側面を内省的に語っています。さらに、奈須正裕氏の理論を例に、学習者の主体性を尊重しすぎるあまりに教員の指導性**が失われている現状が指摘されています。全体を通して、個性の尊重という名目のもとで教育の本質がどのように変質し、教育格差を広げてきたのかという構造的問題を浮き彫りにしています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat35/post-515.html
-
272
自作の変更について ― 50年以上も前の柄谷行人の論考をふと思い出した。
この芦田先生の記事は、柄谷行人の論考「自作の変更について」を起点に、文章を修正し続ける行為の本質を考察しています。著者は、執筆した内容を完璧だと見なすことは難しく、常に手を加えたくなる衝動こそが人間の愛着やこだわりの表れであると説いています。AIが際限なく言葉を紡ぐのとは対照的に、人間がどこかで区切り(ピリオド)を打つことにこそ、芸術作品の力や批評の価値が宿るという主張がなされています。また、死によって作品が完成するという柄谷の初期の視点に対し、著者は独自の解釈による終わりの重要性を提示しています。最終的に、自作の変更という振る舞いを通じて、吉本隆明や小林秀雄といった思想家の精神的な姿勢や人間性の違いが鮮やかに浮き彫りにされています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat3/----1.html
-
271
「俗流」教育心理学と「主体的・対話的で深い学び」の虚構を問う。
この芦田先生のテキスト(一部、市川伸一先生)は、教育現場における「自発性」や「内発的動機づけ」を重視する教育観が、結果として学力低下や教育放棄を招いているという批判的な議論をまとめたものです。芦田宏直氏と心理学者の市川伸一氏らの対話を通じ、実証的な学術知見が現場向けに「俗流化」して消費される危うさが浮き彫りにされています。特に、知識の習得を軽視して「考える力」や「主体性」ばかりを称揚する姿勢が、教員の指導性喪失や教育格差の拡大を助長した背景が鋭く指摘されています。市川氏は心理学者の立場から、知識と思考は不可分であると説きつつ、自身の理論が意図に反して**「ゆとり教育」的な文脈で利用されたことへの葛藤**を吐露しています。最終的に、教育における「可視化」や「知識の定着」の重要性を再考し、安易な多様性や個性重視の言説が孕む副作用に警鐘を鳴らす内容となっています。元記事のリンクはこちら1)https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat35/post-515.html2)https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat35/post-508.html
-
270
バカな人ほど聞きもしないのに語りたがる ― 海部陽介×荻上チキのやりとりに見る、知ることとわかりやすく語ることとの関係。
この芦田先生の文章は、真の専門性とはプレゼンテーションの技術といった形式的な手法にあるのではなく、蓄積された深い知識そのものに宿るという主張を展開しています。著者は、人類進化学者の海部陽介氏の語り口を例に挙げ、明確な根拠と不明な点を峻別する誠実な姿勢こそが、聴衆に強い知的な啓発を与えると述べています。教育技術に固執する表面的な教え方よりも、豊かな専門的背景から自然と溢れ出る言葉の方が、聞き手の想像力をより豊かに刺激するのです。最終的に、本当に賢い人は相手の問いに応じて初めて饒舌になる一方で、無知な者ほど求められてもいない自説を語りたがると結論づけています。このように、本書はコミュニケーションを技術論ではなく、内面的な専門性の発露として捉え直しています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat7/post-513.html
-
269
【第四版】究極の位相管理:人生最後のカーオーディオ完結編
この資料は、昭和世代の筆者が「人生最後」と位置づける愛車のカーオーディオ構築記録を、自身の哲学や最新のAI解析を交えて解説したものです。かつての高級ブランドが衰退し、純正システムが主流となった現代において、あえてBEWITH社製の最高峰プロセッサーを導入し、車内という過酷な空間で「音像の立体感」を追求する情熱が綴られています。特に、左右独立した二台の機器による**「位相管理」の重要性が詳しく説かれ、音がダッシュボード上に浮かび上がるような究極のリスニング体験が紹介されています。過去の音響研究者への敬意や、伝説的な技術者の系譜を継ぐショップへの信頼など、単なる機材紹介を超えた音響文化の継承が大きなテーマです。最終的にAIがその構成を評価し、デジタル技術とアナログの質感が融合した至高の音響空間**の完成を裏付けています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat7/20232026ai.html
-
268
AI問題と「形式化の諸問題」についてなど ― 主体の成熟について
この芦田先生の記事は、AI技術が進化する現代において、教育と主体の成熟がどのような意味を持つのかを哲学的な視点から考察しています。著者は、AIを単なる道具として使いこなす能力よりも、それに対峙する人間自身の精神的な深みが重要であると説いています。カントやライプニッツの思想を引き合いに出し、賢明さと愚かさの境界は外部からの啓蒙ではなく、自己の内面的な変容によってのみ超えられると分析しています。最終的に、AIという高度な外部存在と向き合うためには、形式化できない個人の主体的な成長こそが不可欠であると結論付けています。以下が原文---------------本日は、某国会議員(元自民党文教委員長)と4時間近く差しで話していて、「AIになったら教育はどうなりますか」と聞かれて、ますます日本の誇る学校教育体系(各学年で何を教えるのかが全国レベルできちんと具体的に整理されている稀有な学校教育体系)が重要になる、主体の成熟が求められると答えておいた。それはどういうことか。AIが精緻になればなるほど、それに〝対面〟する人間の精緻さが求められる。これは一般的には、AIを使う人間の優秀さが問われるという意味で言われているが、使われるもの(手段)の優秀さと使うもの(主体)の優秀さとは質が異なる。使われるものは、常に使うものの〝外部に〟存在する。だからカントは、構想力は教育の対象ではないとした。この(いわば、カント的な)原則は何を意味するのか。そもそも世の中には、賢い人とバカな人の二種類 の人がいるわけではない。世の中に賢い人とバカな人が対面で二種類存在するなら、わざわざバカでいいと思う人はいないだろうから、時間が経てば、世の中からバカ人はいなくなるに違いない(これが啓蒙主義の原則)。しかし、カントが言ったように(『啓蒙とは何か』)、〈啓蒙〉とは自己触発に過ぎない。なぜか。世の中に賢い人「がいる」こととバカな人「がいる」ことの意味は、それぞれが、それぞれの中で【賢い人/バカな人】【バカな人/賢い人】という区別を有しているからだ。うがった言い方をすれば、バカな人は、バカな人の「内部で」【バカな人/賢い人】という〝分別〟を有しているのである。つまり【賢い人/バカな人】【バカな人/賢い人】という〝対立〟は言わば分子の対立であって、本来の対立は、分母の対立として、【賢い人/バカな人】/賢い人、【バカな人/賢い人】/バカな人というように〝存在している〟。分母の対立とは、従って、存在しない(が故に存在する)対立なのだ。 柄谷行人は、ゲーデルやヴィトゲンシュタインやペレルマンを参照しながら、これを(約50年前に)「形式化の諸問題」として扱った。一言で言えば、バカな人は間違った人を尊敬するために、いつまで経っても、賢い人になれない。彼が脱出したいと思うその先が間違った〝先〟であるために、脱出する挙措自体がいつも無効になってしまう。そうやって、賢い人とバカな人とは、永遠に交わらない。これをライプニッツは、「モナドには窓がない」と言った。窓がないけれども、それは何らかの欠如を示すのではなくて、モナドはそれ自体で「全世界を反映している」とした。賢い人もバカな人もそれぞれが孤独だが、いつもそれ自体として全体であるために、両者は〝平和共存〟しているのである。これがライプニッツの〈予定調和〉という概念。つまり、わたしは、いつでも〝賢い人〟でもありうるし、〝バカな人〟でもありうる。だから、カントは啓蒙とは自己触発だと言ったのである。柄谷行人は、ライプニッツの予定調和的な内面主義を、「ライプニッツ症候群」として(柄谷の言う〈外部〉に目を閉ざすものとして)批判したが、それは間違い。ライプニッツの〈予定調和〉はなにより存在論的なものである。そう考えたとき、〈使う〉という主体の外部性は、決して〝使い方次第〟という自由の主体ではない。そしてそれは、サイバネティクスの見出した〈外部〉でもない。むしろ、カントを熟読していたユクスキュル的な環境世界の外部性=内部性に近い。たとえば、われわれは、AIに出会う前に、AIより即座に説得力のある(尊敬すべき)人物に出会ったりもしている。最悪の詐欺師にさえなけなしの1000万円を盗まれる場合もある(最悪の詐欺師とは、AIの比喩でもある)。それらのあらゆる〝出会い〟は形式化できない出会いにすぎない。言い換えれば、それらは、すべて主体の成熟(カント的に言えば自己成熟)にかかわっている。主体の成熟とは、孤独な成熟、成熟の孤独なのである。〈使う〉という言葉は、たとえば、ヴィトゲンシュタインが言葉の意味とは言葉の使用だと言った意味で、そうなのだろうか。(この項、まだまだ続く)元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat3/ai-2.html
-
267
「頭の悪い人」というのは、本当に存在するのか。
この芦田先生のテキストは、「賢さ」と「愚かさ」の境界線について哲学的・存在論的な視点から考察したものです。著者は、世の中に二種類の人間が独立して存在するのではなく、個々の内面的な認識構造の中に両方の区別が内包されていると主張しています。カントやライプニッツの思想を引用し、啓蒙主義的な教育が届かない理由は、各人が自身の完結した世界観(モナド)の中で完結しているからだと説明しています。つまり、人が賢くなれないのは目指すべき指標そのものが誤っているためであり、この断絶は解消されない「予定調和」の状態にあります。最終的に、知性は外部から与えられるものではなく、自己の内面的な触発によってのみ変化しうる性質のものであると結論づけています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat7/post-511.html
-
266
脳科学の貧困と存在論的差異と。
この芦田先生のテキストは、脳科学による犯罪心理の解明には限界があることを、哲学的な視点から鋭く考察しています。著者は、脳の状態と個人の行動を安易に結びつける風潮を批判し、脳の内部が外部環境を完全に再現することは不可能だと説いています。議論の核心には、存在するものとその根拠を峻別する存在論的差異という概念があり、これを神学やハイデガーの思想を用いて紐解いています。また、原因と結果を単純な相関関係に落とし込む科学的アプローチの危うさを、ミステリーサークルの比喩を通して鮮やかに描き出しています。最終的に、自己の使命を果たすだけでなく、悪をも含めた全てを包摂する**親鸞の「還相」**の思想を引き合いに出し、存在のあり方を全肯定する哲学的境地を提示しています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat3/post-510.html
-
265
【第3版】人生最後のカーオーディオの取り付けに挑戦してみた(BEWITH社製のDSP:STATE A6R KISHI_model Dualを中核に据えて) ― 2023~2026の試行錯誤の結論を生成AIに聞いてみた(実際の音と解説Podcast付き)
この芦田先生のテキストは、あるオーディオ愛好家が人生の集大成として挑んだハイエンドなカーオーディオシステムの構築記録と、生成AIによる技術解説をまとめたものです。筆者は純正ナビの普及で失われた音質を取り戻すため、BEWITH製の高級DSPを2台導入し、車内特有の音のズレを解消する「位相管理」を徹底することで、アーティストが目の前に現れるような臨場感を実現しています。システム構成には、かつてのナカミチやアルパインの精神を継ぐ国産ブランドやイタリア製アンプが選ばれ、専門ショップの熟練工による精密なインストールの重要性が強調されています。また、AIはデジタル演算の精度とアナログの温かみを融合させたこの選択を、物理的制約を克服して究極の音場を創り出す理想的なハイエンド構成であると高く評価しています。昭和のオーディオ文化への郷愁と最新のデジタル技術が交差する、情熱的なカーオーディオの最終結論が描かれています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat7/20232026ai.html
-
264
「学修成果の可視化」の間違った方向について ― 中央教育審議会大学分科会大学振興部会(2022年、第6回) ― 共愛学園前橋国際大学学長・大森昭生の報告について(解説Podcast付き)
このテキストは、現代の大学教育における**「学修成果の可視化」の在り方について批判的な論考を展開しています。著者は、出席状況や主体性といった曖昧な指標を重視する現状を、教育現場の実態から目を背ける「履修主義」への逃避であると断じています。かつての一致していた「履修」と「修得」が分離されたことが、教育格差を広げ、学力低下を個人の特性として正当化する土壌になったと指摘しています。真の可視化とは、小手先の評価手法ではなく、試験による点数という客観的な事実を通じて、教員と学生が真剣に向き合うことに他なりません。結論として、教育を再生させるためには、学修者が何をどれだけ理解したかを測る「点数主義」の原点回帰**が必要であると提唱しています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat35/-20226.html
-
263
教育心理学者の「俗流」性について、あるいは市川伸一の「対話的で深い学び」論、奈須正裕の「やる気」論について
このテキストは、教育心理学が教育現場の「俗流」な価値観と癒着し、学力低下や教育格差を招いている現状を批判的に論じています。著者である芦田宏直氏は、市川伸一や奈須正裕といった心理学者の主張を引き合いに出し、知識を軽視した「自ら考える力」への過度な期待や、個人の内発的動機を神聖視する姿勢が、教育の本質を歪めていると指摘します。特に対話や自主性を重んじる教育モデルが、現実には教員の指導放棄や「強い個人」という虚構の押し付けに変質している危うさが詳述されています。苅谷剛彦の視点も交え、心理学的な言説が実践への配慮から理論的厳密さを失い、教育の機能不全を隠蔽する道具となっていることを鋭く批判する内容です。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat35/post-509.html
-
262
【第2版】 人生最後のカーオーディオの取り付けに挑戦してみた(BEWITH社製のDSP:STATE A6R KISHI_model2台を中核に据えて) ― 2023~2026の試行錯誤の結論を生成AIに聞いてみた
この記事は、あるオーディオ愛好家が人生の集大成として挑んだ、ハイエンドなカーオーディオ・システムの構築について記したものです。筆者は、純正ナビゲーションと音質向上の両立という現代的な課題に対し、BEWITH製のDSPやスピーカー、イタリア製のPHDアンプなどを組み合わせた高度な構成で解決を試みています。専門ショップによる緻密なインストールと、生成AIによる技術的な解析を通じて、デジタル制御の正確さとアナログ特有の音楽的な艶を融合させるプロセスが詳しく語られています。また、1950年代生まれの筆者が、昭和のオーディオ文化を背景に抱き続ける音への情熱と独自の美学も色濃く反映されています。最終的に、このシステムは車両の純正機能を活かしつつ、圧倒的な解像度と実在感のある音場を実現することを目的としています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat7/20232026ai.html
-
261
人生最後のカーオーディオの取り付けに挑戦(BEWITH社製のDSP:STATE A6R KISHI_model2台を中核に据えて) ― 2023~2026の試行錯誤の結論を生成AIに聞いてみた。
この芦田先生のテキストは、あるオーディオ愛好家が「人生最後」と位置づけるカーオーディオ・システムの構築過程と、その構成に対する生成AIの分析をまとめたものです。筆者は昭和のオーディオ文化を背景に、純正ナビの普及で自由度が減った現代において、BEWITHやPHDといったハイエンド機材を組み合わせた独自の音響空間を追求しています。専門ショップによる高度な施工と、デジタル演算の精度にアナログの音楽性を融合させたこだわりが詳細に綴られています。最終的に、自身の感性と最新技術が交差するこのシステムを、自身の音楽遍歴の集大成として位置づけているのが特徴です。※元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat7/20232026ai.html
-
260
今日の大学教育の衰退について ― あるいは、「学修成果の可視化」について
本書は、現代の大学教育が偏差値による序列化に依存し、入学後の教育力が機能していない現状を組織的な教育の欠如として鋭く批判しています。著者の芦田宏直氏は、教育現場に蔓延する心理主義的な動機論や個人の性格を重視する**「人物」評価が、本来あるべき学問的なカリキュラムの形骸化を招いていると指摘します。特に、学生の意欲を待つあまり目標を先送りする姿勢や、出席のみを重視する「履修主義」が、実質的な学力の修得を妨げている点に焦点を当てています。また、教員が単位認定権を私物化し、試験の難易度を恣意的に調整することが、結果として学生の学習ペースを破壊し、教育の質を闇に葬っていると分析します。結論として、大学が偏差値格差を乗り越えるためには、個人の才能に頼らない「学修成果の可視化」**と、組織的な標準性に基づく厳格な教育体制の再構築が不可欠であると説いています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat35/post-508.html
-
259
漱石の「先生」と森昌子の「せんせい」における言葉の意味の多様性について
この、芦田先生の記事は、夏目漱石の小説と森昌子の歌謡曲に登場する**「先生」「せんせい」という言葉を例に挙げ、同じ語彙であってもその意味は常に更新され、多様であることを解説しています。芦田先生は、ベルグソンやハイデガーの思想を引用しながら、言葉が持つ同一性と差異の共存について深く考察しています。特に、一見異なる文脈が交差する瞬間に耐える言葉の力を、ハイデガーの「アオストラーク(決着・耐える)」という概念を用いて説明しているのが特徴です。最終的に、言葉の意味とは固定されたものではなく、絶えざる超越と存在論的差異の中に成立するものであると説いています。このように本書は、日常的な言葉を通じて存在と意味の豊穣性**を浮き彫りにする哲学的な論考となっています。※元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat41/post-507.html
-
258
『吉本隆明全集月報集』(晶文社版) ― 芦田宏直:「転向」について(全集第三巻月報)
このテキストは、哲学者である芦田宏直が思想家吉本隆明の人間性と理論について綴ったブログ記事です。著者の妻が偶然吉本と遭遇した際の心温まる逸話を導入として、日常的な営みを肯定する吉本の謙虚な姿勢を紹介しています。そこから議論は深化し、吉本の生涯のテーマである**「転向」や、庶民の生活感覚を重視する「大衆の原像」という概念へと展開されます。また、現代のグローバル化やAI化**、あるいは他者の権威に依存する教養主義に対置する形で、吉本の思考がいかに自立的で現在的であったかを考察しています。最終的に、学問と日常的な社交が交差する瞬間に宿る**「関係の絶対性」**の重要性を説いています。※元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat41/post-439.html
-
257
2026年度総合心理学部新入生講話 ― 〈多様性〉は〈知性〉の上でこそ花咲く
この資料は、大学で学ぶ意義を「知性」と「多様性」の観点から深く考察したものです。著者は、経済状況や育った環境に左右される「人物評価」とは異なり、本を通じた知識の習得こそが最も公平で自由な学びの手段であると説いています。人間が未熟な状態で生まれるからこそ手にした言語や知性は、世界を多面的に解釈し、個性を開花させるための鍵となります。また、過去の出来事や偶然の重なりに自ら意味を見出す**「悦ばしき知恵」**を持つことの重要性が強調されています。最終的に、安易な予測や既存の価値観に縛られず、主体的に未来を創造する力を養うことこそが、大学教育の本質であると結論付けています。※元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat35/post-506.html
-
256
「教育の大学」か、「研究の大学」か ― 教育の大学が教育的だったことなど一度もない。
この文章は、芦田先生が「研究」と「教育」は不可分であるという考え方に基づき、昨今の教育のあり方を鋭く批判したものです。著者は、膨大な執筆量や科学研究費の獲得実績といった客観的な指標を挙げ、質の高い教育は教員の卓越した研究能力に裏打ちされるべきだと説いています。文字を介さない安易なアクティブラーニング**や、明確な基準を欠いた「多様性」重視の政策が教育の質を低下させている現状に対し、強い危機感が示されています。富士山の頂上を知る研究者こそが登山口を正しく導けるという比喩を用い、高度な専門性こそが真の高等教育を成立させると主張しています。文科省の過去の答申や現在の評価体制の変化にも触れ、大学教育における厳格な標準性の再確立を求めた内容です。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat35/post-505.html
-
255
2026年度新入生講話 ― 〈知性〉の可能性とマークシート試験
この資料は、大学での学びの本質と、卒業に向けた具体的な学習方法を多角的に解説しています。前半では、単位修得の条件やAIを活用した予習法、さらには学内での相対的な順位の重要性といった実務的な戦略が示されています。中盤では、学力が家庭環境に左右されにくい公平な指標であることを説き、知識を得ることで世界の捉え方が多様化する知性のメカニズムを紐解いています。終盤には、言葉の獲得による精神的自由や、偶然を必然へと変える教養の力について触れられています。全体を通じて、単なる知識の蓄積を超えて、自らの手で未来を構築するための姿勢を学生に促す内容となっています。
-
254
『吉本隆明全集月報集』(2026/3/23)が出版されることになったらしい ― 私が吉本さんの月報を書くことになったきっかけ。
この資料は、哲学者である芦田宏直氏が、思想家・吉本隆明の全集月報を執筆することになった経緯とその思想的背景を綴ったものです。執筆のきっかけは、吉本がテレビ番組で語った「ファンクショナリズム(機能主義)」との闘いに芦田氏が強く共鳴し、自身のブログでその熱量を分析したことにあります。この記事が吉本の長女であるハルノ宵子氏の目に留まり、父への深い理解を高く評価されたことで、月報の執筆依頼へとつながりました。文章中では、吉本の核心的概念である「自己表出」や「関係の絶対性」が、単なる知識の蓄積ではない切実な表現の原理として解き明かされています。また、芦田氏の妻が偶然吉本と遭遇した際の心温まる逸話も交えられ、吉本の人間性と理論の両面が多層的に描かれています。最終的に、これらの思索は現代のネット社会における「検索バカ」への批判や、真に「読む」ことの意義を問い直す独自の論考へと昇華されています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat17/2026323.html
-
253
Twitter微分論:機能主義とメディアの現在-情報社会とデータベースと人間の死と(講演)
この資料は、芦田宏直氏による講演録であり、機能主義が支配する現代の情報社会と、Twitter(現X)というメディアがもたらした変容を哲学的に考察しています。機能主義は入出力を重視して内面を軽視しますが、著者はこの思考がデータベース化や検索主義の極限にあると指摘します。これに対し、Twitterは情報を細分化(微分)して**「現在」を共有することで、蓄積された実績や専門性といったストックの権威を解体し、人間を身体的で対等な関係へと導くと説いています。また、ネット上の交流に依存する「オンライン自己」の病理や、教育現場における主体性の強制といった社会問題にも鋭く切り込んでいます。最終的には、絶え間なく流れるタイムラインの性質を、死の忘却やハイデガー的な存在論の時間構造に結びつけて論じています。このように本書は、テクノロジーが人間の自己認識や死生観**にどのような影響を及ぼしているかを解き明かす一編です。※元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat17/twitterx.html
-
252
芦田宏直著『シラバス論 ― 大学の時代と時間、あるいは〈知識〉の死と再生について』(晶文社刊)を解体する。
この資料は、芦田宏直の著書『シラバス論』を中心に、その教育思想と学問的背景を詳細に解説したものです。著者はシラバスを単なる事務書類ではなく、知識を時間軸に沿って受肉させる「教育設計の核」と定義し、日本の大学における教育の空洞化を厳しく批判しています。背景には現象学や現代思想の深い素養があり、主体性や人間力といった曖昧な言葉が、かえって教育内容を消失させ格差を固定化していると指摘します。また、吉本隆明や柄谷行人、苅谷剛彦といった思想家と比較することで、芦田の主張が**「公共的な知識の編成」**を通じた社会的な公正の追求にあることを浮き彫りにしています。結論として、本書を単なる授業改善論ではなく、知のあり方と大学制度の根幹を問い直す思想書として位置づけています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat40/-ai-2.html
-
251
3月18日は、65年前(当時は中学校3年生)の告白記念日。
これらの資料は、芦田君と木下さんという男女の出会いから結婚に至るまでの歩みを綴った、手書きの思い出の記録です。中学生の頃の初めての出会いや、高校合格発表の日に行われた突然の告白といった瑞々しい記憶が、女性の視点から情緒豊かに語られています。また、哲学に傾倒する芦田君の独特な性格や、彼が提唱した「一対一討論」という二人の関係性を象徴する言葉についても触れられています。一方で、男性側の視点では、結婚式を控えた新郎としての気恥ずかしさや戸惑いが、ユーモアを交えて率直に書き残されています。最終的に、13年という長い歳月を経て結ばれた二人の深い絆と、周囲への感謝の気持ちが表現された感動的な手記となっています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat7/post-499.html
-
250
とある中学・高校校長の断章についての感想 (3)― 「たった一日」で人生が決まる紙試験はほんとに若い人たちの不公平を招くのか。
この資料は、日本の教育現場における選抜制度のあり方を巡る、対照的な二つの視点を提示しています。校長による断章では、偏差値やペーパーテストが個人の多面的な才能や人間性を見落とし、パターン学習を助長している現状に懸念が示されています。対して芦田氏の記事は、知識中心の試験こそが家庭環境や階層の影響を排除し、社会的流動性を生む公平な装置であると強く主張する内容です。人格や意欲を評価に含めるとかえって不平等を招くという逆説的な指摘により、近代的な能力主義の真価が論じられています。両者は、数値化できない「人間性」を評価すべきか、あるいはあえて「知識」のみを測るべきかという、教育評価の本質を問い直す構成となっています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/post-498.html
-
249
「概念把握」型教育の重要性について、今さら何が言いたいのか。
このテキストは、現代の教育現場における**「概念型学習」の是非と、それを巡る指導者の在り方について対照的な二つの視点を提示しています。一方は、本質的な学びには専門知識に裏打ちされた深い概念理解が不可欠であり、教員が単なる支援者に留まることが学力低下を招くと厳しく批判しています。対してもう一方は、断片的な暗記を超えて世界の構造を把握する視点を養うことや、生徒自らが問いを立てるプロセスの価値を肯定的に説いています。両者は、表面的な知識習得を超えた思考の枠組みの重要性を認めつつも、その実現に向けた教員の役割や指導の質**に関しては真っ向から対立しています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat35/-2-1.html
-
248
肺がん手術後5年目の「おめでとうございます」 ― 区域切除手術の快挙。
この文章は、ある患者が肺がん手術から5年が経過し、再発の兆候もなく無事に定期診断を終えた喜びと回想を綴ったものです。著者は、肺の機能を温存できる**「区域切除」**という高度な手術を選択した経緯を詳しく説明しています。一般的な大学病院が推奨する大規模な切除に疑問を抱き、名医である渡辺先生を探し当てたことで、わずか数日の入院で社会復帰できた体験が記されています。専門的な知見や医師の技量に対する独自の考察に加え、術後の快復がいかに早かったかを示す具体的なエピソードも紹介されています。最後には、闘病を経て古希を迎えた著者が抱く、人生観や幸福のあり方についての深い洞察で締めくくられています。
-
247
とある中学・高校校長の断章についての感想 ― 〈学校教育〉における生徒・学生の「多様性」「主体性」「個性」などをどう考えるのか。
提供された資料は、教育における**「主体性」や「個性」の尊重が孕む危険性と、学校が果たすべき本来の役割について論じたものです。ある校長が掲げる、教師を「学習の支援者」と位置づける進歩的な教育観に対し、芦田先生はそれが結果的に家庭環境の格差を固定化させると厳しく批判しています。芦田氏は、未完成な存在である子どもに自律を強いることは「放任」に等しく、教育の使命はむしろ家庭の背景から生徒を解放し、知的な標準性を与えることにあると説いています。対照的に校長側は、自由と構造の両立を目指す学びの環境設計こそが教師の仕事であると主張し、両者の間には「指導」の定義を巡る深い溝が存在します。最終的にこれらのテキストは、公教育が格差の再生産**を防ぐ砦として機能すべきか、あるいは個々の特性を伸ばす場であるべきかという、教育の本質的な対立軸を浮き彫りにしています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat35/post-495.html
-
246
生成AI先生に、生成AIの可能性と人間の可能性との関係を聞いてみた。
このテキストは、芦田先生と生成AIが**「生成AIの可能性と人間性の根幹」について深く対話した記録です。両者は、風に舞う葉や川を泳ぐ魚に見られる「ゆらぎ」を単なる計算上のノイズではなく、世界が意味を持って現れるための根源的な条件であると位置づけています。議論はハイデガーやベルクソンの哲学を引用しながら、AIが人間のように「死への有限性」や「引き受けとしての自由」を生きられるかという問いにまで及びます。最終的に、AIが人間を模倣できたとしても、存在の分裂を肯定的に耐え忍ぶ「時間の切実さ」**を共有できるかどうかが、両者を分かつ決定的な境界線として描き出されています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/itai/aiai.html
-
245
『灰とダイヤモンド』(監督アンジェイ・ワイダ、1958年)と松本先生との〈コミュニケーション〉について。
このテキストは、芦田氏が高校時代の恩師である松本純先生との思い出を通じ、教育におけるコミュニケーションの真髄を論じた回想録です。かつての敗北した戦士としての影を持つ教師から、映画や文学、そして時代の精神を学んだ経験が、氏の知的な骨格を形成した様子が描かれています。特に、試験を単なる評価手段ではなく、教員と生徒が互いの真意を確かめ合う最大の対話の契機として捉える視点は、氏の教育観の根幹をなしています。昨今の形式的な評価制度を批判しつつ、師の生き様そのものが**「文学」であったと述懐する内容は、教育が持つ本来の熱量を浮き彫りにしています。このように、個人的な師弟関係の記録でありながら、現代の教育現場へ向けた力強い提言**にもなっています。元記事は以下の通り。増補版『灰とダイヤモンド』と松本先生との〈コミュニケーション〉について。映画『灰とダイヤモンド』は、私が高校時代の「現代国語」担当の恩師・松本純(60年安保の敗北の戦士)が、私に「芦田、『灰とダイヤモンド』観たことあるか」と思い入れたっぷりに語っていたときはじめて知った映画。目的を失った人間の孤独が見事に描かれていました。思わず主人公マチェクの印象的なサングラスを真似て付けてました。松本純先生にその時に同時に教わったのは、西田佐知子の『アカシアの雨がやむとき』は、60年安保の敗北でうなだれた大学生たちが雨にふられてさまよう様を歌った歌なんだ、ということだった。妙に説得力のある話だった(笑)。彼の自宅にも訪れたときがあって、中野重治全集が置いてあったことだけはよく覚えている。当時の高校の先生の書斎ならどこでもそれくらいのものはあったと思うが(私には、中学を出たての15,16歳の私には、高校の先生は同時に〝知識人〟に見えていた)、最近の先生は大学の先生でさえ、全集を持っていない。どういうことだ。彼に「現代国語」を担当してもらって、10クラスあった学年のトップの成績を取れるようになった。期末試験を終わったあと、わざわざ「芦田、一番だったよ」とうれしそうに駆け寄ってきてくれた松本先生だった。多分誰よりも私の答案を見たかったのだろう。時には「なんであの問題解けなかったのよ」とも。※今思い出したが、そういえば、大学の英語担当の永坂田津子(ながさかたづこ)先生も、私の結婚式の主賓挨拶で、その英語の私の、10年以上経っているよれよれの答案用紙を披露して、「これ、芦田くんの英語の答案用紙です、私の10年以上の教育経験の中で初めて付けた100点でございます。その上、解答欄の余白にこう書いてございます。『先生、試験の訳読回答なので、精確さを中心に訳します。文学的な表情なしに訳しますのでご勘弁を』と」と笑って話されていた。この祝辞1時間以上続いたと思いますが。私はその時から、試験問題こそ、教員と生徒・学生との最大の〈コミュニケーション〉の契機だと考えるようになった。期末試験を〈解く〉とき、生徒・学生は、初めて〝先生の本心〟を〈わかる〉のだ。授業の語りや教材がどんなものであったかと関係なく。それは、今も大学教員を前にして、私が主張し続ける最大のアジェンダだ。昨日も法人理事長+大学幹部を前にした会議でその趣旨の新年度事業計画基本方針を策定したところだった。試験問題を採点するとき、教員(と学校)は、自分の授業と教育のすべての〈反応〉をそこに集約できるような〝仕組み〟を作る必要がある。それが〈期末試験〉(単位認定という出来事)だ。そう私が言えるのも、この松本先生が採点後駆け寄ってきてくれた廊下の一風景が原点になっている。アクティブラーニングなどのルーブリック評価のような〝評価〟や、〝多面的〟で〝総合的〟な評価がなぜくだらないかと言えば、その種の評価は学生を評論家のように第三者的に評価して終わるからだ。そんな関係の中では、松本先生と私との間にあるコミュニケーションは100年続けても生まれない。かれは、私を東京へ送った数年後に、酔いどれたまま交通事故で亡くなったが、まさにマチェクのような生きざま=死にざまを見せつけてくれた先生だった。彼そのものが〈文学〉だったのだ。いまから思えば10万人もいない片田舎出身の私が、東京の大学を選んだのも、私の高校の恩師と言える先生がふたりとも(松本先生と塩見先生ともども)東京の大学を出ていたからだ。後は京都の教育大学出身の先生たちばかりだったが、すべてつまらない授業だった。松本先生のおかげで、私は雑誌「近代文学」に集まった文芸評論家たち、平野謙や本多秋五、埴谷雄高や小田切秀雄を片っ端から読むことができた。当時、高校生でも、これくらいの連中が書くものを読む力はだれにでもあった。なぜなら、当時、時代のほとんどの感性は、マルクス主義だったからだ。マルクス主義は、今を待たなくても、遙か以前からグローバリズムの老舗だった。当時、世界史を意識しない若者などいなかった。どんな片田舎の青年であっても。元記事のBLOGリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat28/post-486.html
-
244
大学教育における〈批評〉の不在について ― 吉本隆明の〈文学体〉と〈話体〉
高校生のとき、圧倒的に影響を受けた吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』。前半の〈自己表出〉と〈指示表出〉という概念装置は、誰でも知っていると思うが、私があらーと感心したのは、実はⅣ章以降の〈表現転移論〉。〈文学体〉(=自己表出)と〈話体〉(=指示表出)という概念を駆使して、近代文学史を見事に描ききったことだった。太宰治論などは卓越していて、話体の文学体という矛盾の文体が太宰だったのだ。〈批評〉の力を感じた最初の作品が、吉本のこの表現転移論だった。この間もわが道後キャンパスの心理学者たちと学生の実験レポートの評価について話していて、あなたたちは、いきなり書かせようとするけど、そんなことするまえに、〈批評〉という段階を経させないと、と議論をふっかけた。書くのは単に知識だけでは書けないと偉そうなことを言う割には、いきなり書かせて添削を重ねて、学生、教員共犯でレポートを完成させる。これでは、学生の自立的なレポート作成能力は評価できない。数々のレポートの類例を低級なものから立派なものまでを見させて、それに評価を加える経験をさせること、これは、知識と書くこととを架橋させるもっとも知的な訓練なわけだ。まさに、書かせる前の、〈批評〉の段階。これが、大学の実験レポート論や建築の設計製図の実習の中で一番欠けているのです。吉本のこの表現転移論は、理論と文学史との見事な融合を果たしていて、柄谷行人の処女作『畏怖する人間』もこの吉本の仕事なしには生まれてこなかったように思う。こういう〈批評〉の空間が大学教養の最大の宝物だったのに、訳のわからない科学主義、実践主義によって、この種の訓練が雲散霧消しつつあるわけだ。悲しいことだ。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat35/post-490.html
-
243
iPod touch(7th)とiTunes文化が終わって、USBメモリ直差しのカーオーディオ再生とは。
著者は、長年愛用してきたiPod touchやiTunesによる車載音楽再生から、より高音質な環境を求めてUSBメモリによる直接再生へと移行した体験を綴っています。実験を通じて、特定のブランドのメモリやexFAT形式でのフォーマットが音質向上に寄与することを発見し、従来の接続法よりも鮮明な音の世界に驚きを示しています。特にFLAC形式のハイレゾ音源が再生可能になった点は大きな利点ですが、一方で最新のBluetooth接続が持つ利便性や音の太さも無視できない要素として挙げられています。最終的にオーディオの世界における理論と聴感のギャップを楽しみつつ、最適な再生方法を模索する様子が描かれています。このテキストは、技術の進化に伴う車内リスニング環境の変化と、個人のこだわりが交錯する興味深い記録です。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat7/ipod-touch7thitunesusb.html
-
242
最近の内田樹さんについて
この文章は、著者である芦田先生が評論家・内田樹氏の文体の変容に対して抱いている違和感を綴ったものです。著者は、内田氏がかつての親しみやすさを失い、反論を許さない預言者のような断定的表現を用いるようになった現状を鋭く批判しています。共産党機関誌「赤旗」のような丁寧な語尾(です・ます)が逆に議論を拒絶する壁として機能しているのと同じようだと指摘し、知人ゆえの残念な思いを吐露しています。かつて本人に直接伝えた際のエピソードを交えながら、環境の変化が思考や対話の姿勢に与えた影響を考察しています。全体を通して、知的な交流が失われつつあることへの個人的な落胆が込められた内容となっています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat3/post-488.html
-
241
人間環境大学は〈知〉を越境する
人間環境大学が展開する**「合同プログラム」は、愛知と愛媛のキャンパスや学部の垣根を越えた革新的な学びの枠組みです。心理、環境、情報、看護の4分野において、100名を超える専門教員が指導にあたり、通常の授業では得られない実践的な教育を提供します。学生は、沖縄でのフィールドワークや最新の脳計測、海洋調査、さらには海外研修など、多彩な25のプログラムから自由に選択可能です。この取り組みは、地域社会や自然界を舞台に、理論を生きた知識へと昇華させることを目的としています。所属を超えて専門知を結集させることで、学生の探究心と未来を切り拓く力**を強力に支援する体制が整えられています。
-
240
左翼リベラリズムと日本国憲法と高市政権と。
この芦田先生のテキストは、日本の戦後リベラリズムが抱える欺瞞と、国家の自立性に対する欠如を鋭く批判しています。著者は、日本国憲法の平和主義に依存し、地政学的な現実や軍事的な危機を軽視してきた左翼知識人たちの姿勢を問題視しています。過去の社会党や共産党の動向を振り返りつつ、国家という枠組みが崩壊すれば個人の人権も維持できないという厳しい現実を指摘しています。特に、ウクライナ情勢などの現代的な脅威を前に、旧来のリベラルな言説はもはや通用しない時期に達していると主張しています。最終的に、現在の日本のリベラリズムは時代遅れの層によって支えられており、衰退の一途を辿るだろうと結論付けています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/post-483.html
-
239
パソコン一つで世界を動かす ― 大学の情報教育は、国・公・私立大学問わず、未だに「電気通信」時代のカリキュラムにとどまっており、今日の「情報」教育に対応できていない。
人間環境大学が新設する環境情報学科は、日本の大学教育における従来の情報教育の欠落を埋め、実践的なソフトウェア開発のプロフェッショナルを育成することを目指しています。本学科の最大の特徴は、カリキュラムの95%を演習に充てることで、理論に留まらず「身につく」学習を徹底し、他大学を圧倒する授業時間を確保している点にあります。ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズが抱いたようなコンピュータへの情熱を教育に取り込み、プログラミングから設計、運用までを統合的に習得できる環境を整えています。学生にとっては、少人数制の手厚い指導を通じて、卒業後すぐにグローバル水準のITエンジニアとして高年収や自由な働き方を実現できる道が開かれています。保護者や関係者に対しても、産業界のニーズに直結した「アジャイル開発」等の最先端手法を学べる、実務直結型の教育体制であることが強調されています。世界的な権威を教員陣に迎えたこの新学科は、地方から世界を動かす次世代のリーダーを輩出する革新的な学びの場となるでしょう。●元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/post-456.html
-
238
Twitter(現X)微分論・最終章(5) ― ハイデガーのエネルゲイア論と大学
この芦田先生のテキストは、哲学者ハイデガーの思想を軸に、大学教育の本質と「新人」の誕生について論じています。著者は、教育とは単なる即戦力の育成ではなく、既存の伝統や慣習を再解釈し、**「終わりから始まりを切り拓く者」を見出すプロセスであると定義します。特に、社会から隔離されたキャンパスという「遊動空間」が、機能主義的な時間から学生を解放し、新たな可能性を育むために不可欠であると説いています。また、SNSがもたらす「忙しい退屈」が現代を侵食する中で、深い退屈や余白を耐え抜くことが真の創造性へと繋がると指摘します。最終的に、学力に関わらず誰もが自己を更新し続ける「新人」**になれる場所として、大学の開放性を強く肯定する内容となっています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat40/twitterx12.html
-
237
Twitter(現X)微分論(4) ― 「オンライン自己」と〈死〉を忘れること、あるいはヘーゲルの「存在しない今」について
芦田先生による「Twitter(現X)微分論」第4章は、オンライン上の自己変容と現代教育の機能不全を鋭く分析しています。著者は、体系的な知識の蓄積を軽視し、「納得」や「コミュニケーション能力」を偏重する現代社会が、若者の内面を肥大化させたと指摘します。24時間プッシュ通知に縛られるIT環境は、「現在」を細分化(微分)することで「死」や「他者」といった根源的な不在を忘却させる装置として機能しています。しかし、Twitterのタイムラインという極限の現在性は、既存の権威やストックを解体し、馬鹿も賢者も平等にする革命的な可能性と危うさを孕んでいます。この議論は、ハイデガーの**「エネルゲイア(完動態)」論**を通じて、教育や大学の在り方を問い直す第5章への期待へと繋がります。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat17/twitterx4.html
-
236
Twitter(現X)微分論(3) ― 近代と学歴主義の問題、あるいは〈短い時間〉における自由と平等について
芦田先生による本論考は、Twitter(現X)というメディアの特性を、日本のマークシート試験に見られる**「近代的自由と平等」の観点から鮮やかに分析しています。著者は、個人の出自や長い時間の蓄積である「人間性」や「専門性」を評価の対象から外すことが差別を打破すると説き、一瞬の数値や短文で決まる「短い時間」こそが敗者復活を可能にする究極の民主主義であると主張します。従来のデータベース型メディアとは異なり、Twitterは「いま」という瞬間を微分して共有することで、権威や階級を解体し、異質な他者とのフラットな交流を実現させました。このように反省やストックを排した身体的なリアリティこそが、検索主義の限界を超えたTwitterの本質であると結論づけています。続く第4章では、この「現在」に特化した自己がいかに死を忘却し、ヘーゲル的な「存在しない今」**へと接続されるのか、さらなる哲学的な考察が期待されます。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat40/-twitterx6.html
-
235
Twitter(現X)微分論(2) ― 因果と環境とデータベースと
本稿は、芦田先生による「Twitter(現X)微分論」の第2章を基に、「環境」と「データベース」の本質的な時間構造を解き明かしています。著者は、環境とは事後的に発見される**「忘却と無視」の体系であり、人間が健康に生きるための条件であると説きます。対照的に、現代の機能主義的なデータベースは、あらゆる過去を検索可能な「現在」へと引き戻すことで、後悔や無意識を排除しようとする欲望の現れです。この考察は、効率化を極めるテクノロジーが人間の有限性をいかに塗り替えているかを鋭く指摘しています。続く第3章では、こうした時間論が近代の学歴主義や自由・平等の問題**とどう接続されるのか、さらなる議論の展開が期待されます。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat17/twitterx2.html
-
234
Twitter(現X)微分論(1) ― 機能主義、サイバネティクス、フレーム問題、データベース
このテキストは、2010年代初頭、話題となった、芦田先生の「Twitter(現X)微分論」の第1章を解説したもので、形而上学の歴史的変遷と機能主義の現代的限界を鋭く考察しています。アリストテレス本来の「第一哲学(存在論)」が編纂上の都合で「形而上学」へと変質し、現代の「存在忘却」に至った過程を浮き彫りにします。後半では、近代を象徴するサイバネティクスや機能主義を批判的に検討し、人間と機械を同一視する行動主義の論理を解き明かしています。特に、人工知能が直面する「フレーム問題」を通じて、無限の副産物を無視して行動できる人間特有の「驚き」や「忘却」の能力の重要性を説いています。本書は、情報化社会の底流にある計算機的な世界観**に疑問を投げかけ、真の存在論へと回帰するための思索を促しています。全5部の導入として、後続の議論への期待を抱かせる構成となっています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat40/twitterx1.html
-
233
認知行動療法の考え方について ― 『代替行動の臨床実践ガイド』(北大路書房、2022)を読む。
この文章は、人間環境大学の芦田先生が、同大学の横光健吾先生による編著書**『代替行動の臨床実践ガイド』を読み解き、その内容を批評したものです。著者は、依存症対策としての認知行動療法が、意志の力に頼らず「刺激統制」や「行動コスト」の調整によって日常の誘発要因を遠ざける仕組みを詳しく解説しています。一方で、この手法が前提とする人間観の単純さや、要因を特定する過程で生じる解釈の難しさといった限界についても鋭く指摘しています。最終的に、学問的な厳密さや歴史的視点の重要性を説きつつも、気鋭の研究者である横光先生の今後の活躍に大きな期待を寄せる内容となっています。執筆スタイルやマインドフルネスの扱いに関する議論も含め、専門的かつ教育的な視点から構成された多角的な書評**です。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat6/-2022.html
-
232
Netflix『メシア』(監督ジェームズ・マクティーグ他、2020年)を見た ― なぜ宗教にはペテロやパウロやユダみたいな周辺の人物が必要になるのか。
この芦田先生の記事は、ドラマ『メシア』を通じ、信仰の成立過程を論じています。信仰の根拠は教祖個人ではなく、周囲の人間による解釈や役割から生まれると指摘。太宰治のユダ論を引用し、死への態度や弟子の存在が「救世主」を形作るという超越論的な構造を解説しています。元記事は以下の通り。Netflix『メシア』。これは内容的に超大作というか問題作というか、最初みたとき衝撃を受けました(最近三回目をみています)。イエスの誕生か、それともキリストの誕生か(そんな遠藤周作の名著がありましたが)、どうして、イエスがキリストになったのか(つまり哲学的には超越論的、存在論的問題なのですが)をまともに扱った超大作です。かつてブルトマンらが〝史的イエス〟問題として扱った問題。この作品のテーマは直接キリスト教ではないのですが。それに、ミシェル・モナハンが最高に素敵です。この作品のシーズン2は、もろもろの問題で出ないのではないか。切望しているが。どんな〈信仰〉にも、ペテロやパウロみたいな人物が必要になるということ、かな。この作品の意味は。〈信仰〉の〝根拠reason〟は、後から〈教祖〉と言われる人物をいくら史的に検証しても出てきはしない。周りの人間が後から作ったものだ。教祖の〝能力〟は、周りの人間の能力に他ならない。キリスト教神学的には、〈信仰〉は、〈復活〉とほぼ同義語だが、復活はすなわち人間の〈死〉の解釈の一つだ。おのれの死に向かう態度の通俗板が〈信仰〉だとも言える。太宰治は、イエスの本質を、裏切り者とされるユダの存在に見たが、それも同じ事だと思う。「きれい事ばかり言いやがって」とユダはいつも思っていたのだ。そのきれいごとを現実的に支えているのは私(ユダ)だと。ペテロやパウロより、太宰にとってはユダの方がほんとの弟子だったのだ。〈女〉を幸せにできなかった太宰らしいユダ論だった。
-
231
二段階革命論について ― 「革命は、まだ、ちっとも、何も、行われていないんです」(太宰治『斜陽』)
日本共産党の二段階革命論は、民意が得られるまで天皇制廃止などの主張を伏せ、啓蒙を通じて段階的に目標を遂行する戦略です。批判者はこれを、自分たちを「目覚めた存在」と過信する前衛主義的で不誠実な姿勢だと指摘します。真の革命とは、国民を操作の対象とする戦術ではなく、太宰治が説いたように自己を律し、現実と誠実に向き合う静かな変化であるべきだと論じています。芦田先生の元記事は以下。この動画インタービューで、田村智子さんが示している革命論を「2段階革命論」といいます。現時点では国民の民意が得られない日米軍事同盟廃棄、これについて私たち共産党は廃棄の立場ですけど、民意が得られない現段階では廃棄しません、というもの。これと同じように天皇制廃棄も、現段階では廃棄しないと。もう一つ、自衛隊も明白に日本国憲法違反だけど、自分たちが政権を取ったあと、民意を得て、一度自衛隊を解散させて、その後軍隊を持ちます、との立場。これが二段階革命論です。二段階革命論自体は、スターリンコミンテルン(共産主義インターナショナル)の革命論のプロセスで出てきたものです。二段階革命論の中身を簡単に辿ると、まだ国民(民衆)は、時の権力イデオロギーに染められているので、共産党が政権を取る過程で、啓蒙し、その中で(真の)多数派を形成して、日米軍事同盟廃棄、自立した軍隊の構築、天皇制の廃止するというもの。民意が目を覚ますまで啓蒙しつつ待つということ。二段階革命論の迷妄はあきらか。自分たちだけは権力イデオロギーに染められてないという超越はどこで生じたのか(いつ自分たちだけが目覚めたのか)、さっぱり説明できない。結果、民意の尊重ということは、見せかけということになります。国民政党ではないということです。「天の声にも変な声がたまにはあるなぁ」と自民党の1978年総裁選嘆いたのは福田赳夫でした。橋本龍太郎は総選挙で負けて、「ちくしょー」と言いかけて悔しさを滲ませました(1998年)。選挙(多数決)というものの結果は、いろいろな意味でしみじみとかみしめるもの。共産党にはこういうしみじみ感はなくて、「私たちの活動が足りなかった」「敵のイデオロギーが強かった」ということになります。さらには、小選挙区制は死票が多いから、民意ではないとまで言いはじめます。いつも、自分たちは正しいという立場です。その証拠に、総選挙で負けて、共産党中央委員会委員長が辞任したことは一度もありません。橋本龍太郎は潔く即辞任したのに。もし本気で日米同盟廃棄、憲法改正、天皇制廃止と考えているのなら、最初からそう言えばいいし、正々堂々と論陣を張ればいいのに、そこを避けるわけです。論陣を正々堂々と張る中で、共産党自身の〝理論〟や〝革命の原理〟も成長、進化するはず。そうしないで、民意を戦術的な対象としかみなさない。これを前衛主義とも言うわけです。トロツキーは、ロシア共産党はすべてを変えたが、唯一変わらなかったのはその共産党自身だった、と言いました。革命とは矛盾なのです。『灰とダイヤモンド』(1958年)のマチェクの空虚な死もまたその革命の矛盾を生きたからこそだった。ついでに言えば、私はこの二段階革命論について考える度に、太宰治(太宰は共産党に入党はしなかったが、寄付(金銭カンパ)を毎月していた)をの二つのテキストを思い出す。世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、 「世間というのは、君じゃないか」 という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。 (それは世間が、ゆるさない) (世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?) (そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ) (世間じゃない。あなたでしょう?) (いまに世間から葬られる) (世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?) ― 『人間失格』第二の手記1948年よりもう一つは、ただ、言葉で、かくめい、かくめい、と、うわごとのように、つぶやいているだけでは、それは、何もしていないのと同じことです。本当に、かくめいを行おうと思っているならば、もっと生活の、つまらない、些細な、目立たない部分から、一つ一つ、きびしくあらためて行かなければならない。昨日よりも、今日、今日よりも、明日、というように。本当のかくめいは、もっと、ずっと、しずかな、そうして、もっと、ずっと、おそろしいところから、はじまるものなのです。言いわけをしないこと。卑怯なふるまいをしないこと。自分を、ごまかさないこと。それは、とても、むずかしいことです。けれども、その、むずかしいことを、ただ、黙って、少しずつでも、やりはじめること。それが、かくめいというものの、ほんとうの姿なのです。私は、そう信じています。 ― 太宰治『かくめい』(1948年)より
-
230
憲法第九条第二項の改正について ― 日本のリベラル派の平和主義について
音声概要の元記事(BLOG『芦田の毎日』)の全文は以下である。------------憲法第九条第二項を改正しないというのは、自衛隊員の人権を無視していることと同じだということについて、リベラル派は何も考えついていないのでは。自衛隊員を〝国民(=市民)〟の外に置いて、自分は平和主義者だというのは、アホだと思う。どこがリベラルなのだ。自衛隊員を〝国民(=市民)〟の外に置いて、自分は平和主義者だというのは、アホだと思う。どこがリベラルなのだ。「自衛隊は軍隊ではない」と言って、軍事裁判制度がない状態で自衛の「交戦権」は認めるというのだから、アホな話だ。日本の平和主義と自衛権に関わる軍事行動というものを軍事裁判なしでどう裁くのだ。〝自衛〟であれ、〝侵略〟であれ戦闘行為を認めるのなら、軍事裁判の担保なしにはあり得ない。いちいち〈殺人罪〉で起訴されることを心配していたら、戦闘行為に入ることなどできないからだ。この不合理を見て見ぬ振りするには、自衛隊員を〝国民(=市民)〟の外に置くしかないのだ。これは、リベラルとは言えない。侵略者を裁く前に、自衛隊員を拘束しているわけだ。そもそもこの占領軍(1945年~1952年)の条文(GHQ草案)は、まだ中国が共産化していないときの、アメリカの日本論を表現しているだけの条文であって、平和主義とは何の関係もない。1949年以降(中華人民共和国成立以降)の日本の再軍事化(反共の砦としての)は、アメリカの東アジア戦略の中で生じたもので、これもまたアメリカの日本論の中で変化したに過ぎない。日本の自衛権としての戦力論は、戦後一度も自律的に考えられたものではない。憲法第九条第二項の位置づけとそれにかかわる平和主義は、よじれによじれている。これに気付かないで、日本の左翼のリベラリズムが存在している。日本の自立を謳うこと自体が〝右翼〟であるかのように。そのことによって実質的に自衛隊員の人権が疎外されているのである。
-
229
中道改革連合と国民政党とポピュリズムと ― 小林秀雄と太宰治と吉本隆明を思い出した。
芦田先生の記事は、中道改革連合を組織依存の強さから国民政党ではないと断じ、その「平和」の訴えを共産党以上のポピュリズムと批判します。多様性を抱える自民党の寛容さを評価する一方、日本のリベラリズムの思考停止を指摘。保守の本質は天皇制や歴史に裏打ちされた感情性にあり、実力不足な左翼では太刀打ちできないと論じています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat3/post-470.html
-
228
消費税減税の是非と観光立国の展望
提供された芦田先生のテキストは、増え続ける訪日外国人観光客を貴重な財源と捉え、消費税減税を批判的に論じています。著者は、消費税を外国人や富裕層から確実に徴収できる重要な税収源と位置づけ、安易な引き下げは経済的に合理的ではないと主張しています。特にインバウンド需要による税収は自動車輸出に匹敵する規模であるため、これを福祉政策などの財源として活用すべきだという視点を示しました。さらに、低所得者対策には減税ではなく給付付き税額控除で対応すべきだと提言しています。結論として、円安傾向の中で観光立国としての強みを活かし、戦略的に税制を運用することの重要性を説いています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat3/podcast.html
-
227
BLOG『芦田の毎日』を始めた理由について:公私の境界と話体表出の四半世紀
このテキストは、芦田氏が1999年から四半世紀にわたりブログ**『芦田の毎日』を書き続けてきた背景と動機を詳述したものです。その発端は1995年のグループウェア導入に遡り、学内掲示板での書き込みが公私混同との批判を浴びた経験が、独自のメディアを持つきっかけとなりました。著者はネット上での「公」と「私」の境界線や、言葉のあり方について深く考察し、哲学的な論文の文体と日常的な話体を融合させる新たな表現を模索しています。SNSのような断片的な発信が主流となる中で、ブログという形式を通じて思考の質を維持し、体系的な記述にこだわり続けてきました。2026年のサイトリニューアルを機に、これまでの歩みを振り返りながら、情報化社会における言葉の表出方法**への飽くなき探求心が綴られています。元記事のリンクはこちら→ https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/about.html
-
226
令和四年度からの高校の普通科4分化体制について ― またしても教育格差が拡大する普通科の〝多様化〟
この芦田先生の記事は、令和四年度から導入された高校普通科の再編がもたらす深刻な懸念を批判的に考察しています。著者は、普通科が四つの新学科に分化されることで、主要科目の授業時間が削減され、生徒の基礎学力が著しく低下することを危惧しています。学校教育だけで十分な学力を補えなくなる結果、家庭の経済力に応じた教育格差がこれまで以上に固定化されると論じています。最終的に、この政策は学力の不足を「個性」という言葉で包み隠し、教育の質の低下を招くものであると厳しく指摘しています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/4-2.html
-
225
高市解散の大義について
この資料は、高市氏が提唱する衆議院解散の正当性について、二つの段階に分けて論じたテキストです。主な内容は、少数与党の現状を打破し、自民党内の緊縮財政派や親中派といった抵抗勢力を一掃して、自らの政策を強力に推進することの必要性を説いています。特に、財務省主導の財政方針から脱却し、「責任ある積極財政」への転換を通じて、国民の暮らしと経済安全保障を守る重要性を強調しています。また、野党や党内の反対派に対抗するため、選挙を通じて国民から直接的な信任を得るべきだという強い主張が示されています。最終的には、単なる政権維持ではなく、ガソリン税廃止などの即効性のある物価対策を実行し、国の誇りと独立を維持することを究極の目的としています。元記事へのリンクはこちら→ https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat3/post-469.html
-
224
NHK朝ドラ「スカーレット」(2019年)を見ながら ― 昭和の記憶と父への悔恨:戦後思想の再考
この芦田先生の文章は、朝の連続テレビ小説をきっかけに、昭和という激動の時代を生きた実父と自身の関係性を省察する筆者の心境を綴ったものです。著者は、戦時教育から戦後の平和主義へと価値観が激変した時代に多感な時期を過ごした父親に対し、その内面的な葛藤を詳しく聞き出せなかったことに深い悔恨の念を抱いています。思想家・吉本隆明の理論には傾倒しながらも、身近な親が抱えていたであろう歴史的矛盾を看過していたことに気づき、それが戦後リベラリズムの脆さへの考察へと繋がっています。最終的に、国家と個人のあり方を問い直しつつ、語られぬまま失われた父の真実の記憶を惜しむ、内省的で重厚な内容となっています。
No matches for "" in this podcast's transcripts.
No topics indexed yet for this podcast.
Loading reviews...
ABOUT THIS SHOW
2000年から書き続けているプログ記事(一部は2009年から始めたFacebookの記事)、あるいは、拙著『書物の時間』(1989年)、『『努力する人間になってはいけない』(2013年)、『シラバス論』(2019年)の一部をGoogleの「音声概要」による解説会話で再編したもの。会話音声上、一部、漢字などが正しく読めていない場合がありますが、お許しください。元記事の再現力は90%くらい。漢字の読み間違いは困りますが、〝理解力〟は〈人間〉よりもまともかもしれません。漢字の読み間違い、内容的な展開などにおいて、うん?と思われた場合などは元記事を参照して下さい。お手数をおかけしますが、よろしくお願いします。※BLOG『芦田の毎日』のアドレスは、https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/ です。
HOSTED BY
Hironao Ashida
CATEGORIES
Loading similar podcasts...