PODCAST · religion
小山ナザレン教会
by 小山ナザレン教会
栃木県小山市にあるキリスト教会です。日曜日の礼拝での説教(聖書のお話)を毎週お届けします。
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世に勝っている?(稲葉基嗣) – ヨハネ 16:25–33
2026年9月20日 三位一体後第16主日説教題:世に勝っている?聖書: ヨハネによる福音書 16:25–33、イザヤ書 30:18–26、詩編 47、ガラテヤの信徒への手紙 6:14–18説教者:稲葉基嗣 -----勝つことを追求し続けるとたくさんの歪みを抱えてしまうでしょう。誰かに勝つことや他の誰かを出し抜くことや、他の誰よりも上に立つことばかり考えることが、常に良いものを私たちの人生やその周囲にもたらすとは限りません。でも、それなのに、私たちの生きるこの世界は戦いを続け、勝利を求めています。イエスさまは、「私は既に世に勝っている」(33節)と語りました。結局イエスさま自身も、私たちのこの世界と同じような価値観の下で、勝利というものを考えていたということなのでしょうか。イエスさまは弟子たちに向かって、「あなた方には世で苦難がある」(33節)と語りかけました。この苦難に対して「勇気を出しなさい」とイエスさまは語っています。つまり苦難の中にあったとしても、その苦難から解放されなかったとしても、その苦難の中において救いがあるということです。イエスさまが、世に対して勝利した方法とは、十字架の上にかかり、命を失うということでした。明らかにそれはイエスさまの勝利とは思えないことです。でもイエスさまは既に世に勝っていると言います。それは、イエスさまのこの十字架上での出来事において、神がすべての人の罪を赦すからです。この世界のあらゆる罪、悪に、神が勝利する手段が、イエスさまの十字架でした。イエスさまがここで語っている「世に勝っている」とは、私たちが想像するような勝利とは絶対的に違います。それは、力による、暴力的な勝利ではありません。イエスさまが勝ったと言っているのは、罪に対してです。罪の支配を終わらせることこそ、イエスさまの語る勝利です。イエスさま自身が傷つきながら、私たちを、そしてこの世界を愛することでした。私たちやこの世界が抱える罪を徹底的に赦すことでした。ですから、私たち自身は、世に勝つ必要などありません。私たちが招かれている世界は、イエスさまから受けた愛をお互いに分かち合っていく世界です。勝利を追い求めて誰かと接するのではなく、神から受けた赦しを喜びながら、お互いに向き合って、手を取り合うことができる世界です。イエスさまが「私はすでに世に勝っている」と語っているように、そのような世界はもう既に始まっています。
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わたしたちの生きる道は(石田学) – ローマ 16:17–24
2026年9月13日 三位一体後第15主日説教題:わたしたちの生きる道は聖書: ローマの信徒への手紙 16:17–24、ホセア書 14:5–9、詩編 111、マルコによる福音書 10:13–16説教者:石田学 -----ローマの信徒への手紙は、パウロ書簡の中でもっとも長い手紙です。皆さんは、この手紙を読むのにどれくらい時間がかかると思いますか。一人で声を出して読むと、およそ70分です。パウロの使者としてローマに行ったフェベはこの手紙を朗読しました。一気に読むのは大変だったでしょうが、聞く方も大変だったはずです。そんな長い手紙は、最後の部分だけしか覚えていないものです。だから大抵は、意識して最後にもっとも重要な要点を書きました。ローマ書の場合、その最後の重要な要点が、きょうの聖書箇所です。ここからローマ書でパウロがもっとも伝えたかったことがわかります。「分裂やつまずきを引き起こす人たち」とパウロが呼ぶ、パウロの福音とは違うことを教えて教会を分断する敵がいたのです。彼らを警戒し遠ざかりなさいと勧めることがパウロの目的でした。まさにこのことのために、パウロはローマ書全体を書いたとさえ言えます。ローマの信徒が彼らに惑わされないために、パウロは言葉を尽くして、福音を解き明かし、教会とは何かを教え、信仰者の生き方を示しました。そしてパウロは、手紙の最後にこの警告を結論として書いたのでした。しかし、警戒し遠ざかれと言われても簡単ではありません。相手は羊の皮を被った狼のように、巧妙で説得力に長けているからです。各地を旅しているパウロに逐一質問することはできません。優れた教師や指導者が正解を与えてくれることも期待できません。なんでも教えてくれるガイドブックや教本があるわけではありません。キリストを信じるということは、主に従う道を歩むということです。キリスト者として生きる道は、目指す目的の地は皆同じですが、一人一人異なる生涯であるからには、歩む道のりもそれぞれです。みんなに使える手軽な回答集や「あんちょこ」などはありません。必要なのは、信仰者として生きる道を歩むための、大原則です。パウロはすべての信仰者に共通するその大原則を示すのです。「善にはさとく、悪には疎くあることを望みます」と。簡単ではありません、自ら考えて判断することが求められますから。しかし、全部自己責任でも有無を言わせぬ隷属でもありません。神の知恵であるキリストの愛と慈しみを善の基準とすることと、悪に慣れたり馴染んだりしないでキリストと歩むこと。この大原則をパウロは、「私は命じる」ではなく「望みます」と告げます。わたしたちはキリストにあって自由と尊厳を与えられているからです。
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誰にも奪えない喜び(稲葉基嗣) – ヨハネ 16:16–24
2026年9月6日 三位一体後第14主日説教題:誰にも奪えない喜び聖書: ヨハネによる福音書 16:16–24、ヨブ記 1:1–22、詩編 16、フィリピの信徒への手紙 4:4–7説教者:稲葉基嗣 -----私たちは人生のさまざまな場面で喜ばしい経験をします。でも、その喜びが決して永遠には続かないことを、どこかでわかっています。主イエスは「その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」と言います(22節)。誰も奪うことができない喜びなど、あるのでしょうか?今日、私たちは旧約聖書からヨブ記を読みました。ヨブは一度にたくさんの財産を失い、大切な家族の命を失いました。このようなヨブの姿を見つめるとき、私たちは人生の不条理さを覚えます。イエスさまが語っている、誰にも奪われない喜びがあるなんて信じられません。それよりも、ヨブが経験した出来事の方が、はるかに私たちにとっては現実的なもののように感じてしまいます。もちろん、イエスさまは、私たちが人生を通じて経験する、そういった悲しみや苦しみに対して、鈍感で、無関心であったわけではありません。なぜイエスさまは喜びを奪い去る者はいないなどと語ったのでしょうか?「しばらくすると、あなたがたはもう私を見なくなる。」(16節)この言葉は、イエスさまが十字架刑へと、自らの死へと向かっていくその瞬間のことを伝えたものでした。でも、イエスさまはもう一度、「しばらくすると」と伝えます。それはイエスさまが弟子たちと再会できることを伝えた言葉でした。死者の中からよみがえりイエスさまは弟子たちと再び会いました。この復活の後の再会を見越して、イエスさまは弟子たちに伝えたのです。この喜びを誰も奪うことができないと。復活した主イエスとの出会いは、なぜ誰にも奪えない喜びをもたらすのでしょうか。それは何よりも、死が最終的な勝利者ではないことを弟子たちに、そしてすべての人に伝えるものでした。死の後に、復活の望みがあり、天の国において愛する仲間たち、家族や友人たちと再会する希望があると、イエスさまは伝えています。私たちが経験する悲しみや苦しみは変わらないかもしれません。でも、それでも、私たちには揺るがない望みがあります。消えない希望があります。主イエスにあって、明らかになった復活の命があります。復活の主であるイエスさまが私たちと共にいてくださる。主イエスにあって結ばれた教会に集う仲間たちと、喜びの時も、苦しみの時も、哀しみの時も、一緒に歩み、様々な時を乗り越えていきます。これこそ、私たちにとって、誰も否定できない、誰も奪うことができない喜びです。この喜びを心に抱き、天の御国へと向かう信仰の旅を一緒に続けていきましょう。
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なぜ私たちに聖霊が与えられたのか?(稲葉基嗣) – ヨハネ 16:4b–15
2026年8月30日 三位一体後第13主日説教題:なぜ私たちに聖霊が与えられたのか?聖書: ヨハネによる福音書 16:4b–15、イザヤ書 48:12–16、詩編 95、ローマの信徒への手紙 8:26–27説教者:稲葉基嗣 -----聖書を読んでいると、時々、矛盾したことを発見することがあります。ヨハネ福音書の中に収められているイエスさまの言葉には、まさに矛盾があります。イエスさまは何度も弟子たちからどこへ行くのかと尋ねられていました。自分の死をほのめかしながら、自分は神のもとへ行く。だから、弟子たちと一緒にいることはできないと、イエスさまは何度も伝えました。それなのに、なぜイエスさまは「あなたがたのうち誰も、『どこへ行くのか』と尋ねる者はいない」(5節)と語ったのでしょうか。イエスさまが去ることについて、イエスさまに問いかけたときの弟子たちの大きな関心は、イエスさまがいなくなった後、自分たちはどうなってしまうのか、ということにありました。その際、不安を抱え、心を騒がせる弟子たちをイエスさまは励ましました。その意味で彼らの質問は、イエスさまのことをあまり考えていないものでした。だから、イエスさまは、これまで弟子たちから何度もどこへ行くのかと尋ねられていても、「どこへ行くのか」と尋ねる者はいないと言ったのでしょう。そもそもなぜイエスさまが離れていく理由を語る必要があったのでしょうか。イエスさまが去っていくことは、イエスさまの使命に反するように思えるためです。イエスさまが弟子たちのもとを去る理由は、彼らに聖霊を与えるためです。肉体を持ったイエスさまは、すべての人と一緒にいることができません。だから、イエスさまは天に昇り、すべての信仰者のもとに聖霊を送り、聖霊によって結ばれることによって、すべての人と共にいることを望みました。聖霊なる神は、イエスさまの言葉が今を生きる私たちにとって、どのような意味があるのかを私たちに示す方です。聖書に書き記された言葉を聖霊が私たちにとって生き生きした、温かな血の通った息づいた言葉へと変えてくださることを願い、私たちは祈り、聖書の言葉にいつも耳を傾けています。変わりゆく社会、文化、人々の生活に常に神が語りかけ、共に生きるために、私たちには助けが必要です。出会ったこともない新しい問題に頭を抱え、これからどうするべきなのかと、私たちは何度も悩みます。そんな私たちと一緒に聖霊もうめき声をあげ、神に祈りの声を上げながら、一緒に歩むべき道を模索してくださっています。聖霊が伴い、私たちとイエスさまを結びつけてくださいます。どうか聖霊を通して語りかけられる神の言葉にいつも耳を傾け、これからも信仰の旅路を続けていくことができますように。
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教会、それは友の交わり(石田学) – ローマ 16:6–16
2026年8月23日 三位一体後第12主日説教題:教会、それは友の交わり聖書: ローマの信徒への手紙 16:6–16、イザヤ書 52:7–10、詩編 84、ヨハネによる福音書 15:13–15説教者:石田学 -----聖書は、実に多彩な言い方で教会の交わりを表現しています。兄弟姉妹、キリストの肢体、神の民、神の家族、牧場の羊の群れ、仲間、友、天に国籍を持つ同国人、世を旅する民、聖徒・・。聖書には、なぜこれほど多様な表現が出てくるのでしょうか。それは神の民である教会の交わりがあまりに豊かで包括的なので、いくつかの言い方だけで語り尽くすことができないからです。これだけ豊かな言い方で互いの交わりを体験できる共同体は、この世のどこにも、他には存在していません。どの言葉も教会の交わりの本質を言い表しています。しかし、中でも「友」という言い方は特別です。主イエスご自身が弟子たちを友と呼ばれたからです。「あなたがたは私の友である」「私はあなたがたを友と呼んだ」。この言葉は主イエスと弟子の関係だけでなく、弟子たち同士の関係でも同じであるはずです。誰が偉いか、誰がイエス様の隣にすわるか、誰が支配者か、そんな上下や比較とは無縁の、対等で慈しみあう関係が友です。そしてこの関係性こそ、最初から最後まで教会の本質です。教会とは、主イエスの友とされた者たちの交わりだからです。パウロは、そのような友の交わりを生きる人々の名を挙げたのです。さて、教会の歴史の中でその業績と名声が燦然と輝くパウロですが、彼の生涯は最初から最後まで、苦難と危機、挫折と苦悩の連続でした。パウロの福音を否定する人々の陰謀や迫害に苦しめられました。何度も逮捕され、4年以上投獄され、最後にローマで処刑されました。失意、落胆、敗北、囚人、それがパウロの晩年を特徴づけています。人間的にはパウロの生涯は不幸であり敗北者のように見えます。しかし、それではパウロは孤独で不幸だったのでしょうか。ローマ書の挨拶は、パウロが得ていた教会の交わりを証言しています。愛し愛され、祈り祈られ、支え支えられる友の名を列挙するのです。命の危険を感じる困難の中で、パウロは彼らとの交わりを想起します。ただ祈ってほしいと願うだけでなく、困難の中で彼らのために祈るのです。パウロほどでなくとも、いつかわたしたちも困難と苦難の道を歩みます。その時、孤独と失意に終らず、信仰の友との交わりに生き、生かされるか、それがわたしたちの生涯がどのようなものかを結論づけることでしょう。生涯の最後まで友に祈られ、友のために祈る、それがわたしの願いです。
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対立や敵意とどのように向き合えば良いのか?(稲葉基嗣) – ヨハネ 15:18–16:4a
2026年8月16日 三位一体後第11主日説教題:対立や敵意とどのように向き合えば良いのか?聖書: ヨハネによる福音書 15:18–16:4a、ネヘミヤ記 9:26–31、詩編 46、エフェソの信徒への手紙 2:14–16説教者:稲葉基嗣 -----ヨハネによる福音書にとって、「世」というものはいつも弟子たちに対して好意的なわけではなく、むしろ、敵意をもって弟子たちを見つめています。イエスさまを信じているがゆえに、世が弟子たちに敵対的になってしまうのです。一体なぜ世は、イエスさまの弟子たちに対立し、敵意を持つのでしょうか。そもそもイエスさまこそが、まず世から憎まれ、敵意を向けられました。それは、イエスさまが弱く、力がなく、社会の中で蔑まれていた人たちに手を差し伸べたことが、疎ましく感じられたからです。権力や暴力によってではなく、ただ弱さによって平和を作ろうとしたからです。このようなイエスさまを信じ、イエスさまのように生きたいと願うならば、イエスさまと同様にこの世界から敵意や反感を買うことになるのは当然でした。しかし、たとえどんなに周りの人たちが自分たちに対して敵対的であったとしても、イエスさまはそのことを前もって知って、励ましてくださいました。聖霊にあってイエスさまが共にいて、愛や憐れみをいつも証言してくださる、と。ところが、世が弟子たちに対して敵対してくることをこの福音書において読む時、私たちは時々、この世界がいつも私たちに敵意を抱き、対立的に思えてしまうという思い違いをしてしまいます。それゆえに、私たちの側がこの世界に対して対立的になってしまうことがあります。時には、この世界から自ら進んで遠ざかってしまうことがあります。また、イエスさまの言葉が示すように(16:2)、自分たちの持っている暴力的な面や現実の対立関係を信仰によって正当化してしまうことは十分に起こり得ます。でも本来そのような対立は、そもそもイエスさまが願っていたことではありません。何よりも、イエスさまはこの世界を愛したから、この世界に来てくださいました。世界が私たちに敵対的に見える時、そこに敵意を感じる時、それは明らかにこの世界が抱える課題なのでしょう。それをイエスさまと共に見つめるならば、私たちがすべきことは明らかに、同じように敵意を抱いて、対立を生み出すことではありません。私たちはこの世界が抱える課題が、解決されていくことを神に祈り求めます。イエスさまは、敵意を向けられても、愛と憐れみをもって最後まで関わりました。同じように、対立や敵意と向き合う時、私たちの心を支配するのは、主イエスにある愛や憐れみです。
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約束の虹を共に見つめる(稲葉基嗣) – 創世記 9:8–17
2026年8月14日 平和の祈り説教題:約束の虹を共に見つめる聖書: 創世記 9:8–17説教者:稲葉基嗣
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ぶどうの木につながり、実を結ぶ(稲葉基嗣) – ヨハネ 15:1–17
2026年8月9日 三位一体後第10主日説教題:ぶどうの木につながり、実を結ぶ聖書: ヨハネによる福音書 15:1–17、エゼキエル書 15:1–6、詩編 133、ガラテヤの信徒への手紙 5:22–23説教者:稲葉基嗣 -----イエスさまは、「私はまことのぶどうの木」と言い、弟子たちのことをぶどうの木の枝と表現しました。イエスさまはこの時、自分と弟子たちとの関係性、そして自分と私たちとの関係性こそが大切だと伝えました。イエスさまが望んだのは、ぶどうの木と枝がつながり続けているように、親密な関係を弟子たちとの間に築き続けることです。イエスさまは、弟子たちの友となり、私たちの友となってくださいました。イエスさまはこのぶどうの木とその枝のイメージを用いて私たちに伝えています。それはぶどうの木であるイエスさまにつながっている私たちが、実を結ぶことです。友であるイエスさまとの関わりの中で、良い実が私たちの中で育まれていきます。友として共に生き、豊かな交わりを持つことを通して、イエスさまは私たちを養い、豊かな命に溢れた歩みへと招き入れてくださっているのです。イエスさまの私たちに対する友としての関わりは、ご自分の命を投げ出すほどのものでした。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と語り、ご自分がこれから歩もうとしている道について、弟子たちにほのめかしました。自分の命を最後まで守り抜くことよりも、私たちを最後まで愛し抜くことをイエスさまは選んでくださいました。その愛を受けた私たちもまた、誰かのために自分を用いて生きるよう招かれています。ぶどうの木であるイエスさまのうちに留まり、イエスさまと共に生きていくとき、私たちはイエスさまを通して、神の愛を受けます。神の憐れみを受け、平和の思いを与えられます。そういったものが私たちのうちに実を結んでいきます。その実は、自分のためだけに結ばれるものではありません。実というものは誰かを養うため、誰かの命を生かすためにあります。私たちは誰もが違う存在ですから、それぞれが結ぶ実は様々な形をしています。神はそれを喜んで、見つめて、「互いに愛し合いなさい」と語りかけてくださいます。自分だからこそ持っている実を携えて、私たちはこの世界へと出て行きます。そんな風に、枝である私たちが実を携えて出て行くことを通して、神の愛や憐れみは、この世界へと広がっていきます。
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主イエスは平和を残す(稲葉基嗣) – ヨハネ 14:25–31
2026年8月2日 三位一体後第9主日説教題:主イエスは平和を残す聖書: ヨハネによる福音書 14:25–31、ゼカリヤ書 8:16–19、詩編 29、コロサイの信徒への手紙 3:15説教者:稲葉基嗣 -----平和とは何なのでしょうか。誰もが、戦争や紛争のない、虐殺や報復攻撃、威嚇や裏切りのない、静けさのある、平穏な世界を求めています。もちろん、戦争がなければ、平和というわけではありません。平穏で静かな日々が広がっているように見えても、いつもそこにすべての人にとっての平和があるわけではないのです。そのようなことを思い巡らしながら、きょうの福音書の物語に目を向けてみると、イエスさまのある言葉が目に留まります。私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。(27節)イエスさまは平和を残すと言って、弟子たちの手に平和を委ねていきました。誰かの圧倒的な力、権力によって、実現されるものがイエスさまの目指す平和ではありませんでした。暴力による支配は、平和を作り出すように見えます。対立する意見を潰すからです。でも、そのような平和をイエスさまは良しとしませんでした。イエスさまのやり方は、平和を残していくことです。弟子たち自身が、自分の身近なところで、お互いに愛を示しあって、平和を形作っていく。力によってではなく、ただ、愛と憐れみによって、平和をこの世界で形作っていく。それこそが、イエスさまが平和を残すと言われた意味でした。平和が世界に静けさや平穏が広がることかというと、それは何だか違う気がします。むしろ、平和って、生き生きとして活気づいて、騒がしいものです。誰もが声を上げることができるなら、一人ひとりの言葉や存在が尊ばれるなら、平和って賑やかで、騒がしいものです。騒音や悲鳴や泣き叫ぶ声ではなく、罵倒する声や嘲る声でもなく、ただ喜びに溢れた笑い声が響く。そんな騒がしさが私たちの周りから広がっていきますように。イエスさまが平和を残し、平和に生きることを託した場所は、何よりも教会という主イエスによって結ばれた信仰者の群れにおいてです。どうか、この平和を私たちが携えて生きることを通して、少しずつこの世界にキリストの平和が広がっていきますように。
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キリスト者は一人で荒野を行くか(石田学) – ローマ 16:1–5
2026年7月26日 三位一体後第8主日説教題:キリスト者は一人で荒野を行くか聖書: ローマの信徒への手紙 16:1–5、ゼカリヤ書 9:9–10、詩編 47、ルカによる福音書 17:20–21説教者:石田学 -----キリスト教信仰には、古代から二つの大きな流れがありました。主イエスの弟子たちは共に主に従い、共に主の群れとして生きました。他方、世と人を離れ、神との関係だけを生きようとする人たちがいました。どちらか一方だけが正しいのではなく両方ともが大切で必要なのでしょう。しかし、日本の教会は長く、「わたしと神」の関係を強調してきました。一人で聖書を読み、祈る孤独な信仰は、あたかも一人で荒野を行くようです。だが、主イエスは最初から弟子を集め、共に生き共に旅しました。二、三世紀に孤独な隠修士が大勢出ましたが、すぐ修道院へと発展しました。弟子たちの群れは最初から、共に荒野を行くことが本質だったからです。きょうの聖書箇所に、フェベ、プリスカとアキラ、エパイネトが登場します。パウロは彼らのことをとても愛情溢れる仕方で紹介しています。フェベはパウロが滞在していた、コリントの隣町ケンクレアイの聖職者です。フェベは、パウロの手紙をローマに携えていく使者に選ばれました。彼女は「姉妹」「多くの人の援助者、特にわたしの援助者」と紹介されています。プリスカとアキラは、コリントでパウロと出会い、同労者となりました。パウロは彼らを「命がけでわたしを守ってくれたこの二人」と呼びます。エパイネトは「わたしの愛する、アジア州の初穂」と呼ばれています。パウロが教会でどのような交わりを持っていたかがよくわかります。彼らのような仲間なしには、パウロは働きを続けられなかったはずです。多くの試練、迫害、落胆に満ちた荒野の旅は、一人旅ではありませんでした。パウロはこの交わりに支えられ、彼らに絶大な信頼と喜びを抱いてきました。神の民とされ、神の家族とされた、共に荒野を行く兄弟姉妹がいる。支え合い、喜びと悲しみを分かち、共に祈り、共に礼拝する神の家族がある。その交わりがあればこそ、パウロは荒野の旅を続けることができました。もちろんパウロは、教会の仲間たちに過ちや欠点がないとは思っていません。意見の対立や感情的な衝突、考えの相違があったことは手紙から明らかです。だが、それらを超える霊的な交わり、天の国籍を持つ仲間でした。改めて問います、キリスト者は一人で荒野を行くのでしょうか。いいえ、わたしたちにとっても教会はまったく同じ意味を持っています。主キリストと共に生き、慈しみと愛を分かち、共に荒野を行く仲間がいます。目指すは同じ天の故郷、その幸いをわたしは今、ここで実感しています。
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誰ひとり孤児としない(稲葉基嗣) – ヨハネ 14:15–24
2026年7月19日 三位一体後第7主日説教題:誰ひとり孤児としない聖書: ヨハネによる福音書 14:15–24、申命記 24:17–22、詩編 146、ヤコブの手紙 1:22–27説教者:稲葉基嗣 -----イエスさまが弟子たちのもとから離れたとき、弟子たちが途方に暮れないように、イエスさまは弟子たちに心の準備をさせたいと願って、彼らに語りかけました。「私は、あなたがたをみなしご(孤児)にはしておかない。」(18節)孤児という言葉には、旧約聖書からの影響を感じさせられます。古代イスラエルの社会において、孤児は、助け、導き、保護、安全、そして共同体などをすべて失ってしまいます。イエスさまがいなくなることによって、弟子たちはそのような絶望的な状況に置かれる可能性が十分にありました。だから、イエスさまは「あなたがたをみなしごにはしておかない」と約束しました。イエスさまは、弟子たちを孤児としないと伝えた直前に、もう一人の弁護者を神が遣わすと約束されました。その約束された弁護者とは、聖霊である神のことです。弁護者と訳されているギリシア語の単語はもともと、「助けのために、傍らに呼び寄せられた者」という意味を持つ単語です。聖霊は、私たちの傍らにあって、困難の時に私たちを助け、悲しみの時に私たちを慰め、いつも人格的な支えとなってくださる存在です。聖霊がともにあるから、私たちはいつも、イエスさまと共にいることができます。その意味で、私たちは決して孤児とされていません。イエスさまは、弟子たちに聖霊を与えると伝えたあと、イエスさまが与える戒めを受け入れ、守ることの大切さを伝えています。その戒めとは、イエスさまが愛したように、お互いに愛し合うというものです。イエスさまは、私たちを教会の交わりへと招いておられます。私たちは、教会の交わりを通して、お互いに助けと慰めを受け取ります。実際に助けを受け取れる、支えられ、慰めを受け取ることができる教会の交わりへと弟子たちを、そして、私たちを招かれました。そうすることによって、文字通り、決して孤児とはしない。そのようなイエスさまの意志が教会において表されているのです。世界を見渡す時、様々な形で孤児とされている人がいることを見聞きします。イエスさまが願ったように、誰ひとり孤児としたくないと願っているからです。教会が、助けを失った人の居場所となり、悲しむ人の慰めとなり、孤独な人の家族となっていくとき、この約束は今もこの世界で生き続けます。誰ひとり孤児としない。主イエスの思いを私たちも一緒に携えて、信仰の旅路を歩んで行きましょう。
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なぜ主イエスの名によって祈るのか?(稲葉基嗣) – ヨハネ 14:8–14
2026年7月12日 三位一体後第6主日説教題:なぜ主イエスの名によって祈るのか?聖書: ヨハネによる福音書 14:8–14、出エジプト記 34:1–9、詩編 116、ヘブライ人への手紙 12:1–3説教者:稲葉基嗣-----物事には形式や、ある程度決まった型というものがあります。手紙などの書き方を教えてくれるため、形式や型は、私たちの支えになります。今日開いたイエスさまの言葉は、私たちの祈りに影響を与えている言葉です。私たちは、「主イエスのみ名によって祈ります。アーメン」と言って、祈りを終えます。これはまさに、繰り返し用いられている祈りの型といえるものです。イエスさまの名で祈ることは、イエスさまのことを思い起こすことです。イエスさまは何を行い、何を願っているのでしょうか。イエスさまの名で祈ることは、イエスさまと私たちの思いを重ね合わせ、イエスさまの願いや目的へと私たちが引き込まれていくようなものです。でも、そう考えると、イエスさまの言葉に、違和感を覚えるかもしれません。イエスさまが「願うことは何事でも、私がかなえてあげよう」と語っているからです。それは何だか、私たちの願いをかなえることを保証するために、イエスさまの名前を使って祈ることをイエスさまが励ましているかのようです。それって、まさに自分勝手な祈りなのではないでしょうか。「私がかなえてあげよう」と訳されている言葉は、直訳すると「私は行う」です。私たちが願った通りのことを機械的にイエスさまがしてくれるわけではありません。私たちが主イエスの名によって願うならば、イエスさまは能動的に行動されます。イエスさまの名によって祈る私たち自身は、イエスさまの思いと心を重ね合わせるようにと導かれていきます。イエスさまはここで、イエスさまの名によって神に向かって祈る私たちと共にいて、私たちと共に行動すると伝えようとしているのです。そう考えると、主イエスの名によって祈ることは、私たちの願いを押し通すこととは正反対のことです。神に私たちの願いを伝えながらも、神のもとに私たちの願いを手放していくことだからです。それは、自分の感情や思いを押し殺すこととは違います。自分の願いにただただ固執することをやめて、イエスさまと一緒に歩むべき道を模索していくことです。私たちが生きる世界は願いと願いがぶつかり合い、溝が深まり、争いがあります。そのような世界で生きているからこそ、主イエスによって呼び集められた教会という共同体は、主イエスの名によって祈り続けます。自分自身の願いを一度、神に預けます。自分の願いを押し通すためではなく、主イエスが示される道を共に歩むためです。
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安心して従う生き方(稲葉奈々) – 創世記 24:42–49
2026年7月5日 三位一体後第5主日説教題:安心して従う生き方聖書: 創世記 24:42–49、マタイによる福音書 11:25–30、詩編 145、ローマの信徒への手紙 7:15–25説教者:稲葉奈々(日本ナザレン神学校 3年生)-----「神に従う生き方」とは、一体どのようなものなのでしょうか。今日の聖書箇所に登場するアブラハムの年老いた僕は、主人の息子イサクの結婚相手を探すという大役を任されました。彼は主人から絶大な信頼を得ていましたが、自分の経験や判断に頼ることなく、まず神に祈り、判断を神に委ねました。彼は「自分の持っている全ては、神の与えるもの以上に良いことはありえない」という神への信頼とへりくだりをもって行動しました。また、リベカの家族に対して「そうでなければ、そうでないとおっしゃってください。それによって私はどうするか、決めなければなりません」と語り、自分の確信を神の意思だと過信しない謙虚さと柔軟さを示しました。祈れば必ず思い通りの結果になるわけではありません。祈りは、神からの見返りを保証するものではないからです。だからこそ、僕のように、神への心からの信頼と、目の前の出来事に対する柔軟さの両方を忘れないことが大切ではないでしょうか。リベカもまた、突然の縁談という状況に置かれましたが、彼女は自ら水を汲み、らくだにも水を与え、与えられた出来事に能動的に応答しました。彼女もまた、「神から与えられるものすべては良いものである」という信頼をもって行動していたのです。登場人物一人ひとりの決断と行動の根底には神への絶対的な信頼がありました。私たちも人生の中で重荷や理不尽に直面しますが、神から与えられる良きものに全信頼を置く生き方を選ぶことができます。私たちは、自分の人生という個別の物語を生きているように見えますが、実際には一人ひとりの物語がかけ合わさって、この世界が形づくられています。絶望の物語の中に生きている人が溢れる世界の中で、教会に集う私たちは用いられようとしています。神の配慮のもとに集められた私たちが、安心して生き、お互いを思いやって行動する姿を通して、この世界に神をあらわしていくよう招かれています。主に従う生き方とは、この世界の現実を変える力を持った生き方です。その確信を握り、喜びと希望を携えて歩んでいきましょう。
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今ここに訪れた命(稲葉基嗣) – ヨハネ 14:1–7
2026年6月28日 三位一体後第4主日説教題:今ここに訪れた命聖書: ヨハネによる福音書 14:1–7、イザヤ書 58:6–11、詩編 146、コリントの信徒への手紙 一 1:8–9説教者:稲葉基嗣 -----ヨハネによる福音書にとって、永遠の命とは何よりも、神との豊かな交わりです。このような神との交わりは、完全なものではないかもしれないけど、今、この時、この場所で、もう既に味わい、体験できるものです。というのも、イエスさまが私たちに命をもたらし、神と私たちを今、ここで、結びつけてくださっているからです。イエスさまの側から歩み寄り、神と私たちを結びつける道をイエスさまが作り出してくださいました。その道は、私たちのもとに今、ここに、この場所に、神と共にある、豊かな命が訪れていることを伝える道です。多くの場合、私たちは命を受け取るよりも、命をすり減らす気持ちを味わいます。私たちの生きる世界はまさに、命が訪れたことを実感するよりも、命が傷つき、踏みにじられ、奪われることの方が遥かに多く感じてしまう世界だと言えます。でも、その一方で、どれだけ立ち止まっても、私たちの命が回復しないと実感することだってあります。というのも、私たち人間が抱える罪や悪によって、社会の構造によって、私たちは命が傷つき、損なわれてしまっているからです。だから、ヨハネは、イエスさまを見つめるようにと私たちに促しています。そう、イエスさまが命そのものとして私たちのもとに来てくださいました。それは、人生において、この社会において、そしてこの世界において、命が傷つき、損なわれ、踏みにじられてばかりいる私たちにとって大きな希望です。キリストによって、今、私たちの傷ついている命が回復されるというのですから。命であるキリストよって、永遠の命を確かに得るというのですから。イエスさまは私たちが神から与えられた生命を分かち合うことを望んでいます。そして、何よりも、私たちに出来るのは、共に生きることです。見放したり、無視したりするのではなく、共に生きる道を選んでいくことです。そのようにして、イエスさまを通して、私たちのもとに訪れた命を私たちは、私たち自身を通して、他の誰かと共に分かち合うことができます。もちろん、それが難しい時だってあります。そんな時には、どうか教会の交わりに頼ってください。神が備えてくださった、命にあふれる交わりがここにあるのですから。神と共にある永遠の命はイエスさまを通して私たちのもとに訪れています。そして、教会の交わりを通して、この命が訪れることを心から実感し、喜ぶことができるのです。
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正解探しではない旅への招き(稲葉基嗣) – ヨハネ 14:1–7
2026年6月21日 三位一体後第3主日説教題:正解探しではない旅への招き聖書: ヨハネによる福音書 14:1–7、ミカ書 7:18–20、詩編 91、テモテへの手紙 二 2:11–13説教者:稲葉基嗣 -----人生の中で正解だけを模索することって、とてもシンドイことだと思います。正解だけしか許されないならば、間違えが怖くて、他のことを楽しむ余裕などなくなってしまいます。けれども、イエスさまがここで語った「真理」という言葉は、そのような窮屈さを伝える言葉ではありませんでした。旧約聖書において、真理とは、神の誠実さを指すものです。神はどんな時でも彼らに与えた約束や契約に、誠実であり続けました。たとえ人間の側から裏切られることがあっても、すべての人を救いたいという、神の願いとその熱意は変わりませんでした。そもそも、この言葉を聞く私たちの側は、何度も過ちを繰り返します。けれども、神はそんな私たちを決して見捨てません。これこそが、イエスさまが提示する真理です。決して、正解のみを突きつけることとは違います。私たちが招かれている旅は、神の誠実さと出会う旅です。それは、私たちが何者であるのかを問いません。私たちが何か良いことをしたわけでもなく、私たちが正解を選び取ったからでもありません。神が私たちを愛し、憐れんでくださったからです。私たちの人生には正解がない選択肢の方が多いのかもしれません。でも、イエスさまは正解を常に選べとは言いません。イエスさまが私たちに伝えてくださっていることは、神が約束に忠実な方であるということです。どのような道を私たちが選んでも、神が共にいてくださいます。何度失敗し、何度挫折しようとも、神は私たちを決して見捨てません。私たちの旅路を支えるのは、私たちの決断の正確さではありません。どのような時も、神が共にいてくださることこそ、私たちの支えです。神の誠実さに触れ、愛を示された私たちは、同じように、誠実さを、共に生きる人たちにも向けることができるはずです。お互いに、正解や間違い探しをする必要はありません。そうではなく、どのような時においても、神が共にいてくださっていることを私たちはお互いに思い起こし合います。そして、必要ならば手を取り合い、支え合いながら、私たちは信仰の旅路をこれからも共に歩んで行きましょう。
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主イエスはどのような意味で道なのか?(稲葉基嗣) – ヨハネ 14:1–7
2026年6月14日 三位一体後第2主日説教題:主イエスはどのような意味で道なのか?聖書: ヨハネによる福音書 14:1–7、イザヤ書 43:16–21、詩編 1、ヨハネの手紙 一 5:6–12説教者:稲葉基嗣 -----目的地へと向かう道筋を思い浮かべながら、私たちは道という言葉を使います。どんな人生を歩むのかもまた、道という言葉を聞く時、私たちが思い浮かべることのひとつかもしれません。イエスさまは弟子のひとりである、トマスから道を尋ねられています。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうして、その道が分かるでしょう。」(5節)このトマスの問いかけは、神のもとへと向かうことが自分たちには可能なのかという問いかけといえます。どのようにしたら、神のもとにたどり着くのか。どうすれば、神は自分を受け入れてくれるのかという問いかけともいえます。ある人は考えます。何の罪も、悪も抱えていない。そんな純粋で、無垢で、心が清い人だけが神のもとにたどり着ける、と。でも、そんな人はどこにもいません。私たちは誰もが等しく、過ちを犯します。常に正しく人生の旅路を歩めるわけでもありません。そんなトマスの言葉に対するイエスさまの回答はどのようなものだったでしょうか。「私は道であり、真理であり、命である」(6節)。イエスさまは、むしろ、私たちのもとに来て、私たちと共に生きることを選んでくださった方です。それは何よりも、私たちの側が何とかして神に会いに行くのではなく、神の側から私たちのもとに来てくださったことも意味します。イエスさまは、「私が道である」と言います。それは、あなたがあなた自身の道にならなくてもよい、ということです。「あなたが自分の人生に、すべての責任をもって、最初から最後まですべてのことを決める。それだけがすべてじゃないんじゃない?」イエスさまは言います。「だから、私が来たんだ」と。「私があなたの道となる。あなたの人生のすべてを引き受ける。」悩み、不安を抱えながら、先の見えない道を歩く私たちの人生の旅路に、神がいつまでも伴うために、イエスさまの方から、神の方から来てくださいました。イエスさまが私たちの道である方法は、私たちが悩みながら、苦しみ、時には悶えながら歩いている道を一緒に悩みながら、生涯の終わりに至るまで歩いてくださることです。道である主イエスを一緒に見つめながら、助け合い、支え合いながら、私たちは生涯の旅路を天の御国を目指して歩んでいきます。
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主イエスが用意する居場所(稲葉基嗣) – ヨハネ 14:1–4
2026年6月7日 三位一体後第1主日説教題:主イエスが用意する居場所聖書: ヨハネによる福音書 14:1–4、出エジプト記 25:1–9、詩編 23、エフェソの信徒への手紙 2:19–22説教者:稲葉基嗣 -----イエスさまは「私の父の家には住まいがたくさんある」(2節)と語りかけています。まるで、天の国に私たちの居場所が確実にあることを保証しているかのようです。けれども、イエスさまが私たちに保証する居場所って、天の国だけなのでしょうか。イエスさまは、弟子たちに向かって「心を騒がせてはならない」と言いました。ユダヤ社会でも、ユダヤ社会の外でも自分たちの居場所を見出すことができない。それはまさに、キリストを信じる人々が直面した、心騒がせる出来事でした。けれども、イエスさまが何よりもこの時に弟子たちに伝えたかったのは、この地上において、彼らに居場所があるということです。イエスさまは、自分こそが神殿だと人々に伝えました(ヨハネ2章13-22節参照)。特定の場所ではなく、イエスさまと出会うところにおいて、誰もが神と出会い、居場所を得ると、イエスさまは伝えようとしています。イエスさまのもとに集められた人たちが出会い、関係性を築き、居場所を作っていくのです。私たちはそのようにして築かれた共同体を教会と呼びます。主イエスにあって集う愛する友たちがいる。だから、孤独ではない。居場所はある。神が与え、イエスさまが招いてくださったこの居場所は、誰もあなたから奪えない。イエスさまを中心にして集まった、神の愛と憐れみに基づき、平和のうちに生きようとする交わりがもうそこにあるからです。居場所を用意すると約束する前から、イエスさまは居場所を作ろうとする方でした。社会の中で嫌われている人たちこそ食卓に招き、彼らに居場所を提供しました。「ここにいていいんだよ」と、イエスさまが行動を通して、色々な人に示したように、誰もが条件なく、いることができるのが教会です。神が壁を作り出すことを願わず、イエスさまが壁を乗り越えていこうとしたように、お互いの間に不必要な壁を出来る限り作らないのが、教会の姿です。私たち自身がイエスさまから受け入れられ、神から居場所を与えられていることを思い起こし続ける必要があるのでしょう。神の側がまず初めに、イエスさまを通して、私たちを救い出し、居場所をそして教会の交わりを与えてくださったのです。私たちを受け止めてくださる主イエスの愛に押し出されて、多くの人を受け止められる居場所が、教会の歩みや皆さんの日常のあらゆる営みを通して、少しずつ広がっていきますように。イエスさまが用意してくださっている居場所を届けるために、私たちに出来ることを積み重ねていくことが出来ますように。
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簡単に命を捨てるな(稲葉基嗣) – ヨハネ 13:36–38
2026年5月31日 三位一体の主日説教題:簡単に命を捨てるな聖書: ヨハネによる福音書 13:36–38、エゼキエル書 18:30–32、詩編 56、ローマの信徒への手紙 14:7–9説教者:稲葉基嗣 -----ペトロはイエスさまに、「どこへ行かれるのですか」と尋ねました。この時のペトロの一番の関心は、イエスさまが一体どこへ行くのかにありました。彼は「あなたのためなら命を捨てます」と言って、イエスさまにどこまでもついて行けるという意思を伝えました。自分の命を投げ捨ててでも、ペトロはイエスさまの命を救おうとします。自分の命を犠牲にしてでも、イエスさまに従おうとします。それが彼にとってのあるべき弟子としての姿でした。でも、それは本当にイエスさまが弟子たちに求めたことだったのでしょうか。神の子であるイエスさまのうちに命があり、イエスさまを通して、すべての人が命を得ることをヨハネはこの福音書全体を通して伝えています。イエスさまの命を通して、すべてのものが命を得て、生きるために、神は独り子であるイエスさまを私たちのもとに与えてくださったのです。イエスさまのためならば、自分は命を投げ出すことができる。そのように語ったペトロの言葉は、イエスさまの思いとは、正反対のことでした。イエスさまは決してペトロがそのような命の捨て方をすることは望んでいません。イエスさまのために死を選ぶのではなく、イエスさまのために生きることをこそ選んでほしい。命をすり減らして生きるのではなく、その豊かさを味わって喜びのうちに生きてほしい。それこそが、イエスさまの願いでした。イエスさまはペトロに直接的にこのことを伝えませんでした。むしろ、イエスさまは、ペトロがこれから失敗することを伝えます。事実、ペトロはイエスさまを見捨て、自分の弱さと向き合うことになりました。でも、イエスさまはそんなペトロをこそ、受け止めました。自分の命をすり減らした結果、挫折してしまったペトロにこそ、イエスさまは命の豊かさを取り戻して欲しかったと思います。イエスさまが私たちに求めておられるのは、完璧な姿でも、命がけの無理を重ねることでもありません。「簡単に命を捨てるな。わたしがあなたを生かすから、どうか生きてくれ。」これこそが、イエスさまが私たち一人ひとりに向けて語りかけておられることです。どうかイエスさまが与えてくださる命の豊かさにこそ身を委ねて、神に与えられている自分自身の命と、共に生きる人たちの尊い命を喜びのうちに受け止めて、日々歩み続けることができますように。
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互いに愛し合う道の出発点(稲葉基嗣) – ヨハネ 13:31–35
2026年5月24日 聖霊降臨祭説教題:互いに愛し合う道の出発点聖書: ヨハネによる福音書 13:31–35、レビ記 19:9–18、詩編 133、ヨハネの手紙 一 4:7–13説教者:稲葉基嗣 -----イエスさまは、もうすぐ訪れようとしている別れの時に備えて、弟子たちに、しっかりと彼らの心に刻んで欲しいことを語りかけています。イエスさまはご自分の死を予感させた後、「互いに愛し合いなさい」と伝えました。イエスさまの弟子たちはしばしば、誰が自分たちの中で一番偉いのかを論じ合い、競い合っていました(ルカ9:46参照)。また、お互いに対する不信感を抱いていました(ヨハネ13:22)。今、目の前にいて、この食卓を一緒に囲んでいる人たちと互いに愛し合いなさい。一人ひとりを見つめながら、イエスさまはこの言葉を伝えているのです。イエスさまはこの互いに愛し合うことについて、「新しい戒め」と言っています。それは、イエスさまが「私があなたがたを愛したように」と伝えたことにありました。通常、私たちは自分のやり方で愛します。自分の理解の範囲内でしか、目の前にいる人を愛せません。愛する時の基準は、私たち自身のうちにあるため、愛することは難しいのです。だからこそ、イエスさまは私たちの目をイエスさま自身に向けるようにと促します。私たち自身の側に愛の出発点を設定することをイエスさまは願っていません。イエスさまが望むことは、まずイエスさまの言葉や行動を見つめることです。イエスさまがどのように私たちを愛してくださったかを知ることです。そんなイエスさまの愛こそ、私たちがお互いのことを愛する道の出発点です。でも、イエスさまの姿が見えないから、イエスさまのように愛することをあまりにも簡単に忘れてしまいます。そのような私たちのために、イエスさまは、聖霊を与えると約束されました。聖霊こそ、天におられるイエスさまと私たち自身とを結ぶ絆です。聖霊において、イエスさまが今まさに私たちと共にいてくださるから、私たちはお互いに結び合わされ、イエスさまを見つめながら、お互いを愛することができるのです。神が私たちに与えてくださり、私たちとイエスさまを今も結びつけてくださっている聖霊と共に生きることこそ、私たちがお互いに愛し合う道を歩み出す、出発点です。異なる一人ひとりを結び合わせ、争いよりも平和を、憎しみよりも愛を選んでいく。聖霊が伴うみなさんの日々の歩みの中で、そんな希望に溢れた風こそが自由に吹き、この世界においてお互いに愛し合う道を作り出していきますように。
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主イエスがパン切れを与えた理由(稲葉基嗣) – ヨハネ 13:18–30
2026年5月17日 復活節第7主日説教題:主イエスがパン切れを与えた理由聖書: ヨハネによる福音書 13:18–30、ホセア書 11:8–9、詩編 103、エフェソの信徒への手紙 2:4–10説教者:稲葉基嗣 -----きょうの福音書の物語は、イエスさまがユダに「あなたが裏切り者だ」と直接告げている瞬間を伝えているかのようです。イエスさまは、「私がパン切れを浸して与えるのが裏切り者だ」(26節)と語り、イスカリオテのユダに浸したパン切れを手渡しました。でも、食事の場を去って行ったユダに対して、否定的な言葉や驚く声はまったく残されていません。その理由は、パン切れを渡すというイエスさまの行動そのものにありました。食事の席で、家の主人がお客さんにパン切れを渡すことは、心からの歓迎や友情、そしてもてなしのしるしでした。そう、イエスさまがユダにパン切れを手渡したことは、イエスさまからユダへの愛情や親しみのしるしとして受け止めることのできるものでした。何よりも、この食事の席でイエスさまがパン切れをユダに手渡したことは、ユダが裏切ることをわかりやすく示すための行動ではありませんでした。むしろ、イエスさまからユダへの親しさや愛情、もてなしや歓迎のしるしとしてパン切れはユダに手渡されています。そう考えると、この食事の場面は、裏切り者探しや、裏切り者を特定するような殺伐とした瞬間ではありません。それよりも、ユダが自分のことを裏切ることになるのを知った上で、イエスさまがユダを自分のそばに置いていたことがよくわかる瞬間でした。裏切られることがわかっていたとしても、決してユダのことを見捨てず、彼との関係を諦めずに、イエスさまはユダと向き合おうとなさいました。どのような生き方をしていても、どのような立場にあっても、神によって愛され、命が与えられている。そのような喜びに溢れた光をイエスさまは、私たちの生きるこの世界にもたらしてくださいました。ユダに対して、それは、一切れのパンという形で示されました。たとえ裏切り、闇の中を歩んでいくことがわかっても、絶対に見捨てない。この一切れのパンは、私たちに対しても、いつも差し出されているものです。イエスさまは、どんなあなたも、愛し、慈しみ、受け止めてくださる方です。何よりも、イエスさま自身が十字架の上にかかり、傷つき、命を差し出したほどに、神ご自身が命がけで、私たち一人ひとりを愛し、慈しんでくださっています。そんなイエスさまが差し出した一切れのパンはまさに、あらゆる人を受け入れ、愛する証しでした。
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主イエスの愛が、先立つ(稲葉基嗣) – ヨハネ 13:1–17
2026年5月10日 復活節第6主日説教題:主イエスの愛が、先立つ聖書: ヨハネによる福音書 13:1–17、創世記 1:27、詩編 117、ペトロの手紙 一 4:7–11説教者:稲葉基嗣 -----イエスさまが食事の席でご自分の弟子たちの足を洗い始めた時、イエスさまのその行動は驚きと戸惑いをもって受け止められました。足を洗うことが奴隷の仕事だったからです。ユダヤ社会の中で、自ら進んで他人の足を洗おうとする人などいませんでした。まして、「先生」と呼ばれ尊敬されている人が他人の足を洗うはずありません。ですから、イエスさまが食事の席で突然立ち上がり、自分たちの足を洗い始めた時、弟子たちはどれほど戸惑いを覚えたことでしょうか。イエスさまが奴隷の立場を選び、行動しているのですから。そして、自分を模範として、同じようにお互いに足を洗いなさいとイエスさまは呼びかけるのです。このようなイエスさまの行動や、その後の呼びかけは、弟子たちが当たり前だと思っていたことを揺るがすには十分な出来事でした。彼らにとっての当たり前は、身分の高い人のために身分の低い人が働く世界です。でも、イエスさまの行動はその当たり前を自らの身をもって逆転させるものでした。そして、お互いに足を洗い合うようにという、イエスさまの呼びかけは、驚くほどに人々の間に平等をもたらそうとする呼びかけでした。その意味で、イエスさまが自ら進んで弟子たちの足を洗ったことは、信仰者の群れがどんな共同体であるべきかを指し示すものだったといえます。そう、主イエスと共に歩む、教会の姿をヨハネは紹介しているのです。それは、お互いの間に、絶対的な上下関係を作り出さず、平等でいられる場所です。ヨハネは、イエスさまが弟子たちの足を洗ったという、この物語を導入する際に、「世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた」(1節)と書きました。イエスさまの行動に滲み出ていたとヨハネは感じたのでしょう。このようなイエスさまが、弟子たちの足を洗った際に、その場にいたふたりの人の名前をヨハネは紹介しています。ペトロとイスカリオテのユダです。この後、ペトロはイエスさまを知らないと言って、イエスさまとの関係を否定します。ユダはイエスさまを裏切り、イエスさまを十字架刑へ向かう道に明け渡しました。イエスさまに足を洗われた弟子たちの多くは、イエスさまを見捨てた人たちでした。でも、イエスさまはその一人ひとりをこの上なく愛し、愛し抜きました。どれだけ失敗しても、その罪を赦し、すべてを受け止めました。その意味で、どれだけ裏切られ、どれだけ傷ついても、一人ひとりと向き合い、終わりまで愛し抜こうとする、イエスさまの愛と憐れみこそ、立場を越えて、お互いに平等である、教会のあらゆる歩みに先立つものです。
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今、闇の中で共にある光(稲葉基嗣) – ヨハネ 12:44–50
2026年5月3日 復活節第5主日説教題:今、闇の中で共にある光聖書: ヨハネによる福音書 12:44–50、出エジプト記 3:7–12、詩編 12、ヨハネの手紙 一 5:13–15説教者:稲葉基嗣 -----この世界には、一体どんな闇が広がっているのでしょうか。人権を踏みにじる行為、法改正。終わりが見えない戦争。弱い人々の声を無視することが当たり前のように振る舞う権力者の姿。挙げればキリがないほどに、この世界には闇が広がっています。そんな今のこの世界において、キリストに光を見出すって、一体、どういうことなのでしょうか。ヨハネは、イエスさまが叫ぶ声を紹介しています。イエスさまが叫ぶほどに、私たちに届けたいと願ったことこそ、イエスさまが光として、この世界に来たということでした。イエスさまは「誰も闇の中にとどまることがないように」(46節)と言います。イエスさまが与える光は、イエスさまを通して、永遠の命を得ることだと、イエスさまは声高に叫んでいます。ヨハネによる福音書において、永遠の命という言葉は、決して遠い未来の話ではありません。将来の私たちにとってだけでなく、今この時を生きる私たちにこそ関係のあることだと、イエスさまは理解して、永遠の命という言葉を使っています。イエスさまによって、私たちはもう既に、死から命へと移されています。イエスさまが十字架と復活を通して、死に勝利し、罪の赦しをすべての人に与えてくださったからです。けれども、闇は依然として存在し続けています。イエスさまによって、この世界の闇が完全に消え去ったわけではありません。だからこそイエスさまは、私たちが闇に留まらず、キリストによって与えられる光を分かち合うようにと叫び、呼びかけておられます。どれほど闇が深く思えたとしても、キリストにあって今、光が与えられていることを私たちが決して忘れないように。出エジプト記が示すように、神は苦しむ民の叫びを聞き、痛みを知り、そのもとへ降りて救い出す方です。イエスさまを通して、神は今もそのように私たちに関わってくださっています。私たちの苦しみを見つめ、うめき声に耳を傾け、痛みを知った上で、いつも共にいてくださる。この神との交わり、そして旅路を共にする仲間たちとの交わりのただ中に、永遠の命はあり、暗闇を照らす光として輝いています。主イエスは世界の光として、いつも暗闇の中で光を放ち続けているのです。
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教会はサイレント・マジョリティの群れではなく、耳を傾け合う交わり(稲葉基嗣) – ヨハネ 12:37–43
2026年4月26日 復活節第4主日説教題:教会はサイレント・マジョリティの群れではなく、耳を傾け合う交わり聖書: ヨハネによる福音書 12:37–43、イザヤ書 6:8–10、詩編 142、ローマの信徒への手紙 8:26–27説教者:稲葉基嗣 -----イエスさまと出会った人々は、イエスさまのことを神から遣わされた存在として、受け止めることができませんでした(37節)。ユダヤの宗教指導者たちは敵意をもって反応していました。ですから、イエスさまの行ったしるしを見たり、イエスさまの言葉を聞いた結果、イエスさまを救い主と受け止めた人たちにとって、イエスさまとの結びつきをはっきりと口にすることは恐ろしいことへと変わっていきました。ユダヤの宗教指導者たちから反感を買うことを恐れたためです。そうやって少しずつ、イエスさまのことを公に支持する声が減っていきました。そして、徐々にイエスさまを妬み、憎しみ、イエスさまに対する敵意や殺意を抱いた、ユダヤの宗教指導者たちの声が目立つようになってしまったのです。このように、イエスさまの行った数々のしるしに対する、人々の反応とその後の沈黙について思い巡らしてみると、他人事ではないと思わされてきます。一部の人たちの大きな声ばかり目立ち、多くの人たちは声を積極的には発しない。まさに、現代社会でも見られる出来事です。現代社会において、サイレント・マジョリティの声は、圧倒的に見えてきません。ソーシャルメディアを開くと、大きな声ばかりが目立ち、その声は増強され、あたかも沢山の人が同じように考えているように見えてしまうからです。ですから、私たちはもっともっと語り合わなければいけないのでしょう。わかりあえないと思っても、もっともっと、実際に顔と顔を合わせて出会い、異なる意見に耳を傾け、語り合うことこそ私たちの生きる社会に必要なことです。僅かな人数の大きな声ばかりが響き渡り、多くの人の声が聞こえない。そんな現代社会に生きる私たちにとって、大きな希望は、神こそが私たちひとりひとりに耳を傾けてくださることです。そして、イエスさまこそが、私たち人間のそばに来て、私たちと共に生き、私たちと共に語り合った方でした。主イエスに愛されている私たちにとって、主イエスが向き合ってくださったように、一人ひとりと誠実に向き合うことは、とても自然なことです。私たちが招かれている教会という共同体は、まさにそのような交わりです。教会は、声を出せないサイレント・マジョリティを作り出す場所ではありません。むしろ、どんな言葉でもいいから、語り合える場所です。主イエスにあって結ばれ、お互いの存在を喜び合いながら、お互いの声に耳を傾け合える場所だからです。
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光の子として歩みなさい(稲葉基嗣) – ヨハネ 12:27–36
2026年4月19日 復活節第3主日説教題:光の子として歩みなさい聖書: ヨハネによる福音書 12:27–36、イザヤ書 8:23–9:6、詩編 27、エフェソの信徒への手紙 5:6–14説教者:稲葉基嗣 -----イエスさまは、一体、どのような意味で私たちにとっての光なのでしょうか。ヨハネは「私は心騒ぐ」(27節)と述べるイエスさまを紹介しています。イエスさまが心を騒がせたのは、十字架の上での死へと向かっていたからでした。これから自分を待ち受けているであろう、そんな苦難への道にイエスさまの心が騒がないわけがありませんでした。それは一見、闇の中で光り輝く存在として私たちのもとに来た、神の子であるイエスさまが結局、闇に勝たなかったと伝えるような出来事です。でも、人々が闇の勝利と思えるような出来事を通して、神がイエスさまをすべての人の光として提示することをヨハネはこの物語を通して伝えています。イエスさまは、ご自分の死について、次のように言いました。「私は地から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう」(32節)。「上げられる」という言葉に、イエスさまはふたつの意味を込めました。ひとつは、十字架にかけられ、そして息を引き取ること。もうひとつは、その十字架の死の後に、神によって命を与えられ、復活し、天に昇り、神のもとへと帰っていくことです。このため、イエスさまが「上げられる」ことは、闇の勝利の象徴ではなくなりました。力による支配も理不尽な暴力も死も、最終的な勝利者でいられなくなりました。どこまでも神を信頼し、愛と憐れみを追求したイエスさまが力を振るうのではなく、十字架の暴力をその身に引き受けた結果、イエスさまは再び命を得たからです。そして、神によってイエスさまが復活の命を得たばかりでなく、すべての人がイエスさまのもとへと引き寄せられていくからです。イエスさまはご自分のもとへ引き寄せた人たちを光の子と呼んでいます(36節)。イエスさまが与えた光のうちに生きるようにと、すべての人は招かれています。光の子って、具体的には、どのような人々を指すのでしょうか。イエスさまの歩みを考えるならば、それは何よりも暴力に依存しないことでしょう。また、主イエスの愛や憐れみを行動基準とすることこそ光の子として歩むことです。多くの人たちにとって、現代社会はきっと、光よりも、闇が広がっているように思える世界だと思います。でも、そんな世界を主イエスは諦めず、傷つきながら、その生命を差し出すほどに愛し、光で照らし出してくださいました。私たちの光として、私たちの世界を照らし出すために来てくださいました。主イエスという確かな光を見つめながら、その光をこの世界に分かち合っていくことが私たちにはできます。
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主イエスがいる場所(稲葉基嗣) – ヨハネ 12:20–26
2026年4月12日 復活節第2主日説教題:主イエスがいる場所聖書: ヨハネによる福音書 12:20–26、イザヤ書 56:7–8、詩編 16、コリントの信徒への手紙 一 15:35–49説教者:稲葉基嗣 -----ギリシア人たちはフィリポのもとに来て、イエスさまと会いたいと願いました。フィリポはそんな彼らの願いを聞いて、同じくベトサイダ出身のアンデレに相談し、イエスさまへと彼らの思いを仲介することにしました。ただ、フィリポやアンデレがせっかくイエスさまに仲介したのに、イエスさまが語る言葉は、何だか噛み合ってないように思えてなりません。フィリポとアンデレに向かって、イエスさまが語ったのは、「人の子が栄光を受ける時が来た」(23節)です。イエスさまがここで伝えていることは、イエスさま自身の死についてです。イエスさまは一粒の麦のたとえを用いて、自分の死こそが、すべての人に命をもたらすことを伝えています。私たちが抱くこの救いの望みを神は、すべての人に与えてくださっています。それは、生まれや出自、話す言語、社会的な地位、性別、生きる文化も関係なく。イエスさまはフィリポとアンデレに「栄光を受ける時が来た」(23節)と言いました。そう、すべての人に対して救いが開かれる時が訪れました。イエスさまと会いたいと願った、ギリシア人に対して、救いが訪れる日が来ました。ですから、フィリポとアンデレへのイエスさまのこの返答は、ギリシア人たちに直接的に、「会いに行こう」と答えるものではありませんでした。イエスさまが望んだのは、一時的な出会いではなかったわけです。十字架の死と復活を通して、罪の赦しと復活の希望を与え、すべての人と永遠に共にいることこそ、イエスさまが望んでくださったことです。この時、イエスさまの言葉は、一粒の麦の話だけでは終わりませんでした。「私のいる所に、私に仕える者もいることになる」とも語っています(26節)。イエスさまがいる場所とは、むしろ、私たちがイエスさまのために仕え、何かをするところに、その場所に、イエスさまは共にいてくださる。そんな風に、イエスさまは約束をされました。大きな指針となるのは、イエスさまの大切にされるものを大切にすることでしょう。主イエスにある愛や憐れみ、正義や平和を願って起こされる行動や、紡がれる言葉や祈りがあるところに、イエスさまは共にいてくださいます。フィリポやアンデレは、ギリシア人とイエスさまを繋ぐ架け橋になろうとしました。それは、現代において、ますます求められているあり方でしょう。もちろん、私たちにできることは小さく、少ないかもしれません。けれども、神の招きに応えて、自分たちの出来ることを通して、架け橋となろうとするとき、イエスさまは必ず、私たちと共にいてくださいます。
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死の衣は置き去りにされた(稲葉基嗣) – ヨハネ 20:1–10
2026年4月5日 復活祭説教題:死の衣は置き去りにされた聖書: ヨハネによる福音書 20:1–10、エゼキエル書 37:11–14、詩編 8、ガラテヤの信徒への手紙 3:26–29説教者:稲葉基嗣 -----「誰かが主を墓から取り去りました。どこに置いたのか、分かりません。」(2節)そんなマリアの報告を聞いて、ペトロともう一人の弟子と呼ばれる人がその現場を確かめるために、すぐさまお墓へとやって来ました。確かに、イエスさまのなきがらは、お墓の中に見当たりませんでした。ふたりの弟子たちは、イエスさまの身体を包んでいた亜麻布とイエスさまの顔を覆っていた布がお墓の中に置かれていたことを発見します。これらの布の発見は、イエスさまの身体が墓泥棒や嫌がらせのために持ち去られたわけではないことを明らかにしました。その時、彼らは別のことを信じ始めました。イエスさまが復活し、自分を包んでいた亜麻布と覆いを取り去ったのだと。身体に巻き付けた亜麻布と顔を包んだ覆いは、まさに、イエスさまの死を決定的なものとして告げる、死の衣でした。そんな死の衣が置き去りにされ、イエスさまが死者の中からよみがえったことに、ヨハネは大きな希望の光を見出しました。イエスさまは死の衣に覆われた状態で復活したわけではありません(11:44参照)。死の衣をお墓の中に置き去りにして、イエスさまはお墓の外へ出て行きました。イエスさまにとって、死は永遠のものではないことを象徴しているかのようです。ヨハネは、イエスさまの復活を見つめて、まさに死の衣が置き去りにされたこの世界の新しい現実を見つめたのです。イエスさまの復活は、私たちの命の終わりが死ではないことを力強く宣言しました。死の先に、復活の命があり、命の終わりに、復活の命の始まりがあります。イエスさまの復活は、私たちに将来起こることのみを約束するものではありません。私たちは復活の主に結ばれて生きるようにと招かれているからです。使徒パウロはガラテヤの教会の人たちに向けて、このように書きました。 「あなたがたがは皆、キリストを着たのです。」(ガラテヤ3:27)復活の主イエスに結ばれて生きる者が着る衣は、死の衣ではありません。復活の主であるイエスさまを私たちは衣のように着ると、パウロは宣言しています。それは、私たちの人生の劇的な衣装替えです。だって、もう二度と、死の衣をまとう必要などないからです。復活の命をまとって生きる。それは、愛と憐れみに溢れたキリストを身にまとうことです。イエスさまがまとっていたあの亜麻布が空っぽの墓の中に置き去りにされたあの時から、この喜びにあふれる道はすべての人の前に開かれました。
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平和の王の叫び声を聞け(稲葉基嗣) – ヨハネ 12:12–19
2026年3月29日 しゅろの主日説教題:平和の王の叫び声を聞け聖書: ヨハネによる福音書 12:12–19、ゼカリヤ書 9:9–10、詩編 24、エフェソの信徒への手紙 2:8–10説教者:稲葉基嗣 -----ナツメヤシの枝を持って、イエスさまを出迎えた人々のその心に思い描いた救い主メシアの姿は、政治的・軍事的な、暴力的な解放をもたらす人でした。でも、イエスさまは明らかに、彼らの声に応えようとはしませんでした。この時、イエスさまは子ロバに乗ってエルサレムへと入城しました。人々から歓迎され、イスラエルの王と呼ばれる人が軍馬ではなく、子ロバに乗って現れるだなんて、想像すると何だかおかしな光景です。弱く、力のない、子ロバをイエスさまは選び、エルサレムへと入城します。それは、軍事的な指導者や政治的な解放者とは正反対のイメージです。ヨハネ福音書を読み進めていくとこの叫び声は暴力的なものに変わっていきます。イエスさまが逮捕されると、彼らの叫び声は、彼らが期待していたイエスさまのことを拒絶するものへと変貌していきました。イエスさまの釈放を拒絶し「殺せ、殺せ、十字架につけろ」と彼らは叫び続けました。イエスさまは、これが私たち人間の現実であり、私たちが生きる世界が抱え続けている問題であるとよくわかっていました。だからこそ、そのような叫び声に反対するような、イエスさまの叫び声もまた、ヨハネ福音書の中には記録されています。イエスさまは、病気によって亡くなり、お墓に葬られたラザロに向かって、「ラザロ、出て来なさい」(11:43)と叫びました。イエスさまが何よりも、私たちに向かって、そしてこの世界全体に向かって叫んでいるのは、死から命へと向かっていく呼びかけです。そして、豊かな命を抱いて生きるようにと呼びかけるイエスさまは、「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい」(7:37)とも叫びました。私たちに対するイエスさまの願いは明らかに、私たちがお互いの豊かな命を喜んで受け止めて、生きていく道に他なりません。ヨハネ福音書が紹介する、きょうの物語に耳を傾ける時、私たちのもとに騒がしいほどに響き渡るのは、群衆の熱狂的な叫び声です。自分たちが命を得るためにならば、暴力は厭わない。それは、今も変わらずに、私たちの世界で響き続けている叫び声です。けれども、私たちにとっての大きな希望は、死から命へと呼びかける、イエスさまのあの叫び声がこの世界に響いていることです。それは、力ではなく、弱さを尊いものと考える叫び声です。憎しみではなく、愛情に支配されることを望む叫び声です。争いではなく、和解を追求する叫び声です。
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ラザロの沈黙(稲葉基嗣) – ヨハネ 12:9–11
2026年3月22日 四旬節第5主日説教題:ラザロの沈黙聖書: ヨハネによる福音書 12:9–11、アモス書 5:13–15、詩編 130、ヨハネの手紙 一 3:11–18説教者:稲葉基嗣 -----ラザロが復活したという出来事は、人びとに驚きを与えるとともに、イエスさまに対する信頼をより強いものにしたため、彼の身を危険に晒しました。ラザロの命が狙われることになったとき、何が起こったでしょうか。福音書を読み進めていくと、ラザロが表舞台から消えていくことに気づきます。いやそもそも、物語の中でのラザロは、常に沈黙を貫いています。それは、ラザロの身が危険に晒されていたことと関係があると思います。ラザロ復活の物語が広まることは、命を狙われていたラザロがさらなる危険に晒される可能性があることを意味しました。だから、他の福音書は彼の身を守るために、この物語を記録しなかったのでしょう。宗教的な指導者たちのイエスさまに対する敵意や妬みが、ラザロにも向けられた結果、彼の言葉は奪われ、彼は沈黙を強いられたのです。自分の言葉が、声が奪われていく。沈黙を強いられてしまう。ラザロの身に起こった、このような出来事は、ラザロが生きた時代から、およそ2000年の時が流れている現代においても、当たり前のように、私たちの世界に横たわっている現実です。しかし、神は遠くの方から、そんな人間の罪深さが悲しいほどに反映されているこの世界を黙って見ておられる方ではありませんでした。イエスさまを私たちのもとに送り、沈黙を生み出す原因を拭い去ろうとされました。イエスさまは声を奪われ、沈黙を強いられた人のもとにこそ、足を運ぶ人でした。そして何よりも、声を奪われ、沈黙を強いられたラザロのために、イエスさまは立ち上がり、エルサレムへと向かっていきました。イエスさまがそんな受難への道を歩んで行ったのは、声を奪われた人たちが口を開ける世界を取り戻すためでした。そして、沈黙を強いられた人たちが声を出せる場所を作り出すためでした。教会こそキリストによって与えられた罪の赦しに基づいて、沈黙を打ち破る所です。無視され、否定されている声にこそ、耳を傾ける集まりです。大きな声でかき消されてしまっている小さな声にこそ、耳を傾ける集まりです。ヨハネ福音書が紹介するラザロの沈黙と出会う時、ラザロにはまさにそのような交わりが必要だったと感じさせられます。沈黙を強いられていたラザロに、彼と共に生きる信仰者たちは耳を傾けることを決してやめませんでした。だから、ラザロの物語はヨハネ福音書に収められたのではないでしょうか。イエスさまが生み出そうとしたのは、まさにそのような共同体です。
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香油の香りで満たしてください(稲葉基嗣) – ヨハネ 12:1–8
2026年3月15日 四旬節第4主日説教題:香油の香りで満たしてください聖書: ヨハネによる福音書 12:1–8、イザヤ書 43:16–21、詩編 126、フィリピの信徒への手紙 3:4–9説教者:稲葉基嗣 -----マリアの行動は当時の人々にとっても異様で、いくつもの点で驚くべきものでした。彼女が用いた油は、ナルドの香油と呼ばれています。それは、およそ1年分の賃金に相当するものでした。彼女はそんな貴重な香油をイエスさまの足に注ぎ出しました。その際、彼女は髪をおろし、その髪でイエスさまの足についた香油を拭い始めます。彼女の行動はまるで、奴隷のような行動でした。なぜマリアはこのような行動を起こしたのでしょうか。やはり関係があるのは、この出来事の前に起こったことです(11章参照)。彼女の兄弟であるラザロが病気で亡くなったからです。イエスさまは、死者の中からラザロをよみがえらせてくださいました。きっとマリアは、イエスさまへの感謝をどうにかして伝えたかったのでしょう。それは、その場にいる人たちにとって、無駄なことのように見えたと思います。実際、イエスさまの弟子のひとりである、イスカリオテのユダは言いました(5節)。「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」そんな正論を耳にし、イエスさまは彼女の行動をどのように受け止めたでしょうか。イエスさまは言います。「この人のするままにさせておきなさい。私の埋葬の日のために、それを取っておいたのだ。」(7節)イエスさまは、自分の死にマリアが備えてくれたと受け止めました。葬りの準備のために油が注がれる時、そこに居合わせるのは家族や親戚だけです。そう、イエスさまは、血縁や社会的な立場を越えて、その場に集まっていた人たちを家族として受け止める宣言をされたのです。マリアも、マルタも、ラザロも、弟子たちも、そして、あのイスカリオテのユダさえも。主イエスにあって、家族とされている。それは何よりも、私たち、教会の姿です。主イエスにあって、結ばれて、私たちは共に生きることができる。家族のように、時には家族以上に、助け合って生きることができる。私たちは何よりも、イエスさまから損得勘定抜きの愛情や恵みを受けています。罪を赦され、救いの希望を与えられ、復活の命に生きる望みを与えられています。ですから、マリアが注いだような高価な香油をイエスさまから既に注がれているのは、何よりも、私たちの側です。ですから、私たちは主イエスにあって、愛や憐れみを共に生きる人たちに、ナルドの香油のように注ぐことができるはずです。イエスさまが愛に満ちたナルドの香油の香りをみなさんを通して、みなさんの日常に満たしてくださるはずです。
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この口から呪いの言葉を消してください(稲葉基嗣) – 哀歌 1:12–22
2026年3月8日 四旬節第3主日説教題:この口から呪いの言葉を消してください聖書: 哀歌 1:12–22、ガラテヤの信徒への手紙 3:6–14、詩編 79、ルカによる福音書 6:43–45説教者:稲葉基嗣 -----この詩には、希望に溢れる言葉はほとんどありません。詩人が綴るのは、エルサレムの都がバビロニアの軍隊に攻め落とされた経験です。なぜ自分たちの都は破壊され、命を踏みにじられることになったのか。詩人にとって、自分たちの神に対する罪が原因だと思えてなりませんでした。その一方で、そんな風には受け止めきれない。複雑な感情を詩人は抱えました。だから自分たちの過ちを認めながらも、詩人は神に向かって訴えました(20節)。詩人は最後に、呪いの言葉を添えることで、最初の詩を終えています。彼らも懲らしめてください。私の背きの罪すべてについて私を懲らしめられたように。(22節)この呪いの言葉を発した詩人自身は、エルサレムの破壊を経験した被害者です。破壊と殺戮の記憶が鮮明すぎて、希望の言葉など紡ぐことができない。何とか乗り越えていくために、この詩人がたどり着いたのが、神に向かって哀しみを率直に伝え、敵への呪いの言葉を吐くことでした。哀歌に記されているこの呻きや叫び声に似たこの祈りは、耐え難い出来事を経験した時に人間誰もが経験するような現実といえるでしょう。この世界には、呻きや嘆きといった叫び声を引き起こすことが数多くあります。そして、呪いの言葉を引き起こすような出来事が悲しいほどにたくさんあります。哀歌の詩人は、私たちが心で覚える怒りを、沸き起こってくる呪いの言葉を神の前で吐き出し、枯れ果てさせる。そのような形でこの詩人の祈りは、私たちに寄り添おうとしています。「神に向かってその呪い言葉を吐き出せ。その怒りを、呻きを吐き出せ。神はあなたの抱えるそのすべてを受け止めてくれるに違いないから。」哀歌を後の世代へと受け渡してきた人々の切実な声が聞こえてくるかのようです。もちろん、この口に呪いの言葉が湧き上がらないことこそ多くの人の願いでしょう。でも、私たちの抱える罪や悪が原因となって、共に生きる人たちの間に、そしてこの世界に、嘆きや哀しみ、呻きや呪いの言葉を引き起こしています。使徒パウロはイエスさまが十字架にかけられて死んだことについて、キリストは、私たちのために呪いとなった(ガラテヤ3:13)と書いています。イエスさまが呪われた者とみなされ、十字架の上で死んだのは、私たちのこの口に呪いの言葉を引き起こす、あらゆる罪や悪の支配から、私たちを救い出すためでした。この世界全体から、人類全体から、神は呪いの言葉を消すために、イエスさまを私たちのもとに送ってくださったのです。
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傷ついた私たちを見てください(稲葉基嗣) – 哀歌 1:1–11
2026年3月1日 四旬節第2主日説教題:傷ついた私たちを見てください聖書: 哀歌 1:1–11、ヘブライ人への手紙 2:10–18、詩編 86、マタイによる福音書 9:35–38説教者:稲葉基嗣 -----この哀歌という作品には、瓦礫の山となったエルサレムを見つめ、哀しみ、嘆く、生き残った人たちの声が記錄されています。その際、詩人は擬人化表現を用いてエルサレムの都を人間のように描いています。エルサレムの都や、そこに住む人々がどれほど深く傷つき、打ちのめされ、蹂躙され、破壊されたのかを描こうとしています。エルサレム崩壊の出来事の原因は一体どこにあるのでしょうか。哀歌を綴った人々は、因果応報的に自分たちに原因があると考えました(5, 8節)。もちろん、因果応報的思考に哀歌が完全に支配されているわけではありません。自分たちが神の前に罪を犯したことを悲しみながらも、心では納得がいきません。色んな感情が沸き起こっています。だからでしょうか。エルサレムの人々の叫び声を詩人は記録しました。今、どれほど自分たちが全く無価値な存在になってしまったのか(11節参照)。その姿を見てください。傷ついた自分を見つめて、心に留めてください(9, 11節)。そして、助けてください。慰めを与えてください。詩人は神に訴えています。尊い人間の命を無価値にし、哀歌に記録されているような叫び声を生み出す。そんな人間の悪意や罪、過ちは、今も私たちの世界の現実に、横たわっています。だから、哀歌の言葉に耳を傾ける時、私にはこの世界が求めている、神への訴えに聞こえてなりません。暴力によって命が無価値にされているこの世界を憐れみ、見つめてください。傷ついた私たちや、この世界を見つめる時、神は一体何をされたのでしょうか。ヘブライ人への手紙が伝えるのは、イエスさまが傷ついている姿です。命を蔑ろにし、無価値なものとして人を取り扱ってしまう、私たちの抱える罪に終止符を打つために、傷つき、命を失ったイエスさまの姿をこの手紙は伝えます。十字架にかけられたイエスさまこそ、究極的に、すべての人のために無価値な者とされた存在でした。それは、神の側が自分の価値のすべてを捨て去ってまで、私たちを愛し抜き、救いの手を伸ばし続けていることを逆説的に伝えるものでした。無価値ではない。いや、決して無価値なものにさせない。神は、身を挺してまで、私たちにその事実を告げてくださっています。そんな力強い神の声は、決して私たちが独占すべきものではありません。神は全世界に対して、すべての人に対して、この強い願いを持っているのですから。誰も無価値にはさせない。誰の価値も奪わせない。それは私たちの信仰の旅路の大きな指針であり続けます。
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主にある謙遜に生きる(稲葉奈々) – フィリピ 2:1–11
2026年2月22日 四旬節第1主日説教題:主にある謙遜に生きる聖書: フィリピの信徒への手紙 2:1–11、イザヤ書 45:23–25、詩編 98、ヨハネによる福音書 13:12–17説教者:稲葉奈々 -----パウロがフィリピの教会へと宛てた手紙は、フィリピ教会との連携による深い喜びと励まし溢れた文章です。日本では謙遜の姿勢がある種の美徳と捉えられていますが、当時のローマ社会では、むしろへりくだる姿勢を見せるときに弱さや敗北の象徴と認識され、避けられる傾向がありました。しかしパウロはキリストにあるへりくだりの姿を私たちに示し、自らも獄中にありながら、キリストにならった生き方を勧めます。2章6~11節の「キリスト賛歌」においては、神であられたキリストが、その在り方に固執せず、ご自分を無にして人の姿となられ、十字架の死に至るまで己を低くしたことが語られます。十字架刑はただの処刑ではなく、ローマ帝国において最も屈辱的で残酷な刑罰であり、一連の刑罰が見せしめの要素も含んでいたことから、社会的に抹殺されることをも意味していました。当時の人々が思い描く威厳ある神とはかけ離れた救い主の姿でしたが、パウロはむしろ、これが私たちのあるべき姿だと語ります。パウロ自身もまた、投獄という苦難の中にありながら、それを福音の前進の機会として受け止め、今できることを全力で行い、喜びをもって教会を励まし続けました。そんなパウロの語るへりくだりとは、私たちが思い描くような自己否定や、消極的な姿勢ではなく、むしろ自分たちの賜物を用いて、愛をもって他者に仕える姿勢です。見返りや評価を求めず、キリストにならって己を低くするとき、私たちは心から他者を愛するものへと変えられていきます。そして教会が、思いをひとつにして他者に仕える共同体となっていきます。世の価値観とは異なる、キリストの光を現す存在となるのです。だから私たちは徹底的なへりくだりを持って、与えられた賜物を用いて互いに仕えてゆきましょう。私たちのために最も低くなられたキリストが私たちを常に励ましておられます。
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主イエスの死は誰のため?(稲葉基嗣) – ヨハネ 11:45–57
2026年2月15日 公現後第6主日説教題:主イエスの死は誰のため?聖書: ヨハネによる福音書 11:45–57、イザヤ書 49:6–13、詩編 95、コロサイの信徒への手紙 1:18–20説教者:稲葉基嗣 -----イエスさまの行いのすべては、人びとの間に命を吹き込むものでした。けれども、中には正反対の反応をする人たちもいました。最高法院の人びとは、イエスさまの行動が原因となって、ローマ人が自分たちを滅ぼすことになるのではないかと、恐れています。大祭司カイアファは、「一人の人が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済むほうが、あなたがたに好都合だとは考えないのか」(50節)と言って、イエスさまを排除することを提案します。カイアファによれば、暴動を防ぎ、平和を保つためには、この排除は、必要悪だというわけです。人々はイエスさまの命を奪い、自分たちの滅びを免れようとしました。ヨハネは、カイアファの言葉を預言として受け止めて紹介しています。イエスさまの死は、国家や民族を救うためのものではありませんでした。そうではなく、一人ひとりが主イエスにあって神と結びつき、命を得るために、イエスさまは命を落とされました。民族という枠に捕われない。性別も、年齢も、社会的な立場も関係ない。政治的な主張や信念も関係ない。能力や財産も関係ない。文字通りすべての人が主イエスによって実現した、神の救いの対象です。一部の力ある人たちだけが得をすれば良いというような考えの下で、弱い立場に立たされている人たちが切り捨てられていく。すべての人に、命を吹き込み、救いの道を開くために、イエスさまは十字架の上で息を引き取り、犠牲となられました。何かを犠牲にすれば、すべてが丸く収まる。そういったあらゆる犠牲に対して、イエスさまは終わりを告げておられます。命を奪い合う構造に終わり告げようとしておられます。そんなイエスさまが、私たちに向かって手招きしている道は、私たちが豊かな命に生きることを選び取ることができる道です。まさに主イエスの死は、きょうを生きる私たちのためにあります。
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「出て来なさい」と主イエスは叫ぶ(稲葉基嗣) – ヨハネ 11:38–44
2026年2月8日 公現後第5主日説教題:「出て来なさい」と主イエスは叫ぶ聖書: ヨハネによる福音書 11:38–44、創世記 8:13–19、詩編 42、ローマの信徒への手紙 6:4–11説教者:稲葉基嗣 -----「ラザロ、出て来なさい」(43節)。イエスさまが叫んだ先は、ラザロのなきがらが収められているお墓です。ラザロの姉妹であるマルタは、「もう臭います」とイエスさまに伝えます。マルタにとって、ラザロの死こそが決して覆ることのない現実でした。お墓に向かって叫ぶイエスさまの姿は、そんなマルタとは対照的でした。死の先に、復活の命がある。イエスさまはそのような確信をもち、お墓の前で神に感謝の祈りをし、ラザロの名前を呼びました。聖書が希望として証言し、教会が信じていることは、身体の復活です。私たちの常識では、死を乗り越えることは不可能です。けれども、神の愛が私たちの生涯を死に至るまで包み込み、死を迎えてもなお、神の愛と憐れみはすべての人に注がれ続けます。「出て来なさい」と呼びかけられ、私たちは復活の命を与えられる。そんな日がすべての人に訪れることをラザロの復活を通して、イエスさまは私たちに示してくださいました。また、将来の希望は、今を生きる私たちに命をもたらします。私たちの人生に、私たちの行動に、この世界を見つめる私たちの存在に、神によって与えられる命が入り込んできています。主イエスの十字架によって、神の愛を受け、罪を赦されている私たちは、主イエスにあって、死から命へと既に移されています。死から命へと移り、主イエスにある命をしっかりと掴んでほしいと、神は願っています。お互いの命を喜び、慈しみをもって見つめる。良いものを分け合い、与え合う。そのために、イエスさまは「出て来なさい」と呼びかけておられます。主イエスにあって、復活の命を手にし、その命の豊かさを分かち合うために、「出て来なさい」。これがイエスさまがきょうも、私たちに向かって叫び、呼びかけていることです。
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イエスと共に作り変える(稲葉奈々) – マルコ 11:15–19
2026年2月1日 公現後第4主日説教題:イエスと共に作り変える聖書: マルコによる福音書 11:15–19、イザヤ書 56:1–8、詩編 146、コロサイの信徒への手紙 2:9-11説教者:稲葉奈々(日本ナザレン神学校 2年) -----「宮きよめ」と呼ばれる今日の聖書箇所は、イエスの怒れる姿が印象的に描かれています。10章から読んでみると、イエスはエルサレム入城の翌日ではなく、その前日にすでに神殿の様子を見ており、一晩考えたうえで翌日に宮きよめを行っていました。このことから、宮きよめは感情的な暴力ではなく、理性的で意図的な行動であったことがわかります。イエスの批判の対象は、神殿で行われていた商売そのものではなく、それを正当化していた神殿の制度と権力構造でした。献金や捧げ物のために特定の貨幣への両替や動物の購入が強いられ、利益を生み出す仕組みが出来上がっていたために、「すべての民の祈りの家」であるはずの神殿が、一部の人々の利益のために利用されていたのです。イエスはイザヤ書の言葉を引用し、神の家の本来の姿を人々に思い起こさせようとしました。この出来事に対し、祭司長や律法学者といった権力者たちは、自分たちの立場を揺るがすイエスを恐れ、排除しようとします。一方で群衆は、イエスの教えを即座に受け止めました。私たちもまた、不公平や理不尽を含んだ社会の「当たり前」に慣れ、それに加担してしまうことがあります。しかしイエスは今も、私たちの内面に宮きよめを起こし、この世界でどのように生きていくのかを問い直し続けておられます。今この社会で生きる私たちは、キリストにならう生き方に招かれています。神の愛を根底に据えながら、弱い立場に置かれた人々と共に生き、ときには理不尽に声を上げていく存在として今も常に招かれているのです。恐れや戸惑いが伴うとしても、私たちは今日開いた御言葉に立ち返りましょう。イエスさまの宮きよめの姿を思い起こすとき、主に従ってまっすぐに行動したイエスさまの姿が、私たちをいつも励ましてくださるはずです。
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主イエスの涙はどこで流れる?(稲葉基嗣) – ヨハネ 11:28–37
2026年1月25日 公現後第3主日説教題:主イエスの涙はどこで流れる?聖書: ヨハネによる福音書 11:28–37、イザヤ書 25:6–10、詩編 70、ローマの信徒への手紙 12:9–15説教者:稲葉基嗣 -----イエスさまが訪れたベタニアの村は、大きな悲しみに包まれていました。その原因は、イエスさまの友人である、ラザロが4日前に亡くなったことでした。このような人々の悲しみやそれを引き起こしたラザロの死に触れた時、イエスさまは涙を流しました(35節)。人々がラザロの死を悲しむ様子を見て、イエスさま自身も様々な思いを抱き、心をかき乱されて、涙を流したのではないでしょうか。涙を流すマルタやマリア、そしてベタニアの人々に復活の希望を抱いてほしいと願いながらも、イエスさまは彼らの悲しみに共感を覚え、涙を流しました。この時、涙を流したイエスさまが見つめる先にあったのは、ラザロの墓です。それは、人々が「来て、ご覧ください」と言って、イエスさまを案内したからです。そこはまさに、その時の彼らにとって、深い悲しみと苦しみのある場所でした。そして、諦めと敗北の象徴のような場所でした。どうかそのような場所に来て、見てくださいと、彼らはイエスさまに伝えています。イエスさまが流した涙は、悲しみだけに支配された涙ではありません。また、諦めや落胆の涙でもありません。ラザロの命を諦めることができない。そんな愛情に溢れた涙でした。その生命が損なわれることを悲しみ、苦しむほどに愛してやまないラザロに命をもたらすために、イエスさまは来て、ラザロの墓を見つめました。「来て、見てください」と、涙を流しながら、悲しみ、悩みながら、イエスさまにお願いするのは、私たちだって同じです。私たちが涙を流し、失望する場所に、イエスさまが訪れてくださることは、私たちの心からの願いだからです。けれど、それは私たちの願いである以上に、イエスさまの願いです。私たちが涙する場所は、私たち以上に、イエスさまが愛を注いでおられる場所でもあるからです。けれども、その一方で、イエスさまが涙を流していることを私たちが気づいていないことだってたくさんあるでしょう。私たちが気づかないでいる、誰かの悲しみや苦しみがあります。そんな場所にも、イエスさまは来て、一緒に涙を流しておられます。神が私たちに勧めていることは、泣く者と共に、泣くことです(ローマ12:15)。きょう、イエスさまの涙は、どこで流れているのでしょうか。どうかイエスさまが誰かと共に涙を流していることに気づいたとき、勇気をもって一歩踏み出し、共に泣く道を選ぶことができますように。
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過去が及ぼすもの、未来が与えるもの(稲葉基嗣) – ヨハネ 11:17–27
2026年1月18日 公現後第2主日説教題:過去が及ぼすもの、未来が与えるもの聖書: ヨハネによる福音書 11:17–27、イザヤ書 43:16–20、詩編 121、ペトロの手紙 一 1:3–9説教者:稲葉基嗣 -----過去は、私たちに大きな影響を与えます。私たちがそれぞれ過去に経験したことは、私たちの人格や生き方、そして物の考え方などを大きく形作っています。でも、過去の出来事や経験が常に良い形で働くわけではありません。過去の辛い出来事は、人の心を暗くします。時には、長い間消えない傷を与えます。それは、ヨハネ福音書の物語の中に登場する人々の間でも見られることです。ベタニアの村とマリアとマルタが、ラザロの死に悲しむ様子をヨハネは描きます。ベタニアに到着したイエスさまの顔を見ると、マルタはイエスさまに言いました。「もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(21節)もしイエスさまが早く来てくれたならば、状況は変わっていたのではないだろうか。それは、自分の兄弟であるラザロを失った、マルタの悲しい叫び声でした。イエスさまは、そんな彼女の視点を別の場所に移そうとされました。イエスさまはマルタに「あなたの兄弟は復活する」(23節)と語りかけます。イエスさまは、過去ではなく、また現在の悲しみでもなく、未来に目を向けるようにと、マルタに促しました。過去の後悔、苦悩、悲しみが私たちのすべてを決定づけるのではありません。私たちは復活の命にあずかる日、天のみ国へとたどり着く日へ向かっています。復活の命は何よりも、神が私たちを愛し、決して見捨てないという、神からの永遠の愛のしるしです。「あなたは神に心から愛されている、尊い神の子どもだよ。」復活の命にあずかり、天のみ国に生きる希望は、そんな風に未来から現在の私たちに向かって、力強く語りかけています。そんな未来の希望にしっかりと目を向けるために、イエスさまは自分を見つめるようにと、伝えました。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。」(25節)それは、復活の命を私たちに与え、私たちの命を豊かなものとするために私たちのもとに来てくださった、イエスさまを信頼してくださいということです。この希望を受け止める時、私たちを規定するものは過去だけではなくなります。復活の命にあずかる希望こそが、私たちを決定づけます。それは、私たちが過去に経験した、どんな傷も、悲しみも、悩みも、すべて主キリストにあって、回復へと向かっていく希望となっているからです。ですから、私たちは過去の出来事に留まり続ける定住者ではありません。神に愛されながら、天に目を向けて、天の御国を目指して歩き続ける旅人です。
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希望なき場所に訪れる友(稲葉基嗣) – ヨハネ 11:1–16
2026年1月11日 公現後第1主日説教題:希望なき場所に訪れる友聖書: ヨハネによる福音書 11:1–16、ヨブ記 2:11–13、詩編 133、ヤコブの手紙 2:21–23説教者:稲葉基嗣 -----イエスさまにはベタニアに、マリアとマルタ、ラザロという友人たちがいました。ある時、イエスさまはラザロが病気であるという知らせを受けましたが、イエスさまはベタニアへすぐに旅立たず、同じところにとどまったままでした。でも、その2日後に、イエスさまは弟子たちにラザロのもとへ行くと言い始めます。イエスさまは思いもよらぬことを口にしました。「ラザロは死んだのだ」(15節)。この物語は、病気で亡くなったラザロをイエスさまが生き返らせて終わります。ラザロのもとへ行って、彼を生き返らせて、命を与えることがイエスさまの心のうちにあったのでしょう。でも、それなのになぜイエスさまは、すぐさまラザロを失って悲しむマリアやマルタもとへ出向くことを選ばなかったのでしょうか。それは、ラザロの家族や友人たち、またベタニアの村の人たちがラザロの死をきちんと受け止める時間を作るためだったのではないでしょうか。イエスさまは、マルタやマリア、ラザロの友人たちやベタニアの人たちがラザロの死を悲しむ時間を奪いたくなかったのかもしれません。出発を2日間遅らせることによって、誰もが逃れることができない死を突きつけられる期間をイエスさまは延ばしたといえます。でも、そんな死に対する恐れや、死の前に対する無力感を味わったからこそ、ラザロの復活に大きな喜びと慰めを彼女たちは見出すことができたと思います。この物語は、死という圧倒的に希望がなく、悲しみや絶望にあふれている場所に、イエスさまが復活の命を携えて、訪れてくださったことを伝えています。その際、イエスさまはラザロにとって、またマリアやマルタにとって、彼らを心から愛する友として、ベタニアへと向かっています。イエスさまは、すべての人の友となるために、私たちのもとに来てくださいました。それは、私たちにとって、大きな驚きです。神の子であるイエスさまが、私たちの友となってくださっているのですから。死が圧倒的に支配している場所に、命をもたらすために訪れてくださったように、イエスさまは私たちが希望を失う場所に訪れ、共にいてくださる友です。イエスさまは私たちにとって、どんなに希望のない場所であっても、決して見捨てずに一緒にいてくださる友です。それは、私たちがこの地上で経験する、あらゆる苦しみや悲しみにおいても、そして死の瞬間においても、共にいてくださることを意味します。イエスさまは、私たちといつも一緒にいて、希望のない場所でこそ、希望を手渡してくださる友です。
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ナザレのイエスと共にある旅(稲葉基嗣) – マタイ 2:13–23
2026年1月4日 降誕節第2主日説教題:ナザレのイエスと共にある旅聖書: マタイによる福音書 2:13–23、創世記 26:15–25、詩編 46、ローマの信徒への手紙 12:17–18説教者:稲葉基嗣 -----私たちの会は、ナザレン教会という名前の世界教会に所属しています。ナザレン教会は、ナザレ出身のイエス・キリストの教会という意味です。社会の中で苦しみ、弱い立場に置かれている人たちに寄り添い、手を差し伸べたこのナザレのイエスのように、自分たちも、人を愛したい。そんな願いがこのナザレン教会という名前には込められています。イエスさまは、ベツレヘムで生まれましたが、すぐにナザレには戻れませんでした。ユダヤの王ヘロデが、イエスさまを殺そうとしていたためです。そのため、イエスさまの家族は、難民としてエジプトに身を寄せました。彼らは安住の地を持たずに生活をしていたといえます。先の見えない旅をイエスさまはその誕生の時から強いられていました。ある程度時間が経ってから、イエスさまの家族はナザレの村へやって来ました。マタイにとってナザレは、ようやく身を寄せることができた安全な場所でした。けれども、ナザレが永遠の住まいになるなんて保証はどこにもありません。そう思うと、故郷のナザレだって、一時的な住まいともいえます。イエスさまの家族は安心した居場所を持たない、旅人のような家族でした。それは何も、イエスさまやイエスさまの家族だけの経験というわけではありません。誰もが、この地上においては、彼らのような旅人であるはずです。だって、私たちの故郷は天の御国にあるからです。今はまだたどり着かないけど、やがて必ずたどり着く天の御国に、私たちは思いを寄せながら、この地上での旅を続けています。イエスさまはその生涯の初めから、まさに旅人でした。不安定で、行き先の見えない日々をイエスさまは家族と一緒に過ごしました。イエスさまがそのような境遇を経験したのは、イエスさまがまさに、すべての人と共にあろうとしたからです。私たちが天の御国へと向かう、この旅の途中で経験する、あらゆる困難を私たちと共にするためにイエスさまは私たちのもとに来てくださいました。この一年も、私たちの地上での旅は、良いことも悪いこともあるのでしょう。そんな私たちにとって、確かなことがふたつあります。ひとつめは、私たちの旅は天の御国へと必ずたどり着く旅であるということです。ふたつめは、その旅の同伴者はイエスさまと教会に集う仲間たちであることです。イエスさまは私たちとどんな時も一緒にいるために来てくださいました。そして、私たちはイエスさまが私を愛し、慈しみ、憐れんでくださっているように、愛し、慈しみと憐れみの心をもってお互いに手を取り合って旅を続けましょう。
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主イエスの焼き印を帯びて(稲葉基嗣) – ガラテヤ 6:17–18
2026年1月1日 元旦礼拝説教題:主イエスの焼き印を帯びて聖書: ガラテヤの信徒への手紙 6:17–18説教者:稲葉基嗣
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笑い声が響く世界であるように(稲葉基嗣) – マタイ 2:13–18
2025年12月28日 降誕節第1主日説教題:笑い声が響く世界であるように聖書: マタイによる福音書 2:13–18、出エジプト記 1:15–22、詩編 146、コリントの信徒への手紙 二 1:3–7説教者:稲葉基嗣 -----イエスさまの誕生は、ヘロデ王には喜ばれませんでした。彼は自分の地位が失われることを人一倍恐れていた人でした。彼はユダヤの王として生まれた、という幼子を探し出して殺そうとしました。彼は、ベツレヘムとその周辺から2歳未満の男の子を探し出します。そして、自分の兵に命じて、その子たちを一人残らず殺してしまいました。愛する子どもたちを失ったことで、その親たちは泣き、叫んでいます。マタイは預言者エレミヤの言葉を用いて、彼らが悲しむその様子を描いています。聞こえてくるのは、親たちの悲しむ泣き声。神よ、なぜですかと叫ぶ声。感情の行き場のない怒りを必死で押し殺すようなうめき声でした。この時、イエスさまの家族はこのような泣き声を上げる必要はありませんでした。神が天使を用いて、エジプトへ逃げるようにと彼らに伝えたからです。果たしてこれで物語はハッピーエンドなのでしょうか。そんなことありませんね。だって、何の罪もない子どもたちが殺されてしまったのですから。マタイは、幼子が虐殺されるこの出来事に関してはあくまでも報告に留めています。そこに、神の積極的な介入をマタイは認めていません。エレミヤの語ったことが起こってしまったのは、神が願ったからではありません。人の命を奪ってまで自分の地位を守ろうとする、ヘロデの罪こそが原因でした。この出来事のように、人間の罪や過ちが、この世界に悲しみの声を広げていくことは、今も変わらずに起こり続けています。クリスマスの物語は、イエスさまの誕生の後に、このような悲しみの物語を紹介することを通して、私たちのことを単に喜ばせてはくれません。この世界に悲しむ声や涙に溢れた叫び声が溢れている現実を思い起こさせます。私たちが抱える悲しみのただ中に、イエスさまが来たことをマタイは伝えます。それは、悲しみを引き起こしてしまう、私たち人間の罪を赦すために他なりません。私たちの日常に、主キリストにあって、喜びと感謝と笑顔を与えるためです。クリスマスを迎えた後だからこそ、私たちはより一層強く願いたいと思います。私たちの日常も、私たちの生きるこの世界も、人間の罪や過ちによって、たくさん傷つき、損なわれ、歪みを持ち、悲しみに溢れているかもしれません。でも、そのようなところにこそ、イエスさまが来て、神が共に居てくださっている。このことが私たちにとっての大きな希望であり、慰めです。だって、私たちが涙を流し、悲しむ場所が広がっていく以上に、主キリストにあって、癒やしや喜びや平和が広がっていくのですから。笑い声が主イエスにあって、与えられていくのですから。
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主イエスを王として迎える(稲葉基嗣) – マタイ 2:1–3
2025年12月24日 イブの祈り説教題:主イエスを王として迎える聖書: マタイによる福音書 2:1–3説教者:稲葉基嗣
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あの夜、輝く星が示したように(稲葉基嗣) – マタイ 2:1–12
2025年12月21日 待降節第4主日説教題:あの夜、輝く星が示したように聖書: マタイによる福音書 2:1–12、創世記 1:14–19、詩編 100、ヘブライ人への手紙 1:1–4説教者:稲葉基嗣 -----古代の人々にとって、夜空の月や星は、様々なことを教えてくれました。旅人たちにとって、夜空の星は方角を知る上で重要なしるしでした。また、星の動きは月や太陽と共に、時間の流れを教えてくれました。きっと現代に生きる私たちよりも、星の動きが日常に与える影響に対して、古代の人々はより敏感であったと思います。夜空の星が人々の日常に大きな影響があると考えたからこそ、占星術の専門家たちが古代世界には存在しました。彼らは星を観察し、様々な文献を紐解きながら、星の位置を解釈しました。星の動きや配置が、自分たちや国の運命を伝えると、彼らは考え、研究をしました。こういった占星術が盛んに行われていた地域から、1,400km以上もの旅をして、占星術の学者たちはユダヤにまでやって来ました。なぜ彼らはユダヤ人の王の誕生をお祝いしに行ったのでしょうか。小国の王の誕生のお祝いに、片道1ヶ月半以上の時間や旅のために必要な財力を費やそうとするでしょうか。きっとユダヤの王の誕生を知らせる星の輝きやその星の配置が、彼らの探究心を刺激するような、とても目立つものだったのでしょう。この星の輝きの意味を知るために、彼らはユダヤの新しい王に会わなければいけないと思ったのでしょう。古代の人々にとって、王の誕生は時代の移り変わりを示すものでした。ユダヤ人という力のない、目立たない人たちの王として生まれてくる子ども。そんな子どもが、もしも時代の移り変わりを示すのであれば、驚くべきことです。事実、博士たちがこの時に出会った、主イエスの誕生は、大きな時代の変化でした。でも、それはわかりやすく見える形で訪れたものではありませんでした。神の子であるイエスさまが人となって、私たち人間の間で生活をしました。それは、イエスさまのそのような姿を通して、神が私たちといつも共にいることを神が教えるために、神の側が引き起こした変化でした。遠くの方で輝く星のように、神は遠い場所にいる方ではありません。イエス・キリストの誕生を通して、神が明らかにしたのは、神が私たちと共にいるということです。神が私たちのことを遠くから眺めているのではなく、近くで、一緒にいてくださる。神は人生のあらゆる瞬間を分かち合ってくださる。喜ばしい時も、苦しい時も。そんな私たちやこの世界の傷ついている部分に目を向ける度に、私たちは思い起こしたいと思います。神が共にいて、私たちの暗い部分を照らすために、主イエスは来てくださいました。
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旅する主イエス(稲葉基嗣) – マタイ 1:22-23, 2:1–12
2025年12月20日 キャンドルサービス説教題:旅する主イエス聖書: マタイによる福音書 1:22-23, 2:1–12説教者:稲葉基嗣
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声なき声を受け止めるために(稲葉基嗣) – マタイ 1:1-17
2025年12月14日 待降節第3主日説教題:声なき声を受け止めるために聖書: マタイによる福音書 1:1-17、サムエル記 下 11:1-27、詩編 56、ヘブライ人への手紙 5:7–10説教者:稲葉基嗣 -----イエス・キリストの系図を眺めてみると、実にたくさんの名前が並んでいます。この系図にはたった一人だけ、きちんと名前が紹介されていない人がいます。そこには「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」と書かれています。彼女の名前がバト・シェバであることは、旧約聖書の物語に馴染みのあるユダヤの人々にとっては、実に明白なことだったと思います。そこには、ダビデの大きな過ちが記錄されています。ダビデはウリヤの妻であるバト・シェバを寝取ります。ダビデはそんな自分の罪を覆い隠すために、バト・シェバの夫のウリヤが戦場で命を落とすように働きかけました。マタイはバト・シェバの名前のみを「ウリヤの妻」と書いてあえて隠すことによって、このようなバト・シェバの物語をより目立たせています。物語において、彼女はとても受動的です。そんな彼女とは対極的に、ダビデからバト・シェバに向けられた行動が、物語の中では矢継ぎ早に紹介されています。男性優位の社会において、彼女は王をはじめ、男性たちの前で力を持ちません。彼女にはダビデの呼び出しに応じるしか選択肢がありませんでした。現代的に表現するならば、この出来事は、バト・シェバがダビデから性暴力の被害を受けたとも表現できるでしょう。彼女は受動的に描かれているだけでなく、声も奪われています。彼女の発言は、「私は子を宿しました」のみです。被害者である、バト・シェバがどれほど言葉を奪われているのか。彼女がどれほど主体性を、自分の意思で決定し、行動する力を奪われているのか。そのような暴力の被害者であるバト・シェバの物語としても読めてきます。彼女の夫である、ウリヤもまた、ダビデの暴力の前に、声を奪われた被害者です。バト・シェバやウリヤのように、自分よりも大きな力による暴力に晒される。このような被害者の声なき声は、この世界のあらゆるところで聞こえます。キリストの系図に記された「ウリヤの妻」という言葉はまるで、私たちが生きる世界のこのような現実を指摘しているかのようです。もちろん、キリストの系図でバト・シェバの名前が伏せられているのは、私たちの生きるこの世界の現実を指摘するためだけではありません。あらゆる暴力によって声なき声を生み出してしまっている、私たちの世界に平和をもたらす方が、訪れることを指し示すためです。イエスさまは、私たちの声に耳を傾け、声なき声さえも受け止めてくださる方です。この暴力の連鎖を止めるために、イエスさまは来てくださいました。
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広い場所へと導くために(稲葉基嗣) – マタイ 1:1-6a
2025年12月7日 待降節第2主日説教題:広い場所へと導くために聖書: マタイによる福音書 1:1-6a、ヨシュア記 2:1-24、詩編 4、フィリピの信徒への手紙 2:6–8説教者:稲葉基嗣 -----イスラエルの人々にとっては、ラハブは英雄のような存在です。ただ、エリコの人々にとってはどうでしょうか。彼女は自分の命が助かるために、エリコの町を引き渡した裏切り者だといえます。ラハブはなぜエリコの町を裏切ったのでしょうか。ヨシュア記の物語は、ラハブを誰の保護の下にもない遊女として紹介しています。彼女は、社会の当たり前から外れて、社会の片隅で生きていました。彼女の家は城壁の中にあったように、彼女は社会の片隅で生きていました。皮肉なことに、ラハブの名前はヘブライ語で、「広い」という意味です。自分の名前とは真逆の環境で、彼女は窮屈さを感じながら、生活をしていました。このような自分の境遇に望みを見いだせないため、彼女はエリコの町を裏切る道を選んだのでしょう。そんなラハブがエリコの町の中で経験していた息苦しさや窮屈さは、形が違えど、私たちが経験するものともいえます。私たちはきょうは礼拝のはじめに、詩編4篇を声を合わせて読みました。詩人は、「あなたは私を苦しみから解き放ってくださいました」と祈っています。直訳すると、「狭いとき、あなたは私に広いスペースを与えてくださった」。私たちを窮屈にする、あらゆる苦しみ、生きにくさから解放され、私たちを取り囲む世界が広々としたものとなる。それは、この詩編を受け止め、祈ってきた、あらゆる時代の人々の祈りです。広い場所へ行くことを願って、狭い場所を抜け出したラハブの物語は、そんな私たちの叫びを思い起こさせる物語です。だからこそ、マタイ福音書の系図にラハブの名が記されているのでしょう。窮屈さを感じているあなたの叫びを神は確かに聞いておられる。だから、神はイエスさまを私たちのもとに与えてくださったと、系図の中に入れられたラハブの名前は、私たちに伝えているかのようです。ただ、神はイエスさまを通して、すぐさま窮屈さや息苦しさを感じないような、広い場所へと私たちを移すことはしませんでした。神が選んだのは、私たちが息苦しさを感じる場所へとイエスさまを送ることでした。窮屈さを私たちと一緒に味わい、一緒に広い場所を目指して歩み続けるために、イエスさまは来てくださいました。それは、私たちの狭き所を広い所へと変えていくためです。愛の欠けた所、憐れみのない所、命が蔑ろにされる所、争いのある所、私たちが窮屈さや息苦しさを感じる、あらゆる所に、どうか希望の源であるキリストがきょう、訪れてくださいますように。
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誠実さをもって生きる(稲葉基嗣) – マタイ 1:1-6a
2025年11月30日 待降節第1主日説教題:誠実さをもって生きる聖書: マタイによる福音書 1:1-6a、創世記 38:12–26、詩編 122、ローマの信徒への手紙 13:11–14説教者:稲葉基嗣 -----詐欺師やいたずらする人という意味の、トリックスターという言葉があります。物語に登場するトリックスターは、誰かを騙したり、出し抜いたりすることによって、物語に転換点を提供するような重要な役割を担います。タマルは、そのひとりです。二人の夫を亡くしたタマルは、古代イスラエルの制度に従って、死んだ夫の弟である三男が彼女の新しい夫となるはずでした。しかし、義理の父であるユダは、タマルが三男と結婚することをゆるしません。ユダの決断は、ユダの家の保護の外にタマルが置かれることに等しいことでした。自分の置かれている辛い状況を何とか改善し、未来を切り拓いていくために、タマルは遊女のふりをしてユダの前に現れ、自分の身体を差し出すことによって、彼女はユダとの間に子どもを得ました。ユダを騙し、出し抜き、ユダの子どもをお腹に宿すことによって、彼女はユダの家族の中に自分の居場所を確保し、将来の安全を勝ち取りました。正直、タマルについてのこの物語は、現代に生きる私たちにとって、「倫理的にどうなの?」と、問いかけたくなる物語です。けれども、力のない人たちにとって、トリックスターの物語は現実へのささやかな抵抗と希望を与えるような物語でした。すべての人の救い主として私たちのもとに来てくださった、イエスさまの系図の中に、トリックスターであるタマルの名前があります。彼女の目の前に、誠実さを選び取るというような選択肢はありませんでした。騙し、出し抜き、自分を犠牲とするしか、彼女が生き抜く道はありませんでした。本当は、誰も騙さず、出し抜くことなく、誠実に生きたい。でも、誠実には生きられない。それがタマルが歩んでいた道です。このタマルの物語はまるで、この世界の罪や人間の悪に、何とかもがいて生きている私たちやこの世界を映し出しているかのようです。マタイ福音書の系図は、タマルの名前の先に、イエス・キリストがいます。それはまるで、イエスさまが、そんな私たちの思いや嘆きをすべて受け止めてくれることを描いているかのようです。この社会の悪や、人間の罪に翻弄され、誠実に生きる道を選び取りきれない。そんなタマルや私たち一人ひとりをイエスさまは受け止めてくださっています。誠実さを失い、罪にまみれた状況の中で生きる私たちを救い出すために、イエスさまは来てくださいました。イエス・キリストは私たちにとっての希望です。私たちが誠実さをもってこの世界で生きる道を備え、いつも指し示してくださっているからです。
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キリストをかしらとする共同体(稲葉奈々) – コロサイ 1:11–20
2025年11月23日 三位一体後第23主日説教題:キリストをかしらとする共同体聖書: コロサイの信徒への手紙 1:11–20、エレミヤ書 23:1–6、詩編 46、ルカによる福音書 22:31–34説教者:稲葉奈々(日本ナザレン神学校 2年生) -----コロサイの信徒への手紙は、パウロからコロサイの信徒たちへ、彼らを励ますために書かれた手紙です。多様な文化の混ざり合う社会に置かれていたコリントの教会では、知らず知らずのうちに、教会の中に異なった思想や宗教が入り込んで、ただキリストを頭とすべきはずが、他の色々なものを同様に頭に据える生活を送ってしまいました。そうしてコロサイの人々は、自分の力では抗えない闇の中に入り込んでしまったのです。私たちも同様に、知らず知らずのうちに、キリストと同じくらい他のものを頭として、そのかしらに支配され、闇にのまれる生活を送っていることがあるのではないでしょうか。その結果犯してしまう罪の一つひとつに、一体どれほどの実感を伴って生活しているでしょうか。私たちはどうしようもないくらい自分の罪に無自覚です。闇の中をさまようしかない、そんな私たちを、神さまはなんとかして自分の元へと引き上げたいと思いました。その愛の行いを見える形にしたのが、地上に生まれたイエスさまなのです。イエスさまの生涯は、ただの一人の青年のライフログにとどまりません。ご自身の死によって私達の罪のすべてを担い、その結果私達と神が和解することを叶えてくれました。そうやって私たちは、喜びの中で生きるものになったのです。イエスさまの物語は十字架での死のさらに先まで続いています。イエスは墓に葬られた3日後によみがえり、弟子たちの前にあらわれてともに過ごしたあと、世界中に福音を述べ伝えなさいという命令を私達に下し、天にのぼられました。キリストのこの地上での生涯は、降誕から、十字架、そして復活、さらにその先の世界中への宣教まで、一本の線で繋がっているのです。時を隔ててもなお、教会の頭はイエスさまに他なりません。私たちの活動のすべては、イエスさまによらないと虚しくなってしまいます。人として生きることによって、私たちのすぐそばで笑い怒り悲しんでくださったイエスさまが教会のかしらとして私たちを力強く導き、進むべき道を明るく照らしてくれるとしたら、何と心強く、幸いなことでしょうか。来週から教会の暦ではアドベントを迎えます。この季節にこそ、私たちは十字架で死なれたイエスさまの姿を思い起こし、そのために与えられる希望を握っていきましょう。私たちは喜びにあふれてアドベントを迎えましょう。キリストの誕生を待ち望むこの季節に、キリストをかしらに据えた共同体を用いて、神様から受け取った愛をますます広げてゆきましょう。キリストの平和がみなさんと共に豊かにありますように。
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主イエスがこだわったこと(稲葉基嗣) – ヨハネ 10:31–42
2025年11月16日 三位一体後第22主日説教題:主イエスがこだわったこと聖書: ヨハネによる福音書 10:31–42、ホセア書 11:1–9、詩編 82、エフェソの信徒への手紙 4:32–5:2説教者:稲葉基嗣 -----きょう開いた福音書の物語は、とても物騒な始まり方をします。ユダヤの宗教指導者たちは、イエスさまを石打ちにしようとしています。ユダヤの宗教指導者たちがこのような態度を取っているのは、イエスさまが神への冒涜とも受け取れるようなことを発言したからでした。「私と父とは一つである。」(30節)自分を神と同一視しているように聞こえるこの発言は、神を冒涜する、とても問題のある発言としてユダヤの宗教指導者たちには聞こえました。ただ、「私と父とは一つである」と発言をしたイエスさま自身は、自分と神とを完全に同一視することを伝えようとしたわけではなかったでしょう。自分と神はひとつであるというイエスさまのこの発言の趣旨は、神の願いを自らの願いとして受け止めて、行動へと移していくということです。誤解されたことは明らかでしたが、イエスさまはその発言を取り下げません。イエスさまはむしろ、石を手に握るユダヤ人たちに、旧約聖書の言葉を思い起こさせ、自分の語ることの正当性を伝えようとしました。その際、イエスさまは「あなたがたは神々である」という詩編の言葉を用いました。詩編において、王たちに向かって神々や神の子という言葉が用いられています。そのことを確認した上で、イエスさまは、神の言葉を受け止めている人たちが「神々」と呼ばれる人たちなのだと、定義づけました。それに従うならば、神の言葉を受け止めて行動する自分が神の子であると言ったとしても問題ないことでしょと、イエスさまはここで弁明しています。神々を死ぬべき存在として位置づけるこの詩編を用いることによって、イエスさまは自分が人間であることを強調しているようにも見えてきます。それは、神の子であるイエスさまが、死ぬべき人間となったということです。イエスさまはご自分が神であることに決して固執することはありませんでした。むしろ、イエスさまは私たちと同じ人となり、私たちが抱える悩みや苦しみを知り、困難を共に味わい、共に生きることに固執し、こだわりました。神が人となり、私たちと共に生きることに固執し、そこにこだわったのは、私たちがそのような叫び声を上げ続けているからです。うめき声に耳を傾けるほどに、神が私たちを愛し、慈しんでいるからです。私たちが日常的に抱える叫びも、悩みも、嘆きも、受け止め、そんな私たちを支え、共に歩むために、イエスさまは私たちのもとに来てくださいました。イエスさまが私たちに歩み寄り、愛し抜くことにこだわり、固執したことを私たちは知っているからこそ、私たちもイエスさまのように、共に生きる人たちを慈しみ、愛をもって、平和のうちに生きる道を選び続けていきたいと思うのです。
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どうやって主イエスの行いを見つめることができるの?(稲葉基嗣) – ヨハネ 10:19–30
2025年11月9日 三位一体後第21主日説教題:どうやって主イエスの行いを見つめることができるの?聖書: ヨハネによる福音書 10:19–30、イザヤ書 35:1–10、詩編 95、エフェソの信徒への手紙 1:20–23説教者:稲葉基嗣 -----ハヌカの時期に、イエスさまは突然、ユダヤの宗教指導者たちに取り囲まれ、「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」(24節)と伝えられました。メシアとは、ユダヤ人たちが待ち望み続けた救い主のことです。賛否両論な行動を起こすイエスさまの姿に、人々は困惑しました。イエスさま自身、自分が何者であるのかを明言しません。だから、彼らはイエスさまに直接尋ねることにしたのでしょう。イエスさまは「私は言ったが、あなたがたは信じない」と言います(25節)。なぜイエスさまは自分がメシアであると明言するのを避けたのでしょうか。きっと、わかりやすさは時に、誤解を生むからでしょう。イエスさまが「自分はメシアだ」と言うことは、まさにそんな単純化による誤解を生み出す可能性が大いにありました。彼らが求めるメシアは、力によってユダヤ人を他の民族による支配から解放する、指導者や革命家のような人物でした。それは、イエスさまがこれまで人々に伝えてきた、自分の姿とは違ったものでした。イエスさまはこの時、メシアであるかどうかを答える代わりに、「私が父の名によって行う業が、私について証しをしている」(25節)と言って、イエスさまの行動を見つめるようにと促しました。出会った一人ひとりと向き合い、彼らに働きかけたイエスさまのその姿は、世界全体に手を伸ばし、そこに生きるすべての命を慈しみ、傷ついたところを回復させ、豊かな命をもたらしたいと願う、神の愛や憐れみを映し出すものでした。イエスさまの行動は、天の国をこの世界にもたらすものでした。けれども、現代に生きる私たちの目にはイエスさまの姿は見えません。私たちはどのようにして、イエスさまの行いを見つめることができるのでしょうか。不思議なことに、私たちはイエスさまと出会う経験をします。何よりも、私たちがイエスさまの行いをこの目で見つめるのは、この場にいる人たちとの出会いを通してだと思います。私たちと共にいることを通して、イエスさまは私たちと一緒に働いてくださいます。その意味で、私たちは教会に集う時、イエスさまが共に何かをなそうとしている、一人ひとりの姿を見つめることになります。目には見えない神の働きが、共に生きる人々を通して明らかになります。きっとイエスさまの働きは、私たちがお互いに助け合う時、平和を模索する時、誰かを思って祈る時などを通して明らかになっていくのでしょう。
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栃木県小山市にあるキリスト教会です。日曜日の礼拝での説教(聖書のお話)を毎週お届けします。
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小山ナザレン教会
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